So What? 問題 (メモ)
このページは個人的なメモ書きです。何かあればご連絡ください。
インタラククティブコンテンツ、ジェネラティブアート、参加型アートを体験したときの「だから何…?」という情感について
So What性の分類
- ユーザー・ジェネレーティッド系:「ユーザーがカスタマイズできる」
- 「カメラをユーザー側でスイッチングできるMV」
- 「ユーザーが自分でお絵描きできる」
- 「ユーザーが好きにパラメーターを調整してグラフィックを生成できる」
- baku89.iconが庄野祐輔さん、Kai Yoshizawaさんと取り組んでいたNFT/PTP作品でもこれに陥ってしまって、自分でも解決策が見いだせていないのでプロジェクトを放置してしまっている…
- 生成アウラ系:「その場限りのものが生成され続けていることのありがたみ」
- コンセプチュアルなNFT作品は結構これが多い
- センシング系:「環境から情報をリアルタイムに取り込んで反映している」
- baku89.iconはこれからこれを意図的にやろうとしていている
- ビッグデータ系:「こうしたビッグデータを可視化している」
- 「株価をビジュアライズしています」
ユーザージェネレーティッド系、生成アウラ系は、「いうて別にそんなにありがたくない」ことが弱点になりがちで、センシング系、ビッグデータ系は、何がどう対応しているのかが専門家にすら分からないことがあって、「どういうこっちゃわからないけど何やら最新のテクノロジーで凄いことがなされているのですね」という着地点に落ちやすい。
こういうアプローチそれ自体が悪手という話ではなく、作品のコンセプチュアルなこねくり回しに対して、体験としての品質がついてきていないと、「で、何?」に陥る。
| コンセプトが練られている | ない | |
|---|---|---|
| 体験としてよい | すごいっ | スペクタクルだねぇ |
| よくない | だから何…? | なんだかねぇ |
歴史に残っているような現代美術って、狭義の「巧さ」は追求していないものの、「圧倒感」とか「丁寧じゃないことへの丁寧さ」とか、「どうオーディエンスの先入観を逆撫でするか」だとかの設計が、すごく広い意味でちゃんと「巧い」。それは分かりやすい快ではなくとも、体験の質につながっている。
けど、一部のconceptual generative artは、「アートの仲間入りを果たすのに、『巧さ』を追求する必要はない。趣味の風景画じゃないんだから」という素朴な現代美術観にあぐらをかいて、そうした広義の「巧さ」を見落とす。その結果、「だから何…?」系の作品が生まれやすい土壌がある。
双方向にする、生成的にするという要素が、作品の体験的な強度に繋がらないのであれば、いっそのことプリレンダーにするほうがうまく行くことが多い。「AI美空ひばり」とかもある意味でプリレンダーなわけだし。
ここでいう「プリレンダー」はすごく広い意味。単に「予め映像に焼き付ける」という意味でだけではなく:
- マニュアルな操作を混ぜ込む
- パラメーターの調整を受け手に委ねずとも、作り手の思う予め最高の組み合わせで固定させてしまう
とか?
Data visualization系の作品でも池田 亮司は、「何かの連関を視覚的に解らせる」ためのdata vizではなく、情報の洪水をオーディエンスに浴びせるという一点で突き抜けている。だから美術としての文脈を知らない人でも、何をどう処理しているのかが伝わらずとも、ビジュアルの圧倒性である程度作品として自立し得ている。しかもそれが単なる「スペクタクル」とか「映え」では終わらない、品の良さがある。
全くアートではないけれど、『脳内メーカー』は、単にその人の名前を乱数シードにデタラメに脳みその組成を表示するだけだけど、そこに可笑しみとか、コミュニケーションの楽しさがあるから、「だから何?」とはならない。
建築やプロダクトにおける「パラメトリック・デザイン」「ジェネラティブ・デザイン」は、その意味で「リアルタイム/インタラクティブ性」にあぐらをかかない稀有な分野なのかもしれない。そのかわりに、アルゴリズムや確率が混入することで造形に宿される他者性、意外性を買ってジェネっている。あくまで ideation や設計の過程でのみジェネるのであって、建築そのものがインタラクティブに動いたりすることを要請していない。そもそも物理的に無理だけど1。
そもそも、インタラクティブなシステムそのものを無理に「作品」にしないってのは大事かもしれない。映像なりグラフィックなり、それ自体が自己完結的な強度をもったマスター作品をつくっておいて、そのインタラクティブ版は supplementary materials 的な立ち位置に踏みとどまるっていう勇気。既にめちゃくちゃかっこいい作品があって、けど実はこういう別のプレゼンテーションの仕方もありますよ?っていう。KindolphinをAC部と作った時はまさにそうだった。既に『group_inou / HAPPENING』というドチャクソかっこいいMV作品があって、そのよりよい見せ方として電子書籍アプリパロにしたってわけ。
インタラクティブ性、ジェネラティブ性それ自体を作品の体験としての質に繋げるなら、任天堂のゲームとか、梱包材のプチプチを潰す快楽とか、そういうものと張り合えるくらいに工芸的な作り込みをしていかないといけない。茨の道。
けど一方で思ったのは、ぼくがこういう「参加型コンテンツ」に対して「だから何?」を感じることがあるのと同様に、物語や意味伝達機能のない抽象アニメーションや実験映画に対しても、実は殆どの人たちが「だから何?」を感じているのかもしれないってこと。もっといえば、抽象画だとか音楽のインストゥルメンタルの受容も、存外そんなところなのかもしれない。
