橋本 麦∿Baku Hashimoto

Tenet 雑感(ネタバレ)

ネタバレ


ようやく観てきた。これは確かに頭の中にファイマン・ダイアグラムのような図を描きながら観ないとこんがらがるやつだなぁと思った。スタルスク12の作戦は、一度目は途中で何がなんだか分からなくなった。正直今も、何をしたらミッション・コンプリートだったのかよく分かってない。爆発はそのまま起こしつつ、あの焼き鳥みたいな“アルゴリズム”をサルベージするのが正解だったのか…? もう3回位観ないと理解が追いつかない。つらい。


『インターステラー』は20代で観た中で今の所一番好きな映画だ。設定資料集から、科学的設定を解説した Science of Interstellar、その他自分なりに色々読み漁った。劇場にも5回通った。

そもそもインターステラーはクリストファー・ノーランのオリジナル企画ではなくて、理論物理学者のキップ・ソーンと、映画『コンタクト』のプロデューサー、リンダ・オブストによるトリートメントが元になっている。確か、中性子星の連星が重力波を放ちながら衝突する冒頭シーンに始まり、ワームホールは行き帰り用の2個、ブラックホールなんかはスイングバイの度に利用する設定だったのでガルガンチュアの他に6、7個登場していたような気がする。とにかく節操ない。というのも、キップ・ソーンはカール・セーガンがコンタクトの原作を執筆した時の相談相手で、ベガ星系への恒星間航行にワームホールを提案した張本人だった。しかし、映画ではただの光の虫食い穴として描かれてしまったのが心残りで、もう一回ちゃんと宇宙のエキゾチックなイベントを光学的に正確に描写きたい一心で生まれたのがインターステラーの企画だった。というのは僕の勝手な想像…。

とか良いながらこのシーン本当に大好き

だが紆余曲折あってノーランが監督するとなった時、オモシロ天体ショーの下りは殆ど「これは映画なんだ」とバッサリ削られて、その主題は父娘の話に取って代わられた。ワームホールやブラックホールが間近で見られるシーンは数分にも満たず、相対論的に正確なレイトレーシング(CGにおける光の軌道計算)によって描かれた星空や降着円盤の歪みを見て取れるのはほんの数秒・数カットしかない。キップ・ソーンも Science of Interstellar でそのことへの恨み言を書いていたりするが、「映画としては彼の取捨選択は正しかったと思う」と擁護するようなことも書いていたりする。かわいい。

右上にブラックホールの反対側から回り込んで入射した360度の星空が集まって見える

だからテネットでは監督としてそうした「映画としての体裁」を保とうとするバランス感覚が影を潜め、完全にギミック・ドリブンに振り切っていたのが何よりも嬉しかった。やっぱりトンチが好きなんじゃん、ようやく素直になれたねっ!っていう。決めつけですが。それが良くも悪くも、人間描写の情感をスポイルしていたのかもしれないけれど、 インターステラーの父娘の話をかったるいと思っていた人間としては一向に構わない。むしろ雑味がなくなって良い。こちらとしては「ノーラン的ややこしさ」をギュッと濃縮した原液をグビッとやりたいだけなので。

登場人物がプロットに都合よく動かされている駒のように感じるという批判意見も目にしたが、むしろ設定上そのように見えて然るべきだと思った。逆行世界から順行世界に働きかけをするには、結果を生んだ後にその原因を作ってあげる必要がある。例えば、タリンの高速道路で、逆行するセイターがキャットに銃を突きつけながら3、2、1と指折り数え、耐えかねた主人公は空のアタッシュケースを投げて寄越すシーン。(以下、逆行する登場人物を『反○○』と書きます)反セイターの主観時間に立ってみると、先にアタッシュケースを主人公の車に投げた(=受け取った)後に、その原因を作るために1、2、3、とカウントアップしたことになる。一方、タリンの自由港の回転ドアのシーンでは、主人公は反セイターにアルゴリズムの在り処を吐いた後、順行するもう一人のセイターに後ろからど突かれ、アルゴリズムは何処かと聞かれる。そこで主人公は「もう言った」と伝えると、妙に納得したように反セイターと同時に回転ドアへと対消滅する。これはタイラーの主観時間では、この時点で十数秒後の自分が主人公からアルゴリズムの在り処を訊き出せることを知っていて、扉を潜ると案の定主人公がアルゴリズムの居場所を(逆再生で)自ずと語りだしたことになる。そして主人公が在り処を吐く原因を作るために、キャットの臀部を撃つわけ。だから、逆行世界の摂理を熟知し、それを使いこなせる人物ほど、決定論的に定められた行動のチェックポイントを、機械的に逆向きへとなぞるようになる。しかも、それはあくまで自由意志の元でだ。

テネットでは、そもそもパラドックスが起こり得ない(起こったとしても知るもんか by 未来人)世界を描いているので、多世界解釈は物語上のギミックとしても特に必要は無い。その場合、もし既に目にした反自分に逆らうような行動を逆行後に気まぐれに起こそうものなら、そもそも予め目にしていたのは、その気まぐれな行動を起こそうとしている反自分だったということだ。気まぐれも込みで因果がうまい具合に閉じた世界がただ最初から存在しているのみで、そこに生きる登場人物は、パラドックスを起こさないための自制心を持つ必要すらない。それは諦観でも無気力でもなくて、現に僕らが「起こってしまった過去は変えられない」と何の疑いも無く信じるのと同じくらいの確からしさで、「起こってしまった自分の未来は変えられない」と、当然の摂理として内面化しているだけのことだ。そして確定した未来(過去)を知ることと、自由意志のもとでその行動を逆向きにトレースする事は、彼らの世界観では両立する。その最たる例がニールだ。

だから、僕らがストーリーテリングの前提として受け止めている因果律と自由意志の在り方を捉え直さない限り、テネットの登場人物の行動はひどくご都合主義、あるいは自己犠牲的に見えるはず。確かに一ノ瀬さんも仰る通り、時系列を読み解いただけで作品を理解した気になるのはまだ浅いのかもしれない。(未だにこんがらがってるけど…)


というのは僕の解釈なので、誰かと答え合わせしたいです。2日連続で付き合ってくれたパートナーにこれ以上しつこくテネットの話題を振るのも忍びなくて…。

普通に感想を言ってしまうと、インセプションの「階層」と違い逆行世界をシチュエーションで区別する事が出来ない分、わりとあからさまに色や音楽で区別をつけているのは面白かったです。最後運動会の組分けみたいなってたし。あと、ノーラン作品はブルータリズム建築が本当によく似合う。東欧を舞台にしたのも僕得でした。

本当は観てみたかったシーンは、回転ドアの中での対消滅の仕方と、時空をUターンする時の本人の視覚の変化です。僕のナイーブな4次元観では、すべての人物は4次元空間上では、ある瞬間を表す「3次元の断面」が時間方向に積層して出来た4次元金太郎のような形をしています。それを未来方向へと垂直にサクサク薄切りしていくことで、時間の流れをその断面から観察することができる。

金太郎飴は本人の移動に応じてくねくねと傾いた形を取る一方で、ある一定の傾斜(=光子が描く世界線の傾き)の範囲内に収まる。ただ逆行者の金太郎飴だけは、(一往復半の場合)ちょうど下の図のような形で折れ曲がっている。この金太郎飴に水平に刃を当てるところを想像してほしい。過去からサクサクと切ると、突然回転ドアの内側で空中に体の断片が現れ、それが奇妙なスリットスキャン映像のようにみよーんと引き伸ばされて逆行者と第二の順行者に分裂する。

そして、2人の順行者と1人の逆行者とがしばらく同時に存在した後、今度は第一の順行者と逆行者がみよーんと対消滅する。どういう設定かは分からないが、もし時空のUターンが瞬間的に行われるなら、この「みよーん」は瞬間的に終わるだろうし、ゆるい弧を描くならもう少しヌルっとした「みよーん」になる。Houdiniでビジュアライズしてみたい。

これも素朴過ぎる時空の解釈なので多分間違っているのですが、逆行者の目線では、時空上をくるりと回転して引き返す際外の世界の時間軸が本人にとっての空間的次元の一つに揃う瞬間があるはずで。その時、回転扉の内側の空間が突然インターステラーのテセラクトのような縞模様になるまで引き伸ばされて、過去現在に回転ドアを使用した人達が今からの時間差に応じた距離で並んで見える。その縞模様の部屋の遠く彼方には建設中と解体中の開口部が空いている。合ってるのかなぁ…。昔自分の部屋でよくこういうビジュアルを想像してた。自分の部屋の4次元マカロニを、長さ方向に切ると断面には何が見えるのかな? って。2次元住民の部屋が3次元時空に作るマカロニからの類推で考える。

ここまで時間をイジり倒してしまうと、あとは何が残っているんだろう。カットアップ、伸縮、反転…。あとは並進対称性? カノン進行みたいな。アルゴリズムたいそうやカイリー・ミノーグのMVっぽいアクションシーンになるのかな。さぞかしモサい揉み合いになりそう。ノーラン映画のアクションはいつもモサいけど。あるいは、Mr. Nobody のような分岐とか。どのみち、ジョジョの各部のラスボスの時空系スタンドみたいに、だんだん複雑化して訳わからんことになりそう。


カノンで思い出したけど、今更読み始めた『ゲーデル・エッシャー・バッハ』(GEB)にも蟹のカノンなるものが登場する。僕らが一番慣れ親しんでいるカノンは「かえるの歌」方式だけど、蟹のカノンはある旋律を逆行させたものがそれ自体への伴奏となっている。まさに音楽の回文。インセプションで再生速度を落としたエディット・ピアフがそのまま下層で響く重低音の旋律になっていたように、テネットのサウンドトラックにもそういう仕掛けが施されていたら面白い。誰か教えて欲しいです。

