Olia Lialina “Rich User Experience, UX and Desktopization of War” (Japanese translation)
This is a rough Japanese translation of Olia Lialina's essay ”Rich User Experience, UX and Desktopization of War
” (2015).
インターフェイスをただ覗き込むだけでは、それがどんなふうに私たちの見方そのものを形づくっているのかに気づけない。
ボルター、グロマラ『窓と鏡』
オリア・リアリナ & ドラガン・エスペンシード「リッチなユーザー体験」。『Web 2.0の諸要素とともに』(With Elements of Web 2.0、2006年)シリーズより
このエッセイは、2014年11月7日にベルリン芸術大学で行ったレクチャー『インターフェース批評』(Interface Critique)に基づいている。
RUE
わたしは1995年からウェブページを作っている。2000年には古いページをコレクションし始めた。2004年以降は、土着のウェブ文化(デジタル・コークロア)、ウェブや個人の成長、そしてHCIの発展における個人ホームページの意義についても執筆をしている。
だから、ティム・オライリーが「Web 2.0」という言葉を打ち出し、「リッチ・ユーザー・エクスペリエンス(RUE)の時代が始まった」と宣言したときのことを、わたしはよく覚えている。この流行語は、Macromedia1 が作った「リッチ・インターネット・アプリケーション(RIA)」という言葉に由来していて、それは文字どおり彼らの製品である Flash を指していた。オライリーの「RUE」の哲学も、元はかなり技術的なものだった。ユーザー体験の「リッチさ」というのは、Ajax、つまり非同期に読み込み・実行される JavaScript や XML によって達成されるというわけ。
ウェブはもっとダイナミックで、速く、「すごいもの」になるはずだった。なぜなら、これまでユーザーが自分で意識的にトリガーしていた多くの処理が、バックグラウンドで勝手に動くようになったからだ。送信ボタンを押す必要も、クリックする必要も、スクロールする必要さえなくなり、新しいページや検索結果、画像が、ひとりでに、シームレスに現れるようになった。「リッチ」とは「全自動魔法的」(automagic)という意味であり、まるでデスクトップソフトを使っているかのような体験が目指されていた。
ティム・オライリーは2005年9月のブログ投稿『Web 2.0って?』2のなかで、こう述べている。「いま、われわれはかつてないユーザーインターフェイス革新の時代に入ろうとしている。ウェブ開発者たちはようやく、ローカルなPCアプリケーションに匹敵するほどリッチなウェブアプリケーションを作れるようになったのだ。」3
でも、Web 2.0 は単に新しいスクリプトのテクニックの話には収まらなかった。それは、自動的にインターネットの一部になれるチャンスでもあったんだ。HTMLを覚える必要も、ドメインを取る必要も、なにもなかった。Web 2.0 は、自己表現やコミュニケーションのためにしつらえられたチャンネル、ホスティングや共有の仕組みを提供してくれた。もはや、自分のメッセージをどう伝えるか頭を悩ませる、情報アーキテクトやインターフェイスデザイナーである必要もない。つまり——もうウェブページを作る必要なんてなかったのだ。
『ホームページ』ジオシティーズ・リサーチ・インスティテュート所蔵(最終更新:1999年7月15日17時43分15秒)
当時のわたしには、「リッチ・ユーザー・エクスペリエンス」という言葉とは裏腹に、実際にはユーザー体験がどんどん貧しくなっていく現実は逆説的にも思えた。もうウェブ特有の行動とか、ウェブという存在そのもののを意識したりする必要がなくなっていたのだから。
当時のWeb 2.0は、ユーザー体験を軽視し、否定し続けた約7年間の集大成でもあった。ここでいう「体験」とは、ドイツ語で「瞬間的な体験」を表すErlebnis4じゃなく、「時間をかけて蓄積される経験」としてのErfahrungだ。結果として、素人ユーザーたちがつくったレイアウトやグラフィック、スクリプト、ツール、ソリューションは、文化的遺産とも、専門化するウェブ制作の中で価値ある要素や構造とも見なされなかった。
