テットール、バベルの画像倉庫、Out of Context
先月末の19日から23日まで、tettou771さん主催のグループ写真展に参加させて頂いてました。
tettouさんは、関わられたお仕事やPodcastなどを拝{見|聴}してまして、その考え方や何事も深堀りする姿勢など、個人的に以前から気になる存在でした。いや、言葉が平凡過ぎてしょうもないですね。具体的に活動を見て頂くのが早いと思います。
そんなtettouさんから3Dプリント製のレンズ〈テットール〉を使った展示にお誘い頂いたのがこの7月頃。以前からImage Clubでの記事などでその存在は知っていましたが、全てのプロプライエタリ・ソフトウェアに中指を立てがちな自分としては、道具を自作される方のプロジェクトに協力しないワケにはいかないだろうと即諾させて頂きました。もっともtettouさんはそうしたメイカーズ・ムーヴメントのようなノリとは一味違う形態で〈テットール〉というプロジェクトを世に出したい思惑があったそうなので、制作ツールに関してギンギンにラディカルなぼくが過剰に政治性を見出した感は否めませんが。
ちなみにこのテキストは、会期中にあったギャラリートークへの参加を渋ってしまった代わりに書いています。映像と同様、考えもできるだけプリレンダ―かつ修正可能な形で残しておきたかったので。
爽秋の新中野 〜2022〜
ぼくは「レンズを3通りに半壊させて撮影した3つの連作」を展示させていただきました。樹脂でレンズをDIYできるというのなら、それを壊すのも自由だろうというトンチですね。サーキット・ベンディングの光学系バージョン、道具に対する愚行権の行使です。ちなみに左から順に「ハンダゴテでレンズ内部を融かして掻きまわす」「消臭ビーズと100均のカラフルなセロハンを詰める」「レンズを分断し、靴下で連結する」の三本立てとなっています。
正直なところ、写真としては、あら綺麗ねぇという程度のものです。像としてのシャープさや文学的効果に重きを置いた価値観から距離を置いて、光の屈折や干渉がもたらす質感そのものを捉えるという点ではピクトリアリスムや抽象写真主義の焼き直しです。決して写真向きではない180kgのファンシー紙にオンデマンド印刷したものを裏張りせずに壁に釘打ちするという適当さ加減も、写真そのものへの思い入れのなさが滲み出ている気がします。というのは言い訳でして、実際は額装代をケチっただけです。流石にあえてやっているようには見えなかったので、もう少し丁寧に展示したほうが良かったと後悔しています。
ただ、 センサーにゴミが乗らないかビビり倒しながら、半壊して使い物にならなくなっていくレンズを使うのは、道具について日々考えてる身としてとても示唆に富んだ体験でした。
バベルの画像倉庫
話は変わって、最近ビデオエッセイ系YouTuberにハマっています。そのなかでも特にお気に入りのSolar Sands氏の動画で、バベルの画像倉庫というアイディアが紹介されていました。
アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編で、一冊あたり130万文字が書かれたあらゆる文字の並びの本が収蔵されているバベルの図書館という概念が登場します。これはその画像版というわけです。このエッセイでは、416×640pxの8bitカラーという、決して高精細とはいえないフォーマットについて考えていますが、その組み合わせ総数はおおよそ4096の266240乗枚あるそうです。宇宙に存在する全素粒子よりも多い。そしてこのバベルの画像倉庫には、モナ・リザからぼくの幼少期のスナップ、この記事を執筆しているスクリーンショットから今回のグループ展で展示された写真まで、あらゆる画像が収められています。したがって、ぼくらが写真を撮るとき、新しく画像を生み出しているのではなく、バベルの画像倉庫上に既に保存されている画像を一枚選ってダウンロードしているに過ぎないのです。屁理屈みたいな話ですが。
しかし、現実でカメラを使って写真を撮るとき、そんな天文学的な可能性を相手取っているようには思えません。ぼくらが意図して決めることのできる要素は、撮影する場所、日時、アングル、カメラ設定のほかに、レンズに関して言えば絞りとフォーカス、ズーム程度でしょう。この限られたパラメーターによって表現可能な画像のパターンは、バベルの画像倉庫全体のほんの一部にすぎません。それでも、この部分集合のなかに「よい写真」のおおよそが含まれているであろう仮定のもと、レンズという道具は設計されています。考えうる画像全体が成す超高次元の探索空間のなかに、「よさ」の尾根沿いに登山道を整備するようなものです。
