橋本 麦∿Baku Hashimoto

けんちん汁のドロドロ

ラフォーレの広告が、酒井いぶきさんの作風と類似していることで最近炎上していた。

https://twitter.com/sasasasakaiii/status/1220581623718006785?s=20

2年前にラフォーレのCMを同じ代理店の元ディレクションさせて頂いた事があった。一切ポートフォリオにもSNSにも載せていなかったのだけれど、 その時の苦々しい思い出が蘇って来たので珍しくTwitterにダラダラと長文を書いてしまった。その後、別の案件で色々ハプニングや僕のやらかしが続き、完全に気持ち的に落ちてしまってその代理店からのお仕事は今後お請け出来ないと泣き言を言ったこともあり、思い出すのも辛い。

これも微妙っちゃ微妙で、Vaporwaveの影響を雑に受けた結果出来上がったインターネット感の成れの果ての一つのよう感じもする。個人的に激推ししていたgalen tiptonに代わって起用されたパ音さんが、曲自体は最高なのに「バーゲンの広告」に充てがわれてしまったことで結果的にmuzakっぽく響いてしまったのも、この得も言えぬVapormeme感に一足買っている気もするし。 そもそもGUIの抽象化・コラージュもRafae; Rozendaalの専売特許というわけでもない。

ただ、ヤミ市のドキュメンタリーを作っていたり、ネット・アートやNEENの流れはフォローしているイメージはあっただけに、配色といい偶然以上の一致を感じる中で、彼らから一切打ち合わせ中にその名前が出なかったのが妙に不自然で後味が悪かった。その後も、去年の広告でもパクリ疑惑が出ていたりして、このレベルの絶妙な類似は有意に多いチームなのかなと思った。

ただ僕は先のツイートで「看過してしまった」側というある意味被害者ぶった言い方をしてしまったけれど、仮に当時もし炎上したとしたら、そんな区別をするまでもなく「加担した」側の人間なのだということは肝に銘じないといけない。それはアートディレクターの方もおそらく同様で。僕含めそれぞれがふんわりと「似てる気もするけど誰も指摘してないから、まぁ、アリなのかな…」と自分を納得させるプロセスが巨視的にパクり案件を創発させる構図は、この類の炎上の典型的なパターンかもしれない。炎上に怒りたい側は、分かりやすいスリザリンを想定することで「悪い奴らが悪だくみした」というストーリーを求めることが多い分、「誰も明確な悪意も剽窃の意図は無い」という事実は事態をより拗れさせる。

こういう炎上はほとんどの場合「意図は無い」のだから、意図の有無は論点としてズレているとも思う。むしろ問題は、この方の作風が今後「ラフォーレの広告っぽい」ものとして逆に認知される可能性を高め、結果的に作家性を搾取する形になってしまったことだ。そこに触れていない分、このステートメントは的外れだしダサいなと思う。パクったかどうか、そもそもテプラを使う発想自体がこの方の専売特許なのか、は、それはそれで外野同士で議論するには楽しいことなのかもしれないけれど、分けて考える議題に思える。ましてや本人に直接リプライを飛ばして絡むことではない。

普段から色んな社会問題におこ気味な業界人の方が「 他人にアイデアをパクられたパクったという話題に、関係者でもないのに異様にエキサイトする人達、ちょっと怖い。 」とツイートされていた。結局この方も含め、外野でやんや言う人達のモチベーションはおしなべて「気持ちいいことを言って気持ちよくなりたい」に尽きると思う。 その極めて生理的かもしれない欲求を、「正しいことを言いたい」という正義感や理性として勘違いしている。というのは僕に限った話なのかもしれない。とにかくこのレベルの言説は人の目につく所にわざわざ書く価値も無いので、いつかのために個人サイトの階層の奥まったところにひっそり残しておく。

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社会規範、常識、モラルとが絶妙に絡み合ったある問題について、それまではある考え方が寡占状態にあった中、ある進歩主義的な考え方が台頭しはじめる状況があったとする。僕はわりかし進歩主義派のつもりでいることが多かったりするのだけど、進歩派が保守派に対して使う個人的にちょっと苦手な言い回しが、「それは自明に正しく、時代背景や社会情勢関係なく元来そうあるべきだった」というニュアンスのものだ。

「自明」は、実際には「普遍的」「絶対的」、あるいは正義や善に訴えるもう少し曖昧な表現に置き換えられられるのだけど。ともかく、その言説の正しさは、まるで恒等式のように、その記述そのものから自ずと見てとれるでしょうに、と押し付けるのは考え方が素朴過ぎるんじゃないかなぁと思う。というのは、 保守派も同じくらいの確からしさで保守派の考え方を「自明」なものだと信じているという意味で、お互いの立場はまったく対称的だから。

