橋本 麦∿Baku Hashimoto

Tenet 雑感(ネタバレ)

ネタバレ


ようやく観てきた。これは確かに頭の中にファイマン・ダイアグラムのような図を描きながら観ないとこんがらがるやつだなぁと思った。スタルスク12の作戦は、一度目は途中で何がなんだか分からなくなった。


『インターステラー』は20代で観た中で今の所一番好きな映画だ。設定資料集から、科学的設定を解説した Science of Interstellar、その他自分なりに色々読み漁った。映画館にも5回通った。

そもそもインターステラーはクリストファー・ノーランのオリジナル企画ではなくて、理論物理学者のキップ・ソーンと、映画『コンタクト』のプロデューサー、リンダ・オブストによるトリートメントが元になっている。確か、中性子星の連星が重力波を放ちながら衝突する冒頭シーンに始まり、ワームホールは行き帰り用の2個、ブラックホールなんかはスイングバイの度に利用する設定だったのでガルガンチュアの他に6、7個登場していたような気がする。とにかく節操ない。というのも、キップ・ソーンはカール・セーガンがコンタクトの原作を執筆した時の相談相手で、ベガ星系への恒星間航行にワームホールを提案した張本人だった。しかし、映画ではただの光の虫食い穴として描かれてしまったのが心残りで、もう一回ちゃんと宇宙のエキゾチックなイベントを光学的に正確に描写きたい一心で生まれたのがインターステラーの企画だった。というのは僕の勝手な想像…。

とか良いながらこのシーン本当に大好き

だが紆余曲折あってノーランが監督するとなった時、オモシロ天体ショーの下りは殆ど「これは映画なんだ」とバッサリ削られて、その主題は父娘の話に取って代わられた。ワームホールやブラックホールが間近で見られるシーンは数分にも満たず、相対論的に正確なレイトレーシング(CGにおける光の軌道計算)によって描かれた星空や降着円盤の歪みを見て取れるのはほんの数秒・数カットしかない。キップ・ソーンも Science of Interstellar でそのことへの恨み言を書いていたりするが、「映画としては彼の取捨選択は正しかったと思う」と擁護するようなことも書いていたりする。かわいい。

右上にブラックホールの反対側から回り込んで入射した360度の星空が集まって見える

だからテネットでは監督として「映画としての体裁」を保とうとするバランス感覚が影を潜め、完全にギミック駆動に振り切っていたのが何よりも嬉しかった。やっぱりトンチが好きなんじゃん、ようやく素直になれたねっ!っていう。決めつけですが。それが良くも悪くも、人間描写の情感をスポイルしていたのかもしれないけれど、 インターステラーの父娘の話をかったるいと思っていた人間としては一向に構わない。むしろ雑味がなくなって良い。こちらとしては「ノーラン的ややこしさ」をギュッと濃縮した原液をグビッとやりたいだけなので。

登場人物がプロットに都合よく動かされている駒のように感じるという批判意見も目にしたが、むしろ設定上そのように見えて然るべきだと思った。逆行世界から順行世界に働きかけをするには、結果を生んだ後にその原因を作ってあげる必要がある。例えば、タリンの高速道路で、逆行するセイターがキャットに銃を突きつけながら3、2、1と指折り数え、耐えかねた名もなき男は空のアタッシュケースを投げて寄越すシーン。逆行セイターの主観時間に立ってみると、先にアタッシュケースを名もなき男の車に投げた(=受け取った)後に、その原因を作るために1、2、3、とカウントアップしたことになる。一方、タリンの自由港の回転ドアのシーンでは、名もなき男は逆行セイターに241の在り処を吐いた後、順行するもう一人のセイターに後ろからど突かれ、アルゴリズムは何処かと聞かれる。そこで名もなき男は「もう言った」と伝えると、妙に納得したように逆行セイターと同時に回転ドアへと対消滅する。これはタイラーの主観時間では、この時点で十数秒後の自分が名もなき男らに241の在り処を訊き出せることを知っていて、扉を潜ると案の定名もなき男に241の居場所を(逆再生で)自ずと語りだしたことになる。そして名もなき男が在り処を吐く原因を作るために、キャットの臀部を撃つわけ。だから、逆行世界の摂理を熟知し、それを使いこなせる人物ほど、順行世界で予め知った逆行自分のとる行動を、機械的に逆向きへとなぞるようになる。しかも、それはあくまで自由意志の元でだ。