GEBは周りにも読んでいる人が多くて、ハッカー文化関連文章リストにも挙げられていた。ところで最近作っているグラフィックデザインツールでLispという言語の処理系を実装しているのですが、Lispという言語は、LispプログラムそのものをデータとしてLispプログラムに喰わせることが出来るという特異な性質を持っていて。だからLispプログラムを実行する前にそのLispプログラム自身をLispの構文でもって自己改変させるなんて芸当が出来たりする(一種のマクロ展開)。文章で説明するとややこしいけど。どの言語にもそうした「コードを改変するための構文」はあるのだけど、コードそのものの構文とコードを改変するための構文は区別されている(C++のプリプロセッサがその例)。だから、Lispコーディングを通して得られるある種の異化感覚は、その言語構文にメタ言及するための構文がその言語自身に埋め込まれているという不思議な自己参照性に由来している(と思っている)。そんなことに思いを馳せるうちに久々にゲーデル熱が高まって、関連本を読み漁るうちにGEBに辿り着いた。超面白い。こんな有名な本、もっと早く知りたかった…。

作品それ自体と同程度かそれ以上に、作品の背後に横たわる抽象構造だけでメシが進んでしまう体質は各分野に散らばっていると思う。純粋数学、お笑い、映画、現代美術、そしてハッキングと。そういう体質の持ち主は、メディアやジャンルを越えてある種のマインドセットで共鳴し合っている。それは対称性やメタ性を見出す歓びと言うべきか何というか、とてもボヤっとしたものなのだけど、とにかく奴らはそういう審美眼がうまい具合に満たされるとエラく嬉しくなれてしまう。GEBでも取り上げられているエッシャーやバッハはまさにそういった気配を感じるし、ノーラン作品もそう。なんなら彼はエッシャー作品を眺めながら構想を練るらしい。

世の中の作品のほとんどが、ある表現形式を自明のものとして受け入れた上でその「内側」で完結する。逆にそういう形式の枠組みがあるからシーンやカルチャーなるものがまとまりをもって生まれるとも言える。だからこそ、その形式を用いて形式そのものへのメタ言及や相対化を仕掛けるような表現はどうしても希少になりがちだし、貴重だ。「ギミックでメシが進む」体質の人間としては、そういう表現に常に飢えている。とかいうと何だか衒学趣味臭はなはだしいのだけど、最近はぺこぱやアニメの『デカダンス』にドハマリしている。どちらも、ジャンルをフリにした表現なので。ついでに言うとデカダンスで登場する2つの世界は双対関係になっていて面白い。

テネットは、時間芸術たる映画の中で時間そのものに自己言及する作品だ。360度映像が撮影から「フレーミング」という概念を取り去りながらも、そこから別の映像文法が生まれたように、物語の公理たる「因果律」が置き換わることで、全く新しいストーリーテリング手法が立ち現れる。これはユークリッド幾何学の平行線公準を否定することで球面幾何学が生まれたのにも似ている。そして、球面幾何学における「三角形」を僕らが普段目にするような三角形として解釈すると破綻するのと同様に、テネットの物語における「原因と結果」「自由意志」を、僕らが慣れ親しんだ意味でのそれと解釈すれば、途端に作品全体が不自然なものになる。しかし、あくまでテネットという公理系の内側ではそれは無矛盾に閉じていて、それは作中の回転ドアを使いこなす人物達には何ら問題なく受け止められている。

これはテネットに対する遠回りな感想のつもりでした。確かにテネットは洒落臭いトンチ映画ではあるのだけど、僕らが「良さ」の局所解を求めて狭苦しくうろつき回ってるその山頂が、実は広大な適応度地形のほんの一部でしかないと気づかせてくれる感動は、既知の「良さ」の峰の頂上付近で器用に叩き出された高得点よりも桁違いに大きい。

それは「チャレンジを評価したい」とかそんなかしこまった話ではなくて、もっと感覚的に、そういう表現が単にむちゃくちゃカッコ良く感じるだけなんです。カッコよさのオーダーが違う。

時間遡行というアイデア自体は大森望さんがパンフレットで挙げてらっしゃったような先例があるのですが(どちらも観たことが無い…)、テネットは僕にとって、曇り一つ無くカッコ良いなぁと思えるブロックバスター映画でした。

こういう映画を見終わると、僕がノーラン映画に感じるこのカッコ良さを、同業の多くの人はゲーミングPCのデザインみたいなグラフィックやシネマルックのお洒落な実写MVとか、もっと幅広いことに感じられるのだろうな、羨ましいなぁ、という気持ちになって落ち込む。

女書

僕がUnicode表の中で一番気になっていた「女書」という中国南部の文字体系がとうとうNoto Sans Familyに加えられた。これでVJに使える

と思って気軽にシェアした所、女性が漢学に触れる事が許されなかった時代に彼女らが独自に編み出した表音文字だったと教えて頂いて震えた。「涙の言語」とも呼ばれているそう。

漢字自体の複雑さに加えて、限られた人しかその学習ができなかったゆえの識字能力の差は悲しい。漢字圏のそうした状況の中でひらがな、ハングル、女書といった表音文字が並行的に生まれた歴史はしっかり勉強したい。

新字体、簡字体を更に推し進めたような字体整理が進んだ未来には、今の漢字の複雑さやそれを「言語としての豊穣さ」として捉える価値観は、難読プログラミング言語のように露悪的に映っていたりするのかもしれない。だとしたらちょっとだけ痛快だなぁ。

https://github.com/notofonts/noto-sans-nushu

Aug 3, 2020

言い訳すべくもなく「自分の性格は悪い」とはっきり自覚する体験を通して一番良かったのは、世の中に少なくない性格の悪い人達がその自分の性格の悪さを何か表現でもって自己正当化し続けるメカニズムをそれなりに理解できることだと思う。性格が悪いと自覚しながらそうあり続けるのはあまり愉快なことじゃない。

自分の場合は、すぐディスり散らかす性格のことを「日本的な同調圧力に屈せず思ったことを素直に言ってしまう実直さ/爛漫さ」だと暗示していたパターンだった。「ハイコンテクスト文化馴染めないんでw」という言い訳は頭の中で何度も繰り返していた。この手の性格の悪さはリベラルな人に多いので、同族嫌悪でつらい。

そういえば僕が高校時代から尊敬していた帰国子女ディレクターのパートナーの方が出産された折に、酒の席で「犬を産めばよかったのに」と冗談をこぼしていた。周りも流石に見かねてそれは無いですよとたしなめると、ご本人は「僕、外人なので」とのたまった。ああ、この人はそのパターンか…と。そして周りも、それを指摘してくれる人がいなかった、もしくは指摘してくれる人を本人の中で「ロジカルさに欠ける感情的なフェミ」としてはねのけてきたのかもしれない。流石に邪推か。だけども、そういう振る舞いに心当たりがあるだけに見ていてしんどい。

これだけ女性蔑視はダメという社会合意がなされているわりにこの手のミソジニーが明らかに多いのは、取り返しのつかないインセルばかりを象徴的な仮想敵にするあまり、自分中のそうしたその無意識レベルの自己正当化に気づきづらくさせているのは一因としてあると思う。

かくいう僕もミソジニー体質だったので理解できてしまうのだけど、それなりに進歩的な価値観だと自認していて、自分なりの「これ以上はアカン」ラインを自分なりに死守しているとつい安心しがちで。あとむっちゃあからさまなスリザリンばかりを反面教師していると、そこより遥か手前に超カジュアルに内面化している性差別を普通に見落とす。

性差別に限らず、パワハラから日和見主義まで、「性格の悪さ」のいろいろな側面には、こういう罠が潜んでいそうだなとふと思った。

ナード観の覚書

https://twitter.com/kimuramasashi82/status/1286609737711153153

というツイートを受けて

となんとなく書いたのですが、(Twitterの性質上仕方が無いにせよ)色んな受け取られ方をされていたので、個人的に何を思ってのことだったのかメモしておきます。普段はこの種の言説にガッツリ反応するのも自分の役割ではない気もしてスルーしてるのですが、この感情は今のうちにしゃんと言語化すべきとも思いました。

まずエクスキューズから入ってしまうのだけど、「ポカリ的」というのはどのCMを具体的に貶めるものではなくて、ああいう種の空気感のクリエイティブ全般をフワッとイメージして言ったつもりでした。最近で言うと尊敬しているディレクターの一人である柳沢監督のビデオとかスゲー好きかったし、加奈さんによるインタビューも良かったです。センスとか「よさ」の作法の内側でクリシェをなぞるんでなしに、技法レベルから組み立てられた映像は無条件で好きになれる感覚すらあります。

「加担したくない」というのも言葉の選択を完全に間違えていて、少なくとも自分がフォーカスするのはそういう表現じゃない、というニュアンスに近い気がします。人種へのステレオタイプやジェンダー規範の再生産の問題とも違って、ああいうキラキラした表現が直接的にあるクラスタに対して攻撃的にも排他的に振る舞うわけでもない。それは単に自分に向けて作られたものではないまでの話で、 ああいう表現はああいう表現のままで良いとも思います。

具体的な例で申し訳ないのですが(例のツイートをした後に知ったのですが)例えばこのビデオに中立性のもと、将棋部とか放送部、あるいは帰宅部を平等に入れるべきとかそういうことでも無い気がするし、そんなことをやらかすと色んなものがスポイルされるのは分かりきっている。(実は登場しているのかもしれないのですが、自分の注意力では分かりませんでした…)