それゆえか、今どきのデザイナーたちは「レスポンシブ・デザインは2010年に発明された」と信じて疑わない。というか「言葉の発明」と「考えの発見」を取り違えている。実際には、レスポンシブ・デザインというアイディアは少なくとも1994年にはすでに存在していた。
そうした欠落は、「A Book Apart」シリーズの中でも好感の持てる一冊『感情のためにデザインする』が、「人から人へ」のプロジェクトをつくる方法を指南しながらも、ウェブの世界には「人が人に語りかけてきた」何十年もの豊かな歴史が存在していたことに一言も触れていないことにも繋がる。
「聞いてよ! 自分のドメインを取ったんだ!」――ジオシティーズを離れて新天地へ向かうユーザーは誇らしげに宣言する。
「ここにリンクしてくれた人は、リンク先を更新するよう伝えてくださいね!」
「ゲストブックに書き込みをしてくれたら、必ずお返事のEメールを送ります」――別のユーザーはそう書き残して、反応を求める。
これは感情のためのデザインというより、ゲーミフィケーションのはしりのような例かもしれない。それでも、いまのデザイナーたちが何よりもつくりたがっている「人と人との直接的なやりとり」は、すでにそこにあった。しかも、とても力強いかたちで。
ジオシティーズ・リサーチ・インスティテュート『おしっこマンは何におしっこをひっかけたのか?』(What Did Peeman Pee On?)インスタレーション、ヴュルテンベルギッシャー美術協会、2014年
数日前、わたしが所属するジオシティーズ・リサーチ・インスティテュートは『おしっこマンは何におしっこをひっかけたのか?』という問いに対する700例もの答えを調査した。おしっこマンは作者不詳のGIFアニメで、ジオシティーズの「男子ノリ」として幅広く参照されていた。スポーツチーム、バンド、政党みたいなものへの嫌悪や反感を表明するために使われていて、いうなれば「低評価ボタン」みたいなものだ。





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これは、感情を表したり態度を示したりするのに、とびきりイケてる方法というわけじゃない。それでも、いまわたしたちに残されているどんな機能よりもずっと面白くて、表現力にあふれていた。
まず第一に、いま(訳注:2014年当時)残っているのは「いいね」だけだったのに対し、これは「嫌い」を自発的に表明する手段だった。第二に、この表現は、どんな尺度や二項対立の外側にある。「嫌い」は「好き」の対義語ではないからだ。そして第三に——これはそもそも「ボタン」でも「機能」でもない。他の画像や言葉と組み合わせて初めて意味をもつ。そうした画像は、自分で作るか、どこかから見つけて集め、ページの中で文脈に合った場所へと配置する必要があった。しかも手作業で。
わたしがとりわけ関心をもっているのは、初期ウェブのアマチュアたちだ。なぜなら、あの時期のウェブこそが「デジタル革命」のひとつの到達点だったと、わたしは強く信じているからだ5。
最近起こっているいくつかの運動は、わたしの考えを裏付けている。ホームページ文化がふたたび戻ってきているのだ。しかも今回は、見た目のレベルではなく、構造のレベルで6。
- neocities.org: テンプレートを使わずにHTMLを自由に書ける無料サービス。
- tilde.club: 上に同じく、さらにURLが「どのシステムに属しているか」を示す表現となり、ウェブリングがハイパーリンクにおける自治の形を取り戻している。
- superglue.it: 「わたしのホームページへようこそ」(Welcome to my home page)という決まり文句をさらに推し進め、ホームページを文字通り自宅でホストするための仕組み
ひと月くらい前、わたしはロッテルダムのWORMで行われた superglue.it のローンチイベントで、登壇の機会があった。開始5分前、チームのメンバーたちは誰がステージに上がるかを相談していた。グラフィックデザイナーのひとりは、自分が登壇していいのか迷っていた。「わたし、アイコンしか作ってないから」と彼女が言うと、チームリーダーが励ますように返した。
