CYvisibility_off

に行った
anon press 『TOKYO CYBERPUNK TRIBUTE』の物理書籍の「リリースパーティー」
- 永良新さんのことが自分は好きで、ある意味期待されてる「ノリ」を雑に無視する形で好き勝手なものを寄稿した
- 本そのものに対する価値判断を留保していた
また全然違う界隈の存在を肌身に感じられたのがまずよかった。そして軽出版がこれだけ盛り上がってるなかで、あんだけ(試みとしても、何より物理的に)重いことをやり遂げられる筋力にも驚いたというか。ただ、トークは近年まれに見るつまらなさだったのは惜しかったけど…
→ 丁寧に雑をやる
青木新さんの語りを聞いて、ggg 八木 幣二郎展についてぼくと青木さんで別媒体に寄稿した時の温度差の理由がようやく肌感で理解できた(Web版美術手帖「八木幣二郎 NOHIN: The Innovative Printing Company 新しい印刷技術で超色域社会を支えるノーヒンです」)
この「ノリ」だから、あの展示をああいう風に、ある意味(デザイナーとしての手技から浮足立った形で)捉えられるんだっていう。
自分はあれを「スペキュラティブ・デザイン的な想像力の産物」として捉えることは、適当な場所で好きにやる分にはいいけど、gggという歴史ある場ではむしろマイナスだったんじゃないかと思っている。
だってさ、ZbrushやUVプリントさまさまなわけで。別にZ線なんて仮構しなくたってよかった。青木さんはあのレビューでプロパガンダデザインとかそういうデザイン史を引いていたけど、むしろ参照すべきは既存の印刷技術やDCCツールが連綿と紡いできた技術と表現史だったんだと思う。(杉浦×写研はまさにそう。c.f. 杉浦康平と写植の時代)
だから、あの展示を成立させた実在のデザイン技術史から離れて、あの「偽史」に確信的に乗っかるのって、布施琳太郎さんが北出栞さんにXでリプライしていた意図とは裏腹に、むしろあの展示を「アート」にすることに観客として加担するような感じがする。
なにより、コンセプチュアルな部分にフォーカスしてて盛り上がるアートやスペキュラティブ・デザイン界隈のオーディエンスの多さに(あとは展示のキュレーションの経緯もgggにおいては変則的だったのもあって)グラフィックデザイナーの人たちにはやや冷めていたことを、空気感として、あとは証言として知っていて。それはデザイナーコミュニティの閉鎖性云々でも、保守性の発露でもなくて、「そんなに壮言大語をはたかなくたって、マクガフィン的なコンセプトをおっ立てなくたって、八木さんがやらんとしているニュアンスの実験性と心意義をちゃんと理解してるんですよ」っていう老婆心にも近い受容。
だから、あれをちゃんと地に足ついた「グラフィック・デザイン」の展示にするために、技術の言葉で徹底的に脱神秘化しておきたかった。本人にも、できればASHUのお二人にちょっとはた迷惑な、野暮ったいものを。