橋本 麦∿Baku Hashimoto

ナード観の覚書

というツイートを受けて

となんとなく書いたのですが、(Twitterの性質上仕方が無いにせよ)色んな受け取られ方をされていたので、個人的に何を思ってのことだったのかメモしておきます。普段はこの種の言説にガッツリ反応するのも自分の役割ではない気もしてスルーしてるのですが、この感情は今のうちにしゃんと言語化すべきとも思いました。

まずエクスキューズから入ってしまうのだけど、「ポカリ的」というのはどのCMを具体的に貶めるものではなくて、ああいう種の空気感のクリエイティブ全般をフワッとイメージして言ったつもりでした。元ツイートのニュアンスを汲むに、サノ☆ユタカさんがCM演出を手掛けられていた頃のものではなく、この数年のハイティーンの男女が起用されているクリエイティブを指しています。そして、その多くを手掛けられているディレクターの柳沢翔さんは、最も好きな映像ディレクターの一人です。加奈さんによるインタビューも良かった。スパイク・ジョーンズやMegaforce、ノーランのような、いやそれ実際に組んで一発撮りしちゃうんだ!という大胆さのある映像は、やっぱり夢があるし、ギグエコノミーまっしぐらな映像業界の中でも、めちゃくちゃ希望を与えて下さる先輩です。ヨイショしすぎてキモいいけど、自分んなかでは実際そういう実感。

「加担したくない」というのも言葉の選択を完全に間違えていて、少なくとも自分がフォーカスするのはそういう表現じゃない、というニュアンスに近い気がします。人種へのステレオタイプやジェンダー規範の再生産の問題とも違って、ああいうキラキラした表現が直接的に特定の属性をもつ人々に攻撃的にも排他的に振る舞うわけでもない。それは単に自分に向けて作られたものではないまでの話で、 ああいう表現はああいう表現のままで良いとも思います。

https://www.youtube.com/watch?v=SHVQOLhBpZM

具体的な例で申し訳ないのですが、例えばこのビデオに中立性のもと、将棋部とか放送部、あるいは帰宅部を平等に入れるべきとかそういうことでも無い気もします。(実は登場しているのかもしれないのですが、自分の注意力では分かりませんでした)


スクールカースト問題の難しさは、それが見える人には重大に感じられても、そうでない人には些末過ぎて何がそんなに深刻なのかすら理解できない非対称性にあると思っています。アメリカだとまた状況は違っていて、インセルによる重大犯罪などといった形で、その実害が社会的にも理解されているけれど、日本のそれはもう少しアンビエント。せいぜい「リア充爆発しろ」のような茶化し、あるいは(これはこれで相当深刻な社会問題なのだけど)一部のオタク特有のミソジニーとして発露するに留まっている気もする。 だから “nerd” という言葉をそのまま日本の文化圏に当てはめて良いものか思うところはあるのだけど、 ひとまずそこは置いといて。

同業の友人や、ぼくが勝手にナードだと思っていた高校の同級生と久々に話すなかで一つ気づいたのが、ナード的だったからといって必ずしもナードコンプレックスを抱えているわけではないということだ。そういう人達はある意味で「芯」がある。彼らに言わせれば、別に学祭とかサボって家で絵描いてたし、学校に友達は居なかったけどそんなに苦じゃなかった。今が充実してるならそれで良い、とのこと。清々し過ぎて自分がさもしく思えてくる。ナードであることがコンプレックスへと発展する否かの境界条件は未だに分かっていない。ここからは独自研究なので話半分に読んで欲しいのだけど、環境因子としては「地方」の「普通科」ってのは一つ大きそうだなぁと思う。それらは、学校以外にコミュニティを持ちやすいか、人間関係の評価軸がその人の個性・専門性ではなく、その関係の中での立ちふるまい方で序列化される傾向が強いかというところに間接的に関わってくる。逆に言えば、地方でも、高校時代からWebを通して趣味ベースで繋がるコミュニティ (DTM界隈や『お絵かき掲示板』だとか) に参加できていた人達は 「拗らせる」傾向は少ない印象がある。