それぞれの信じる自明と自明をぶつけ合って、どちらが正しいかを議論するのはそもそも無意味だとも思う。ちょうど、平面に住む二次元の生き物が「三角形の内角の和は180°」だと主張するのに対して、球面に住む生き物が、いや、必ず180°以上になるよと反論しているようなもので。

事あるごとに非ユークリッド幾何学のアナロジーを持ち出しがちなので辛い

それぞれの立場に立つ限りそれぞれの主張は正しい。ただこの場合、お互いが見落としているパラメーターが一つあって、それが「曲率」だ。異なる曲率のもとでは、異なる幾何学の体系が生まれる。そしてその幾何学の内側で証明された定理は、その幾何学の内側では自明に正しい。(僕らが高校までに習ったのは、その無数の幾何学のパラレルワールドのうち、曲率が1の平面幾何学だけ)

現実で起こる議論も、こんな状況が案外多いんじゃないかなと思う。つまり、その人にとってある言説が正しく感じるのは、そもそもその言説がその人が思考の基盤にしている価値観から演繹されたものであって、その言説をその価値観の内側から評価するからでしかない、ということ。例のミーム、「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」状態だ。

ただ、自明と自明がぶつかり合う状況に収集をつける方法はあって、その一つが、証明問題を境界値問題として捉え直すことなのだと思う。 三角形の内角の和の例でいうと、論点を「それぞれの主張のどちらが正しいか」ではなく「三角形の内角の和を180°、もしくはそれより大きくする曲率の境目はどこにあるのか」に置き換えることにあたる。そして「三角形の内角の和は、曲率が1のときのみ180°で、曲率が1を超えるときは内角の和も180°を超える」という、簡潔とは言い難いけれど、両方が納得できるより一般的な定理が導きだされる。

現実での議論に話を戻すと、そうした態度はお互いにとってある種の譲歩を意味する。つまり、普遍的正しさの代わりに、「ある条件のもとではこちらが正しいし、そうでないときはそちらにも理がある」という限定的な正しさの主張に留めることだ。とすると議論の流れはこんな風になる。

  1. まず、幾何学の例に同じく、正しさと正しさが切り替わるその条件にはどういうパラメーターが関わっていて、 その境界値はどこにあるのかをお互いに見極める。
  2. その上で、じゃあ今現在そのパラメーターはどの値を取っているっぽいから、差し当たりそちらの主張が理にかなっているね、とお互い納得する。

別に箇条書きにすることでも無い気がする。とはいってもこえはあくまでも理想論で、そのパラメーターの境界条件の見極め方や現状の値の評価さえも、フィルターバブルのような色々なバイアスに影響されるので、お互いに納得できる共通の方法を見つけるのは難しいのが現実なのだけど。

急に具体的な話になってしまうけれど、個人主義も男女同権も、ある社会のパラメーター、例えば「人数」「教育レベル」「競合する社会の存在」「多様性を抱え込むコスト」 がある値域に収まる限りにおいて、条件的に正しいものに過ぎないんじゃないかと思うことがある。例えば、数千人規模のスペースコロニーでは、均質化がもたらす脆弱性以上に、逸脱がもたらす危険性のほうが遥かに大きいので(自爆テロで外壁に穴なんか空けられたら終わりだ)、監視や個人の自由の制限のような全体主義はリベラリズムに優越する。 そんな極端な例を挙げずとも、 歴史的には、生産性が体力と人数に比例していた時代においては性別役割分業は正しかったのだろうし、土地を代々長男が受け継ぐ農民にとっては家制度というシステムは正しかったのだろう。もちろん、この場合の「正しい」はあくまで合理性のもとに正しい以上の意味は無い。

それでもなお、自分のモラルが拒否している考え方を、条件付きでも認めるのはそれなりに辛い。しかし、価値観からして自体が違う相手に、こちらの信じる自明な正しさを伝える難しさを考えると、論点を正しい・間違いの二者択一から、正しさの境界条件に移すことは手として間違っていないと思う。 現に今の社会のパラメーターは、別にモラルや正義を持ち出すまでもなく、個人主義や男女同権にメリットがある範囲にわりかし収まっているとも思うし。…と断言しきれるだけの個々の事例への深い理解も無いので、あくまで「社会規範のアップデートに対する保守派と進歩派の議論」という抽象的観点に留めて置きたかった。

