橋本 Hashimoto   Baku

橋本 Hashimoto   Baku

X未満 2025年12月後半 (メモ)

このページは個人的なメモ書きです。何かあればご連絡ください。

ポッドキャストやYouTubeやトークイベント、世間に溢れてる対話型のコンテンツ語り。オレがまったくわからないのは、例えば2人いて、その片方が見てないもの/聞いてないものについて延々そのコンテンツの内容について片方が説明しながら語っているもの。それは対話じゃなくてただの言葉の壁打ちだよ
宇野維正 on X

珍しく頷首

多分baku89.iconは他律的に語らされる場をいつも求めている感じがある
自分から語る場をつくることはなんかダサいという、謎のプライドがあるというか

けど、普通に言いたいことは(ブログを書くくらいには)常に沢山あって、それはこの先も誰かを巻き込まない形でやるべきなんだろうなって思う


  • キャリアにおけるエイジズムやオーバーワークに自分がかなり難色を示すのは、色んな寄り道をして今の専門にたどり着いた人や、色んな事情で全時間を制作に投じることができない人たちを疎外しているからのはまずある
    • というか、全力投球出来ている人は、自分自身の将来の健康あるいは家事労働を負担してくれる同居者など、他の人に対して何らかのしわ寄せをさせている
  • けどそれ以上に、そういうマッチョな人たちの作るマッチョな作品に対して単純に飽きているから
    • ありふれている
    • 自分が少年漫画を読めなかったのも少しだけ関係している
  • 十分に暇な人だからこそできる作品や成果物のほうに自分は惹かれる
  • 「多作主義を諦める」のは色んなものへの答えになっている
    • 家事・育児とのジレンマとか
  • 人の仕事なんて、ベスト3くらい知っていれば良い方で、そんな2週間に一度ディレクション案件をドロップしたところで、「ブイブイ言わせているのね」という自己演出とタイムラインの賑やかしにしかならない
    • 自分自身に関するニュースを常に作り出さないと忘れ去られてしまうっていうオブセッションがあること自体が、作り手というより「タレント」的な生存戦略観
    • 本当に力のある作品や(研究・OSSプロジェクトなどの)コントリビューションは、それだけで十数年とその人のプロップスを高め続けてくれる
  • より残酷な事実として、↑みたいな本当に凄い成果物が残せない人は、どれだけ忙しくしても多作でブイブイ言わせたとしても、そのムーブを辞めて5年くらいで忘れ去られていく。だから、忙しくすることはそういう中途半端さへの延命措置にしかならない
    • 「いい成果物をつくること」だけが人生の意義じゃないっていうのが大前提 むしろ、「さして良くない成果物しかつくれない」ことを積極的に愛していきたい。baku89.iconはやっぱり↑に挙げたアニメーション作家の方々に比べて作品の力がないのだけど、それを必要以上に卑下するわけでもなく、ただ粛々と受け入れている。そういうもんだって。それでも自分の作品のいくつかはとても好きだし、デジデジしている方々のなかではトップクラスに良いものを作っていると自分では思っている
    • というより、デジデジ人は作品そのもののことについて考えなさすぎ。どう企むかとか、どうコンセプトだのなんだのをこねくり回すかばかりに限りある認知資源を割いている。だからSo What? 問題が頻発する。
    • 良くないことを良くないと受け止めるあまり、良くないことを否認したり、「ディス」だとかってタブー視するよりも、「良くないことは良くないわけじゃない」とするほうがはるかに優しい世界だと思う

初めて「人事」方面の方々と腹を割ってコーポレート・ポエトリーの話が出来たのがよかった ああいったコピーライティングが、画面のフンイキと賑やかし以上の具体的で精緻な意味は殆どないって思っている方が(業種や企業文化に依るものの)他にも居て、ホッとしたというか