例えば、絞りはおおよそ丸に近い形をしています。それは人間の瞳が円形であるために、人の視覚のボケ方に近い自然な印象を得られるからです。チルトシフトを除いてレンズは一つの光軸上に並んでいますが、それは多くの場面において、人の視覚に台形補正のような歪みはかからないからです(建物を見上げるときや、映画館のスクリーンを壁際の席から観るときは無意識に脳内で台形補正をかけますが)。そもそも多くのレンズの絞りが離散値を取るのも、露光計でシャッタースピードとF値を決めていた時代の名残です。
レンズを壊しながら写真を撮る経験には、レンズの設計者が気を利かせて整備してくれた登山道から逸れ、バベルの画像が成す広大な空間へと転げ落ちる痛快さがあります。レンズに添えた手の動きがリングを介してカチカチと離散化されるわけでもなく、靴下をねじる手付き、消臭ビーズの偏りがダイレクトに、再現性の無い形で結像に影響を与えます。かろうじてファインダー上で形を留めていたお花が融けていき、「被写体を撮る」というより、「入射光という乱数シードを元にレンズを揉みしだき、良きテクスチャが出たところをキャプチャする」という感覚に近くなっていきます。これは良いとか悪いとかではなく、単純に操作感としてウケます。そんなわけなので、写真作品というより、レンズを壊せて楽しかったナという絵日記のつもりで展示していました。レンズの額装の方がゴージャスなのは、それが今回のオモシロ体験の主役だからです。
計算資源としてのクリエイター
というわけで、自分の10年来のモットーである「新しい作り方をつくることで、出来上がるものの佇まいが自ずと新しくなる」を「新しい壊し方」と転倒させてみたというのが今回のモノボケでした。その意味では、他の参加者の方もなにかかしら仕組みをつくるというスタンスを取られている印象があります。レンズを作られたtettouさんご自身はもちろん、研究者であり変態的なクラフトレンズをご自身でも設計されているTakumaさん、画像の出力装置という映像製作者にとってレンズに次ぐブラックボックスをDIYされた島猛さん、そしてひつじさんはそのものズバリ『システムアーティスト』として作家活動をされています。
仕組みをつくる作家にとって、その仕組みを使って作者自身がどこまで『ちゃんと良い』作品をつくるべきかという問題があります。もちろんハイアートにおいては、そこに適切なコンセプトが与えられれば、そこに職人的な技巧がなくとも強度ある作品たり得るという意味で、その答えは一世紀近く前に既に出ています。なんというか、ぼくが言ってるのはもう少し素朴な意味での作品制作の話です。例えばメディア・アートのような領域の方は、仕組みをつくるという特殊技能にステータスを振っているために、ある仕組みのなかで(狭義には、ビジュアルとして)美的にイケてるものを作る自信があまり無い、というコンプレックスを少なからず抱えているような気がします。一つの解決策は、そこにテンプレート的なトーンをあてがうことです。仕組みの巧みさが際立って見えるような純白でソリッドな佇まいにしたり、あるいはテクノロジー・アートの領域では、SF映画のFUI(Futuristic User Interface)のような、ディティールに富んだ未来的トーンが好まれます。
かつてそういったビジュアルをクリシェだと辛辣に批判してしまっていたという反省は置いといて、最近は別のスタンスもあり得るなと思っています。それは、「道具やアーキテクチャをつくる人がクリエイターで、それを使ってくれる無数のクリエイターを計算資源として利用し、その道具でイケてる作品を生み出すためのパラメーターを最適化させている」という考え方です。いや、自分でも冗談半分に妄想している程度ですが。こんなことを思い出したのは、tettouさんがホストの一人を務められているImage CastというPodcastの最新回で、展示についてこんなことを仰られていたからです。
tettou771さん: 道具を作る以上使ってもらって完成するという話を前したかもしれないですけど、(中略)今回の展示は、ぼくの視点からいうと、テットールを完成させるための、最後の工程でもあるんです。そういう意味では、皆さんを使って完成させているという。非常に申し訳なさもあるんですけど。ぼく自身で使ってもそれは使える道具を作ったことの証明にはならないので…