スクールカースト問題の難しさは、それが見える人には重大に感じられても、そうでない人には些末過ぎて何がそんなに深刻なのかすら理解できない非対称性にあると思う。アメリカだとまた状況は違っていて、インセルによる重大犯罪などといった形で、その実害が社会的にも理解されているけれど、日本のそれはもう少しアンビエントというか。せいぜい「リア充爆発しろ」のような茶化し、あるいは(これはこれで相当深刻な社会問題なのだけど)一部のオタク特有のミソジニーとして発露するに留まっている気もする。 だから “nerd” という言葉をそのまま日本の文化圏に当てはめて良いものか思うところはあるのだけど、 ひとまずそこは置いといて。

同業の友人や、高校時代僕が勝手にナードだと思っていた同級生と久々に話すなかで一つ気づいたのが、ナード的だったからといって必ずしもナードコンプレックスを抱えているわけではないということだ。そういう人達はある意味で「芯がある」というか。別に学祭とかサボって家で絵描いてたし、学校に友達は居なかったけどそんなに苦じゃなかった。今が充実してるならそれで良い。とサラッと言ってのけるので清々しい。だからコンプレックスへと発展する否かの境界条件は未だに分かっていない。ここからは独自研究なので話半分に読んで欲しいのだけど、環境因子としては「地方」の「普通科」ってのは一つ大きそうだなぁと思う。それらは、学校以外にコミュニティを持ちやすいか、人間関係の評価軸がその人の個性・専門性ではなく、その関係の中での立ちふるまい方で序列化される傾向が強いかというところに間接的に関わってくる。逆に言えば、地方でも、高校時代からWebを通して趣味ベースで繋がるコミュニティ (DTM界隈や『お絵かき掲示板』だとか) に参加できていた人達は 「拗らせる」傾向は少ない印象がある。

パーソナリティの話で言うと、いかにもナード的で「キモい」とされる行動を主体的に起こしまうタイプか、単に目立たずスルーされるだけのタイプかの違いも大きいと思う。前者は自分に向けられるシニカルさもまた能動的なものになりやすくて、それは往々にして「いじり」以上「いじめ」未満の曖昧な抑圧として、長い時間をかけて蓄積していく。これは中学時代に見聞き・経験した話だけど、寝技中にチンコを揉んだら勃起したとか、女性化乳房で乳首が長いとか、妹でシコってるとか根も葉もない噂を吹聴されたり。思い出すとどれもいかにも中学男子っぽくて笑う。だけども誰も自分を弱者だと思いたくはない。だから別にTVで報道されるような「虫を食わされた」レベルの身体的苦痛は無いし、結局こっちも何かかしらキモいという不快感を与えてしまっているのだから、これもじゃれ合いの類だろうと自分を納得させる。そして気づいた頃には、そうして仲間に入れてもらえた彼らを友達だと思うと同時に、ふんわりと呪っている。

いじめ問題に関して思うのは、報道されるほど壮絶な例というのはそうした 「いじめ」と「イジり」のスペクトラムのほんの極値なのではということだ。もちろんそれ自体には厳正に対処すべきだと思う。だけどああいったレアケースを潰したところで、いじめ-イジり文化がたらす誰かのしんどさの総量はさほど変わらない。むしろ怖いのは、極値ばかりが目立ちすぎることで、それ以外の99%のイジりのしんどさを本人も周りも「あれほど酷くはない」と矮小化してしまうことだ。

そしてもう一つ、イジられる本人にとっても良くないのが、そうしたコミュニケーションのあり方を内面化してしまうことで、自分がいつでも加害者になってしまうことだ。誰かをイジり、それでも拒絶されずに友達でいてくれることで過去の抑圧が正当化されるような安堵感に包まれる。そして、どこまで許されるかを試すように性懲りもなくイジるうちに、気づいたらその人は離れてしまっている。だけども自分はあくまでイジられ側だという自認が、その人自身の加虐性に気付き辛くさせる。


ナードコンプレックスのしんどさの一側面は、そういう「イジり」と密接に結びついているように思える。ただそれは、同じ生徒同士の意識的なコミュニケーションの中で生まれるものでしかなくて、もっと空気のように、誰の悪意も無しに、構造的に生まれるしんどさというのもある気がする。とか別に勿体ぶって言うことでもないんだけど、体育の時間、アレはマジでヤバい。

僕はスポーツが得意な家系の中で奇跡的に運動神経が悪かったので、小さい頃から父にテニスやスキー、キャッチボールに連れ出されては「集中していない」「妹の方がまだ上手い」と呆れられていた。この「呆れる」というのもまた、「怒鳴る」ほどのあからさまな加虐性を伴っていないだけに、悪気もなく繰り返されがちだし、子供の自尊感情をジワジワと削りにかかってくる。そしてさらに運動が嫌いになっては、一向にスポーツは上手くならないというフィードバックに陥る。

中学校になると部活動が本格的に始まる。ただそこでもなんとなく「運動系に入らない奴はナードだ」という暗黙の了解があるので、その烙印を押されない為に少しでもヌルそうな運動系部活に入っておく。(この『自分はコンピュータ研究同好会に入るほどのガチナードではない』という差別意識もまたナードコンプレックスを引き起こしやすい気がする)そのパターンの人は普通はバドミントン部、卓球部あたりを選ぶらしいのだけど、自分はどういうワケか柔道部に入ってしまい、 極上のホモソーシャルに身を投じることになる。結果から言ってクソ程に弱いまま、かろうじて誰でも取れる黒帯を取りつつ引退した。さらに運動嫌いは深まる。

そこで体育に話は戻るわけだけど、あれは「運動好きが興じて体育教師になった大人の考える最強の、運動好きな10代が楽しめる運動の時間」なのがそもそもヤバい。もちろん教育指導要領なんかでは、様々なレベルの生徒に合わせて「運動の楽しさを伝える」みたいなことになっているのだろうけど、それでも現場レベルでは「別にゴタゴタ説明せずに好きにゲーム出来たほうが楽しかろう」という寛大な判断のもと、ルールを熟知したジョックスに授業の主導権は渡される。

ジョックスといっても、高校にもなると本当に朗らかで良い人達がほとんどだった。サーブをまともに打てなくても、ドンマーイとサラッと励ましてくれる。多少の疎みはあったのかもしれないけれど、彼らにとっての関心事は専ら目の前のゲームを楽しむことだっただろうから、「励ましてあげている」という意識すら無かったかもしれない。一方自分なんかは、体育の授業がある数日前からは頭の中の日付の数直線が体育の時間を境にハッキリと色分けされるレベルでビビっているワケで。授業中はとにかく時間が早く過ぎることを祈る。そんで、あらぬ方向にレシーブするたびにマジで凹むんだけど、ジョックスの醸成するこの爽やかな空気を濁してはいけないと、「テヘッ」というようなどっちつかずなリアクションで済ませてみる。だけども心中申し訳ないやらなんやらでしんどい。ちなみに、二年生の頃にあった柔道の授業は色んな意味で最悪だった。詳細は省くけど、誰も悪いようにはしないでくれただけに余計凹んだ。

多分この体験を、当時のジョックス的な人達にしたところで、え、そんなこと気にしてたの? という反応が返ってきそうな気がする。逆にそんな細々したことにウジウジしないその前向きさこそが彼らをジョックスたらしめていたのかもしれない。ただとにかくこの体育の授業を巡る複雑な想いというのは、分からない人には分からないようにできている。だからこそ、しんどかった側は「どうして球技が出来ないくらいでここまで自尊感情が傷つけられなくてはいけなかったんだ」というやり場のない気持ちを抱き続けることになる。


と、なんだかマジなトーンで書いてしまったのだけど、悲惨な10代の記憶に苦しめられて日々を生き抜いている、とかそういう話でもなくて。実際問題、同級生の本格的なターゲット(いじめられっ子)に比べると自分なんてただの目立たない、ちょっと数人にイジられるナードで済んだわけだし、当時も目に見えてしんどい毎日を送っている実感は無かった。これも危険な矮小化なのは承知はしているけれど。むしろ、放送部の活動に打ち込んだりMacBook Proを弄ったり、ナードなりの形で(むしろナードにしては)楽しく青春を謳歌していたと思う。数少ない負の感情も、美大やクリエイティブ業界の個人主義的な空気感にあてられてとっくに消え去ったような気にもなっている。だけども、心の根深い所ではナード生活を通して内面化してしまった行動原理にいまだに支配されている所もあって。例えば「その後の人生で得られる自己肯定感を継続的に削いでかかる」というのは、より正確に言えば「その後の人生の成功体験を、自分がただ嬉しいというより『見返してやった』気持ちとして受け止めてしまいがちになる」だ。ルサンチマンは、それはそれで安定した精力源にもなり得る。だけども「自分が心から調子良くやれるか」ではなく「見返した感を強く得られるか」を基準に仕事を選んだりなんかし始めると、結果上手く回せなかった時にただただ心が虚無になる。あとは、あれだけ見返したいと思っていたジョックスはそもそも自分なんて気にも留めていないと自覚した瞬間も虚無になる。

また、ナードコンプレックスそのものをどう昇華するか問題もあって。これもただの経験則だけど、大きく3タイプあると思っている。

  • 同化型: ジョックスに同化する
  • 夢想型: 自分はそのままに、ジョックス的/ナード的という社会規範の方が逆転した世界線を夢想する
  • 受容型: ナードである自分を受け入れた上で、ナードなりの楽しさを見出す

