ゴスピさんとの会話 (Scratchpad)
This page is a personal scratchpad.
- 話せて嬉しかった
- お互いバイブスだけで話しててたので、あまり芯を食った質問は出来なかった
- ところを多田かおりさんに見られる、恥ずかしい
- 気になっとるのは、VRにメディアアートとして取り組む人と、コンテンツを作る人との態度の違い
- メディアアートは、VRというメディウムを透明化しない
- VR的な体験を通して、身体、認識のあり方を常に相対化し続ける
- 伊藤さんはこっちよね
- 鷹野研とか
- コンテンツとして取り組む人は、VRの枠を透明化させ、その中で語られることに体験者を注視させたい
- ボリスラベや山村さんはこっち側
- でいうと、ゴスピさんの態度は中間的
- フォームかコンテンツかでいうと、両方に興味がある
- 意図的なラグやグリッチはVRデバイスの存在を顕在化させる
- けどメディテーションは没入的であるべき
- その切り替えが、自分にとっては結果としてどっちつかずな方向に働いていた気がした
- もっと言えば、ゴーグルの下にから見える原色の照明や造作、音の定位やミキシング、蛇が座る位置に合わせて蛇のモデルが120度回転していないところなど、色んな意味で体験をコントロールしきれてない、詰め切れてない気がした
- あと感じたのは、Vision Proってすごいのね
- メディアアートは、VRというメディウムを透明化しない
- 中で語られていることは、ぶっちゃけ自分の理解が追いつかなかった
- 量子力学も禅問答も、フィクションにおける小道具、詩的モチーフとしてではなく、わりとプロパーな意味で理解し (ようとし) ているからなのかな
- むしろ気になったのは、何故ある種のデジデジ人は、土着性、とりわけ多神教宗教に手を出すのか
- 分かるが、例えば藤幡さんほどコンセプトがシャープに刺さってこない、漠然と西洋主義、近代に対する東アジア的な視点からの批判をしてのけたい、という心意義は伝わってくるんだけども
- 正直たかくらさんや怜くんに対しても感じてる
- 岡本太郎 - 西洋主義 や 日本趣味じゃねぇ、ベラぼう
- 長谷川愛さんがああいう対象にフォーカスする、彼女自身の (アーティストとしての理論武装以前の) 人となりや個人的興味からして、すごく体重が乗ってる感じがするし、それは作品にも明瞭に現れている
- 僕にとってのハッカー文化や長谷川さんにとっての生殖やジェンダー、FTDさんにとってのヒップホップのように、自分はコレに喰らいまくっていた、こういう出自であるっていうアイデンティティ(別にそれは自分自身に対する「キャラ付け」ではなく、本心から生まれる拠り所)がぼんやりしている方は、ethnicityにそういうアレを求めるほかないのかも、と思う
- 薄ぼんやりと、漫画やゲーム、サブカルチャーが好き、というのは伝わってくるのだが…
- 海外経験がそうさせるのかも、と思っていたのだが、最近はちょっと違う気もしている
- 藤幡さんも別に作品の意匠として仏教とかそういうのを安直に取り入れてはいないんよね。思想的なバックグラウンドには強く影響しているけど、わーっとウンチクを列挙するんでなく、彼自身の言葉でエッセンスを抽出出来るほどに、腹から理解できているのが伝わってくる
- 弥勒はどうなん?
- 藤幡さんも別に作品の意匠として仏教とかそういうのを安直に取り入れてはいないんよね。思想的なバックグラウンドには強く影響しているけど、わーっとウンチクを列挙するんでなく、彼自身の言葉でエッセンスを抽出出来るほどに、腹から理解できているのが伝わってくる
- けど、そういう意味でコンセプトとしてフワフワしていて、かつあまり気持ちが入ってなく感じられるのは、ご本人の興味とは別のところで、そういうロジックをこねこねしないと取り合ってもらえないような、何か圧のようなものがあるのかな
- つくづく思うのは、本気でブチ上がってないもの、自分の言葉に成り切ってないものにあまり執着しなくても良いのに、大文字の「アート」であることに拘らなくてもいのに、ということ
- しゃんと腹から理解していないリファレンスを置くのは辞めよう、と反省した。『かむかも』の最後みたいに
- 腹に入ってるのはユニコード戦記くらいなんよね
- 渋家の下りだけ、ゴスピさんの出自やオブセッションが垣間見える感じがした 好き
- あと、食まつさんやときさとさんを起用するセンスも親近感が沸いた
- わきゃる、あとしょくまつさんのとか良かった