「アイコンなんて呼んじゃだめ、『ユーザー体験』って言おう!」その言葉に、場の全員がどっと笑った。
体験デザインとユーザーイリュージョン
みんなが笑ったのは、今どき「ニュー・メディア・デザイン」界隈で働いていれば、この言葉を毎日、耳にし、目にし、自分でも口にするからだ。「リッチ・ユーザー・エクスペリエンス」は、一時は支持者や批判者を巻き込んで議論を巻き起こした言葉だったけど、結局はあまり普及しなかった。それは常に Web 2.0 というもっと派手な言葉の陰に隠れていた。
それに対して、「ユーザー・エクスペリエンス(UXD、UX、XD)」はまったく別の話だ。
ヒューマン・コンピュータ・インタラクション(HCI)領域におけるデザインの語彙は、黎明期からずっと膨れ上がっていたのに、ここ2年ほどでむしろ急速に縮小している。
入力と出力、仮想と拡張、フォーカスとコンテクスト、フロントエンドとバックエンド、フォーム、メニュー、アイコン……。そうしたものはすべて、いまでは「体験」の一部になってしまった。
たった1年前までウェブやインターフェイスのソリューションを提供していたデザイナーや企業は、いまやこぞって「UX」に専念している。かつての大学のメディアデザイン学科も、次々と「ユーザー・エクスペリエンス学科」に名前を変えている。報道記事やカンファレンスのチラシなんかでも、「インターフェイス」という言葉は「体験」に置き換えられている。この前、あるウェブ出版会社から新プロダクトの宣伝メールが届いた。そこでは WYSIWYG が「完璧なドラッグ&ドロップ体験」と言い換えられていた。7
出典:エリザベス・ベーコン『UXを定義する』(Defining UX、Devise Consulting、2014年1月28日)
UX(ユーザー体験)は新しいものじゃない。1993年、ドン・ノーマンがアップルの研究部門の責任者になったときにこの言葉を造った。彼はこう言っている。「私はこの言葉を発明したのは、 ヒューマン・インターフェースとユーザビリティが指し示す意味が狭すぎると思ったからだ。私はシステムとその人とのあらゆる経験的な側面をカバーしたかった。工業デザイン、グラフィックス、インターフェイス、物理的インタラクション、マニュアルを含めて。」8
2007年に彼はこのことを振り返り、こう付け加えている。「それからというものの、この言葉はあまりにも広く使われるようになって、意味を失いはじめている。」ほかの提唱者9たちも、同じような不満をずっとこぼしてきた。自分を「体験デザイナー」と名乗る者の多くが、実際にはその実践をしていない、と。
これも確かに世の常ではある。言葉は生まれ、広まり、変化し、やがて慣用句になる。年長世代は若い世代に不満を抱く。その繰り返し。わたしがここで言いたいのは、「本物」と「偽物」のUXデザイナーを区別したいからではない。
ここのところ「ユーザー体験」という名のもとに語られているデザイン手法に、わたしは懸念をもっている。それは「見えないコンピューター」(Invisible Computing)というイデオロギーに、あまりにも都合よく奉仕してしまうからだ。『チューリング完全ユーザー』10でも述べたように、「体験」という言葉は、HCIの主要な担い手を指す三つの語のうちのひとつである。
| HCI | UX |
|---|---|
| コンピューター | テクノロジー |
| インターフェース | 体験 |
| ユーザー | 人々 |
「体験」という言葉の役割は、システムのプログラミングやカスタマイズへの可能性を隠蔽し、ユーザーの操作をできるだけ減らし、特定の方向へ導くことにある。
「ユーザーイリュージョン」(User illusion)は、Xerox PARCの時代、つまりインターフェイス・デザインという職業が生まれた最初期からの基本原理だった。彼ら彼女らは、紙やフォルダ、ウィンドウといった幻想をつくり出していることを、よく自覚していた。UXが次に目指すのは、それらに続く新しいイリュージョン――媒介物の存在を感じさせない、自然な空間の幻想だ11。