大学デビューに意気込むのは同化型で、(適当なことを言ってしまって恐縮なのですが)異世界転生モノやハーレムアニメが扱うのは夢想型だと思う。一方で、受容型に寄り添ってくれるコンテンツというのは本当に少なくて、アニメで言えば僕の知る限り「四畳半神話大系」しかない。いや、あの作品もまた、「私」が同化・夢想型から受容型ナードへとアセンションされるという話で、しかもその悟りの結果、明石さんとも結ばれるという意味では、完全な受容型ではない。

そもそも僕個人はというと、比較的受容型かなぁと思う。だからこの3タイプの分類もわりに受容型に良いように書いてるし、もし自分が同化型だったとしたら受容型のことを諦観型とかダメな感じで名付けていたはず。

受容型の特徴は、そもそもリア充というものにそこまで憧れが無いということだったりする。一度だけ FINEBOYS を買ってみたことがあるけれど、 どれも謳い文句に「モテ」という言葉が入っていて萎えた。いや、その不特定多数の異性に相手にしてもらえるかってのは割にどうでも良くて、(18歳当時のイメージ上の)オシャレさんに溢れた東京を歩くのにダサさで目立ちたくない、恥ずかしくなくなりたいというマイナスからゼロへの願望でしかなかった。と言うと、モテたくないなんて嘘だろ? というテレビ業界のオッサンに突っ込まれたりするのだけど、その度に引き合いに出していた例えが「シマ充」で。 世界のどこかには、島を買えるかどうかのレベルの富裕層が居て、多分その人達にとっては、島を不動産として所有しているかどうかは人生の充実度を表すバロメータになっているのかもしれない。だけど僕もそのオッサンも自分のことを「非シマ」だとは思わないじゃないですか、みたいな。ガチガチに理論武装しようとしてるあたり意識高えなと自分でも思う。例えとしては極端だけど、大富豪の世界を前提に物事を想像できないように、不特定多数にモテるという可能性を自分事としてイメージできなければ、世にいう「リア充」への憧憬の念もあまり湧かないのは理解できると思う。もちろんリア充の意味するところはモテに限らずもう少し広いのは承知しているけれど。

だから、この種の感情を、いわゆる青春コンプレックスではなく、ナードコンプレックスとかいう馴染みのない言葉で表現しておきたいのも、その受容型か否かをしっかり区別しておきたいからで。妬みが完全に無いとは言い切れないにしても、それはどちらかというと同化願望というより素朴な疎外感で、自分が好きだったナードなりのキラキラはキラキラとしてあまり認めてもらえない、という八つ当たりの気持ちにも近い。とはいっても、 Urban Dictionary の方には青春コンプレックスとさほど変わらない定義が書かれていたりもする。(ネイティブに言わせれば全く当てにならんサイトとのことです…)


自尊感情はゼロサムで、社会における自分の相対的価値に見合った分だけ芽生えるものだ、という漠然とした認識があるような気がする。それが日本全体のものか、はたまた地元レベルの意識なのかは分からない。そもそも人の価値というものがスカラーではない以上大小関係は定まらないので、それが翻って他者を貶めることにならない限り、各々が自分にとって都合の良い価値基準のもとに自分を肯定しておくのが自尊感情のマシな活用方法だ。その自己肯定感がもたらす幸せや自信といった薬効は、過度に思い上がることで振りまく迷惑分を微々たるものするくらいに世の中にとって良いものだと思う。

いや、別にそんなスピったことが言いたいわけじゃない。率直に、ナード的なモノの感じ方を彼らがありのままに肯定出来るコンテンツや表現って有意に少ないなぁと思うって話。ポカリ的表現にナードの入り込む余地はあまり無いし。外交的でアクティブでキラキラした毎日を送っている彼らが青春の主人公で、自分達はただ無かったものとしてスルーされる。そうした表現自体は、「こういう青春いいよね!」という純粋にポジティブな気持ちのもとに作られているのだろうけど、あまりにそれが多すぎると妙に疎外されたような気持ちになる。

…と、ついついコトを深刻に表現し過ぎそうになって、結構書いてて難しい。本当にこれはバランスの問題だなぁと思う。比較の対象として不適切なことを承知で引き合いに出すと、#BoPo (ボディポジティブ) ともある意味で似ていて。別に痩せたモデルを起用したからといって、そうでない人を貶めるものではない。だけども、あまりにそのバランスが現実世界のそれを度外視して偏ることで、間接的にも人類の自尊感情の総量を目減りさせてしまう。

ただ、人種や性、美の規範とも違って、今のところは全ての表現が作品単位で中立的に均される必要もないと思う。一方で、ああいった世界観の中ですくい上げられるキラキラは10代の輝きのほんの一部の種類のような気もする。ナード性をありのままに肯定してくれる表現は、もう少し世の中にあってくれても良いような気がした。これはもう本当にバランスの問題。


仕事に関して振り返ると、広告系の案件で感じたしんどさの一因はそこにある気がする。二十歳前後の頃はその辺がまだ上手く言語化できなかったので「オシャンティーなのは無理」みたいなよく分からない弱音としてウジウジ吐く他なかった。考えてみれば、ジョックス的キラキラに主題を置いた映像(なんだそれ…)は作ったことが無くて。そしてこれはルッキズムの話ともゴッチャになるけど、モデル的な人を登用せざるを得ないときはどういうワケか身体や顔をグリッチさせたりしてシルエットにしてしまう。それでも、世の中の中央値からするとあり得んくらいキラキラ度の高い人を「次はどの自分を開放する?」ってな感じのコピーとともにエディットするのは、自分にはちょっと向いていなかった。あるビデオのために味噌に詳しい学者っぽい方をオーディションしたことがあった。自分が一番 nerdy だなと感じた方が、アップだと画的にキツいので若くて端正な人にして欲しい、とクリエイティブ・ディレクターの方からNGを喰らった時もちょっとだけ哀しかった。「学者 = ナード」「ナードっぽい見た目」という僕の判断基準もまた別の偏見ではあるのですが。

そんなネガティブなことばかりほざいてても仕方が無いので、自分が何にエンパワーされたかという例をいくつか挙げておきます。中3の頃に読んだ Paul Graham の「オタクが人気者になれない理由(Why Nerds are Unpopular)」は、時代錯誤な部分はあれど高校時代をサバイブする理論武装を自分に与えてくれました。子供がナードに育ったらそれとなく触れられるところに置いておきたい(笑) あとは、自分の大学時代に特に盛り上がっていた分解系やマルチネのような国内ネットレーベルも、どういうわけか、クソダサい蛍光グリーンのスリーブで肩身離さずMacBook Proを持ち歩いていた高校時代の自分が受け入れられたような気持ちになって救われた。DTM界隈は「狭苦しいベッドルームでパソコンと機材に囲まれて打ち込みをする」みたいな画が原風景として共有されているのも関係しているかもしれない。いや、適当なこと言った。

繰り返しになるけれど、ジョックス的な表現にばかり「加担したくない」と否定的な書き方をしてしまったのですが、これはあくまで自分はソッチじゃないな、という意味でのものです。業界狭いので、5000 Likesレベルでも少なくない確率で関係者の方の目に触れてしまいそうなのが申し訳なくて。むしろ言いたかったのは、僕が関わった成果物が、そうした意味での表現のちょっとした偏りを均す方向に作用してくれて、あわよくば、あんまりすくい取ってもらえてない種類の誰かのナード性をありのままに肯定するものになってくれれば嬉しいなぁという話でした。Cuusheさんのビデオもまだ終わってないのにあまり頭でっかちなことは言えないのですが。

賽の河原

あんま関係無いけど、高校時代の進路指導のことを思い出す。
月イチで武道室に集められて、模試の結果を道内の他校と比較したり、「受験は団体戦」だとか「受験は人生の縮図」という今考えても意味の分からないモットーを吹き込まれたりした。

部活で作っていた映像にドハマリして本気で映像業界目指そうと美大に進路希望したときも、潰しが効かないよと国公立を勧められたり、美大っぽいクリエイティブなことが学べる学部もあるからと先生に止められたりした。恐らく純粋な善意で、そのお陰でSFCの佐藤雅彦研(当時はもう無かった)を知れたので良かった面もあるけど。

当時は特に反抗的というわけでもなかったけど、言ってる意味が分からんかったし苦痛だった。推薦合格が決まっていても何故か受けるルールだったセンターをサボって Objective-C を勉強してた。

だけども、どれだけそうした進路指導の影響を受けないようにしたとて、3年間を通してマントラのように吹き込まれた偏差値偏重な価値観は無意識レベルで内面化してしまう。美大に入学した後もしばらく、なにか真っ当なキャリアからドロップアウトしたかのような劣等感が続いていた。地元では美容専門学校でしか見ないような派手な髪色の人を見て偏差値低そうとかクソみたいなルッキズムを引きずっていた。

「学歴が全てじゃない」とか当時は綺麗事…とまではいかずとも、大多数の日本人をいじめてくれない為のやさしい建前だと思ってたし、「多くて2浪以内に大学入って、最低修士までは進学しつつ新卒でいい感じの企業に」という諦観がオトナなのだと思いかけてた。今思うと典型的な田舎根性かつ高二病止まりの可愛げなシニシズムでしかないけど。

いや、そういう価値観で幸せになれている人は多分そのままで良いのだとも思う。多分ある世代まではそうした「しながさ」を受け入れることでサバイブ出来た面もあるはずで。だけども、終身雇用も崩壊して、「安泰」とされる職種ほど(職業としての貴賤とは関係なく)労働環境が保守化し続けたり、安く見積もられていくなかで、もっと多様なキャリア観に選択肢として触れられた方が幸せになれた同世代も多かったんじゃないかと最近思う。