パーソナリティの話で言うと、いかにもナード的で「キモい」とされる行動を主体的に起こしまうタイプか、単に目立たずスルーされるだけのタイプかの違いも大きい。前者は自分に向けられるシニカルさもまた能動的なものになりやすくて、それは往々にして「いじり」以上「いじめ」未満の曖昧な抑圧として、長い時間をかけて蓄積していく。これは中学時代に見聞き・経験した話だけど、寝技中にチンコを揉んだら勃起したとか、女性化乳房で乳首が長いとか、妹でシコってるとか根も葉もない噂を吹聴されたり。思い出すとどれもいかにも中学男子っぽくて笑う。だけども誰も自分を弱者だと思いたくはない。だから別にTVで報道されるような「虫を食わされた」レベルの身体的苦痛は無いし、結局こっちも何かかしらキモいという不快感を与えてしまっているのだから、これもじゃれ合いの類だろうと自分を納得させる。そして気づいた頃には、そうして仲間に入れてもらえた彼らを友達だと思うと同時に、ふんわりと呪っている。

いじめ問題に関して思うのは、報道されるほど壮絶な例というのはそうした 「いじめ」と「イジり」のスペクトラムのほんの極値なのではということだ。もちろんそれ自体には厳正に対処すべきだと思う。だけどああいったレアケースを潰したところで、いじめ-イジり文化がたらす誰かのしんどさの総量はさほど変わらない。むしろ怖いのは、極値ばかりが目立ちすぎることで、それ以外の99%のイジりのしんどさを本人も周りも「あれほど酷くはない」と矮小化してしまうことだ。

そしてもう一つ、イジられる本人にとっても良くないのが、そうしたコミュニケーションのあり方を内面化してしまうことで、自分がいつでも加害者になってしまうことだ。誰かをイジり、それでも拒絶されずに友達でいてくれることで過去の抑圧が正当化されるような安堵感に包まれる。そして、どこまで許されるかを試すように性懲りもなくイジるうちに、気づいたらその人は離れてしまっている。だけども自分はあくまでイジられ側だという自認が、その人自身の加害性に気付き辛くさせる。


ナードコンプレックスのしんどさの一側面は、そういう「イジり」と密接に結びついているように思える。ただそれは、同じ生徒同士の意識的なコミュニケーションの中で生まれるものでしかなくて、もっと空気のように、誰の悪意も無しに、構造的に生まれるしんどさというのもある気がする。とか別に勿体ぶって言うことでもないんだけど、体育の時間、アレはマジでヤバい。

ぼくはスポーツが得意な家系の中で奇跡的に運動神経が悪かったので、小さい頃から父にテニスやスキー、キャッチボールに連れ出されては「集中していない」「妹の方がまだ上手い」と呆れられていた。この「呆れる」というのもまた、「怒鳴る」ほどのあからさまな加害意識を伴っていないだけに、悪気もなく繰り返されがちだし、子供の自尊感情をジワジワと削りにかかってくる。そしてさらに運動が嫌いになっては、一向にスポーツは上手くならないというフィードバックに陥る。

中学校になると部活動が本格的に始まる。ただそこでもなんとなく「運動系に入らない奴はナードだ」という暗黙の了解があるので、その烙印を押されない為に少しでもヌルそうな運動系部活に入っておく。(この『自分はコンピュータ研究同好会に入るほどのガチナードではない』という差別意識もまたナードコンプレックスを引き起こしやすい気がする)そのパターンの人は普通はバドミントン部、卓球部あたりを選ぶらしいのだけど、自分はどういうワケか柔道部に入ってしまい、 極上のホモソーシャルに身を投じることになる。結果から言ってクソ程に弱いまま、かろうじて誰でも取れる黒帯を取りつつ引退した。さらに運動嫌いは深まる。

そこで体育に話は戻るわけだけど、あれは「運動好きが興じて体育教師になった大人の考える最強の、運動好きな10代が楽しめる運動の時間」なのがそもそもヤバい。もちろん教育指導要領なんかでは、様々なレベルの生徒に合わせて「運動の楽しさを伝える」みたいなことになっているのだろうけど、それでも現場レベルでは「別にゴタゴタ説明せずに好きにゲーム出来たほうが楽しかろう」という寛大な判断のもと、ルールを熟知したジョックスに授業の主導権は渡される。

ジョックスといっても、高校にもなると本当に朗らかで良い人達がほとんどだった。サーブをまともに打てなくても、ドンマーイとサラッと励ましてくれる。多少の疎みはあったのかもしれないけれど、彼らにとっての関心事は専ら目の前のゲームを楽しむことだっただろうから、「励ましてあげている」という意識すら無かったかもしれない。一方自分なんかは、体育の授業がある数日前からは頭の中の日付の数直線が体育の時間を境にハッキリと色分けされるレベルでビビっている。授業中はとにかく時間が早く過ぎることを祈る。そんで、あらぬ方向にレシーブするたびにマジで凹むんだけど、ジョックスの醸成するこの爽やかな空気を濁してはいけないと、「テヘッ」というようなどっちつかずなリアクションで済ませてみる。だけども心中申し訳ないやら恥ずかしいやらでしんどい。ちなみに、二年生の頃にあった柔道の授業は最悪だった。誰よりも自分の下手くそさを自覚しているにも関わらず、見本として先生と乱取りをさせられる。笑ってはいけない微妙な空気が流れる。一連の授業の締めくくりに、トーナメント戦をすることになった。休み時間、クラスの一番運動神経の上手い男子に「麦に勝ってみせるぜ」と爽やかに言ってのけられた。いや、勝てるでしょうとも。当日、この世の終わりかのような心地で授業に向かうと、どういうわけかトーナメント戦自体が無くなり、マット運動に差し替えられた。体育教師が気を効かせてくれたのだろう。その察しすらも辛い。