UXはまた、ムーアの法則の綻びを覆い隠してくれる。コンピュータがまだ思ったほど小さくならないとき、それを頭の中で「小さく見せる」手助けをしてくれる。UXは、AIが失敗したときの気まずい瞬間を取りもつ役割も果たしてくれる。それは「ユーザーイリュージョン」をさらに推し進め、ユーザーに、そこにはもはやコンピュータも、アルゴリズムも、入力も存在しないんだって信じ込ませる。そのために、ユーザーが望むものへ最短で到達できる経路を用意し、ユーザー自身の行動をプログラミング12し、さらに視覚・聴覚・美的なレベルで、コンピュータを感じさせないよう演出するのだ。
フィリップス社の「ウェイクアップ・ライト」は、体験デザインとは何かを説明するときによく引き合いに出される象徴的なプロダクトだ。それは見た目のデザインでも、操作の仕方でもなく、その装置が生み出す「日の出」という効果こそが本質だとされる。
日の出は、自然で、荘厳な現象だ。ピクセルで作られた人工的なコンピュータ・エフェクト、たとえば映画『マトリックス』のあの発光する記号の雨とは対照的に。なぜなら、体験が体験たりえるためには、それが「自然」でなければならないからだ。
スプーンなんて無いんだ。ランプなんてものも無いんだ。13
出典:フィリップスの「Wake-up Light」プロモーション画像(2010年、Amazonより引用)
ドン・ノーマン自身は、いつも慎重そうにこの領域について語る。「私たちは経験へといざなう『アフォーダンス』をデザインすることはできる。だが最終的にその経験を得るかどうかは、製品を使う人々次第だ」14と。そのとおりだと思う。けどアフォーダンスというのは、ユーザーの行動を最短経路へと導くために設計されるものだ。つまり、実のところそれは「人々」次第ではなく、むしろ、「デザイナー」次第なんだ。
体験デザインのもっとも説得力ある提唱者のひとり、マーク・ハッセンザールは明言している。「我々は必然的にプロダクトを通じて行動し、物語が語られる。しかしその物語をつくり、かたちづくるのはプロダクトそのものである。デザイナーは『経験を体現する者』ではなく、『経験を創り出す著者』となるのだ。」14
これにはわたしも同意だ。「体験」は、形づくられ、演出され、構成される。そしてそれはいたるところで起きている。
たとえば Vine では、他のユーザーの動画にコメントするとき、空欄の入力フォームが表示されるわけじゃない。そこにはすでに「何かナイスことを書き込んで」(say something nice)というプレースホルダーが表示されており、あなたはそれを上書きして投稿する。
vine.co のスクリーンショット。2015年1月2日キャプチャ
Tumblr の「このウィンドウを閉じる」ボタンは「あ〜はいはい(笑)」っていう感じに様変わりしている。わたしがそれをクリックするたび、UX専門家の説教の声が聞こえるような気がする。「ユーザーにただウィンドウを閉じさせるな。『ウィンドウ』も『キャンセル』も『OK』も存在しないんだ。ユーザー人々は新しい機能を歓迎すべきで、アップデートのたびに心地よさを経験すべきなんだ!」
tumblr.com のスクリーンショット。2014年12月28日キャプチャ。
ニールセン・ノーマン・グループ15はこう定義している。「ユーザー・エクスペリエンス・デザイン(UXD または UED)とは、ユーザーとプロダクトのあいだのインタラクションにおいて、使いやすさと扱いやすさ、そして心地よさを改善することで、ユーザーの満足度を高めるプロセスである。16」
こうした体験は、視覚レベルにおいても巧妙に画策することができる。最近のウェブデザインではビデオ背景が完全に手慣れた手法になっている。Airbnb のようなサービスの奥行き、幅広さ、そしてパワーを感じさせ、あたかもそこにいるかような、本物の体験へとあなたを誘う。構造レベルでの体験デザインの例としては、Facebook が3年前、日常のコミュニケーションのためのツールを「人生の物語を語る」ためのツールへと変えてしまった、あの「タイムライン」機能がある。
Siri が人間の声を手に入れたとき、あなたは「自分の声が聞かれている」という感覚を経験する。そしてこの声が、どんな状況でも落ち着いたままであるとき、あなたは「究極の体験」を味わうことになる。(実際に起きていることといえば、Siri がわたしたちの言ってることを全然理解してない、ただそれだけなんだけど、それでも彼女は落ち着きはらっている!)