なんてことは薄々みんな気づいているとも思うのだけども。さすがに「女は短大で十分」とか今の時代誰も言わない。

親族への挨拶で、今こういう事をしているんですと説明した時に「今のうちは好きなことを追いかけるのも素敵だね」と言ってもらえた。中学教諭をやっている姉妹は、僕なんかと違って社交的で生徒からも人気で、ちょいちょい答案に「結婚出来ない橋本先生」イジりをされたりしていた。

多分このレベルでアンビエントかつ、なんなら親しみを持って蔓延しているバイアスやマイクロアグレッションこそが、あからさまに偏狭で保守的な押し付けよりも、チビチビと無自覚にキャリア観を狭めていく。

個人的には家庭が根っからのリベラルなのもあって、そういう種類の悪影響もそこまでは受けなかった。今となっては過去の記憶だったりもする。だけど、今再び地元で暮らしてみて、パートナーや地元の友だちがそういう価値観に縛られて仕事や人生設計に苦しんだりするのを見るとそれなりにしんどくなる。Twitterや飲み会で愚痴って対処療法的にストレスを溶かして貴重な20代を浪費するくらいなら、環境を変えればいいし転職すればいいし、興味のあることを勉強しに社会人入試でもすればいい。

…とか思ったりもするのだけど、それを押し付けるのもまた別の暴力。現に僕自身、仕事も全然やり方掴めてないし、未だに調子の良い制作の仕方に悩んでは手は動かないし。んで日々迷惑振りまきつつも事務所のみんなを始め周囲の人たちの寛大さに救われている立場なので何も偉そうなことは言えない。

それに、個人の思い込みの問題じゃなくする社会的欠陥ってのは必ずあって、その発露が、例の医学部入試差別なのだと思った。ちょっと時間経っちゃったけど、アクチュアリティに溢れた曲だったのでシェア

マシな作り方の作り方を作る

ここ最近、Glispというアプリをつくっています。Lisp ベースのベクタードローイングツールで、Creative Coding と伝統的なチマチマやるデザインとの合わせ技っぽい使い勝手を目指してます。

ひとまずCuusheさんのビデオに手入れ続けて止まらないのが気が済んでからなのですが(ごめんなさい…)、終わったら本格的にこれに注力してみたいなと思っとります。だから助成金やファウンディング含めてみなさんに色々ご相談したいです。

#glisp – Twitter Search / Twitter

これが実現したらようやく「こいつなんか意味分からん事言って Adobe に因縁つけてるな」みたいなんがもう少し多くの人に理解してもらえる気がしています。少なくともベクターグラフィックに関しては、ソフトの使い勝手に気が散ってツール開発をしないとしんどくなる体質が改善して実制作に集中出来るようになれます。知らんこっちゃだと思いますが。


最近試しに実装した Bidirectional evaluation(双方向評価)、ヤバくないですか?

リグを組んだりパラメトリックに何かを生成する仕組みをつくるとき、基本的にはプレビュー画面の脇にごちゃっとまとめられたパタメーターのスライダーを動かしつつ、結果がどう変化していくかを確かめるという流れになります。だけどデザイナーは基本「結果どうなるか」の方をダイレクトに弄くりたい人種なんで、途中でまどろっこしくなってきて、せっかく組んだリグを全部ぶち壊して一個一個脳筋的に手動調整したりしがちです。(僕もやりがち)

Bidirectional evaluation は、結果の方を弄ると入力元が定まる仕組みなのが新しくて。例えば、上の例ではターコイズ色の円の半径に r * 2(rの二倍)というエクスプレッションが貼ってあります。AfterEffects でも Houdini でもどのソフトでも大概、エクスプレッションが適用されたパラメーター欄は直接調整できなくなるので、大本の r の変数に対応するスライダーを弄ることになります。だけどそれが bidirectional だと、エクスプレッションが適用されたパラメーターの方を動かすことが出来て、そこから自動的に r の値が逆算されます。例えば半径を 4 に設定した場合、r は自動的に 2 に設定されます。

この種の操作はInvserse Kinematics1人物の腕があったとして、指先の位置を設定すると勝手に脇・肘関節の角度が定まってくれる機能や、多くのグラフィックツールで当たり前ににできる、ビューポート上で要素を移動させると親要素のトランスフォーム分が差し引かれてその要素自身のローカル座標が設定されてくれる仕組みなどで部分的に実装はされてはいます。しかしそれを一般化して、使い手が新しい「逆算」の仕方を自由につくりあげることが出来るのがこの Bidirectional evaluation のヤバいところです。

とかいうとデザイナーの方は、なんか一部の物好きなプログラマーっぽい奴らしか関係なさそう、自分らには Figma や Illustrator で十分だ、とか思われるかもしれませんが、この機能は実はみんなにとって嬉しいやつです。テオ・ヤンセンみたいなリンク機構からなるモーショングラフィックスも作れます。Aphex Twin のロゴのような、多分イラレでやると死ぬグラフィックもめっちゃパラメトリックに組んで、しかも直接形をいじくりまわして調整することができます。円グラフも書きやすくなるのでプレゼン資料にも便利かもしんないです。


とにかく Glisp で実現したいのは、よりマシな作り方の作り方です。今まで既存の道具をメチャメチャ hacky に改造する形で、「作り方を作る」を自分なりに実践してきたつもりですが、別にこの苦労は道具側に「作り方を作る」ための真っ当な機能があったら、しなくても済むことでして。

ダグラス・エンゲルバートは、知的作業を ABC Activities という3つのレベルに分類しました。A Activity は日常業務、B Activity は日常業務のマシなやり方を考えるという作業、C Activityはよりマシな B Activity のやり方を考える作業です。これはいくらでも高階にしていけますが、ともかく彼が言っているのは、そういう「やり方を考える」行為を再帰的に重ねていくことによって生産性は指数関数的に跳ね上がるってことです。これは彼のコンピューター研究とも結びついてきますが。

ABC Mode – Doug Engelbart

んで、これがただの組織論ならただの効率の話にしかならないんです。だけど映像づくりとかデザインの場合は、その効率は表現の幅にダイレクトに結びついてきます。思考は時間方向にスケールしないので、あることを数倍の速度で考えたり試せたりできるとなると、そもそもの発想の種類が変わります。粘土板に楔形文字を書いてた時代とキーボードで1分間に200文字も打てる時代では書こうと思う文章が変わるように。

じゃあ、よく使う機能とかこの辺にワンクリックで出来るようにまとめといて、ついでにキビキビ動くようにしました、で済むかというと、そういう話でもなくて。大概にして「よく使う機能」なんて言葉が出てくる時点でそのツールの一般的な使われ方を想定しているわけです。「プレゼン画面」や「スマホアプリのUI」のようなグラフィックのジャンルでもなんでも。そしてその種の最適化と引き換えに犠牲になるのは、道具として持ち得たであろう汎用性と抽象性です。

今のデジタルクリエイションの世界は、作るのはデザイナーの仕事、そのデザイナーが必要としているであろう「作り方」を作るのはツール開発者という分業が成り立っています。個人的には、そこの線引きが一段抽象側にズレるのが理想で。つまり、開発者はこまごまと「図形のタイリング機能のオプションにハニカム構造もサポートしました!」とかやるんじゃなくて、そういうイテレーション操作自体を抽象化して、使い手が好きなタイリング方法をデザインできるような仕組みを機能として実装すべきなんです。

とはいっても、ほぼ99%以上のデザイナーが、丸、三角、グリッド、ハニカムの平面充填で満足出来るんだとも思います。だけど、世界のどこかに「ペンローズタイルで敷き詰めたいなぁ~」とか思う物好きが一人はいるかもしれない。そういう人こそ、クリシェの再生産に勤しむ99%の人たちよりもずっとグラフィック表現の分野を前進させる力を秘めているかもしれないのに、それがツールの都合で諦めざるを得ないのはとても残念で。いや、それを思いつけただけまだマシで、もっと嫌なのは、今この瞬間も、ツールの機能をその制作における「公理」と勘違いした結果、世の中の作り手の発想が無意識にちょっとずつ狭窄され続けている状態です。実際、みんな作るもの雰囲気似てるもん。…って太田禎一さんがなんかのクリエイターイベントでこぼしてました。僕が言ったことじゃないです

ともかく、アーティスト自身が、自分のやりたい作り方にあわせてその使い勝手を分化させることのできるツールが世に出た時に、本当の意味で「作り方を作る」がまっとうに出来るようになると思ってます。片手間になりますが、開発頑張ります。

ダーウィンを数学的に証明する

中村健太郎さんに教わったこの本、自分には少々難しくて完璧には理解出来なかったけれど抜群に面白かった。

遺伝的アルゴリズムが最適化手法として有用なのは、遺伝という仕組み自体が35億年の歴史を通して自己最適化されてきた最適化手法だから、っていうのは前から気になってて。

遺伝という仕組みを生き物たちの適応度を高めるための一種の乱択アルゴリズムとして考えると、遺伝を通してその生き物の適応度を少しずつ高めてきたと同時に、その遺伝というアルゴリズム自身も、それによって進化させられる生き物の適応効率(速度? 探索精度?)という適応度を高めるべく自己最適化されてきたわけで。放射線か何かによる無秩序な塩基の置き換えから、交叉や有性生殖のような、より洗練されたランダム性を獲得した経緯もそうだし。もしかしたらミームもその延長にあって、遺伝子の容れ物として、個体の生涯変わることなく生殖のタイミングでしか変異を試せないDNAではなく、より可塑的な「記憶」を用いることで、生まれた後もなおスピーディーに形質を変化させていけるという、生物史における最新鋭の変異テクニックなのかなぁと思った。(『拡張された表現型』はまだ読んでいない…)