この体験を、当時のジョックス的な人達にしたところで、え、そんなこと気にしてたの? という反応が返ってきそうな気がする。そんな細々したことをウジウジ気にしない、その前向きさこそが彼らをジョックスたらしめていたのだろう。ともかく、この体育の授業を巡る複雑な想いというのは、分からない人には分からないようにできている。だからこそ、しんどかった側は「どうして球技が出来ないくらいでここまで自尊感情が傷つけられなくてはいけなかったんだ」というやり場のない気持ちを抱き続けることになる。


と、なんだかマジなトーンで書いてしまったのだけど、悲惨な10代の記憶に苦しめられて日々を生き抜いている、とかそういう話でもなくて。実際問題、同級生の本格的なターゲット(いじめられっ子)に比べると自分なんてただの目立たない、ちょっと数人にイジられるナードで済んだわけだし、当時も目に見えてしんどい毎日を送っている実感は無かった。これも危険な矮小化なのは承知はしているけれど。むしろ、放送部の活動に打ち込んだりMacBook Proを弄ったり、ナードなりの形で(むしろナードにしては)楽しく青春を謳歌していたと思う。数少ない負の感情も、美大やクリエイティブ業界の個人主義的な空気感にあてられてとっくに消え去ったような気にもなっている。だけども、心の根深い所ではナード生活を通して内面化してしまった行動原理にいまだに支配されている所もあって。例えば「その後の人生で得られる自己肯定感を継続的に削いでかかる」というのは、より正確に言えば「その後の人生の成功体験を、自分がただ嬉しいというより『見返してやった』気持ちとして受け止めてしまいがちになる」といった感覚に近い。ルサンチマンは、それはそれで安定した精力源にもなり得る。だけども「自分が心から調子良くやれるか」ではなく「見返した感を強く得られるか」を基準に仕事を選んだりなんかし始めると、結果上手く回せなかった時にただただ心が虚無になる。あとは、あれだけ見返したいと思っていたジョックスはそもそも自分なんて気にも留めていないと自覚した瞬間も虚無になる。

また、ナードコンプレックスそのものをどう昇華するか問題もあって。これもただの経験則だけど、大きく3タイプあると思っている。

  • 同化型: ジョックスに同化する
  • 夢想型: 自分はそのままに、ジョックス的/ナード的という社会規範の方が逆転した世界線を夢想する
  • 受容型: ナードである自分を受け入れた上で、ナードなりの楽しさを見出す

大学デビューに意気込むのは同化型で、(適当なことを言ってしまって恐縮なのですが)異世界転生モノやハーレムアニメが扱うのは夢想型だと思う。一方で、受容型に寄り添ってくれるコンテンツというのは本当に少なくて、アニメで言えばぼくの知る限り「四畳半神話大系」しかない。いや、あの作品もまた、「私」が同化・夢想型から受容型ナードへとアセンションされるという話で、しかもその悟りの結果、明石さんとも結ばれるという意味では、完全な受容型ではない。

そもそもぼく個人はというと、比較的受容型かなぁと思う。だからこの3タイプの分類もわりに受容型に良いように書いてるし、もし自分が同化型だったとしたら受容型のことを諦観型とかダメな感じで名付けていたはず。