Image Cast #111 18:20-
自分としては、もちろん参加作家として主体的に作品をつくっているつもりではあるのですが、その一方で〈テットール〉という仕組みのイケてる見せ方を探索するために己の脳みそを計算資源として差し出した、と言われてもやぶさかではなかったりします。アプリや機材が高機能化し、市井のクリエイターにとってブラックボックスでしかなくなった昨今、開発者が想定していなかったような転用やハック手法を見出すことで、一方的に道具を与えられるという関係性から自由になれるという考え方も確かにあります。しかしこのシニカルな視点では、そうした抵抗すらも、よさの最適化の真っ当な一工程として、仕組みを作るクリエイターの手柄に回収されていきます。その意味では、ぼくのレンズ壊しもまた様式美であり、結果撮れたものはよくある抽象写真じゃねぇか、というがっかり感も込みで、tetttouさんの足しになれば本望だなぁとどこかで思っていたりします。卑屈すぎますかね…。
Out of Context性
以前から仲間内でのグループ展というものにどことなく距離を感じていました。自分の作品の見え方がコントロールしきれないということもあります。似たようなメンツでやることで予定調和になったり、あるいはその逆に色んなベクトルのメンツが集まることで合力ゼロとという事態になりそうという予感もありました。ただtettouさんが、企画立案の最初期に、メイカーズ界隈の空気感は確かに自分にとって心地のいいものであるが、そうではない場所とノリで作品発表をしたいとおっしゃっていたのが印象的で。以前にも書いた根本からして違うアティテュードの人たちと交わる尊さを思い起こさせるものがありました。エンジニアとして半端者な自分としても、tettouさんのようなガチ勢とご一緒させてもらうことで得られる学びは多いはずとの想いもあり、今回参加させて頂くことに決めました。
その意味では、今回の展示の見え方は、写真界隈を始め、DIY文化の根付いたSigma fpユーザーコミュニティやメイカーズ界隈、Image Clubファンには刺さるものになっていたと自負しています。これもグラフィック周りを担当された友田もえさんや、展示タイトルと文言を考えてくださったあずまさんの手腕あってのものです。マジで尊敬します。その一方で、自分がいつも気にしている界隈からはあまり反応が無かった感触もあります。それはぼくがガツガツした宣伝に照れてしまっていたのも一因ですが。ちょっと毛色が違う方に見てもらえたなと思えたのは、10代から愛聴するgroup_inouのimaiさんくらいでした。すこしだけ悔しい。
日頃から、自分から摂取しにいくコンテンツくらいは、見る側の都合なんてお構いなしに、奴らなりの都合のもと超然と佇んでいてほしいという願いがあります。というのは、人によって作られしあらゆるミームは、人々が払うことのできる注意という有限の生存領域を巡って、少しでも誰かの注目を集めるべくムキムキに過剰適応しているように思えるからです。それはソシャゲエロ広告から迷惑系YouTuberのようなあからさまなものに限らず、面白ネット記事、嫌でも耳にこびりつくポップ音楽(拷問 torture に tune を掛けて “tortune” と呼ぶそうです)、あるいは21_21で展示でもしてそうな上質な表現まで、かなりのものが含まれます。こちらとて、ただ動物たちが奴らの社会性のもと生活を営んでいるさまを外野から眺めていたいのに、立つレッサーパンダよろしく、こちらの脳汁スイッチを押そうと躍起になりながら芸を披露してくださるわけです。 漫然と過ごしていても、ロウブロウか端正か問わず、あらゆるアティチュードの風太くんが脳に侵入しようとしてくる現代、せめて自分から食べにいくものくらいは、そうした最適化がなされていないオーガニックなものを味わいたかったりします。
そこで話は章題に戻るのですが、“out of context” というミームがあります。Know Your Memeによると「その文脈を理解するために必要な説明がなされずに投稿された、読み手がいかようにでも解釈し得るスクリーンショットや文章(意訳)」とのこと。これなどはわかりやすいでしょうか。
国内では、図botもこのミームの範疇のような気がします。
自らのネタ性に自覚的なネタ系LINEスタンプ独特のしょっぱさに対する、メッセージングアプリ文化を絵葉書か何かと勘違いしている方が作られたスタンプも、ぼくの中では out of contextみがあります。