世界でいちばん売れた「愛されるロボット」であるパロ17を抱いたとき、あなたは「自分は必要とされている」「愛されている」という感覚を経験する。なぜなら、パロは大きな目で、あなたの目を見つめ返してくれるし、やわらかな毛皮をモフモフすることもできるからだ。でも、ただ賢いアルゴリズムにそれっぽい外見と振る舞いだけでは、人間は「製造物としてのプログラム可能なシステム」の消費者なんだという感覚からは逃れられない。
AI批評家のシェリー・タークルは、わたしたちは機械の「究極的な無関心18」と向き合い、それを受け入れなければならない、と警告する。けれど今日のUXデザイナーたちは、体験のなかに隙間が生まれないよう、ユーザー側の行動そのものをプログラミングする方法を知っている。このスペクタクルから抜け出す道はない。パロがバッテリー切れになったら、赤ちゃんの乳首型のプラグを口に差し込んで充電しなければならない。この尊い生きものを所有する者は、ただの「毛むくじゃらのセンサーのサンドイッチ」がそこに置かれているだけのときでさえ、生命を繋ぐことを経験させられるのだ。
出典:PARO Robots、ROBO_JAPAN 2008
こうしたアプローチは、スクリーン上で現実空間上でも、すばらしい製品を生み出す。でも、同時に人を疎外する。ロボティクスは、人間型でない限り、コンピュータに恋する可能性を許さない。体験デザインは、コンピューターをコンピューターとして、インターフェイスをインターフェイスとして考えたり評価したりすることを妨害する。それは、わたしたちを無力にしてしまう。わたしたちは、自分自身を語る能力を失う。そして――もう少し実利的なレベルで言えば――もはや「パーソナル・コンピューター」を使いこなせなくなるんだ。
わたしたちはもう「セーブ」の仕方すらおぼつかず、「削除」はどうすればいいのかまったく分からない。「アンドゥ」さえできないんだ。
「アンドゥ」は、開発者からユーザーへの贈りものだった。プログラム可能なシステムだけが提供できた贅沢だ。それは Xerox が最初のGUIをつくったとき19、日常の贅沢になり、デスクトップOSの標準になった。状況が変わるのは、スマートフォンの登場以降だ。Android にも Windows Phone にも BlackBerry にも、CTRL+Z に相当するアプリを問わず使えるアンドゥ機能は存在しない。iPhone にいたっては、あの恥ずかしい「シェイクで取り消し」だ。
これらのデバイス開発者たちは、いったい何を根拠にこうした判断をしたのだろう。
理由はこんな感じだと、彼らは言うのだろう。きれいなタッチスクリーン上には、アンドゥボタンを置く余白なんてない。ユーザーはアプリ側のロジックが敷いた正確な道筋に沿って進むべきで、どうせどこかには辿り着くのだから、アンドゥなんて要らない。そもそも「体験」があまりにもスムーズなんだから、その機能の必要性すら感じないはずだ——そういう売り文句だ。
わたしたちはそれを信じて、あきらめるべきなんだろうか? いや、そんなことはない!
アンドゥのことを気にすべき理由は少なくとも3つある。
- アンドゥは、ごく少数の汎用(=愚鈍)なコマンドのひとつだ。それはユーザーのやっていることに首をつっこまず、ただ「慣習」に従うコマンドだ。
- アンドゥには歴史的な意味がある。それは、コンピュータが「自分でプログラムを書かない人」に使われはじめた時代――リアルユーザー20、あるいは素朴なユーザーが現れた時代――の到来を示している。この機能が最初に言及されたのは IBM の研究報告『対話型システムのユーザー行動に関する課題21』(Behavioral Issues in the Use of Interactive Systems)だ。そこでは、未来のユーザーにアンドゥを提供する必要性がこう書かれている。
コマンドを引き下げる能力がある(そして、「ある」と知っている)ことは、ユーザーにとって非常に重要になり得る(例:「何か間違ったことをしてしまうのでは」と不安を抱く初心者が感じる、あの鋭いストレスを和らげる)。
- アンドゥの存在は、「仮想」と「現実」とを区別する。現実空間ではアンドゥできない。アンドゥできないということは、そこが現実空間かAndroid上であることを意味する。
コマンド、ショートカット、クリックやダブルクリック……そんなの大したことじゃない? 「体験」なんかじゃない?