テネットでは、そもそもパラドックスが起こり得ない(起こったとしても知るもんか by 未来人)世界を描いているので、多世界解釈は物語上の設定として必要は無い。その場合、もし既に目にした逆行自分に逆らうような行動を逆行後に気まぐれに起こそうものなら、そもそも予め目にしていたのは、その気まぐれな行動を起こそうとしている逆行自分だったということだ。気まぐれも込みで因果がうまい具合に閉じた世界がただ最初から存在しているのみで、そこに生きる登場人物は、パラドックスを起こさないための自制心を持つ必要すらない。それは諦観でも無気力でもなくて、現に僕らが「起こってしまった過去は変えられない」と何の疑いも無く信じるのと同じくらいの確からしさで、「起こってしまった自分の未来は変えられない」と、当然の摂理として内面化しているだけのことだ。そして確定した未来(過去)を知ることと、自由意志のもとでその行動を逆向きにトレースする事は、彼らの世界観では両立する。その最たる例がニールだ。

だから、僕らがストーリーテリングの前提として受け止めている因果律と自由意志の在り方を捉え直さない限り、テネットの登場人物の行動はひどくご都合主義、あるいは自己犠牲的に見えるはず。確かに一ノ瀬さんも仰る通り、時系列を読み解いただけで作品を理解した気になるのはまだ浅いのかもしれない。(未だにこんがらがってるけど…)


というのは僕の解釈なので、誰かと答え合わせしたいです。2日連続で付き合ってくれたパートナーにこれ以上しつこくテネットの話題を振るのも忍びなくて…。

普通に感想を言ってしまうと、インセプションの「階層」と違い逆行世界をシチュエーションで区別する事が出来ない分、わりとあからさまに色や音楽で区別をつけているのは面白かったです。最後運動会の組分けみたいなっててかわいい。あと、ノーラン作品はブルータリズム建築が本当によく似合う。東欧を舞台にしたのも納得でした。

本当は観てみたかったシーンは、回転ドアの中での対消滅の仕方と、時空をUターンする時に本人が見える風景だ。僕のナイーブな4次元観では、すべての人物は4次元空間上では、ある瞬間を表す「3次元の断面」が時間方向に積層して出来た4次元金太郎のような形をしている。それを未来方向へと垂直にサクサク薄切りしていくことで、時間の流れをその断面から観察することができる。

金太郎飴は本人の移動に応じてくねくねと傾いた形を取る一方で、ある一定の傾斜(=光子が描く世界線の傾き)の範囲内に収まる。ただ逆行者の金太郎飴だけは、(一往復半の場合)ちょうど下の図のような形で折れ曲がっている。この金太郎飴に水平に刃を当てるところを想像してほしい。過去からサクサクと切ると、突然回転ドアの内側で空中に体の断片が現れ、それが奇妙なスリットスキャン映像のようにみよーんと引き伸ばされて逆行者と第二の順行者に分裂する。

そして、2人の順行者と1人の逆行者とがしばらく同時に存在した後、今度は第一の順行者と逆行者がみよーんと対消滅する。どういう設定かは分からないが、もし時空のUターンが瞬間的に行われるなら、この「みよーん」は瞬間的に終わるだろうし、ゆるい弧を描くならもう少しヌルっとした「みよーん」になる。Houdiniでビジュアライズしてみたい。(追記: タリンの自由港ではドアの内部が見えるが、特にそういうスリットスキャン的描写もなくただ部屋の内部が回転してるだけだった。特にそういうこまい設定は考えてなさそう。テッセラクト同様に。)

これも素朴過ぎる時空の解釈なので多分間違っているのですが、逆行者の目線では、時空上をくるりと回転して引き返す際外の世界の時間軸が本人にとっての空間的次元の一つに揃う瞬間がある。その時、回転扉の内側の空間が突然インターステラーのテセラクトのような縞模様になるまで引き伸ばされて、過去現在に回転ドアを使用した人達が今からの時間差に応じた距離で並んで見える。その縞模様の部屋の遠く彼方には建設中と解体中の開口部が空いている。合ってるのかなぁ…。昔自分の部屋でよくこういうビジュアルを想像してた。自分の部屋の4次元マカロニを、長さ方向に切ると断面には何が見えるのかな? って。2次元住民の部屋が3次元時空に作るマカロニからの類推で考える。

ここまで時間をイジり倒してしまうと、あとは何が残っているんだろう。カットアップ、伸縮、反転…。あとは並進対称性とか? カノン進行みたいな。アルゴリズムたいそうやカイリー・ミノーグのMV、リプチンスキーのTangoみたいなアクションシーンになるのかな。さぞかしモサい揉み合いになりそう。ノーラン映画のアクションはいつもモサいけど。あるいは、Mr. Nobody のような分岐とか。どのみち、ジョジョの各部ラスボスの時空系スタンドみたいに、だんだん複雑化して訳わからんことになりそう。


カノンで思い出したけど、今更読み始めた『ゲーデル・エッシャー・バッハ』(GEB)にも蟹のカノンなるものが登場する。僕らが一番慣れ親しんでいるカノンは「かえるの歌」方式だけど、蟹のカノンはある旋律を逆行させたものがそれ自体への伴奏となっている。まさに音楽の回文。インセプションで再生速度を落としたエディット・ピアフがそのまま下層で響く重低音の旋律になっていたように、テネットのサウンドトラックにもそういう仕掛けが施されていたら面白い。誰か教えて欲しいです。

