橋本 麦∿Baku Hashimoto

モーショングラファーの人徳

荒牧さんは自分が今以上に卑屈でその上意識まで高かった頃から自然に接してくれた人なので、SIGNIFに若い人達が続々と集まっている話を聞いたときに、なるほど人徳の為せる力だと納得した。

これから自分もモーショングラファーとしては年齢的に中堅になったときに、新しい世代の方の(自分ほどでないにせよ)面倒くさくて意識の高い意見を目にすることもありうる。そんな時、シニカルに構えて腫れ物扱いすることだけはしないように心がけたいと思った。

んoon – Gum

作為感、異化の空気感のコントロールが繊細で溜息が出る。

美大藝大出身で(ニューメディア、ネットアートのさらに外側の)CGやゲームエンジン触ってる同世代も少なからず谷口暁彦さんには影響を受けてる気がする。一方で、中途半端にインスパイアされた結果、単に「クソ感」とか「インターネット感」に四捨五入した粒度の荒いものも多くて、本来そういう表現が持ち得る思弁性やアンビバレントな佇まいがスポイルされているような気持ちにもなる。

作品の自意識をどう宙ぶらりんにして、作り手の意図や作為から引き剥がしていくか、はこの数年ずっと考えている。「カッコ良さの為のカッコ良さ」に魅力を感じなくなって久しいけれど、谷口さんのアティテュードは映像をやってる身としても理想だし目標だと感じた。

曲も冒頭のブレイクから引き込まれた。北海道に梅雨は無いけど今聴くとちょうどいい。

「かず」と「すう」

形式的記号操作としての数学と実世界の数量に対する算術としての数学がはっりと区別できた瞬間はペアノの公理を知った時だった。理屈としては「数(かず)」と「数(すう)」の違いはわかっていたつもりでも、あの時ほど明瞭な悟り体験のようなものはなかった。

ペアノの公理からわかることの一つは、自然数には、数(かず)とか量という概念は内在していないことだ。自然数はある関係性を持つ記号の集合でしかない。1 + 1 = 2 という記号の羅列を「1つと1つで2つ」という数の足し算として解釈するのは単に実世界において有用であるからに過ぎない。

分数の認識も更新される。当たり前のように「3/2」は数直線上の「1と2の間」という空間的な理解をしていた。しかし単に「3 ÷ 2」の除算の結果という、それが自然数集合から漏れてしまう数に対して「1/2」という新しい記号を与えたに過ぎない。演算子を置き換えた「3★2」や「ゑ」というひらがな一文字に対応させても構わない。ともかく「3/2」という記号を「1と2の真ん中」と理解しているのは、その解釈が有用だからだ。分数それ自体にそうした定義は内在していない。例えば、3/2は数直線上の点ではなく、格子点上の「原点と、そこから2つ右・3つ上に進んだ点とを結んだ直線」として理解するだってできる。約分して等しくなる分数同士は、直線として同一だ。つまり、数(すう)の世界はただの記号と形式的操作の体系以上のものではなく、そこには現実世界における数(かず)や量、空間上の点や直線といった意味や概念との対応関係をいくらでも重ね合わせることが出来る。そうした数(すう)と数(かず)の明瞭な区別があれば、虚数や複素平面に混乱することなくすんなり受け入れられたのになーと思う。高校で教えられたかった。

カッコよさには2つの方向性があるんじゃないかなと思っている。まず、ある作法における精度の更新に対して湧き起こるカッコよさ。よりスタイリッシュなロボットの造形、より写実的な3DCGなどがそうだ。こうした種類のカッコよさは、生得的なところがあると思う。もう一つは、作法そのものの相対化や倒錯を通して、メタや高階な方向に認識が広げられるときに感じるカッコよさ。つまり、SF用語で言うところのセンス・オブ・ワンダー。これを感じ取るのにはちょっとした訓練が必要な気がする。エンジニアは後者に指向のある人が多い印象がある。多くの場合、エンジニアの仕事は与えられたパラメーターの最適化というより、パラメーターの取り方や最適化手法そのものの最適化であるので、ある意味必然とも言える。Eric Raymondも「SFを読め」とか言う訳で、ハッカー的素質にも関わるのも頷ける。

