橋本 麦∿Baku Hashimoto

おもちゃの設計

目的に関知しない に関連して。

そのおもちゃがどれだけ遊ぶ人の創造性を育むみやすいかどうかも、それがどういう遊ばれ方をし得るかにどれだけ設計主が agnostic(不可知)な態度を貫いているかによって決まるのではないかと思った。別におもちゃの良し悪しをジャッジしようってワケじゃない。

「創造性」なんてスピった言葉を使うこと自体が気色悪かったりもするのだけど、僕なりの定義を挙げるとすれば、「あるやり方をよりうまくこなす」に対する「やり方そのものをよりうまく編みだす」ことなのかなぁと思ったりする。違ったやり方を編みだすことは、結果的に新しいものを生み出すことにも繋がりがちなので、そこだけに着目して「新しいものを創り出した = 創造的」と勘違いされやすいのだけど。単に新しいものを作るだけでOKなら、工場で働いている方々は僕みたいな手工業でものを作る人達の比じゃないくらい創造的なことになるし、その言葉の直感的イメージに反する。むしろそれは「創る」というより単に「増やす」に過ぎないだろうと。だから実は創造性において着目すべき点は、結果そのものではなく、そのプロセスの真新しさなのではないかと思う。

もう少し突っ込んでいえば、何をもってして創造的かもまた、あるルーティーンの枠組みに対して相対的に定まるものでしかない。「あるやり方をよりうまくこなす」に対する「やり方そのものをよりうまく編みだす」とあえて対比してみせたのも、まさにそういう意味で。例えば プログラマーのような、やり方そのものを日々編み出し続ける仕事をしていると、やり方を編みだすということ自体が日常的行為なので感覚的にもそれらがおしなべて創造的とは言い難い。だから彼らのようなレベルの仕事においての創造性は、より高次の行為、例えばより賢いプログラミング言語そのものや、より新しいパラダイムを編みだすことにあるのではないかと思う。そこまでいかずとも、その人なりに今まで挑んだことのないアプローチでエンジニアリングをしに掛かることも、ルーティーンを回す技能や効率向上でなく、ルーティーンそのものに対する改良行為なので創造的と言えるかもしれない。その点で、創造的行為は常としてメタ性を孕んでいる。

話はおもちゃに戻って。そういう僕なりの創造性の定義でいけば、ある遊ばれ方や、クリアまでの直線的な道のりを想定されたおもちゃを遊ぶことで育まれるのは、その遊ばれ方の枠組みのなかでよりうまく楽しむことでしかない。先の定義でいうと、おもちゃを想定された遊び方で遊ぶという一連の行為に対して「相対的に」創造性のある行為は、おもちゃの遊び方を考えることになる。だから、遊び主(?)が自らそのおもちゃをどういう風にして遊ぼうかを考える余地を残しているか、遊ばれ方に対して設計主がどれだけ不可知な態度を貫いているかが、そのおもちゃが育む創造性に関わっているように思えた。それがズバリ、目的に不可知な態度、つまりおもちゃの purpose-agnosticさ(目的に関知しない性質)だ。そしてその最良の例が積み木やレゴブロックで、そのソフトウェア版が Minecraft だったりするのだろう。砂場でもビー玉、お人形でも何でもいいけど。

とはいえ、現実にはトイ・ストーリーのシドのように、おもちゃをハックすることでその遊び方というのはいくらでも拡張していける。むしろアンディはカウボーイの人形をカウボーイとしてしか遊んでいないわけで、その意味でシドの方が数段クリエイティブだ。(というような文章を残したのは誰だっけ? 思い出せない)しかし、設計主の想定に関わらずこうした抜け道がおもちゃに残されるのは物理世界の話でしかない。ソフトウェアのおもちゃは、赤ちゃん人形の頭部と機械仕掛けのクモを組み合わせてキメラを生み出す感覚では、ゲーム同士をくっつけたり改造したりできない。あくまでゲームデザイナーが意識的にそうした設計にしない限り、そのゲームの遊び方自体を考える余地は生まれにくい。その代わりに「バグ」という小学生男子・女子には恐ろしく甘美な領域が潜んでいたりするのだが。

23 Hilarious "Toy Story" Moments That'll Make You Laugh Every Time ...

最近も香川県でアホい条例が可決されていたりするけれども、ああいった種の人達が抱えがちな「ソフトウェアのおもちゃ」への謎の抵抗感は、無理やり理由付けするとすれば、そうした「遊び方を考える」というメタ遊びがやりづらい点にあるのではないかと思った。別にゲーム脳なんて唱えている人達はそんなこと微塵も考えてないだろうけど。ただ、このアプローチで攻めてこられたらゲーム派としては結構ぐぬぬ…という感じなので、このまま思いつかないままでいて欲しい。

話は逸れるが、来たるプログラミング教育の時代に向けて遊び感覚でプログラミングが学べます、というような教材が最近増えている。ただあれも「パネルを組み合わせてドラえもんをゴールまで運ぼう!」という具体的な目標が設定されてしまっている時点で、プログラミングで遊ぶことを通して本来育み得るメタ思考の良さ、面白さがスポイルされているなと思った。とはいえトイザらスでめっちゃ楽しく遊んでたけど…(笑)その点、Sketchは初めかららちゃんと完成されていて凄い。

Lifelong Kindergarten | The MIT Press


追記

「大量生産は創造的か」の下りで、創造性は成果物というよりプロセスの新しさによって定まると結論づけてしまったけれど、どの特徴をもってして成果物が同じか違うかという同値性の定義に置き換えても良いと思った。ある行為を通して新しい同値類のグループが生まれた時、それは創造的だと…。どちらの意味でも、創造的という言葉には単にあるジャンル、ある作法の中でまた一つ誰かの手によって成果物が増えたというより、そうした枠組みそのものに対する何らかの発明が含まれているように思える。その意味で、創造的、特に英語でいう creative という言葉の、デザインやアートっぽいものに付随したイメージは個人的に的を射てないような気がする。どの分野であれ、その枠組みをいかにハックしたり相対化したりして結果的に新しい何かを発明するかが creative たり得る要素のような気がするし、その意味でデザインやアートじゃなくても creative な態度は、たとえば税理士の世界にも存在しうると思う。今所属してる会社の税理士の方とかまさにそんな感じの方だし、ゲーデルの不完全性定理は20世紀の脱構築史の最骨頂だとも思う。その逆も然りで、職種はクリエイティブ業でも、また一つシコシコとクリシェで塗り固められたものを増やすに過ぎない仕事は多くある。「車のパーツを擬人化して、なんかボカロPにイメージソングを歌わせる」みたいな企画の話が来た時にそう思った。そういう仕事が卑しいとは思わないけど、自分の中では全く違う世界のような気がするので、「クリエイティブ」という言葉を譲っても良いので何か上手く業界内で棲み分けする方法が欲しい。

あと、ゲームの良さは案外武道と同じような所にもあると思う。とはいえ僕も柔道と、あと圓和道という謎の韓国武術しか経験ないけど。最近読んだ本で「(武道を通して)ふだんの身体の使い方とは違う身体の使い方が出来るようになる。その『別の身体』から見える世界の風景もまたふだん見慣れたものとは全く違ったものになる。」という一節があった。ゲームもまた、全身とは言わないが、その指先を通して、ヨッシーにしろゼビウスのソルバルウにしろ、生身の身体とは全く違う環世界に憑依する特異な感覚というのが確かにあって、それは鬼ごっこや木登りのような外遊びでは得難いものだと思う。