橋本 麦∿Baku Hashimoto

「かず」と「すう」

形式的記号操作としての数学と実世界の数量に対する算術としての数学がはっりと区別できた瞬間はペアノの公理を知った時だった。理屈としては「数(かず)」と「数(すう)」の違いはわかっていたつもりでも、あの時ほど明瞭な悟り体験のようなものはなかった。

ペアノの公理からわかることの一つは、自然数には、数(かず)とか量という概念は内在していないことだ。自然数はある関係性を持つ記号の集合でしかない。1 + 1 = 2 という記号の羅列を「1つと1つで2つ」という数の足し算として解釈するのは単に実世界において有用であるからに過ぎない。

分数の認識も更新される。当たり前のように「3/2」は数直線上の「1と2の間」という空間的な理解をしていた。しかし単に「3 ÷ 2」の除算の結果という、それが自然数集合から漏れてしまう数に対して「1/2」という新しい記号を与えたに過ぎない。演算子を置き換えた「3★2」や「ゑ」というひらがな一文字に対応させても構わない。ともかく「3/2」という記号を「1と2の真ん中」と理解しているのは、その解釈が有用だからだ。分数それ自体にそうした定義は内在していない。例えば、3/2は数直線上の点ではなく、格子点上の「原点と、そこから2つ右・3つ上に進んだ点とを結んだ直線」として理解するだってできる。約分して等しくなる分数同士は、直線として同一だ。つまり、数(すう)の世界はただの記号と形式的操作の体系以上のものではなく、そこには現実世界における数(かず)や量、空間上の点や直線といった意味や概念との対応関係をいくらでも重ね合わせることが出来る。そうした数(すう)と数(かず)の明瞭な区別があれば、虚数や複素平面に混乱することなくすんなり受け入れられたのになーと思う。高校で教えられたかった。

カッコよさには2つの方向性があるんじゃないかなと思っている。まず、ある作法における精度の更新に対して湧き起こるカッコよさ。よりスタイリッシュなロボットの造形、より写実的な3DCGなどがそうだ。こうした種類のカッコよさは、生得的なところがあると思う。もう一つは、作法そのものの相対化や倒錯を通して、メタや高階な方向に認識が広げられるときに感じるカッコよさ。つまり、SF用語で言うところのセンス・オブ・ワンダー。これを感じ取るのにはちょっとした訓練が必要な気がする。エンジニアは後者に指向のある人が多い印象がある。多くの場合、エンジニアの仕事は与えられたパラメーターの最適化というより、パラメーターの取り方や最適化手法そのものの最適化であるので、ある意味必然とも言える。Eric Raymondも「SFを読め」とか言う訳で、ハッカー的素質にも関わるのも頷ける。

そうしたメタなカッコよさを理解する直接的なきっかけが、自分の場合は形式主義を知ることだった。(芸術におけるFormalismとは別)しょせんはただの美大生だったので、大学数学以降は独学でしかないが、公理系という考え方、しいては公理主義自体の限界を知ったのは、それが一般書レベルの理解であれ、その後の制作で完全に役に立った。(『数学ガール』も主人公たちの名前がオタクっぽくて敬遠していたけれど、本当に良書。あの面白さはSFに通ずるところがある。)

無理やり解釈するとすれば、現代美術も、芸術を芸術たらしめる公理の相対化という側面がある。それを美術らしい観点、例えば美術史や美学として学ぶのもいいが、公理と形式主義の観点から美大や藝大で教えられるようになると、個人的に話が合う同業がちょっとは増えて楽しくなれそうな気がした。