ソフトウェアはブートストラップする
このテキストはある会合のテーマとして執筆したものです。制作やツール開発の裏側に通底するより根源的な興味について、まとまった文章として言語化する良いきっかけとなりました。
いい機会だから、これまでの仕事を通して、自分の中で一貫している部分はなんなのか考えてみるのはいいかもしれませんね。共通して興味を持っている部分ね。スキルアップしたいとかそういうことではなくて、もう一個上の階層から見てみるということかな。
アニメーションとメディア・アートの隙間
11才の頃に祖父の友人からクラック版Adobe Master Collectionを譲り受けて以来、今まで様々な作品をつくってきました。コマ撮り、モキュメンタリー、CG、Web作品など、それなりに多岐にわたっているつもりです。こうして振り返ってみると、集中力が続かないのか、物語というものに興味が湧かないのか、どれもノンナラティブで短い映像が多いように思えます。
これは武蔵野美術大学を中退した僕が、本来卒業制作をつくっていたであろう時期に、愛聴していたミュージシャン group_inou(グループ・イノウ)のために作ったビデオです。Google Street Viewのイメージをスクレイピングし、その上からメンバー二人の写真を3000枚超雑コラ(=雑なコラージュ)して作り上げました。コマ撮りの中でも、いわゆるピクシレーションと呼ばれる手法です。この制作のために、Street View上を「ロケハン」して画像をダウンロードするためのソフトや、撮影時に照明やカメラアングルを同期するためのシステムから開発しています。ビデオの公開後には、メイキングや開発したツールを全てオープンソース化しました。手法開発から制作をはじめ、そのプロセスを共有するという習慣は、その後の自分のスタイルとして定着していきます。


ビッグテックの知財をインディーカルチャーのために盗用するという反抗精神や、ソフトウェア開発や電子工作といった手法とコマ撮りの泥臭さとのギャップ。それは広告業界と蜜月な関係を持ち、私企業の技術デモンストレーションのためのスペクタクルへとひた走っていたニューメディア・アートやインタラクティブ業界への、若かりしながらの明確な批判でした。一方で、そうした時代性やコンセプトが脱落してもなお、 アニメーションとして気持ちいいものを作り込みたいという意図もありました。今思えば、実験映像やミュージック・ビデオ文化を出自とする身として、映像体験としての驚きと嬉しさ、それを下支えする職人的な巧さを軽んじている(と決めつけていた)メディア・アート界をも、どこかで仮想敵としていたようにも思えます。
ボトムアップ・スタイルの制作
そうはいっても、ご飯を食べていくためにはペイド・ワークを続けなくてはいけないというのも事実です。当時は企業のCMやWebムービーといった広告映像をそれなりに多く手掛けていました。しかし、ナードとして、そして素朴な反資本主義的な価値観の持ち主として、これまでに培ってきたスキルや感覚が、消費を刺激するための「ネアカ」的な表現に駆り立てられてしまうことへのアテのないしんどさは次第に蓄積していきました。もちろん、広告というものがおしなべて邪悪だという極端な話でもなく、信じるブランドを世の中に広く告げたい人たちの想いに応える価値ある行為でもあると思うのですが、たまたま自分の肌には合っていなかったようです。そんなこんなで疲れてしまって、4ヶ月間、一切の「仕事」を放棄して、北海道の祖父母宅にホームステイしながら撮影したのがこのビデオです。
またもやコマ撮り作品です。お餅や寒天ゼリーといった、おじいちゃん・おばあちゃんっぽい和菓子がすべすべと部屋中を駆け巡ります。このカメラワークや音楽への同期を実現するために、VR用デバイスとコマ撮りソフトを統合するツールから開発しました。