受容型の特徴は、そもそもリア充というものにそこまで憧れが無いということだったりする。一度だけ FINEBOYS を買ってみたことがあるけれど、 どれも謳い文句に「モテ」という言葉が入っていて萎えた。いや、その不特定多数の異性に相手にしてもらえるかってのは割にどうでも良くて、(18歳当時のイメージ上の)オシャレさんに溢れた東京を歩くのにダサさで目立ちたくない、恥ずかしくなくなりたいというマイナスからゼロへの願望でしかなかった。と言うと、モテたくないなんて嘘だろ? というテレビ業界のオッサンに突っ込まれたりするのだけど、その度に引き合いに出していた例えが「シマ充」で。 世界のどこかには、島を買えるようなレベルの富裕層が居て、多分その人達にとっては、島を不動産として所有しているかどうかは人生の充実度を表すバロメータになっているのかもしれない。だけどぼくもそのオッサンも自分のことを「非シマ」だとは思わないじゃないですか、みたいな。ガチガチに理論武装しようとしてるあたり意識高えなと自分でも思う。例えとしては極端だけど、大富豪の世界を前提に物事を想像できないように、不特定多数にモテるという可能性を自分事としてイメージできなければ、世にいう「リア充」への憧憬の念もあまり湧かないのは理解できると思う。もちろんリア充の意味するところはモテに限らずもう少し広いのは承知しているけれど。

だから、この種の感情を、いわゆる青春コンプレックスではなく、ナードコンプレックスとかいう馴染みのない言葉で表現しておきたいのも、その受容型か否かをしっかり区別しておきたいからで。妬みが完全に無いとは言い切れないにしても、それはどちらかというと同化願望というより素朴な疎外感で、自分が好きだったナードなりのキラキラはキラキラとしてあまり認めてもらえない、という八つ当たりの気持ちにも近い。とはいっても、 Urban Dictionary の方には青春コンプレックスとさほど変わらない定義が書かれていたりもする。(ネイティブに言わせれば全く当てにならんサイトとのことです…)


自尊感情はゼロサムで、社会における自分の相対的価値に見合った分だけ芽生えるものだ、という漠然とした認識があるような気がする。それが日本全体のものか、はたまた地元レベルの意識なのかは分からない。そもそも人の価値というものがスカラーではない以上大小関係は定まらない。それが翻って他者を貶めることにならない限り、各々が自分にとって都合の良い価値基準のもとに自分を肯定しておけば良いのだと思う。その自己肯定感がもたらす幸せや自信といった薬効は、過度に思い上がることで振りまく迷惑分を微々たるものするくらいに人々を生きやすくする。

いや、別にそんなスピったことが言いたいわけじゃない。率直に、ナード的なモノの感じ方をぼくらがありのままに肯定出来るコンテンツや表現って有意に少ないなぁって話。ポカリ的表現にナードの入り込む余地はあまり無いわけで。外交的でアクティブでキラキラした毎日を送っている彼らが青春の主人公で、自分達はただ無かったものとしてスルーされる。そうした表現自体は、「こういう青春いいよね!」という純粋にポジティブな気持ちのもとに作られているのだろうけど、それがあまりに世の中に多いと、こちらとしては妙に疎外されたような気持ちになる。

…と、ついついコトを深刻に表現してしまいそうで難しい。本当にこれはバランスの問題だと思う。比較の対象として不適切なことを承知で引き合いに出すと、#BoPo (ボディポジティブ) ともある意味で似ている。別に痩せたモデルを起用したからといって、そうでない人を貶めるものではない。だけども、広告表象として取り上げられる体型比が、世界人口におけるそれにくらべてあまりに偏ることで、間接的に人類の自尊感情の総量を目減りさせてしまう。

ただ、人種や性、美の規範とも違って、今のところは全ての表現が作品単位で中立的に均される必要もないと思う。一方で、ああいった世界観の中ですくい上げられるキラキラは10代の多種多様な輝き方のうち、のほんの一部でしかない。ナード性をありのままに肯定してくれる表現は、もう少し世の中にあってくれても良いと思う。これは本当にバランスの問題。


仕事に関して振り返ると、広告系の案件で感じたしんどさの一因はそこにあった。二十歳前後の頃はその辺がまだ上手く言語化できなかったので「オシャンティーな仕事はマジで辛い、無理」というよく分からない弱音としてウジウジ吐く他なかったのだ。考えてみれば、ジョックス的キラキラに主題を置いた映像(なんだそれ)を無意識に避けている。そしてこれはルッキズムの話ともまぜこぜになるけど、モデルを登用せざるを得ないときはどういうワケか身体や顔をグリッチさせたりしてシルエットにしてしまう。それでも、世の中の中央値からするとあり得ないほどキラキラ度の高い人を「次はどの自分を開放する?」ってな感じのコピーとともにエディットするのは、自分には正直向いていなかった。そういえば、あるビデオのために味噌に詳しい学者っぽい方をオーディションしたことがあった。自分が一番 nerdy だなと感じた方が、アップだと画的にキツいので若くて端正な人にして欲しい、とクリエイティブ・ディレクターの方からNGを喰らった時も、哀しかった。「学者 = ナード」という相関や「ナードっぽい見た目」への判断基準もまた別の偏見ではあるのですが。