そうしたメタなカッコよさを理解する直接的なきっかけが、自分の場合は形式主義を知ることだった。(芸術におけるFormalismとは別)しょせんはただの美大生だったので、大学数学以降は独学でしかないが、公理系という考え方、しいては公理主義自体の限界を知ったのは、それが一般書レベルの理解であれ、その後の制作で完全に役に立った。(『数学ガール』も主人公たちの名前がオタクっぽくて敬遠していたけれど、本当に良書。あの面白さはSFに通ずるところがある。)

無理やり解釈するとすれば、現代美術も、芸術を芸術たらしめる公理の相対化という側面がある。それを美術らしい観点、例えば美術史や美学として学ぶのもいいが、公理と形式主義の観点から美大や藝大で教えられるようになると、個人的に話が合う同業がちょっとは増えて楽しくなれそうな気がした。

「ぽさ」のリバースエンジニアリング

反応拡散系やセルオートマトンで生成したテクスチャを初期条件に地形をつくるというのをここ最近試してるのもあって、このNic Hamlitonの新作は飛び抜けてエモかった。彼の作品にはいつも独特の異化のエッセンスが宿っている。3DCG系に多い男子的カッコ良さとも、インターネット感とも距離を置いた硬質でニヒルな佇まいというか。Joe HamiltonやJonathan Zawadaにしろ、オーストラリアにはそういう空気感を醸成する何かがあるのかなぁと思ったり。

3DCGにおけるフォトリアリズムや、ジェネレーティブな手法に期待される小賢さとフューチャーテクノロジー賛歌、広告映像にある種の安定感をもたらすトンマナだとかも、かれこれ3年位しんどい。そういった作法を無意識のうちに公理化せずアティテュードとして場違いなものを提示してしまう人の作品にしか惹かれない感覚すらある。(Nic Hamiltonはこの場合あまり関係ない、ただの自分の好み)

そんな感じなので、根本的に受注制作の中で作るものに共感出来ない。恐らくこういうノリのものが良しとされているのであろう、という漠然としたパターンマッチングしか役に立たなくなってくる。素朴に「ぽい」ものに憧れて、「ぽさ」のリバースエンジニアリングを楽しんでいた時期の感覚をなんとか思い出しながら手を動かそうとするのだけど、それでも精度の低い応え方しか出来ないのがもどかしいし申し訳ない。(特にファッションに関しては自分の理解度が恐ろしく低いのでそうなる傾向が強い)

今春ヴァージル・アブローの展示に向けたFlip-Dotのディスプレイ制作を調子よくこなせたのは、そういった審美やスタンスに関わる判断をせずとも、純粋に眼の前の問題を解決すべく工作や開発に専念出来たから、というのが大きい気がしている。コードを書くのはまだ下手だけれど、仕事に関しては当分そういう方向性に寄せていけたらお互い健康的にやれる気がする。その裏で並行して、うまく共感し合える人同士でグッと来るものを作れれば良い。

Generative designと解像度

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generative designと解像度 by 山本晃士ロバート

クリエイティブ・コーディングは既製ツールを使ってなにかを作るよりもずっと弄れる変数の多い行為なのに、どうしてこうも空気感もアティテュードも均質化しているのだろう、という長年の疑問への答えにも感じた。

個々のストロークを自分の手で明示的に置いていくのではなく、一段高い抽象度で描き方をアルゴリズミックに記述できる出来る心地よさや、想像を超えた画が出力される愉快さは大前提として。もっと素朴に、PostScriptやグラフィックライブラリの描画関数が作り出すマティエールに惹かれるという視点は意外にも無かった。自分が中高生の頃には既にスタイルとして一般化してしまっていたというのも、山本さんのような世代が受けたくらいの異化を追体験できなかった理由だとも思うし。