じゃあ、このスーパーカット(訳注:複数の短いクリップをまとめたインターネット動画のこと)をちょっと眺めてみてほしい。
訳注:YouTubeに再アップしたので、字幕を頼りに観て頂けたらと思います。
0:00 スウェーデンの歌手、サンナ・ニールセンによる楽曲『アンドゥ』のステージパフォーマンス。
Undo my sad —— わたしの悲しみを取り消して
Undo what hurt so bad —— あんなに苦しかった痛みを取り消して
Undo my pain —— わたしの痛みを取り消して
Gonna get out, through the rain —— この雨の中から抜け出すの
I know that I am over you —— わたしはもう、あなたを乗り越えた
At last I know what I should do —— やっと、どうすべきか分かった
Undo my sad. —— わたしの悲しみを取り消して
0:29 iPadでアンドゥの仕方を実演するチュートリアル。
2:40 2008年、Adaptive Path社協賛のイベントに登壇したドン・ノーマンが「私は『ユーザー』ではなく『人々』という言葉を選びたい」と語るシーン。
3:02 1999年の映画『リストラ・マン』(Office Space)で有名な、プリンターを破壊する一シーン。
4:16 ガーディアン編集部が米国政府の命令を受け、エドワード・スノーデンの流出データを格納したコンピューターを物理的に破壊する報道ビデオ。
これが、わたしたち、つまり「人々」。かつて「ユーザー」と呼ばれていた人間の姿だ。たった1〜2語を消すために「魔法のガラス板」を必死に振り回し、「あんなに苦しかった痛みを取り消して22」と天に向かって叫び、ソフトウェアでしくじった腹いせに、ハードウェアを叩きつける。そんな、わたしたちだ。
わたしたちは「体験」のために、「自然なインタラクション」という、疑わしい快適さのために、自分たちの最後の権利と自由を手放している。けれど自然なインタラクションなんてものは存在しない。「見えないコンピューター」なんてものも存在しない。あるのは「隠されたコンピューター」だけだ。それはいつか、ガーディアン誌のあの逸話のように、パーソナルコンピューターの内臓がむき出しになる瞬間まで。
2013年8月、ガーディアン誌は「スノーデンのファイルが保存されているコンピューターを破壊せよ」という命令を受けた。大手メディアには、破壊されたコンピューター部品の生々しい写真が出回り、記者たちがドライブやチップを物理的に破砕する映像が流れ、編集長はテレビでこう言った。「コンピューターを叩き壊すって、思ってるよりずっと難しいんだよ」。けど、これを現実として受け止めるのは、もっと難しい。
政府機関にとって、ハードウェアの破壊は日常業務だ。やつらの視点では、データを保持している媒体が物理的に消滅した時点で、「削除」は完全に処理されたと見なされる。「ゴミ箱を空にする」なんて機能を信用するほど愚かじゃない。もちろん今回の場合、その破壊には実際はまったく意味がなかった。問題のファイルのコピーは別の場所にも存在していたんだから。それでもこれは、ユーザーに残された最後の手段を象徴している。つまり、ユーザーが自分のシステムに対して最後に持ち得る力とは、ハードウェアレベルへのアクセス——すなわち破壊なんだ。ソフトウェアのレベルでは、自分が何をしているのかへの確信はどんどん失われていく。だから、何かを本当に消し去りたいと思ったとき、人はすすんでハードドライブを破壊したくなるものだ。
出典:フランク・ダ・クルーズ『ENIACをプログラミングする』(Programming the ENIAC、2003年)
1945年の史上初のコンピューター ENIAC の写真を見れば、そこには、タスクが変わるたびに配線し直し、組み替え、複数人でメンテナンスする姿が写っている。ENIAC は、ソフトウェアが存在しなかったからこそ、ハードウェアのレベルで操作されていた。歴史は繰り返すのだろうか?
出典:Protodojo『RoboTouch iPad Controller』、2011年8月21日
2011年、ENIAC から66年後。ProtoDojo は、ヴィンテージのファミコンコントローラーで iPad を操作する「ハック」を披露して、称賛を浴びた。その達成方法は、ファミコンコントローラージョイパッドで制御される人工の指をつくり、それで iPad の表面をタッチさせる、というものだった。つまり、iPad のソフトウェアには一切手を触れられないので、外側のハードウェアを改造するしかなかったのだ。
体験デザインの新しい勝利がひとつ積み上がるたびに、つまり「物語る」新しい製品が出るたびに、「顧客の正確なニーズ」を手間なく満たすインターフェイスが1つ増えるたびに、人間とパーソナルコンピューターのあいだの距離は広がっていく。