一部の進歩派の、こちらの考え方こそ普遍的に正しいとして、相手側のモラルや常識を過去にさかのぼって否定する様子は、基本的なスタンスに同意見なことが多いだけに、見ていて辛いものがある。もちろんハラスメントのように時代関係なくゼロ・トレランスなものもある。だけど、普遍性というワードを持ち出した時点で「どちらか一方が過去未来永劫正しい」という非現実的で極端な結論をめぐる椅子取りゲームになるだけなわけで、人身攻撃に持ち込んだ時点で、議論というより意地をかけた喧嘩になってしまう。 必要なのは「正しさ」の相対化であって、信念とモラルを賭けた絶対的正しさを巡るガチンコ勝負を、正しさの境界値問題として捉え直すクールさだと思う。SNSばかり見ているから押しの強い意見が目につくだけなのかもしれないけれど、そういう相対主義的な立場からこうしたゴタゴタを俯瞰出来る人達がもう少し居ても良いような気がした。

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選択的別姓に関しては「選択的」でしかないのに反対意見があること自体理解出来ない立場なのだけど、同姓・別姓の二択以前に、そもそも姓の命名法自体世界には色々なものが知るだけでも相対化が捗りそう。

父称もその一つ。父親のファーストネームにWilson の -son のような〇〇の息子・娘という意味の接語を加えて姓やミドルネームとする仕組みなんだけど、あのストイコビッチっていうサッカー選手は -vich だからスラヴ系だなとか、O’Reillyは O’- だからアイルランド系とか、父称の種類から出自がわかったりする。

とはいえ父の名前を直接継ぐのは日本のそれ以上に男系的な印象もあったけれど、同じく 父称を使うアイスランド人の中には、 父称と母称両方名乗るパターンもあるのを知って面白かった。例えばレイキャヴィク元市長の Dagur Bergþóruson Eggertsson は、両親の BergþóraとEggert の両方から名前を受け継いでいる。

アイスランド人の名前 – Wikipedia

夫婦同姓・別姓にかかわる議論は、そもそもからして日本の姓の仕組みを前提としている。父称や母称をつかっている文化圏にとっては、ファーストネームとは関係のない「名字」を引き継ぐというシステム自体がまどろっこしいものに感じるのかもしれない、と思った。

さよなら不気味の谷

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このドキュメンタリーは最高。昨年のMotion Plus Designの時も引用させて頂いた。

「CGだと見破られないのが良いCG」という、CG業界である種公理化されがちな価値観も、あくまで時代のトレンドの一つとして意図的に矮小化していたり、#HYPERREALCGなんかもサラッと紹介されていたりするのがニヤリとする。

個人的な解釈だけど、ここで言う「不気味の谷」は、元来の意味に限らず、CGがそれ以前の写真なりセルアニメなりフィジカルなメディアの再現的な用法に徹する限り立ちはだかる障壁全般を指してるのだと思う。その「谷」を正面切って突破して、より本物っぽくて、リッチで、映画的なルックを目指すのがCGコミュニティのメインストリームだとしたら、谷自体から横道に逸れた先にある「荒野」もまた最高だよねっていう。

そういう意味ではThe Wildernessのチャプターからが本番。真面目なCG技術の発展史の体を成しながら、本当はこっちを紹介したくてしゃーなかったんじゃんってツッコミたくなる熱量。文脈化はされずともやっぱり世界のどこかでこういう流れが無性に気になって追っていた人が、自分以外にも居たんだって嬉しくなった。その分ミームに乗っかった安易なものも多いけれど。

MPDにWeirdcoreJonathan ZawadaDirk Koyが出たら最高なんて話をスタッフのHu Yuとその彼氏のStevenと冗談で話していた。(ゴリゴリ映画っぽいものに憧れてCGやってる人でも結構みんな知ってるのが面白い)なんかそういうこの映像中の言葉でいうところのCGI Experimentalismっぽい人達を、音楽カルチャーに付随したビジュアルアーティストとしてでなく、思い切りテクニカルな目線から紹介する感じのやつもっと見たい。なんなら自分でやりたい。

コメント追記

国内の身近なところでも映像業界の人達が選ぶ映像アワードで山形一生さんの作品が選ばれていたり、谷口暁彦さんやノガミのビデオがさらっとStaff Picksに選ばれていたりするとか気になっていた。賞というものに対するシニシズムはさておき。

一流プロダクションの超絶オシャ映像でも8年後には、そうかぁ…この頃はアンビエント・オクルージョンが入るだけでめちゃリッチな時代だったんよなぁ…と受け止められてしまう感覚っていうのはCG技術が成熟期に入らない限りあり続ける気がする。