本当の意味で「遺伝的アルゴリズム」を実装しようとすると、今現在自然界に見てとれる遺伝の仕組みを切り取ってマネするだけじゃ足りなくて。まず、ある変異ルールによってランダムウォークさせられているつぶつぶ同士を競争させて、元々与えられた目的関数に適う形で最適化させていく。しかしそれと同時に、遺伝の仕組みそのものもまた、それぞれの変異ルールのもと動き回るつぶつぶ集団同士を戦わせて、集団としての適応効率を適応度に取ることで淘汰的に進化させていかなくては、真に遺伝を模倣していることにはならない。それは単に「交叉率」のような、プログラム中に予め埋め込まれた変数のチューニングに留まらなくて、ソースコードそのもの、つまりアルゴリズムレベルでの自己最適化も含まれる。ソフトウェアとして例えると、生き物の進化のダイナミズムがものすごく分かりやすいなぁ思った。

AIやIA(知能増幅)がバズワードとして持て囃されていた2014年は「トランセンデンス」や「ルーシー」なんかが公開されていて、個人的にシンギュラリティ映画(?)の豊作年だった。(「インターステラー」もある意味でシンギュラリティ映画なので。)どれも観に行ってたけど、案の定なんというかコレは本当に超越的な知能なのか…? っていうモヤモヤした気持ちしかなくて、高校時代の友人に愚痴ったらゲーデルの不完全性定理を勧められた。それからしばらくロイホで高校以来食わず嫌いしてた数学ガールを読み耽ていたのだけど、ペアノの公理以降で理解がおぼつかなくなってきて、そもそもこれって「知能」に関係あるっけ? という釈然としない読後感だけ残っていた。

ただ、何となく公理主義とその限界、あと記号論的な考え方はずーっと頭に残ってて、めちゃめちゃその後の制作や人間関係の改善に役立ってたりする。一方で、シンギュラリティの話題に対してゲーデルを勧められたその心は…?という引っかかりに、6年越しに合点いったのがこの本だった。

同図像性のプログラミング言語としてのDNAや、自己複製における複雑さの増加、エンゲルバートのABC Activities(「最適化手法の自己最適化」手法の自己最適化…)と、結構最近考えてた色んなことに一本筋が通るような快感があって良かった。

IAで思い出したけれど、テッド・チャンの「理解」の映画化はどうなってるんだろか。

おもちゃの設計

目的に関知しない に関連して。

そのおもちゃがどれだけ遊ぶ人の創造性を育むみやすいかどうかも、それがどういう遊ばれ方をし得るかにどれだけ設計主が agnostic(不可知)な態度を貫いているかによって決まるのではないかと思った。別におもちゃの良し悪しをジャッジしようってワケじゃない。

「創造性」なんてスピった言葉を使うこと自体が気色悪かったりもするのだけど、僕なりの定義を挙げるとすれば、「あるやり方をよりうまくこなす」に対する「やり方そのものをよりうまく編みだす」ことなのかなぁと思ったりする。違ったやり方を編みだすことは、結果的に新しいものを生み出すことにも繋がりがちなので、そこだけに着目して「新しいものを創り出した = 創造的」と勘違いされやすいのだけど。単に新しいものを作るだけでOKなら、工場で働いている方々は僕みたいな手工業でものを作る人達の比じゃないくらい創造的なことになるし、その言葉の直感的イメージに反する。むしろそれは「創る」というより単に「増やす」に過ぎないだろうと。だから実は創造性において着目すべき点は、結果そのものではなく、そのプロセスの真新しさなのではないかと思う。

もう少し突っ込んでいえば、何をもってして創造的かもまた、あるルーティーンの枠組みに対して相対的に定まるものでしかない。「あるやり方をよりうまくこなす」に対する「やり方そのものをよりうまく編みだす」とあえて対比してみせたのも、まさにそういう意味で。例えば プログラマーのような、やり方そのものを日々編み出し続ける仕事をしていると、やり方を編みだすということ自体が日常的行為なので感覚的にもそれらがおしなべて創造的とは言い難い。だから彼らのようなレベルの仕事においての創造性は、より高次の行為、例えばより賢いプログラミング言語そのものや、より新しいパラダイムを編みだすことにあるのではないかと思う。そこまでいかずとも、その人なりに今まで挑んだことのないアプローチでエンジニアリングをしに掛かることも、ルーティーンを回す技能や効率向上でなく、ルーティーンそのものに対する改良行為なので創造的と言えるかもしれない。その点で、創造的行為は常としてメタ性を孕んでいる。

話はおもちゃに戻って。そういう僕なりの創造性の定義でいけば、ある遊ばれ方や、クリアまでの直線的な道のりを想定されたおもちゃを遊ぶことで育まれるのは、その遊ばれ方の枠組みのなかでよりうまく楽しむことでしかない。先の定義でいうと、おもちゃを想定された遊び方で遊ぶという一連の行為に対して「相対的に」創造性のある行為は、おもちゃの遊び方を考えることになる。だから、遊び主(?)が自らそのおもちゃをどういう風にして遊ぼうかを考える余地を残しているか、遊ばれ方に対して設計主がどれだけ不可知な態度を貫いているかが、そのおもちゃが育む創造性に関わっているように思えた。それがズバリ、目的に不可知な態度、つまりおもちゃの purpose-agnosticさ(目的に関知しない性質)だ。そしてその最良の例が積み木やレゴブロックで、そのソフトウェア版が Minecraft だったりするのだろう。砂場でもビー玉、お人形でも何でもいいけど。

とはいえ、現実にはトイ・ストーリーのシドのように、おもちゃをハックすることでその遊び方というのはいくらでも拡張していける。むしろアンディはカウボーイの人形をカウボーイとしてしか遊んでいないわけで、その意味でシドの方が数段クリエイティブだ。(というような文章を残したのは誰だっけ? 思い出せない)しかし、設計主の想定に関わらずこうした抜け道がおもちゃに残されるのは物理世界の話でしかない。ソフトウェアのおもちゃは、赤ちゃん人形の頭部と機械仕掛けのクモを組み合わせてキメラを生み出す感覚では、ゲーム同士をくっつけたり改造したりできない。あくまでゲームデザイナーが意識的にそうした設計にしない限り、そのゲームの遊び方自体を考える余地は生まれにくい。その代わりに「バグ」という小学生男子・女子には恐ろしく甘美な領域が潜んでいたりするのだが。

23 Hilarious "Toy Story" Moments That'll Make You Laugh Every Time ...

最近も香川県でアホい条例が可決されていたりするけれども、ああいった種の人達が抱えがちな「ソフトウェアのおもちゃ」への謎の抵抗感は、無理やり理由付けするとすれば、そうした「遊び方を考える」というメタ遊びがやりづらい点にあるのではないかと思った。別にゲーム脳なんて唱えている人達はそんなこと微塵も考えてないだろうけど。ただ、このアプローチで攻めてこられたらゲーム派としては結構ぐぬぬ…という感じなので、このまま思いつかないままでいて欲しい。

話は逸れるが、来たるプログラミング教育の時代に向けて遊び感覚でプログラミングが学べます、というような教材が最近増えている。ただあれも「パネルを組み合わせてドラえもんをゴールまで運ぼう!」という具体的な目標が設定されてしまっている時点で、プログラミングで遊ぶことを通して本来育み得るメタ思考の良さ、面白さがスポイルされているなと思った。とはいえトイザらスでめっちゃ楽しく遊んでたけど…(笑)その点、Sketchは初めかららちゃんと完成されていて凄い。

Lifelong Kindergarten | The MIT Press


追記

「大量生産は創造的か」の下りで、創造性は成果物というよりプロセスの新しさによって定まると結論づけてしまったけれど、どの特徴をもってして成果物が同じか違うかという同値性の定義に置き換えても良いと思った。ある行為を通して新しい同値類のグループが生まれた時、それは創造的だと…。どちらの意味でも、創造的という言葉には単にあるジャンル、ある作法の中でまた一つ誰かの手によって成果物が増えたというより、そうした枠組みそのものに対する何らかの発明が含まれているように思える。その意味で、創造的、特に英語でいう creative という言葉の、デザインやアートっぽいものに付随したイメージは個人的に的を射てないような気がする。どの分野であれ、その枠組みをいかにハックしたり相対化したりして結果的に新しい何かを発明するかが creative たり得る要素のような気がするし、その意味でデザインやアートじゃなくても creative な態度は、たとえば税理士の世界にも存在しうると思う。今所属してる会社の税理士の方とかまさにそんな感じの方だし、ゲーデルの不完全性定理は20世紀の脱構築史の最骨頂だとも思う。その逆も然りで、職種はクリエイティブ業でも、また一つシコシコとクリシェで塗り固められたものを増やすに過ぎない仕事は多くある。「車のパーツを擬人化して、なんかボカロPにイメージソングを歌わせる」みたいな企画の話が来た時にそう思った。そういう仕事が卑しいとは思わないけど、自分の中では全く違う世界のような気がするので、「クリエイティブ」という言葉を譲っても良いので何か上手く業界内で棲み分けする方法が欲しい。