体験デザインの翌朝に残るのは、インターフェイスのない、使い捨てのハードウェア。個人用ハードディスク・シュレッダー。機械的手段による原始的なカスタマイズ。配線のやり直し。組み直し。穴あけ。削除するために。ログアウトするために。「オフラインで閲覧」するために。
とはいいつつも、ひとつ付け加えておきたい。HCIデザイナーはとてつもない権力を持っているのに、そのことに自覚的じゃないことが多い。インターフェイスを設計している人の多くは、インターフェイスデザインを学んだことがないし、学んだ人の多くはその歴史を学んでいない。アラン・ケイが「ユーザーイリュージョン」を作り出すことについて書いた文章を読んだこともなく、このパラダイムを問い直すこともなく、自分の決定をそうした文脈で振り返ることもしていない。そしてこれはインターフェイスデザイナーだけが教育されるべきという話ではない。そもそも「どこまでのタスクがデザイナーへ委譲されうるのか」自体を議論し問い直すべきだ。彼らの責務の境界はどこにあるんだろうか。
戦闘ストレスと「戦争のデスクトップ化」
マイケル・シューメーカー『MQ-9 Reaper 訓練ミッション、ホロマン空軍基地の地上管制ステーションにて』、ニューメキシコ州、2012年
2013年、スコット・フィッツシモンズ博士と修士卒のカリーナ・サンガは『高画質のなかで殺害する』(Killing in High Definition)という論文を発表した。そこで彼らは、武装ドローンの操縦者たちが抱える戦闘ストレスの問題を提起し、その軽減策を提案した。そのひとつが「トラウマ的な映像を隠す」ことだった。
人間を標的とする空爆の実行にともなって、ドローン操縦者がストレス源になりうるトラウマ映像にさらされるのを減らすためには、アメリカ空軍は、操縦者のバーチャル・コックピット上のセンサー映像ディスプレイに、視覚的なオーバーレイを組み込むべきだ。このオーバーレイはリアルタイム処理によって、空爆で傷つく人間の姿を、スプライト画像やほかの単純なグラフィックで画面上から覆い隠す。つまり人間性を抜き落とした見た目に変換することで、操縦者が自分の武器の結果を見てしまい、その視覚記憶に悩まされ続けるのを防ぐのである。
わたしは自分のインターフェイスデザインの授業で、この論文を学生に読ませた。そしてこのマスキングとはどういうものになり得るか、想像してみてほしいと頼んだ。最初、こういう方向のことについて考えること自体に、みんな躊躇があった。だが最初のラフ案は、だいたいゲームの『ザ・シムズ』を連想させるものになった。


もちろん、この論文の著者たちが無知だったり悪意があるわけではない。引用した段落のすぐ下で、彼ら/彼女ら自身こう書いている。自分たちのアイデアは、いわゆる PlayStation メンタリティ(ゲーム感覚で戦争をやるメンタリティ)の擁護として読まれうる、と。そしてドローン操縦者は、殺すための人為的な動機づけなど必要としていないし、彼らは自分が何をしているか理解していると。つまり、戦争をゲーミフィケーションする必要なんてない。より多く殺すためではなく、任務を終えたあとに、彼らが平気でいられるようにするための話なのだ。
この論文にみられるような、精神医療上の大きな課題をインターフェースのレベルで解決せよ呼びかけるその姿勢は、わたしにはHCIをまったく別のものとして見せた。
ウェブの登場以来、新しいメディア理論家たちは「集約」という概念に興奮してきた。つまり同じインターフェースを使って買い物もできるし、おしゃべりもできるし、映画も観られるし……ここにさらに「武器を発射することもできる」と今のわたしなら付け足すだろう。もちろん厳密にはそうじゃない。ドローン操縦者は異なるインターフェースや専用の入力デバイスを使っている。でも、上の図版のように、彼らは家庭やオフィスでわたしたちが使っているものと同じOSを同じモニター上で使っている。しかし問題はそこじゃない。こうした「集約」がもっと怖いのは、同一のインターフェースで、ナビゲートし、「殺す」と同時にPTSDを「癒やす」ことにある。
(訳注:精神科医のケネス・)コルビーが、Elizaチャットボットを実際の精神医療に使おうとした計画に対して、(訳注:Elizaの開発者であるジョセフ・)ワイゼンバウムが激怒したのを思い出してほしい。彼はこう書いた。「患者を治療しているときに、たったひとつの面談テクニックを機械的にパロディ化しただけのものを、人間的な出会いの本質を捉えたと考えてしまう精神科医は、いったい自分が何をしていると思っているのか。23」ワイゼンバウムは「より良いソフトウェアで患者を治療しよう」と求めたのではない。そもそもそうしたタスクにアルゴリズムを使うという発想そのものを拒絶したのだ。それは技術やデザインの問題ではなく倫理の問題だ。ちょうど、トラウマ的な映像をマスキングするというこの話題がそうであるように。