そんな中でCGだとか映像文化の中でナウくありつづけることへの刹那さを、メディアアート的視点で相対化・異化してくれることをコミュニティもどこかで欲しているのだろうか、とか思った。

2019.Dec.5

トレンドの振動の高周波域にキャッチアップし過ぎるとわりとダサくなりやすい話、じゃあ毎年儚くゴージャスな桜を咲かせるまでよというのが一般的なマッチョな回答だと思う。

ただ自分はそんなに気力は無いので、その瞬間はオシャじゃないけど少なくともダサくはなりにくいものを細々作る感じが良い。可愛げのあるものというか。5年後にはああ、この時期はこんなのがカッコ良かったんだねぇーと回想される対象からはなるだけ避けれたらなぁと思う。普遍性・本質性だとかそういうお行儀の良い話以前に、わりと打算的な話として。

リベラルワナビ

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環境問題、政治、LGBT、フェミニズムしろ、世の中の価値観の風向きが変わるパターンとして、そういう問題に意識を高く持つことが良くも悪くもファッションになる、というパターンは古今東西多いなとふと思った。

それはそうした事に無関心でいることが少なくともダサくはなかった世代へのカウンターとして始まることが多い気がするし、とにかく「善である」よりも「同時代的である」ことの方が人の考え方を変える訴求性はずっと大きい。

一方で、どの問題も、本来誰もが意識して当然なことで、世の中の風向きが変わったといってもそれはマイナスがゼロになったに過ぎない。別にそれは褒められることでもないし、恩に着せることでもない。

当たり前の道徳観として浸透するまでの過渡期としてまずファッションとして流行ることの副作用に、ごく表層的な理解なゆえに肝心な所で古い認識が露呈してしまう、「自称」な人達が少なからず湧いてくる現象は見受けられる気がする。フェミニズムを例に上げると「イクメン」ぶりをやたらと恩に着せたり、生理ちゃんを読んだだけで全てを理解した気になったくせに無意識的にミソジニーを引きずる男性だとか。そうした人達に向けられるある種のシニカルな目線は、結局深い所で化けの皮が剥がれるんじゃないか? という不信感にもある気がした。というか最近もそういう感じの炎上案件をもらい見した。

皮肉っぽく書いてしまったけれど、かくいう僕も「自称」系な自覚はある。自称にすら及ばないかもしれない。そういう立場として何となく思うのは、確かに色々ツッコミどころは多い僕たちですが、あんまり厳しく精査せずに生温くご指導ご鞭撻して頂けると嬉しいです…ということだ。いや、「ことだ」とか言うのもなんか偉そうで申し訳ない。別にこれはトーンポリシングでは無いし、実際あからさまにイケない価値観が露呈したり誰かを傷つけてしまった時にはガッツリ怒られてしかるべきだけども。

ただ、そういう自称だとかポーザーとかワナビ的な人種も含めて、生易しく軌道修正してあげつつ、ムーブメントの裾野としてふんわり取り込める空気感がどこかにあると、それが正しいかどうかは置いといて、効率上良いことなのかもしれないと思った。

対人関係の悩み

高校時代以降に出来た人間関係がナイス過ぎて、自分の人間性の低さが人を悩ませてしまっていた自覚はあっても、基本的な部分での性格のなってなさや上下関係の不条理さに悩んだ事が無い。そもそも誰かの人となりにストレスを抱える感覚自体が十代の頃の遠いものになっている。

多分だけど、自分のスキルを高めたり環境を変えることで自ずと人間関係のレベルも上がるという感覚自体が、フリーランス然り人間関係に裁量を持てる職種や勤務形態に限られるのだと思う。公立学校の先生や地域のお医者さんのように、付き合わなくてはいけない人たちが地理的にセクショニングされているような仕事だと全く違う状況なはずで。そういう想像力を忘れると、誰かの対人関係の悩み全般を、思考停止ゆえの愚痴だといって取り合わなかったり、元から合わないのなら転職すれば良いものを、と自己責任論にしてしまう。

モーショングラファーの人徳

荒牧さんは自分が今以上に卑屈でその上意識まで高かった頃から自然に接してくれた人なので、SIGNIFに若い人達が続々と集まっている話を聞いたときに、なるほど人徳の為せる力だと納得した。

これから自分もモーショングラファーとしては年齢的に中堅になったときに、新しい世代の方の(自分ほどでないにせよ)面倒くさくて意識の高い意見を目にすることもありうる。そんな時、シニカルに構えて腫れ物扱いすることだけはしないように心がけたいと思った。