志高くそれを選んだにせよ、成り行きでその道を選んだにせよ、対象(研究、国語教育、士業、創作…)そのものに本質的に興味があるのか、その人の人生という物語において可換でマクガフィン的なものなのかは、自分が(主に映像という専門性でもって)寄与させて頂きたいと思えるかの一つの分水嶺で

別に専門家やギークこそが至高でそこらのビジネス書に載っているような通りいっぺんのことしか言わない総合職がクソ、とは思わないけど、みんなで一つの目標に向かうことやその高揚感に比べて、それそのものに興味がない人には、自分も興味は向かないし、(市場価値はともかく)それなりにユニークネスの高い自分のスキルがそういう存在のエンパワーメントのために向けられることは、世界にとってあまりトクではない

ひろしは、双葉商事の事業内容に本質的に興味がない

「ひろしの回想」は小学生のころはとても感動したけど、彼の年齢に近づくほどに、(夫、父としての彼はともかく)仕事人や専門家としての彼に対して興味が持てなくなってきている


オープンアクセスについて


正当な補償を伴わない徹夜や過労は、価格のダンピングと健康破壊を通じて、将来の自分、家族、後続世代のクリエイティブ資源を食い潰すという点で公害に近い 忸怩たる思いでひっそりとすべきもので、自慢げかどうかは関係なくSNSに書くもんじゃないって思ってる


M-1決勝を観ながらかぎ針編みにハマる


バキ童の「卒業会見」動画を見た

物理的に卒業したかどうかではなく、そういう合意を交わせる大切な人と出会えたことが「卒業」なんだっていう解釈は、ぼくは美しいなと思った

上京した最初期、元電波少年のプロデューサー(自称)の方とか、本郷伸明さんだとかのもとで「師事」というかアシスタントに近いことをしていたのを思い出す。コミュ力も無ければ目立った実績があるわけでもない自分は、ある意味彼らの懐に入ってくために、自らをナードなDTキャラとしてイジられに行っていた

特に本郷さんの頃はとても自覚的で、音楽の趣味とかについて聞かれても、敢えてオタクっぽい回答をしたり。それは、いずれ世の中的にそういう「男子ノリ」とか「体育会系」自体が老害的なムーブになっていくっていう予感が(2013年当時)あったから、今のうちに一種のアトラクションとしてそういうマッチョな人たちの雰囲気を味わっておこうっていう、全く持って謎の天邪鬼さを発揮していたような気がする。一つ想定外だったのは、そうした時代のムードの移り変わりが想定以上に早かったことと、どれだけ自覚的だろうとそういう「イジられ」に身を投じるのは自傷行為としてボディブローとして効いてきていて、自分の自己肯定感を下げてしまったこと。そういう自虐ってパートナーに対しても誠実じゃないんだよなぁって思う。謙虚さと卑屈さは違う。

そういうこともあって、DTがどうだとかそういうことが男性同士のステータスだとかコミュニケーションの手段になること自体に忸怩たる思いがある。まず第一に女性ないし性的対象を objectification しているわけだし。けど、バキ童チャンネルやその近辺の芸人さん、「エチョナ」の方々同士の関係性は、時々有害に感じられるときもありつつも、なんというか社会学的に、あるいは「ケアの倫理」としてとても興味深く感じる時もあって、よく観てしまっていた。valkneeさんも結構近い感情を彼らに対して感じているような気がする。


Aesthetic Coherenceのことを木村 友輝さんと話した


企み人なんでんかんでん化コーポレート・ポエトリーとデザイン思考について明確な批判意識があるのは、経済的に合理的なしぐさであるがゆえにミームとしての感染性が高いことと、合目的的で受け手やユーザーにパターナリスティックな姿勢は文化を貧しくするから

逆に「うすらグラフィックこんせぷt」に、自分がファン視点で好きでいられるのは、とても良い意味で思想としての説得感に欠ける分、少なくとも『白』やUXに比べると表現に対して発散的に作用するからなのかな