Hashimoto   Baku

Hashimoto   Baku

Aesthetic Coherence

このページは個人的な メモ書き です。何かあれば ご連絡 ください。

My central belief is that the key to aesthetics is coherence. In 3d we essentially create artificial models of worlds, I contend that what makes these worlds believable is simply how coherent they are; how all the elements tie together under a set of rules which govern them consistently. This coherence spreads to all areas of a film; dialogue, design, sound, music, movement etc. Together they create a feedback-loop which reaffirms that what we are looking at is true. The human eye wants this aesthetic harmony.

私が強く信じていることがある――美学の鍵は整合性にある。3DCGアニメーションにおいては本質的に、世界のモデルを人工的に構築することになるが、私はこう主張したい――その作品世界が信じうるものとなるか否か、それは、どれだけの一貫性があるかということだけにかかっている。あらゆる要素が、それらを支配する一連の法則のうちに結びつけられているかどうか。この整合性は、セリフ、デザイン、音、音楽、運動……作品のあらゆる領域へと広がっていく。それらの要素が一体となることで、「私たちが見ているものは本当なのだ」ということを確信させるフィードバック的なループが生み出されるのだ。人間の目はそういった美的調和を欲している。
アニメーション基礎美学, David O'Reilly (2009)https://www.media-arts-uts.com/aes1/wp-content/uploads/2012/01/BasicAnimationAesthetics.pdf

3DCGアニメーション作家のDavid O'Reilly氏によるエッセイ『Basic Animation Aesthetics』(アニメーション基礎美学)にて言及されていた概念。

土居 伸彰さんのAnimationsに載っている和訳が有名。ぼくは個人的には「coherence」に「整合性」という訳を与えたい。

平たく狭く要約すると、CGは高精細さを目指す必要も、写真や手描きアニメーションといった他の表現の再現的用法に留まらずとも、そのスタイルの内側に美的調和があれば、たとえローファイでも、見慣れなくとも、作品世界としてリアリティを持ち得るという論考。3DCG業界は全体的な傾向として、より高精細で、自然で、写実的な表現を志向すべしという暗黙の了解があるが、そうした態度を相対化するための理論的基盤として、多くの個人アニメーション作家に影響を与えた。(国内だと大橋史さんやでんすけ28号さんが公言)

baku89.iconの個人的な解釈だけど、Aesthetic coherenceはアニメーション制作における公理主義とも捉えることもできる。つまり、ルックや動きに対する少数の取り決め(=公理)から、演出や編集上の細かな文法(=定理)を演繹的に定めていくという考え方。

エッセイでも取り上げられていた『Please Say Something』を例に出すと、このような公理系を考えることができる。もちろん数学におけるそれほどの厳密さはないけど。右にいくほど、より具体的かつ技術的なルールとなっていく。

逆に言えば、実写のようなVFXや、Pixar以降のヌルヌル動くCGアニメーション作品、あるいは日本の漫画やアニメを参考にしたセルルックCGも、考えうる無数の美的公理系のうちの一つに過ぎないといえる。それをあまりに当たり前のように正解としてきたために、そして3DCGツールもそうしたスタイルを前提に設計されてきたゆえに、制約として意識もしてこなかった状態なのかも。

3DCGにおけるDavid O'Reilly的な態度の発明は、非ユークリッド幾何学の歴史に近い。つまり、ぼくらが当たり前のように学んできた幾何学の定理は、あくまでユークリッド幾何学における公理が成立すると仮定した上で導き出せるものに過ぎず、その仮定が一つすげ替えられると(平行線公準の否定)、全く違った幾何学体系が立ち上がるってわけ。それが一見どれだけ日常的な感覚に反するものでも、その内側で矛盾なく閉じたものであれば一つの体系として成立し得る。

David O'Reillyは、既存のツールの制約の中で「非ユークリッド幾何学」的なものを立ち上げるために、本来最終成果物として利用されることを想定してないデフォルトやプレビューを用いるという戦略をとった。そこには、転用の美や批評性も感じられる。 Glispで目指したいのは、そうした美的一貫性を作品ごとに構築できるような柔軟性。

なぜ彼はConsistencyではなくCoherenceを使ったのか?

Consistencyは一般的に、個々の要素がルールや基準を守ること、局所的な一貫性を指すことが多い。彼の文章の中でも、consistencyは “how all the elements tie together under a set of rules which govern them consistently” のように使われている。

Coherenceは「整合性」「全体的なまとまり」のようなニュアンスがある。コヒーレント光はその例かも。David O’Reilly が「Aesthetic Consistency」ではなく「Aesthetic Coherence」を選んだのは、彼の考える美的原則が、単なる統一感ではなく「各要素が相互に作用し、調和の取れたシステムとしてリアリティを生み出すこと」に重点を置いているから。非ユークリッド幾何学が一つの新たな体系として成立するように、CGアニメーションにおいても無数の可能世界、美的体系が存在しうることを意味している。

そこで改めて思い出すのは、一時期の大橋史さんは、彼流の「美的一貫性」の実践としてなぜ「After Effectsの標準エフェクトのみを用いる」ことに拘っていたのだろうかということ。標準エフェクトを使うことは、制約に基づく縛りゲーとしては確かに一貫性はあるのだけど、それはあくまでAdobeが気まぐれにCCやKeylightのようなプラグインベンダーを買収しながら放り込んだ寄せ集めにしか過ぎない。もちろん彼は、そうした標準エフェクトの中でも、調和の取れたサブセットを選りすぐって使っていのだと思うだけれど。

それに対して、3DCGのリアルタイムプレビューという「計算資源を必要としない」強い制約条件下で描画され得るものには、美的にも強いコヒーレントさが伴う。

最近も木村 友輝さんとこの話をした

テキトーなことを言ってしまったので補足すると、David O'Reilly が語ってたのは、CGIを単に写実性をエミュレートするための装置としてじゃなくて、それそのものに宿る質感を美的制約として活かそうよってことだったはずです。ぼくはそれをメディア固有性だとかStylized CGIの話にだいぶ拡大解釈しちゃってます……。

もっといえば、彼のスタンスってガバい意味での公理主義で。作品世界を統べる少数のルールを「公理」として設定し、そこから個々の編集やエフェクトの方針を「演繹」していけば、たとえそれはリアルではなくとも、「〇〇っぽく」なくとも、その内的調和に人はリアリティを見出すことができる。

この話って、佐藤 雅彦の「トーン」とかにも通づるような気がします。リアルやリッチを目指す必要も、イリュージョンを作り出す必要も実は必ずしもない。そういう気付きは、絵画、音楽、アニメーションだとか、色んなジャンルが辿って来た道だったような気がします。Webだとかインタラクティブだとか、デジデジ・クリエイティブ界隈にまだその波は十分に来ていない感覚もあるけれど。

けど、だからといってCGIにおける写実主義がナンセンスだと唾棄するわけでもなくて。SIGGRAPH界隈の年休者、開発者、そしてアーティストが「不気味の谷」を正面切って乗り越えんとした連綿と続く歴史があるからこそ、その脇道に広大な誤用の荒野が発見できたのだと思う。いわんや画像生成AIをや。

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