んoon – Gum

作為感、異化の空気感のコントロールが繊細で溜息が出る。

美大藝大出身で(ニューメディア、ネットアートのさらに外側の)CGやゲームエンジン触ってる同世代も少なからず谷口暁彦さんには影響を受けてる気がする。一方で、中途半端にインスパイアされた結果、単に「クソ感」とか「インターネット感」に四捨五入した粒度の荒いものも多くて、本来そういう表現が持ち得る思弁性やアンビバレントな佇まいがスポイルされているような気持ちにもなる。

作品の自意識をどう宙ぶらりんにして、作り手の意図や作為から引き剥がしていくか、はこの数年ずっと考えている。「カッコ良さの為のカッコ良さ」に魅力を感じなくなって久しいけれど、谷口さんのアティテュードは映像をやってる身としても理想だし目標だと感じた。

曲も冒頭のブレイクから引き込まれた。北海道に梅雨は無いけど今聴くとちょうどいい。

「かず」と「すう」

形式的記号操作としての数学と実世界の数量に対する算術としての数学がはっりと区別できた瞬間はペアノの公理を知った時だった。理屈としては「数(かず)」と「数(すう)」の違いはわかっていたつもりでも、あの時ほど明瞭な悟り体験のようなものはなかった。

ペアノの公理からわかることの一つは、自然数には、数(かず)とか量という概念は内在していないことだ。自然数はある関係性を持つ記号の集合でしかない。1 + 1 = 2 という記号の羅列を「1つと1つで2つ」という数の足し算として解釈するのは単に実世界において有用であるからに過ぎない。

分数の認識も更新される。当たり前のように「3/2」は数直線上の「1と2の間」という空間的な理解をしていた。しかし単に「3 ÷ 2」の除算の結果という、それが自然数集合から漏れてしまう数に対して「1/2」という新しい記号を与えたに過ぎない。演算子を置き換えた「3★2」や「ゑ」というひらがな一文字に対応させても構わない。ともかく「3/2」という記号を「1と2の真ん中」と理解しているのは、その解釈が有用だからだ。分数それ自体にそうした定義は内在していない。例えば、3/2は数直線上の点ではなく、格子点上の「原点と、そこから2つ右・3つ上に進んだ点とを結んだ直線」として理解するだってできる。約分して等しくなる分数同士は、直線として同一だ。つまり、数(すう)の世界はただの記号と形式的操作の体系以上のものではなく、そこには現実世界における数(かず)や量、空間上の点や直線といった意味や概念との対応関係をいくらでも重ね合わせることが出来る。そうした数(すう)と数(かず)の明瞭な区別があれば、虚数や複素平面に混乱することなくすんなり受け入れられたのになーと思う。高校で教えられたかった。

カッコよさには2つの方向性があるんじゃないかなと思っている。まず、ある作法における精度の更新に対して湧き起こるカッコよさ。よりスタイリッシュなロボットの造形、より写実的な3DCGなどがそうだ。こうした種類のカッコよさは、生得的なところがあると思う。もう一つは、作法そのものの相対化や倒錯を通して、メタや高階な方向に認識が広げられるときに感じるカッコよさ。つまり、SF用語で言うところのセンス・オブ・ワンダー。これを感じ取るのにはちょっとした訓練が必要な気がする。エンジニアは後者に指向のある人が多い印象がある。多くの場合、エンジニアの仕事は与えられたパラメーターの最適化というより、パラメーターの取り方や最適化手法そのものの最適化であるので、ある意味必然とも言える。Eric Raymondも「SFを読め」とか言う訳で、ハッカー的素質にも関わるのも頷ける。

そうしたメタなカッコよさを理解する直接的なきっかけが、自分の場合は形式主義を知ることだった。(芸術におけるFormalismとは別)しょせんはただの美大生だったので、大学数学以降は独学でしかないが、公理系という考え方、しいては公理主義自体の限界を知ったのは、それが一般書レベルの理解であれ、その後の制作で完全に役に立った。(『数学ガール』も主人公たちの名前がオタクっぽくて敬遠していたけれど、本当に良書。あの面白さはSFに通ずるところがある。)

無理やり解釈するとすれば、現代美術も、芸術を芸術たらしめる公理の相対化という側面がある。それを美術らしい観点、例えば美術史や美学として学ぶのもいいが、公理と形式主義の観点から美大や藝大で教えられるようになると、個人的に話が合う同業がちょっとは増えて楽しくなれそうな気がした。