そんなネガティブなことばかりほざいてても仕方が無いので、自分が何にエンパワーされたかという例をいくつか挙げておきます。中3の頃に読んだ Paul Graham の「オタクが人気者になれない理由(Why Nerds are Unpopular)」は、時代錯誤な部分はあれど高校時代をサバイブする理論武装を自分に与えてくれた。自分の大学時代に特に盛り上がっていた分解系やマルチネのような国内ネットレーベルも、どういうわけか、クソダサい蛍光グリーンのスリーブで肩身離さずMacBook Proを持ち歩いていた高校時代の自分が受け入れられたような気持ちになって救われた。DTM界隈は「狭苦しいベッドルームでパソコンと機材に囲まれて打ち込みをする」みたいな画が原風景として共有されているのも関係しているかもしれない。いや、適当なこと言った。


繰り返しになるけれど、ジョックス的な表現にばかり「加担したくない」と否定的な書き方をしてしまったのですが、これはあくまで自分はソッチじゃないな、という意味でのものです。業界は狭いので、5000 Likesレベルでも少なくない確率で関係者の方の目に触れてしまいそうなのが申し訳なくて。だから、特定の表現の存在自体を否定するわけでも、断罪するわけでもないことは強調しておきたいです。

ただ一方で、この記事を読んだ同じ映像業界にもナード出自の人たちはきっと多いはずで、ある程度共感はしてくれるような気もする。だけど、もしぼくの言わんとしている感覚が本当に理解できているなら、そもそもそういうモノは撮るはずが無い、というパターンもそれなりに多そうな気配もある。あくまで経験則でしか無いので話半分に聞いて欲しいのですが、この世界でナードを自認する人に「同化型」の割合はかなり多い。そして「同化型」の方の特徴として、ナードというものをおおよそ銀杏BOYZ 峯田やDJ松永、山里亮太のようなルサンチマン・マンとして記号化しがちだ。ゆえに、例えば垢抜けることを、社会規範への過剰適応としてではなく、ただ純粋な自己研磨の成果としてポジティブに描くことに抵抗感がない。そして、そのような「クラスの爪弾き者にとっての大きな物語」に屈託無く乗っかっていける気質は、消費者に欠乏感を植え付け、それを克服する欲望を掻き立せんとする広告業界においてとても有用なスキルだったりする。もちろん、そこに悪意があるとは言ってはいないし、そうして経済はまっとうに回っていく。ましてや、ほとんどの方がそうした広告的なメッセージに対して無意味な認知的不協和を感じてはイジケるような真似はしないし、その一点においても、ぼくよりもずっと誠実にクライアントワークというものと向き合っているわけでして、正直頭が上がらない。しかし、そうしたある種の純朴さや誠実さが、意図せずして「受容型」ナードのような誰かを間接的に疎外しているのもまた事実だ。…というと、やはりコトを大げさに書き立てているようで、なんか違う。そんな大層な話でもないし、そうした表現を見るたびいちいち傷ついているとかそんなんでもない。頭のほんの片隅で「ヴッ」と感じる程度のこと。

ぼくはというと、ナードとしての自分にある程度愛着があるし、ナードな自分はアイデンティティの一部で、垢抜けることで「卒業」するものでも無いと思っている。そして、ハッカー・カルチャーのように、何がカッコいいかという価値観が学校内でのそれと全く転倒した文化にも親しんでいた身として思うのは、ナード的かジョックス的かを区別するのは何かの優劣ではなく、社交におけるプロトコルやルールの違いだということ。様々な歴史の偶然が積み重なり、たまたまハッキング能力ではなく球状の物体を所定のルールで取り回す動作の巧みさが魅力的と見做されるようになった。それ以上の意味はない。例えば中性的で細い男性がほんの半世紀前どう見做されていたか考えて欲しい。それだけ魅力的な形質というのは文化のカオス性の中で、恣意的かつ予測不可能に変化する。しかし、一度生まれた価値観のわずかな偏りは、表現の世界で繰り返しステレオタイプとして擦られることでより強化され、あたかも所与のものとしてそこに存在していたかのように自然と社会に溶け込んでいく。

そんなわけで、別に決意表明というほどのものではないけど、自分がそういうなにかを作る機会をいただけた時には、そうした表現の偏りを均す方向へと作用するものを作りたい。というか意識せずとも既にそういう感じになっているような気もする。そしてあわよくば、あんまりすくい取ってもらえてない種類の誰かのナード性や地味さ、映えなさ、いなたさを、ありのままに肯定するものになってくれれば嬉しいなと思う。