橋本 麦∿Baku Hashimoto

知識

知的好奇心はきっかけにしか過ぎないと思います。
それこそが学問の本質でありモチベーションだ、
という人がいます。
基礎科学のような分野は例外かもしれませんが
知的好奇心のみに突き動かされて
知識を吸収するのではいま一つ足りないと思うのです。

知識は大きく二つの面で役に立ちます。
「自分の身になる」ことと
「他人に貢献する」こと。
経済用語を知り、ニュースをより深く理解できることは
前者。
それを子どもにも分かりやすく解説できるのは
後者にあたります。
知的好奇心から知識を得る、ということは
確かに自分の「知りたい」という欲求を満たすことが出来ますし
自分の日常体験もより豊かになりますが
一方でそれを誰かの役に立てるという意識の欠如をもたらすと思います。

個人の持っている能力って
それが他者に還元されて初めて評価されます。
もちろん評価が全てではありませんし
知識を蓄えること自体は依然として素晴らしいことには変わりありません。
ただ、自分の為だけの知識を身につけるばかりで
「僕はいろんなコトを知っているんだ」
という自尊心だけが膨れ上がっていく。
それをアウトプットしようともせずに
周囲から真っ当な評価が得られないことを嘆き、
或いはその自尊心から他人を蔑視するようになる。
そんな負のスパイラルに陥るべきではないと思うのです。

言い過ぎのようにも思えますが
こういう人って実際にいます。
僕もこのタイプです。
自覚してからは大分治ってきたと思っていますが…。

知識は価値そのものではありません。
知識を得ることは、価値を生み出す可能性を手にすることに過ぎません。
だから、勉強するにつけても
「自分は学んだ」という安心感に浸ること無く
そこから何を生み出していくかを常々考えていくようにしたいと思っています。
頑張ります。

未来

テクノロジーが発達した未来。
って言うけど、僕はそれこそアップルシードやベクシルみたいな世界は来ないで欲しいです。
廃れた世界だから、じゃなくて、
空中に投影される電子キーボード、
訳の分からない文字が飛び回るヘッドアップディスプレイ、
テクノロジーそのものが全面に押し出されたツール群に
囲まれながら暮らすのは御免です。

僕は、テクノロジーが発達するからこそ
製品は使い手にその内部構造が完璧に隠蔽された、
ユーザーフレンドリーなものになるべきだと思います。
専門的なことは一部の技術者だけが気に留めておけばいい。

ByteやHard Disk Driveという概念や存在が忘れ去られ、
それぞれ体積とそれを収納するボックスというメタファーに置き換えられる。
パソコンにくっつけたボックスにファイル容量に比例した体積の物体が
ころころと流れこんでいく。

複数ボタンのマウスや、ポインタという現実には不自然な概念がなくなって
iOSのような直感的で、
さらにディスプレイから触覚でフィードバックされるタッチスクリーンが普及する。

テクノロジーという区分けでこれまで成立してきた
「家電」というカテゴリーが無くなって
家電量販店も消え去る。
製品が、その本来の機能に適った場所で買えるようになる。
電子書籍リーダーは、書店でブックカバーの隣に売られることになるし、
音楽プレーヤーはタワレコに当たり前の様に陳列される。

来るなら、こんな未来がいいです。

テレビ

最近はくだらない番組が増えてきたとボヤく大人がいます。
僕もそう思います。
それは僕の感覚が変わってきたからなのか
本当にそういった番組が増えているのか
実際の所なんとも言えません。

ただ
くだらない番組ってなんだろね
って考えると、
これまた難しい問題です。
「くだらない」の閾値は人それぞれであって
絶対的な基準なんてものはないからです。
くだらない番組がダメだという大人は
くだらない事そのものを否定しているのではなくて
単にその年代にとって
くだらない上に理解できない(=つまらない)だけなのだと思います。