考えてみれば、group_inouもWikipediaの「エレクトロ・ヒップホップデュオ」なんて説明は噴飯もので、その音楽性は実にout of contextに思えます。音楽でいえば他に食品まつり、んoon、galen tipton、Motion Graphics、Cuusheさん、toiret status氏も、Juke/Footwork、hyperpop、dream popなど、影響元のジャンルは薄っすらと感じられるものの、どこかその佇まいにへんてこさというか、文脈からのズレを覚えるという意味で好きだったりします。最近お気に入りの映画『NOPE』も、UFOやウェスタン物というジャンル表現を横滑りさせ、怖がればいいのか憎めばいいのか分からない、感情に適切な文脈を付与しづらい敵を描いたという点でout of context です。先週MUTEKで披露したYATTとのパフォーマンスも、オーディオ/ビジュアルという、音楽ジャンルやグラフィックの質感までが誰に言われずとも様式化されたジャンルにおいて、それなりに out of context さを放っていたのではないかと感じています。例示もこのくらいで控えておきますが。
もちろんネットミームとしての out of context は、それ自体が一つのネタ様式として確立されています。しかし、腹落ちしやすいようジャンル性や納得感が最適化され切っているわけではない、忽然と「文脈の外」に置かれたものには「あぁそういうノリね」と無視しづらい独特の吸引力があるように思えます。あくまで個人的な好みでしかないのですが。ぼくの場合、音楽、グラフィック、あらゆる創作ジャンルにおいて、こうした out of context性をどこかで求めてしまっているきらいがあります。この辺の想いについては、佐藤雅彦研究室っぽさについて似たようなテキストを以前書いたことがあります。
だから今回の展示は、佇まいとしてウェルメイドかつ誠実過ぎたなという反省があります。自分が主に選定した什器の質感なんかはまさにそうだったのですが、これはどういうノリの展示で、どんな文脈で観られて欲しいかという表明が少し明示的過ぎたのでは、と。もちろん写真の展示であることは伝わるべきですし、自作3Dプリントレンズを使った意欲的なプロジェクトであることは推すべきです。だけど ― とても感覚的なものではっきりとした説明がしづらいのですが、「そういうアティテュードの人たちによるそういう系の展示」らしさを撹拌するナンセンスさ、適当さ、放りっぱなしな感じというのは、「じゃない人」のアンテナに引っ掛かるためにもう少しあっても良かったのではないかと感じています。むしろそのあたりのエッセンスの注入は、ニュー・メディア・アート、インデペンデント・アニメーション、グラフィック、HCI研究など、比較的色んな界隈の間で中途半端に揉まれてしまっている自分がまだ貢献すべき箇所だったような気がしています。
ぼくがデザインしたロゴについては、格式ある光学メーカーっぽさとも、noteで意識高いデザイン論をポエ散らかすUI/UXデザイナーによるスノッブなリブランディング感とも違う、よく分からない感じに出来てよかったです。
追記: Dec. 22, 2022
落合陽一氏にめっちゃ反応頂いてた。数度同じイベントに登壇した程度の接点なので「ばっくん」呼びされる覚えはないのだけど、もし本展示を写真史に紐づけて批評に耐えうるコンテクストに載せるなら、この辺の歴史をサーベイしていたのだろうなと思った。全然明るくないので勉強させて頂きます。
また、その後色々な人と話した上で感じたアティテュードの違いとして、「腹落ち具合」を作品のクオリティとして捉えるか、作家性やトーンの一つとして捉えるかはある気がした。前者の立場の感覚としては、腹落ちすることはむしろ前提であり、難解さで煙に巻かずにいかに噛み砕いて伝えていくかに、ある種の品が試されている。
ぼくはどちらかと言うと後者だ。腹落ちしなくても、言語情報として理解できなくても、その佇まいや情感から感覚で「わかる」ことのほうがむしろ領域としては広大だ(そこには「『わからなさ』がわかる」という倒錯も含まれる)。そうした知覚の帯域をより広く利用するために、自分は物書きではなく映像やビジュアルという手段に打って出ているような気がする。つまるところ、言語化欲求っていうのは、知性の普遍的な表出のしかたなんかではなく、フェティシズムの一種なんじゃないかってこと。