あと、ゲームの良さは案外武道と同じような所にもあると思う。とはいえ僕も柔道と、あと圓和道という謎の韓国武術しか経験ないけど。最近読んだ本で「(武道を通して)ふだんの身体の使い方とは違う身体の使い方が出来るようになる。その『別の身体』から見える世界の風景もまたふだん見慣れたものとは全く違ったものになる。」という一節があった。ゲームもまた、全身とは言わないが、その指先を通して、ヨッシーにしろゼビウスのソルバルウにしろ、生身の身体とは全く違う環世界に憑依する特異な感覚というのが確かにあって、それは鬼ごっこや木登りのような外遊びでは得難いものだと思う。

目的に関知しない

外国語を学ぶ一番の醍醐味は母語では文節出来ない概念を知ることだ、という話は、本当にその通りだと思う。その点で、この数年で一番、良いなぁ~、便利だなぁ~と思った形容詞が、agnostic だ。語源はagnosticism、不可知論。宗教的には、明確に神の存在を否定する無神論とは異なり、神は居るとも居ないとも断定できないとする立場のことだが、そこから転じて、大雑把に「分かりかねる」「知り得ない」のような意味になるらしい。ソフトウェア工学の世界では、プロトコルやインターフェースの詳細に関知しない状態で設計された、つまり「非依存の」に近い用法で使われることが多い。例えば、platform agnostic で「特定のプラットフォームに依存しない」というような成句になる。似た言葉に cross-platform「複数のプラットフォームで動く」があるが、両者の語義的なニュアンスの違いはまだ上手く日本語に置き換えられていない気がする。

アグノスティック (情報工学) – Wikipedia (拙訳ですが…)

同じ汎用化でも、それぞれ特有の仕様に合わせて個別対応した結果、総体としてプラットフォームを跨いでサポートしてますよ! というのが cross-platform。に対して、「知り得ない」「関知しない」からこそ、個々の細かい仕様に依存しないよう、設計を抽象化して留め置く、というのが platform agnostic。これはあくまで第二言語学習者として語源から辿った印象なので、実際にはドミニク・チェンさんが教えて下さったイメージが適切そう。どちらの場合も結果的には同じようなコードを書きそうなものだけど、その根本の態度の違いはとても示唆的だと思う。

デザインツールについて考える時、この agnostic が帯びる意味合いというのはとても有用で。多くのツールにとっての一つの目標が multi-purpose〈多目的〉にあるとすると、僕個人にとって理想的なツールの設計思想は、purpose-agnostic〈使用目的に関知しない 〉という言葉が感覚としてとてもぴったし来る。果たしてそういう言い回しがあるのか、意味として通じるかはわからないけど。もっと良い表現があれば教えて欲しいところですが、さしあたりこの妙な造語で話を進めます。

見渡すところ、デザイナーにやりたい表現をヒアリングし、それに特殊化した単機能のツールを無造作に追加していくアプローチの製品開発が多い気がする。結果として出来上がるのは多機能化の末に膨れ上がったスイスアーミーナイフ、もしくは特殊化の果てに数ヶ月に一度しか使わないような白髪ねぎカッターだ。

それは、業界の標準的なワークフローの中で使う分には過不足無いのかもしれないし、世の中の9割方のデザイナーの需要をカバーするものでもある。一方で少しでも開発者の想定から外れた使い方をしようとした瞬間に、急にハックめいたことを強いられるという弱点にもなり得る。それは「想定の範囲が狭かった」ところに非があるというより、「想定し切る」こと自体に限界があるからだと思う。

iPhone以前のスマートフォンは、あらゆる用途を想定した上で、最小公倍数的にボタンを追加することで多機能性を達成しようとした。に対してiPhoneは、想定し切ることの限界を認めた上で、物理キーの押しやすさと引き換えに、タッチディスプレイ上でボタンの配置自体を可変にすることで多機能化を果たした。実際のKeynoteではもっと違う意味で対比はなされていたのでこれは個人的な解釈になってしまうけれど。だたこれはとても purpose-agnostic なアプローチだと感じた。

これは殆どの人が忘れている感覚かもしれないが、そもそiPhoneをゲーム機として使うという想定は発表当初されていなかった。しかし、発売後になってマルチタッチデバイスに可能性を感じたハッカー達が、iPhoneをJailbreak(脱獄 = アンロック)し、当時許可されてなかったお手製アプリをむりくりインストール出来るようにした。その中で、タッチスクリーンの操作感を生かしたゲームアプリも登場したりなんかして、あぁ、そんな使い方があったのか!と界隈がざわついた記憶がある。

その後どういう流れかApp Storeが登場して、ちゃっかり「ゲームも楽しめるiPod」としてiPod touchのCMが打たれたりなんかしたワケだけども、結局それはマルチタッチディスプレイという、purpose-agnostic なインターフェースだからこそ為せた多機能化だったのだと思う。Appleがどこまで想定していたのかは分からないけれど、むしろ想定し切きれない所に、逆説的に道具としての応用の余地があった。

iPhoneの登場と同じような転回が、GUIベースのデザインツールに起きてほしいと思う。

Adobeの今の開発の方向性に共感出来ないのも、ここ最近のUI/UX系ツールが根本的な解決に感じないのも、その目指す重点が、特定の用途を想定した多機能化と特殊化にあるからだ。年々、旧スマートフォンのように、メニューもボタンも不用意に増えていく。たまーにIllustratorのProertiesパネルのように表面上の見た目はスッキリさせてみるけど、内部的な機能構造はますますゴチャゴチャしていく。XDやFigma、Framerは、一見モダンな設計に思えて、フラットデザイン以降のペタンとしたグラフィックに特殊化されている分、Illustratorに比べても表現力が乏しい。今更スキューモーフィズムをやろうとする人は居ないにしても、それがデザイナーの意思でもってそうするのと、ツールの機能上無意識に選択肢から除外されるのとは決定的な違いがある。

話は戻って、スイスアーミーナイフのアナロジーになぞらえると、じゃあお前が欲しいのはサバイバルナイフか、とか突っ込まれそうな気がする。だけども、purpose-agnostic であることは、何も「ソリッドでありながら、使い手の技量次第でいかにでも多機能化する」ということに限らない。デジタルツールにおいてそうした設計を達成するヒントは、むしろ数十年前のUNIX思想や、プログラミング言語上の概念に既に隠されている。(というか歴史上最も purpose-agnostic なプログラムは、オペレーティング・システムそのものだと僕は考えている)

例えば「単機能の抽象化されたプログラムをパイプで繋げる」UNIX思想。これは素朴にGUIに置き換えるとノードベースUIになりそうだ。Houdiniや(少ししか触った事が無いけれど)Touch Designerの強みはそこにあると思っていて。あるスタイルの為に具体的に設計された粒の大きい機能を与えられてしまうと、そのスタイル内のバリエーションを表現するに足るだけの限られたパラメータを弄くりまわすくらいしかやることは残されていない。あるいは裏ワザ的に変な組み合わせを試してみたり。だけど、それ単体としては抽象的操作でしかないフィルターを自由な順序で組み合わることが出来たら、その表現の幅はずっと豊かなものになる。モジュラーシンセなんかはそんな感じなのかなぁ。(違かった)そういう余地をツールに残すということはとても purpose-agnostic だ。

オブジェクト指向言語におけるカプセル化やインスタンス化は、ここ最近のUI/UXツールにおけるコンポーネント系機能や、AfterEffectsのEssential Graphicsといった形で応用され始めている。これがもう少し進化すると、例えばグラフィックのまとまりをいくつかのハンドル、パラメータによってコントロールしたり複製出来るようになる。その結果、ドローイングアプリの中で、例えばフローチャート、Webワイヤフレーム、あるいは間取りを描くツールと、デザイナー自らがその目的・スタイルに合わせた使い勝手のツールのサブセットを作り上げる事が出来る。開発者自身が関知せずとも、ユーザー自身が様々な目的に合わせた機能性を手にすることが可能になる。1 これはプラグインを通して可能なこともあるけれど、秘伝のタレ状態のSDKを解きほぐす必要も無しに、あくまでGUI上で普段のデザイン行為の延長として可能になるべき。 あと、あるオブジェクトの複製を一元的に編集できるだけの単純な「共通化」とカプセル化は違うのに注意。

これをAEでつくるのすごい。間取りコンポーネントがあれば…

というと業務的なメリットばかりになってしまうけれど、僕が言いたいのはもっと表現っぽい話。グラフィック要素を自在にカプセル化して、より高次のパラメーターや配置の工夫に集中できるというのは、グラフィックスタイルそのものの試行錯誤をより自由なものにする。これはちょっとイメージし辛いので、逆から話した方が分かりやすいかもしれない。例えばビルトインの丸・矩形・多角形だとかをテクく組み合わせるのを強いられる今の状況ってのは、開発者自身が「多分こんなのを描くにはせいぜいこの位の図形で事足りるっしょ」と想定した範囲の内側でもがいているようなものだと思う。 意識的にもがくうちはまだ良い。問題は、だんだんとその使い勝手を内面化して、例えば、カーブがトロコイド曲線になっている角丸四角形を描きたいなぁー、みたいな発想自体が生まれなくなることだったりする。こういう無意識のアイディアの狭窄が積み重なることで「○○アプリで描いたっぽい感じ」は生まれる。だから、どんなスタイルのグラフィックが描かれるかに不可知なドローイングアプリを作ろうとすると、必然的にシェイプやコンポーネントをビルトインのそれらと同じレベルでユーザー定義できて、なおかつカプセル化できる設計になっている必要があると思う。