プログラミングと既製ツール、自動生成とフレーム・バイ・フレームとの間を反復横跳びしていると、ジェネレーティブかそうでないかの違いは限りなくファジーに見えてくる。基礎的な話にはなるけれど、そもそも何かを描くということは、アクションペインティングがそうであるように元来意図性と乱択性のハイブリッドで、さらにはルーペだとかカラス口だとかで解像度や運動能力を拡張しながら生身の体では描けないものを作り出してきたわけで、プログラミングもあくまでその延長に位置する一手法に過ぎないとも思う。(にしてはとんでもなく高い自由度と再現性を持った画期的なツールであること認めるけれど。)

少なくともクリエイティブ・コーディングという確立したシーンやアプローチの内側で何をどう捏ねくり回しても、ジョン・ホイットニーやクセナキスが同時代の中で発揮したようなラディカルさは持ちえなくて、だからこそ今更「ジェネっている」ことを作品の強度に求めるよりも、Adobeだとかをそのまま使うよりも少しだけ低レイヤーな部分から弄れることを武器に、あまり見たことの無い質感や佇まいをチマチマと発明すること位しかやることは残されてないのではと感じている。(そういう意味でも山本さんの『パラメトリック』はすごく好きです。)

「AfterEffectsの標準エフェクトで作ったグラフィックにOpenGLの定数名をハッシュタグとして付けて投稿するとジェネレーティブっぽく見える」とかいう卑屈なことをしていた位にシニカルに構えてしまっていたのだけど、この記事を読んで少しだけそういうものに惹かれる人たちのバックグラウンドに共感できたような気がして、嬉しくなったと同時に態度を反省した。

May 26, 2018

「表面」とか「ボリューム」のような物質的なもの以外をAR的に合成できないかが最近気になっている。ピクセルディストーションやモザイクをあたかもマテリアルの一種のように空間上に固定できたらどんなん見えるんだろうなと。まずはインタラクティブでない丁寧な実写合成で試そうと、5月に北海道で素材を撮りためたので、早く取り掛かりたい

(一人称視点で街歩きしながら、そこらへんの人々の顔やはしごを指でフリックしてぐんにゃり歪めるMV、何でしたっけ)

Apr 27, 2018

十代の頃、モーショングラフィックスで初めて自覚的に好きだと感じた映像がSTARDUSTのWinXPのCMだったと思う。当然LoganのiPodのCMも好きだったけれど、一方でonesizeのただ単にデジデジしていない独特なグリッチやアナログエフェクトの使い方も凄く研究していた。1stAveMachineのAaron Duffy感のあるトンチの効いた広告映像や時々作る意図の全く読めない謎CGも両方好みだったっけか。

GUMNKを始めとしたFUIや、ロボやメカニック、国内のFlash系MGシーンはあまり自分のバックグラウンドに無かった。だからCG齧ってる男の子なら当然そういうフェチはあるよね? という業界の無意識の前提が個人的にしんどくて。最近作ったモーションが、珍しくそういう種類のストレスもなく、この数年の興味や空気感の好みがカッチリ噛み合った感覚があって楽しかった。

Nov 21, 2017

プログラマにとっての Lisp、音楽家にとっての Max/MSP と同じように、映像作家が Houdini を学ぶことは一種の異化作用をもたらすように思えてきている。

「動かし方」の分類

なにかを動かす時、操作する物理量が何回微分されたものか — 具体的には位置/速度/加速度のどれをアニメーションさせるのかによって「動かし方」を分類できるのではないかとこの数年考えています。

ゲーム内での自機の移動を例にとると分かりやすくて。Pongでツマミが操作しているのは位置。スーパーマリオ64で3Dスティックが操作しているのは速度。アーケードレースゲームでアクセルとブレーキが操作しているのは加速度。