結局自分の価値観のもとに
番組を高尚か低俗か判断する事自体が傲慢な気がします。
年末のガキ使をくだらないと一蹴するおじいちゃんも
若い頃は『8時だョ!全員集合』を観てゲラゲラ笑っていたのかもしれない。
そしておじいちゃんのおじいちゃんは同じように
くだらないと一蹴していたりして。
価値観なんて相対的なものだから
迷惑を被らない限り、人の価値観に干渉してはいけない。
ただ大切なのは、多様な価値観を持った人たちのニーズに
幅広く応えうる環境を残すこと。
それはテレビで言うと、番組の多様性に当たります。
だから、くだらない番組を頭ごなしに否定することは
決して正しいことではなく、
問題は
くだらない(とされている)番組の増加が
テレビ全体の多様性を損ねていることなのだと、そう思います。

まぁまぁな才能

恥ずかしながら、自分にはまぁまぁの才能があると思っちゃってます。
はい、あくまでも「まぁまぁ」です。
それも、絵が巧いだとか数学ができるとか
そんな主流なものではありません。
まぁまぁ飲み込みが速くて
まぁまぁ観察力があって
とんでもなく理屈っぽくて
ほんの少し芸術肌。
結果それなりに、「らしい」ものが作れる。
こんな所だと自己分析しています。

ただ、世の中で活躍する人たちの抜きん出た才能と
僕のまぁまぁな才能にはどれくらいの開きがあるのか、
さらには自分はどの程度の「まぁまぁ」なのか、
今の環境ではイマイチわかりません。

だから僕にとって美大にいくということは
自分の才能がどれくらい通用するかということを
より客観的に知る一つのきっかけです。

知りたいけれど、少し怖くもあり。
わくわくどきどき

携帯の方が

僕は話題を広げすぎて言いたいことがあやふやになるクセがあります。
パソコンだと、思ったことを素早く書けるために
どうしても長文になってしまうのです。

最近、携帯のブログっていいなと感じています。
というのは、携帯の入力はキーボードに比べ遅いので
鉛筆を使うように、じっくり考えながら書けるということ、
そして画面サイズ的に、文章が必然的に短くなること。

いいなぁ。

良い文章

飾らないけど良い文章が書きたいです。

読んだ話では、
金子みすゞさんは『葉』と『はっぱ』をも使い分けるそうです。
だけど、思いを伝える媒体としての言葉を考えたときに
文字の綴りの違いなんて重要ではないと思うんです。

僕は多くの形容詞や専門用語、粋な言い回しで飾り立てられた文章
イコール良い文章だとは思いません。
もちろん技巧をこらすことはより文章の格調を高め
説得力を増す効果がありますが、
そういったものをすべて平易な言葉に書きなおして
なおも伝わる文章こそが、本当に良い文章だって言えると思うんです。

つまりはファッションではなく肉体美で勝負したいのです。(笑)

持論

滑稽でも、必死に自分の意見を言う人を冷笑するほどつまらないことはないと思います。

僕はこうやって高校生なりの持論をさらけ出しいますが、この記事を、もし仮にその道のプロが読んだらどう思うだろうと戦々恐々としています。まぁまず見られるワケがないのですが…(^^;)

ただ最近になって、まずはアウトプットしなきゃ始まらんと思ったんです。どんなに幼稚でも浅はかでも、それを見透かされることを恐れて意見を言わない人に向上なんて見込めないのだと。

残念ながら僕の学校では、授業中などに積極的に発言する人は「空気が読めない」として仲間はずれにされがちです。だけどそうやってウザがられる人のほうが、それを内輪で嘲笑してつるんでいる連中よりずっとオモシロいはずです。

僕もかつてはその連中の一員でした。だけど今振り返れば、あの行動には嫉妬も絡んでいたのかなと感じています。からかっちゃった人、ごめんなさいm(_ _)m

どう頑張ったってプロの意見にはかないっこないんです。それを理解した上で、身分をわきまえて謙虚に意見を述べることこそが、自分の思想をより高めていく一番の近道なのではと思います。

どうせならモラトリアム期間のうちに試行錯誤したほうがいいでしょ、と自分に言い聞かせながら。
精進します!

