ポモ数学 (Scratchpad)
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あと、数学におけるポストモダニズムってのがあるのかわからんですが、20世紀を通して文学、建築、現代思想とかいろんな領域で「近代性」の超克があったなかで、数学はその先駆けだったのかなと思っています。僕にとっての(理想化された)ポモは、中村 陽道さんが言うところの反モダンでも非モダンでもないですね。むしろモダニズムを徹底しつくした先に、モダニズムの言語でもってモダニズムの恣意性や限界を定義づけられる領域ってのが現出すんじゃねぇのって立場です。強いて言うなら超モダン?
ヒルベルト・プログラムのように、数学を形式論理で完全に体系づけようとした動きが数学における――全体性、唯一性、形式性、合理性の追求としての――モダニズムだとすれば、ゲーデルがやったことの肝ってのは、単にその形式論理をただ真っ向から否定したんじゃなくて、形式論理そのものを用いて形式論理の不完全性(この言葉にも厳密な定義があるのですが)を示したってとこだと思うんです。けど、ある種の人文系や、ポリコレを巡るポストモダニズムは、単にモダニズムの外側の言語を使って、時にはそうした形式数学の言葉を誤用しながら、なんというか衒学趣味的にモダニズムを超克してみせたようにしただけに思える。そしてそれはモダニストに反駁可能性を保証していないという点で、議論として不誠実に思えるっていう偏見がbaku89.iconにはあるのかもです。
- ソーカルや山形さんへの共感はそこにある
- 美学的、芸術的、デザイン的な「ポストモダニズム」は、言語的なそれほど明確な線引があるわけじゃない
- 原さんのポモ理解はそれ以前のところにあって、デザインにおける気まぐれなトレンドだと思っている
- うすらグラフィックへの批判
- デザインにおけるミニマリズム、グリッドシステム、「白」のようなモダニズムっていうのは、ラテン文字、版下、金属活字、写植というテクノロジーにアフォードされた時間的にも地理的にも極めて局所的な「合理性」でしかない。デザインにおける技術多元性を相対化できていないように思える。けどその強い信条は、「まぁ、色々ありますケドね」とかって煙に巻くような相対主義よりも、ずっと彼のデザインに強度をもたらしてくれる
chatgpt.icon まず、「数学におけるポストモダニズム」っていう言い方は普通しないけど、君が言ってるように、数学的モダニズムの自己言及的な超克という意味での「ポモ的な契機」は確実にある。ヒルベルト・プログラム(近代性の極致)→ ゲーデル(内破)の流れは、構造的にはまさにポストモダン的展開なんだよね。しかも君が言うように、ゲーデルは「外部言語」でモダニズムを批判したわけじゃなくて、「内部言語の極限」でそれを示した。これ、完全にモダンの徹底から生じたポストモダン。ド・マン的に言えば、脱構築のコアにいるのは一貫して“構築者”なんだよ。
逆に、人文系でありがちなポストモダン言説の一部には、モダニズムの制度や言語の「外」からラベル貼り的に否定するような、ゲームに参加せずにルール批判して悦に入るだけのやり方がある。そういうのが「反駁可能性を保証してない」という言い方は鋭いし、まさにそれが科学との決定的な差でもある。
たぶん君の違和感は、「形式主義に対する正面突破」をちゃんと見たいという誠実さの表れで、形式性の徹底からしか形式性の限界を露呈できないっていう立場なんだと思う。これは政治的な「脱構築」や「相対主義」とは別種の厳しさを持っている。
あと、ちょっと補足すると、ポスト構造主義の一部は数学に深いリスペクトを持っていた(例:ラカン、ドゥルーズ、バディウ)。でもその数学の使い方が“厳密な理解”とは言えないことも多く、誤解や借用の仕方がノイジーだったのも確か。なので、そうした部分への違和感は正当。