橋本 麦∿Baku Hashimoto

正しさの相対化

社会規範、常識、モラルとが絶妙に絡み合ったある問題について、それまではある考え方が寡占状態にあった中、ある進歩主義的な考え方が台頭しはじめる状況があったとする。僕はわりかし進歩主義派のつもりでいることが多かったりするのだけど、進歩派が保守派に対して使う個人的にちょっと苦手な言い回しが、「それは自明に正しく、時代背景や社会情勢関係なく元来そうあるべきだった」というニュアンスのものだ。

「自明」は、実際には「普遍的」「絶対的」、あるいは正義や善に訴えるもう少し曖昧な表現に置き換えられられるのだけど。ともかく、その言説の正しさは、まるで恒等式のように、その記述そのものから自ずと見てとれるでしょうに、と押し付けるのは考え方が素朴過ぎるんじゃないかなぁと思う。というのは、 保守派も同じくらいの確からしさで保守派の考え方を「自明」なものだと信じているという意味で、お互いの立場はまったく対称的だから。

それぞれの信じる自明と自明をぶつけ合って、どちらが正しいかを議論するのはそもそも無意味だとも思う。ちょうど、平面に住む二次元の生き物が「三角形の内角の和は180°」だと主張するのに対して、球面に住む生き物が、いや、必ず180°以上になるよと反論しているようなもので。

事あるごとに非ユークリッド幾何学のアナロジーを持ち出しがちなので辛い

それぞれの立場に立つ限りそれぞれの主張は正しい。ただこの場合、お互いが見落としているパラメーターが一つあって、それが「曲率」だ。異なる曲率のもとでは、異なる幾何学の体系が生まれる。そしてその幾何学の内側で証明された定理は、その幾何学の内側では自明に正しい。(僕らが高校までに習ったのは、その無数の幾何学のパラレルワールドのうち、曲率が1の平面幾何学だけ)

現実で起こる議論も、こんな状況が案外多いんじゃないかなと思う。つまり、その人にとってある言説が正しく感じるのは、そもそもその言説がその人が思考の基盤にしている価値観から演繹されたものであって、その言説をその価値観の内側から評価するからでしかない、ということ。例のミーム、「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」状態だ。

ただ、自明と自明がぶつかり合う状況に収集をつける方法はあって、その一つが、証明問題を境界値問題として捉え直すことなのだと思う。 三角形の内角の和の例でいうと、論点を「それぞれの主張のどちらが正しいか」ではなく「三角形の内角の和を180°、もしくはそれより大きくする曲率の境目はどこにあるのか」に置き換えることにあたる。そして「三角形の内角の和は、曲率が1のときのみ180°で、曲率が1を超えるときは内角の和も180°を超える」という、簡潔とは言い難いけれど、両方が納得できるより一般的な定理が導きだされる。

現実での議論に話を戻すと、そうした態度はお互いにとってある種の譲歩を意味する。つまり、普遍的正しさの代わりに、「ある条件のもとではこちらが正しいし、そうでないときはそちらにも理がある」という限定的な正しさの主張に留めることだ。とすると議論の流れはこんな風になる。

  1. まず、幾何学の例に同じく、正しさと正しさが切り替わるその条件にはどういうパラメーターが関わっていて、 その境界値はどこにあるのかをお互いに見極める。
  2. その上で、じゃあ今現在そのパラメーターはどの値を取っているっぽいから、差し当たりそちらの主張が理にかなっているね、とお互い納得する。

別に箇条書きにすることでも無い気がする。とはいってもこえはあくまでも理想論で、そのパラメーターの境界条件の見極め方や現状の値の評価さえも、フィルターバブルのような色々なバイアスに影響されるので、お互いに納得できる共通の方法を見つけるのは難しいのが現実なのだけど。

急に具体的な話になってしまうけれど、個人主義も男女同権も、ある社会のパラメーター、例えば「人数」「教育レベル」「競合する社会の存在」「多様性を抱え込むコスト」 がある値域に収まる限りにおいて、条件的に正しいものに過ぎないんじゃないかと思うことがある。例えば、数千人規模のスペースコロニーでは、均質化がもたらす脆弱性以上に、逸脱がもたらす危険性のほうが遥かに大きいので(自爆テロで外壁に穴なんか空けられたら終わりだ)、監視や個人の自由の制限のような全体主義はリベラリズムに優越する。 そんな極端な例を挙げずとも、 歴史的には、生産性が体力と人数に比例していた時代においては性別役割分業は正しかったのだろうし、土地を代々長男が受け継ぐ農民にとっては家制度というシステムは正しかったのだろう。もちろん、この場合の「正しい」はあくまで合理性のもとに正しい以上の意味は無い。

それでもなお、自分のモラルが拒否している考え方を、条件付きでも認めるのはそれなりに辛い。しかし、価値観からして自体が違う相手に、こちらの信じる自明な正しさを伝える難しさを考えると、論点を正しい・間違いの二者択一から、正しさの境界条件に移すことは手として間違っていないと思う。 現に今の社会のパラメーターは、別にモラルや正義を持ち出すまでもなく、個人主義や男女同権にメリットがある範囲にわりかし収まっているとも思うし。…と断言しきれるだけの個々の事例への深い理解も無いので、あくまで「社会規範のアップデートに対する保守派と進歩派の議論」という抽象的観点に留めて置きたかった。

一部の進歩派の、こちらの考え方こそ普遍的に正しいとして、相手側のモラルや常識を過去にさかのぼって否定する様子は、基本的なスタンスに同意見なことが多いだけに、見ていて辛いものがある。もちろんハラスメントのように時代関係なくゼロ・トレランスなものもある。だけど、普遍性というワードを持ち出した時点で「どちらか一方が過去未来永劫正しい」という非現実的で極端な結論をめぐる椅子取りゲームになるだけなわけで、人身攻撃に持ち込んだ時点で、議論というより意地をかけた喧嘩になってしまう。 必要なのは「正しさ」の相対化であって、信念とモラルを賭けた絶対的正しさを巡るガチンコ勝負を、正しさの境界値問題として捉え直すクールさだと思う。SNSばかり見ているから押しの強い意見が目につくだけなのかもしれないけれど、そういう相対主義的な立場からこうしたゴタゴタを俯瞰出来る人達がもう少し居ても良いような気がした。