調書

調書に四苦八苦しています。
「リーダーとして集団をある方向へ導く際のアイディアや学んだ事を書きなさい」
という趣旨です。
僕は映像に関わる部活のリーダーを務めたし
自分ならではの内容も書けたのではと最初は満足していましたが
先生の反応はそう芳しくない。
「調書は作文ではない。」
という感想の意味も初めはよく分かりませんでした。

さっき父にもその文章を見せました。
その時に
「お前みたいな年の高校生にありがちなのが、
文を修飾しすぎて『だから何なの』が見えてこないことだ。」
と一言。
なるほどなぁと思いました。

以前までの「上手い文章を書く」ことに関するエントリは
そのほとんどが文章の表面上の体裁の整えかたについてでした。
ただ「そういうよけいな言葉を削っていくことで、
文は凄くスマートになるし良い文章になってくることがある。」
という父の言葉からも
(レポートとして)良い文章は簡潔で論理性に優れているのだと感じました。
別に「心に誓ったのです」的な回りくどい言い方をしなくても
ありきたりな表現を巧みに組み合わせることが大切なのだなぁ。

あ、そう意識すれば文章は案外短くなるんだ。

精進します。

読書感想文を書く力

昔から読書感想文が嫌いでした。というのも何を書けばいいか分からないから。

高校生になってからというもの、大して興味のない話題についてそれなりの文章を書ききる機会が増えたと思います。「羅生門を読んで思った事」とか「校内活動で心がけた事」とか。

凄く困ります。何を書けばいいのかって。で、気付いたんです。この感覚、読書感想文を書くときと似ていないかって。何処かの記事で読んだのですが、大人になって求められる意外な能力の一つに「与えられたテーマについて短時間で文章をまとめる力」があるそうです。ああ、読書感想文ってその為の一つの訓練だったんだなと。

以前まで「何を書けば良いか分からない」というのは「書くべき感想がない」と同値だと考えていました。だけど、最近になってそれは間違いだと気付いたんです。正しくは「思っていることを感想文という段階にまで具体化出来ない」。

なにか本を読みます。どんな人であれ、何かかしら思う所があるはずです。「面白かった」「切なかった」。だけど、下手な人はそのステップで踏みとどまってしまう。素敵な文章を書く人は、なにか特別な視点をもってして書物に触れているわけではないと思うんです。大勢と同じく面白かった、切なかったと感じる。だけどその先、「なぜそう思ったのか」を徹底して考えられる。そこには自分のルーツが絡んでいるかもしれないし或は文章中の特定の描写に心惹かれるものがあったからかもしれません。そして素直に思ったことをパズルの様に整理して原稿用紙という型にはめ込んでいく。勿論建前で奇麗事を書く事はあっても、それだけ100%で文章を埋める事はないはずです。

読書感想文は読み物に対する感想ではなくて、読む事で動かされた自分の心の観察日記なんだと思えばいい。僕は最近になってその事を強く実感しています。それに限らず身の回りで文章を書く機会があったとき無から文書を紡ぎ出すのではなくまずは自分の素直な想いに目を向けその想いの「なぜ」を遡ってみる。良い文章を書く上で、この事って凄く大切だと思いました。

言い訳

小1の頃とてつもなく大きく映った6年生は
中学生にとってはカギだ。
そんな中学生も、
高校生の僕からは子供。
今、自分自身のことを
それなりにイデオロギーも持っていて
大人に張り合えるのではと思う時もあるけれども、
そんな認識は
中二病の当事者が、自分の滑稽さに気付かないように、
所詮は尊大な妄想にしか過ぎないのだろう。
とマジになって書いているこういう記事すら
何年後かには一笑に付す存在でしかないのかもしれない。

真面目な話、
僕の今の考え方や行動が
大人の目にはどう映っているのかを正直に知りたい。