ところで最近作っているグラフィックデザインツールでLispという言語の処理系を実装しているのですが、Lispは、LispプログラムそのものをデータとしてLispプログラムに喰わせることが出来るという特異な性質を持っている。だからLispプログラムを実行する前にそのLispプログラム自身をLispの構文でもって自己改変させるなんて芸当が出来たりする(一種のマクロ展開)。文章で説明するとややこしい。どの言語にもそうした「コードを改変するための構文」はあるのだけど、コードそのものの構文とコードを改変するための構文は区別されている(C++のプリプロセッサがその例)。だから、Lispコーディングを通して得られるある種の異化感覚は、その言語構文にメタ言及するための構文がその言語自身に埋め込まれているという奇妙な自己参照性に由来している(と思っている)。そんなことに思いを馳せるうちに久々にゲーデル熱が高まって、関連本を読み漁るうちにGEBに辿り着いた。超面白い。こんな有名な本、もっと早く知りたかった…。

作品それ自体と同程度かそれ以上に、作品の背後に横たわる抽象構造だけでメシが進んでしまう体質は各分野に散らばっていると思う。純粋数学、お笑い、映画、現代美術、そしてハッキングと。そういう体質の持ち主は、メディアやジャンルを越えてある種のマインドセットで共鳴し合っている。それは対称性や自己参照性(ホフスタッターのいう『不思議の輪』)、あるいはメタ性を見出す歓びというか何というか。とにかく奴らはそういう審美眼がうまい具合に満たされるとエラく嬉しくなれてしまう。GEBでも取り上げられているエッシャーやバッハはまさにそういった気配を感じるし、ノーラン作品もそう。なんなら彼はエッシャー作品を眺めながら構想を練るらしい。

世の中の作品のほとんどが、ある表現形式を自明のものとして受け入れた上でその「内側」で完結する。逆にそういう形式の枠組みがあるからシーンやカルチャーなるものがまとまりをもって生まれるとも言える。だからこそ、その形式を用いて形式そのものへのメタ言及や相対化を仕掛けるような表現はどうしても希少になりがちだし、貴重だ。「ギミックでメシが進む」体質の人間としては、そういう表現に常に飢えている。とかいうと何だか賢ぶりたい感が出てしまうんだけど、別にそういうことでもなくて、最近なんかは、ぺこぱやアニメの『デカダンス』にハマってる。どちらも、漫才、MMORPG系アニメというジャンルをフリにした表現なので。ついでに言うとデカダンスで登場する2つの世界は双対関係になっていて面白い。

テネットは、時間芸術たる映画の中で時間そのものに自己言及する作品だ。360度映像が撮影から「フレーミング」という概念を取り去りながらも、そこから別の映像文法が生まれたように、物語の公理たる「因果律」が置き換わることで、全く新しいストーリーテリングの手法が立ち現れる。これはユークリッド幾何学の平行線公準を否定することで球面幾何学が生まれたのにも似ている。そして、球面幾何学における「三角形」を僕らが普段目にするような三角形として解釈すると破綻するのと同様に、テネットの物語における「原因と結果」「自由意志」を、僕らが慣れ親しんだ意味でのそれと解釈すれば、途端に作品全体が不自然なものになる。しかし、あくまでテネットという公理系の内側ではそれは無矛盾に閉じていて、それは作中の回転ドアを使いこなす人物達には何ら問題なく受け止められている。

これはテネットに対する遠回りな感想のつもりでした。確かにテネットは洒落臭いトンチ映画ではあるのだけど、僕らが「良さ」の局所解を求めて狭苦しくうろつき回ってるその山頂が、実は広大な適応度地形のほんの一部でしかないと気づかせてくれる感動は、既知の「良さ」の峰の頂上付近で器用に叩き出された高得点よりも桁違いに大きい。

それは「チャレンジを評価したい」とかかしこまった話ではなくて、もっと感覚的に、そういう表現が単にむちゃくちゃカッコ良く感じるだけなんです。カッコよさの様式の内側で無難にカッコつけている作品とは、カッコよさのオーダーが違う。

時間遡行というアイデア自体は大森望さんがパンフレットで挙げてらっしゃったような先例があるのですが、テネットは僕にとって、曇り一つ無くカッコ良いなぁと思えるブロックバスター映画でした。

こういう映画を見終わると、僕がノーラン映画に感じるこのカッコ良さを、同業の多くの人はゲーミングPCのデザインみたいなグラフィックやシネマルックのお洒落な実写MVとか、もっと幅広いことに感じられるのだろうな、羨ましいなぁ、と感じてしまって落ち込む。