関連分野の最近の進歩を考えると、技術レベルではすでにすべてが揃っている。コンピューターのディスプレイは照準器として機能しうるし、同時に心理療法士のコーチとしても振る舞えるのだ。



- PTSDをVRで治療するテストはすでにあって、効果が出ているという研究報告もある。つまりVRには治癒能力があると信じられている24。(中段)
- ゲームやモバイルアプリの世界には、現実世界をリアルタイムに生成された世界で拡張できることを示すAR技術の例は山ほどある25。(上段)
- 空港のボディースキャナーの例のように、リアル、というか「リアルすぎる」映像を単純化して見せるための知見もすでに蓄積されている26。(下段左)
- そして最後に、Google マップ上で物体や情報や人をマスクするという試みについては、すでにだいたい7年の伝統がある。ここではマスキング技術を「ありふれたものに感じさせる」(banalization)という問題が立ち上がってくる。たとえば軍事基地を隠すために、Google のデザイナーたちは「水晶」フィルターを使うが、それは誰でも知っていて使えるフィルターだ。なぜならそれは、あらゆる画像処理ソフトにデフォルトで入っているフィルターだからだ。つまりマスキングという行為は、政治的・倫理的な問いを喚起する行為としては見えず、Photoshop 上でのただのワンクリックに見えてしまうのだ27。(下段右)
これらの前提条件、とくに最後のものは、戦争のゲーミフィケーションよりもっと危険なことが起こり得るとわたしに思わせた。名付けて、ゲーミフィケーション(gamification)ならぬ戦争のデスクトップ化(desktopization)だ。(それはすでに、一般的な民生PCハードウェアや馴染みのあるコンシューマーOSのレベルには到達している。)それは、UXデザイナーが、パイロットに向けてインターフェイスを提供するときに起こりうる。パーソナルコンピューター上でタスクを片付ける、あの「物語」を完結させるようなインターフェイスを提供することで、パイロットに「自分は兵士ではなくパーソナルコンピューターのユーザーだ」と感じさせてしまう。直接操作による古典的なUIをリアルタイムのトラウマ映像と合成し、照準器を選択ツールに置き換え、人々を「消しゴムツール」や「スクロール」の対象として扱い、死体を水晶フィルターで処理したり、画像のリンク切れアイコンに置き換えたり、任務完了時にスクリーンセーバーを起動させる、といったことによって。
わたしたちは、他人がこの方向で考えを推し進めないようにという願いをこめて、こんな草案をつくった。

(左)Madeleine Sterr『消しゴムツール』、(右)Monique Baier『スクリーンセーバー』
拡張現実を仮想現実にしてはいけない。技術的にも概念的にも、インタラクション設計者は普通このルールに従っている。しかし照準器の話になると、これはもはや倫理の問題にしなければならない。
UXデザイナーは照準器のための「体験」を提供してはいけない。ユーザーイリュージョンも、軍事作戦のために「ユーザーであることの幻想」を作ることもあってはならない。戦争のデスクトップ化は起きてはならない。自分たちが担う役割と、導入しようとしているシステムというものを、今一度はっきりした言葉で表そう。
| 戦争 | HCI | UX |
|---|---|---|
| 銃 | コンピューター | テクノロジー |
| 照準器 | インターフェース | 体験 |
| 兵士 | ユーザー | 人々 |
わたしは毎日、RUE以前の古いホームページを大量に見ている。そしてそこには、ストレスを吐き出すために作られたページが確かに存在する。作者が誰にも言えないことを、サイバースペースに向けて共有するためのページ。なかには、心理療法士の助言を受けて作られたと書かれているものもある。そういうページは、いろんな背景を持つ人々によって作られていて、その中には退役軍人も含まれている。ホームページ制作が、戦闘ストレスを和らげるのに本当に役に立ったのかどうか、統計はない。けれどもわたしはどうしても想像してしまう。ドローン操縦者が夜、家に帰ってきて、フリー素材のコレクションの中から peeman.gif を探し、そしてホームページを作る姿を。
とあるホームページ。2008年9月11日 4:47:08最終更新。ジオシティーズ・リサーチ・インスティテュート所蔵。音声つき動画バージョン(訳注:Vine サ終のためリンク切れ)
もちろん、彼らには、もっと他に、おしっこをひっかけるべき本物のアイコンがあるはずだ。そして、何がなんでも、自分たちの物語を語り、経験を共有し、他の兵士のページへリンクすべきなんだ。
オリア・リアリナ、2015年1月