映像制作の中で「動き」について考えるときも、この分類はなかなか有効だと思う。手描きアニメや、キーフレームアニメーションは位置の推移をプロットしていくことで動かすし、ストップモーションやクレイアニメは、フレーム間の変化量(速度)だけ対象物をずらしたり変形させることで動きを与えていく。アニメだって頭の中で「速さ」とか「タメ/ツメ」をイメージしながら描くじゃないか、と一瞬思うけれども、結局紙の上に残していくのはあくまでもそのコマにおけるキャラクターの位置。

実写撮影だと、慣性が強く働くものを身体で動かす際には加速度を操作することが多い。ドリーを手押しする時は、台車に力(≡加速度)を与えることで加速/減速させる。ジブもそう。手持ちやステディでカメラを動かす時も、基本的には加速度を操作していることになるのだけど、重力との合力になるので少しわかりづらい…

そういう風に考えれば、3Dソフト上で実写らしいカメラワークをつけようにも、どこかぎこちなさが残るのは、アニメーションさせている物理量の次元が違うからだと説明がつく。

そもそも多くの映像ソフトが、速度や加速度に対してキーフレームを打つことを許さないのは(パーティクル系のような例外はあるけれど)、現在の状態をフレーム0から漸化的に計算しないといけなくなるからで、時間を前後させながら編集したり、並列処理させるには不都合だからだったりする。またユーザーにとっては、変化量をアニメーションさせては動きの終点を厳密に設定できないという問題もあって。そのために、AfterEffectsの速度カーブなんかは2つの固定されたキーフレーム間の速度の配分のみ編集できる仕組みになっている。

アニメーターやモーションデザイナーのような、「動き」について考える人達の多くが、パラメーターの変化量ではなく、実は絶対量の推移を描いて(打ち込んで)動きを設計していることになる。それは先に挙げたようなソフトウェア側の都合でもあるし、一度紙に描いた線を指でこすってずらせないように、そのメディアが持つ物性によるものだったりもするので、良し悪しの話とはまた別なのだけど。考えてみれば「動き」という概念自体、文字通り変化量のことなので、そこにちょっとした矛盾も感じる。

「ここでシュン!っとなる」の「シュン!」は速度のピークを表しているのだけども、それを実際に紙やアニメーションカーブ上に再現するときには、一旦頭の中で積分して位置に置き換えてやらなくてはいけない。現実でものを動かす時、摩擦で慣性が働きづらいものには速度を、滑ったり転がったりするものには加速度を力として与えることになるので、そのワンクッションは、人の身体感覚からすると不自然なことなのかもしれなくて。パラパラマンガで跳ねるゴムボールを描くことすらとても難しく、アニメーターには鍛錬が必要なのも、本質的にはその部分の違いに由来する反直感性にある気がする。

この1、2年、クレイアニメやフィードバック系を使ったグラフィック作りを試していたのは、(比喩としてではなく、物理量としての)違う次元から「動き」について考えてみたかったからなのかなぁ、と今になって思いました。

とか衒学趣味じみたことをダラダラ考えつつ、こういうUIがあれば面白いぞとoFでスケッチしてたのが、上の動画でした。

リプレイスメント系コマ撮り

‪過去の制作の反省でもあるのだけど、キーフレームで動かしたものを1コマづつフィジカルに出力してコマ撮る、全般、そこまで心にグッとこない。レンダラーとして実写を使っているにすぎないというか.。

‪コマ撮りの良さは見た目のアナログというよりむしろ、隣接するコマ間の変化量だけで動きを考えることを強いられる不自由さ、それゆえのぎこちなさにある気がする。(送り描きのアニメ作画に近い)キーフレームベースで何度もプレイバックしながら組んだ動きは安直に気持ちよくなり過ぎる。

07/06/2018 追記

「リプレイスメント系コマ撮り」と呼ぶらしい。