Japanese Translation: The Computer is a Feeling
Feeling of Computingで紹介されていたアジェンダ。Podcastの名前を “Future of Coding“ からの変えたことについてのトークのなかで、これに触れられていた。chatgpt.iconの力を借りて試訳。
By Tim Hwang and Omar Rizwan
- コンピュータとは装置ではなく、手触りだ。
- わたしたちが言いたいのはつまりこう。コンピュータがコンピュータであることは、コマンドやコンパイラ、ましてや機械そのものとは関係がない。わたしたちにとってコンピュータとは、個人的な意味の体系と親密に結びついた、ある種の人工物がもたらす特有の「手触り」そのものだ。
- この点が見えにくくなってきた理由は二つある。第一に、コンピューティングを語るための言葉が——何十年も前に定着したまま——本来の意味と切れ味を失ってしまったことだ。
- たとえば「パーソナルコンピュータ」という言葉について考えてみよう。これはかつて、コンピュータ的な感触を与えてくれる装置——Apple II、コモドール64、Windows PC——が当時いかに特別だったかを語るための言い回しだった。パーソナルであることは、大型のメインフレームではないという点で肝だったし、そしてそれがコンピュータであることは、命令を実行する種類の装置だという意味でも重要だった。
- けど今や、その二つはありふれたものになった。コンピュータという装置はどこにでもあり、そのほとんどは何らかの意味で「個人的」でもある。これはハードウェアのコモディティ化がもたらした結果だ。以前は希少で高価だったものが、いまや単なる実装の細部になってしまった。トースターでも冷蔵庫でも車でもスマートフォンでも、まずはコンピュータを内蔵することが、そうした器械を制御する最も安上がりな方法になったんだ。
- そうした機器には確かにコンピュータのハードウェアが入っている。Linuxのようなコンピュータ用のOSが動いていることさえある。ただ、それはわたしたちが言う情緒的な意味でののコンピュータではない。「コンピュータ」はかつて、技術と、それが与える手触りの両方を適切に指し示していた。しかし時間が経つにつれ、その言葉はますます記述力を失ってしまった。
- 第二に、現代のインターネットがわたしたちの想像力を押し込めている。インターネットとその商業的な力は、コンピュータという装置の形を形作ってきた。そこはエキセントリックでローカルで癖のある世界ではなく、フラットで均質で共通のプラットフォームとプロトコルが生み出す風景が広がっている。これは必然でもある。二台、二百台、二百万台、二十億台のコンピュータが互いに通信するなら、かなり多くの取り決めに合意しなければならないのだから。
- インターネットの勝利はまた、コンピュータを「公的な表現」ではなく「私的な探索」の道具として捉える感覚を貧しくした。ネットワーク以前のコンピュータは、個人的なノートのようなものとしてしか役に立たない。ネットワーク以後のコンピュータでは、それが二次的な目的へと格下げされる。
- わたしたちは遍在するコンピュータ装置の世界に生きている。けど一方で「コンピュータ的な手触り」は薄れていく。スマートフォンを考えてみよう。言うまでもなく「パーソナルコンピュータ」だ。あなたのためのもので、ポケットに入っている。シリコンとソフトウェアでできたコンピュータでもある。
- それでもスマートフォンは、思想的にはコンピュータとして意義があるわけではない。「コンピュータ的な手触り」を与えるのは、せいぜい淡い一瞬の閃きだ。あれをコンピュータと呼ぶのは、どこか馬鹿げていて、間違っている感じがする。
- あなたはスマートフォンの夢を見るだろうか?
- スマートフォンはあなたが安住し、自ら形づくり、再設定できる居場所だと感じるだろうか?
- スマートフォンは可能性への感覚を与えてくれるだろうか?
- コンピュータは装置ではなく、手触りなんだ。
- 古い教義がある。本物のコンピュータ的な感触は、ある種の技術的なコミットメントから立ち上がるのだという。オープンソースやフリーソフトウェアの支持者は、コンピュータ的な感触はソースコードを読み書きできる能力に依存するとする正統性に固執してきた。
- しかし現代は、この信条の滑稽さを照らし出している。「コードを学べ」という自己啓発の教義を売り込む資源で世界は溢れている。にもかかわらず、コンピュータ的な手触りはまだ薄れ続けている。プログラミングはコンピュータ的な手触りを呼び起こす手段ではある。けど、その手触りを感じるには必ずコーディングを学ばなくてはならない、という鉄則があるわけじゃない。
- この正統はフェティシズムでもある。「プログラミング」はコンピュータ的な手触りを召喚できる。けど、それ自体がコンピュータ的な手触りなんじゃない。プログラミングだけが唯一の道だと考えるのは、道具を祝福しているだけで、経験を祝福していない。わたしたちが欲しいのは経験だ。
- 「コンピュータ」をコンピュータ装置ではなくコンピュータ的な手触りの意味で捉えると、この言葉がカバーする意味合いは変わってくる。スマートフォン、言語モデル、「ソーシャル」な「メディア」といった多くのものが、コンピュータ的な領域から外れていく。一方で、ノート、紙工作、日記、台所といった多くのものが、コンピュータ的な領域へ舞い戻ってくる。
- ここでのアジェンダは、何がコンピュータ的な手触りをつくるのかという理解を拡張することだ。
- そして、装置、モノ、文化のなかで、コンピュータ的な手触りを前進させるのが、このアジェンダの目的だ。
『New York Review of Computation』第1号(2023年5月)