先述のStreet View作品と違い、このビデオには特筆すべきコンセプトも批評性もありません。しいていえば「刻々と変化する自然光のなかで和菓子がダンスし、その周囲をひたすらにカメラが動き続ける」という企画になるわけですが、最終形を観ていない人がこの一文を聞いて、果たしてどこまで面白いと思えるでしょうか。映像作家として、構想やアニメーション、技術開発を一手に引き受けることで見えてくるのは、要素一つ一つは地味でも、それらが相互に絡み合うことで初めて立ち現れるタイプの、いわばボトムアップ的強度です。そこには「いい作品は、シンプルで力強いコンセプトから生まれる」という価値観への個人的な反感があります。まず、ピッチ映えするタグラインがあり、そこから具体的なルックや技術選定という枝葉が生えていく。そうしたトップダウン的な制作観において、クラフトはコンセプトの劣位に置かれる、代替可能なものでしかありません。
コンセプトとクラフトのこうした主従関係は、遡ればエピステーメとテクネの対比に始まる、人類史的にも根深い現象なのかもしれません。ただ、一旦産業的なモノづくりに限って言えば、一つの作品を作り上げるのに必要な知識や技術があまりに広範に渡るようになったこと、制作にかけられる時間が短くなったこと、そしてそのコストを負担する専門外の利害関係者に対する言葉を中心としたプレゼンテーション技術が必要になったことが要因として挙げられるでしょう。こうして作品制作は計画 = 「何をつくるか考えること」と実装 = 「どうつくるかを検討し、手を動かす」ことへと切断され、言語化技術によって他者を巻き込む力の持ち主は、言葉にならない経験的知の担い手たる職人の上位に置かれることなりました。
こんな書き方をすると、エディターやプログラマーといた第三次産業における「ブルーカラー」的な立場に置かれているがゆえのルサンチマンのようでもあります。あながち否定はできないのですが。ただ、それ以上に計画と実装の切断によって構造的に見落とされてしまうボトムアップな面白さや豊かさに気づいてしまっている身として、コヤツらをどうにかすくい上げたい、気づいて欲しいという願いがあります。その映像作家としての実践が、お餅すべすべビデオを一人で作り上げることでした。
もちろん、従来的な分業には良い面もあります。こうした分業ゆえに、良いコンセプトの持ち主の能力は個人の限界を超えてスケールし、映画のようなメディア産業は発展しました。問題はバランスです。コンセプト・メイキングの担い手があまりに力を持ち、作品が言葉によって説明可能なアイディアやコンセプトといったレイヤーにおいてのみ語られることは、その下位にある構造を不可視化します。それはいわば「佇まい」や「質感」のようなものであり、それらの更に背後にあるのはプロトコルやアルゴリズムといった技術的基盤です。それらは下位システムであると同時に、アイディアやコンセプトについて逡巡するための言語のありようを、本人にも気づかれないうちに上位レベルから強く規定しています。話がフワっとしてしまいましたが、超・具体的な例を挙げれば、イメージではなく言語中心に映像を考えていると、映像的なリズムが「語感」に支配されてしまう。SVGやPDFといったベクターグラフィックの枠組みでデザインをしていると、造作への発想が「明瞭な輪郭を持つ形に対する線と塗り」に縛られてしまう。そしてメッシュ・グラデーション表現は思いもつかなくなる。とか、そういう話です。実装のプロセスが透明化されることによるそうした視野狭窄へのせめてもの抵抗として、既存の制作ツールを転用したりハックするという手法を試みてきました。

WWDC24: Create custom visual effects with SwiftUI | Apple
道具をつくる道具としての工作機械
本当は映像に限らず色んな作品を作っているのですが、この際、コマ撮り映像だけを紹介して終えようかと思います。これはViceのために作った、ちょっとしたキャッチ映像です。今はもう倒産してしまいましたね。
五輪とコロナ禍の間、東京から逃げるように北海道に移住していたころに、CNCフライス盤という、ドリルを数値制御して素材の塊から目的の形を削り出す工作機械を用いて作っています。3Dプリンターが溶けた樹脂を足し算していく技術だとしたら、フライス盤はその逆。引き算の技術ですね。フライス盤のほうがずっと歴史が古いのですが。

こうして視覚表現や技術的な面から「つくり方」について考えている立場として、「道具をつくるための道具」としての工作機械にはちょっとした親近感を憶えます。何より、エンドミル(≒ドリル)が数値制御に従って動いているところが、どこか健気でいじらしいんですよね。だけど、工作機械の価値というのはあくまでその出力物にあるわけで、出力するプロセスそのものの意外な面白さは、使い手からも見過ごされてきました。最近だと大規模なコマ撮り作品でも3Dプリンターが活用されるようになってきましたが、CGで作ったキャラクターの表情をお面として差し替えるために使われているに過ません。

Hollywood Innovations: Jason Lopes & Brian McLean talk 3D printing in entertainment
同じ工作機械を使った作品をつくるのであれば、切削するプロセスそのものをアニメーションとして魅せてみようじゃないか、というのがこの小品のコンセプトです。いや、「コンセプト」って言葉を使ってしまいましたが、全部後付けです。フライス盤を購入してしばらく、スタイロフォームからテストモデルを器用に削り出すさまがあまりに気持ちよく、YouTube配信でして自宅や外出先から四六時中眺めていた経験から着想を得たというのが、正直なところです。CAM [# (3Dモデルを削り出すためのエンドミルの計算するためのソフトウェア)] やGコード(工作機械を数値制御するためのテキストデータ) を上手くコントロールし、「ちょっと削っては撮影し、ちょっと削っては撮影し」を繰りながら撮影するシステムを構築しました。