時々不用意にディスってしまって申し訳無さを感じつつも、やっぱりcreative codingが好きなのは、コードやコマンドを通して表現出来る操作が、現状GUIベースのデザイン以上に抽象化されていて豊かだからなのだと思う。コード上での「丸を書く」という命令は、単にディスプレイ上に描画する以外にも、3Dプリンタのヘッドを動かすGコードとして解釈することも出来る。さらにopenFrameworksならC++、p5.jsならnpmを介して、その言語によって過去作られた膨大なライブラリと接続できる2npmというパッケージマネージャを挙げるなら、oFはConanになるのか。いやだけどofxAddonsのような気もするし。上手く対応するものが思い浮かばない…。。どれも大まかに「絵を描く」という目的に最適化されつつも、それは特定のメディアやスタイルにまで特殊化されているわけでも、コレとアレと…といくつか選りすぐって個別対応し “multi-purpose” を掲げているわけでもない。製本のためのInDesign、UIデザインのためのXDと違い、それがどういう使われ方をされ得るのか、そもそも何のためのものなのかに関知しないことによって、適度に実装が抽象化されていることが creative coding 系ライブラリのデザインツールとしての最良の点だ。その立ち位置の危うさがクリエイティヴなコーディングってなんなん…ってツッコまれポイントにもなっているような気はするけれど。そうした道具としての purpose-agnostic な設計こそが、これらのライブラリがお絵かきもゲーム制作にも、インスタレーションにも使われるようになっている所以だと思う。

じゃあ大人しくコードだけ書いてろよ、って言われそうだけど、そこには欠点もあって。プログラミングを通した表現は、どうしてもコードとしての見通しの良さが気にかかってしまう。結果として全部をパラメトリックに小綺麗に完結させようして、それはそれで表現が似通ってしまったりする。「良さ」のような漠然とした審美は、パラメトリックに記述しようとすると却って冗長にかつ中途半端になることが多い。だからこそ、限界までパラメトリックに作り込んだその先に、チマチマとしたチューニング行為や行き当たりばったりの破壊的編集を通した手数の積み上げが必要になってくる。これは根性論ではなくて、単にその方があるレベル以上の「良さ」にたどり着くには効率的だからだ。

GUIベースのデザインの利点はなんと言っても、素早くその「チューニング」や「破壊的編集」が出来るところにある。マウスやスタイラスを通したアナログ入力、WYSIWYGな操作感、裏側のレイヤー構造をさして気にせず目の前のアートワークだけに集中してイジイジ出来る環境は、コードに比べてうんとその一踏ん張りがやりやすい。3インタラクションデザイナーが、ツメの段階でdat.guiやimguiのようなライブラリを通してGUIからパラメーターをいじくり回せるようにするのはこのためだと思う。

いろんな所で言っているのが、制作行為ってある種の多峰性最適化だということだ。いうなれば、いくつも峰がある山地を目隠して皆で登るイメージ。登山の目的は「良さ」という標高を突き詰めていくことだ。標高が低すぎると、それは「良くない」ということなのでたまに死ぬ。もちろん万人にとって絶対的な「良さ」の基準なんて無いわけなので、そういうものがあったとしてと仮定の話。むしろその「良さ」の評価関数の多様さこそが、この集団山登りで全滅しないための肝だったりするのだけど。

繰り返し言う通り、現状多くのデザインツールは、素朴な多機能化、特殊化への方向に留まっている。これは、ツールが具体的にドコとドコの山専用に設計されていることを意味していて、そこで出来るのは、ツール開発者によって想定された山の中での局所最適化だ。デザインとは?論はnoteで死ぬほど見たしあまり突っ込みたくない話題だけども、この「良さ」の集団山登りにおいては、デザイナーの役割はそうした局所最適化、つまり8合目より上の針の先ほどの山頂を目指してその繊細な足裏感覚で探り当てるように登っていく役割を担うことが多い。

一方で、こんな可能性もある。その峰自体が果たして唯一の最高峰なのか。他にも未踏破の山が、既知の山の間、あるいは知らない次元の先に広がっているのではないか。そんな考え方をそっと提示するのが、例えばだけど、メディア・アーティストの役割だと思う。山の登山口を見つけられたら大成功で、こっちの方向に多分こういう山があるのかもしれない、と予言めいたことをするだけでも十分。というかデザイナーと違って根本的に「踏破」を求められてない。なぜなら、この多峰性最適化において、彼らの一番の存在意義は、集団全体が局所解に取り残され、緩やかな死を迎えないための乱択性の担保にあるから。これはメディア・アートそのものの定義や意義では決して無くて、結果的にこの適応ゲームの中でそういう役回りに回りがちという傾向の話でしかない。別にメディア・アートに限らずとも、技術者や折り紙研究者で構わない。つまり、特定の峰の局所解を目指してひた走る集団に対する、峰の配置自体を大域的に探し回るランダムウォーク集団だ。この2つの集団はどうにも相性が悪そうだし、根っからアティテュードが違う分現実にもいがみ合いがちだったりするのだけど、実はこの最適化アルゴリズムにおいては相補的な存在だ。もしかしたら佐藤雅彦先生がいう「ジャンプ」というのは、ロジカルに考えると峰の勾配にそって登っていくしかない所を、偶発的に峰から峰へ飛び越えてしまう瞬間のことを言うのかも知れない。そして、そういう跳躍力を「良さ」の追求集団のなかに内包するほど、その集団全体の生命力はしぶといものになる。

僕がとても中途半端なのは、デザイナーとしてはあまりに足裏感覚が雑過ぎる上に、メディアアーティストほどラディカルにメディアにおける表現というものを相対化したいワケでもない所にあると思っている。映像というメディアの中で、更にMVやモーショングラフィックスという狭いカテゴリの中でさしあたりは満足している。だけど気移りもしやすいので、その枠の中であってもそれなりにいろんな山には登ってみたい。一方でチマチマとしたチューニング作業も好きだから、なけなしの足裏感覚でもって5合目位までは登っておきたいし、ついでに褒められてみたい。

「良さ」の峰を大域的に走査するための設計の抽象度。そしてこの峰と決めた時、高い精度で山頂を探り当てにいくのに必要不可欠な、道具としての直感性や体への馴染みの良さ。それぞれcreative coding、GUIベースのデザインソフトウェアが得意としてきたことだが、この2つをうまい具合に兼ね備えたツールが無いのが、最近の一番の悩みで、制作が終わらない原因なのかと思う。いや、制作が終わらないのは完全に自分の計画性の無さにあるけれど…道具のせいにした。ごめんなさい。

色々話は戻って、purpose-agnostic なデザインツールを切に願うのは、そういうことなのだと思う。だってそのツールが使われる山が予め想定されている時点で、その山はある程度クリエイターにとって観光地化されていて、製品化する程度に需要があるってことだ。別に今更自分ごときが登っても屁にもならないわけ。だからこそ、あまり需要は無いのかもしれないけれど、それがどういうスタイルやジャンルに使われ得るかに「不可知」な態度のもと作られたツールがもっと世の中に充実していたら素晴らしいよなぁ、と個人的に思った。


追記

ちなみに、JavaScriptの factoryパターンのようなものをデザインツールで作りたかったのが、このデモ。 新千歳国際映画祭のID映像を作る時に開発した。ドローイングツールにおけるコンポーネントやプリミティブをユーザー定義できるのと同じように、それを一連のマウスインタラクションの中でどういう風に生成するかを定義できると最高だよねっていう実験でした。

https://twitter.com/_baku89/status/1022709978182774784?s=20

あと、去年Adobe Creative Residencyに落ちちゃった時に提案していたのが、よりデザイン作業に向いたUIコンポーネントの開発と、それを使ったよりプログラマブルなドローイングアプリだった。インタビューの最中「で、Adobe製品はどういう所に活かせるの? 」と痛い所を突かれ、アイコンとか作れます…とか応えてしまったのも落ちる一因だったと思う。(前からリスペクトしていた方が受かったので本当に良かったです)本当はもっと開発してから一般公開したかったけど、そんな事思っといて半年近く放置してしまっているので、所々動かないけど載っけておきます。積み残した制作終わったら再開します。

http://ui.baku89.com/

健全なマウンティング社会

ある素朴な価値観へのマウンティングがあったとして、そのマウンティングに対するマウンティング、に対するメタマウンティング… と、マウンティングは階層構造になっている。そして高次になるほど、良くも悪くもニヒリズムに近づいていく。高次が必ずしも良いということではないけれど、精神衛生的にはマシになることが多い。

一度マウンティング脳に目覚めた時点で本当の意味でその階層構造から抜け出す事は難しくて、一つずつ高次のマウンティング脳に移行して達観という極限値への収束を図っていくしかない。ただ問題は、n次のマウンターにとって直接的に嫌味に映るのはn+1次のマウンターだけということだったりする。それを超える次数のマウンターはそもそもそのn次のマウンターのことを嫌味抜きで「かわいいね」としか思っていないし、遠巻きに眺めるだけで真意を伝えようともしない。(少しでも腰を据えてn次のマウンターと関わろうとした時点でn+1次のマウンターと同化してしまうことをn+2次以上のマウンターは無意識的に恐れている)

だから、マウンティング脳の呪縛から逃れる段階において、n次のマウンターである自分に直接マウントを仕掛けてくれるn+1次のマウンターはとても大切な存在なのだと思う。健全なマウンティング社会には、それぞれの段階のマウンターが一つ下の階層のマウンターにマウントを仕掛けて、高次のマウント脳への移行を促していくポンプ作用が働いていて、その限りにおいて、すべての隣接する次数のマウンター同士は相補的な存在だ。だからあまり自分のマウンティング体質やその次数に悩まずに、健康増進の度合いに応じて穏便に一つ下の次数のマウンターにマウントを仕掛け続けていれば良いのかもしれない。と最近になって感じた。