Hashimoto   Baku

Hashimoto   Baku

AI、創造的、未来、賞

数ヶ月前、AI関係のアワードに選ばれたことについての日記です。その夜に残したボイスメモを語りを、Whisperで文字起こし、chatgpt.iconに作ってもらった叩きを元に書きました。

最終的に受賞を辞退したので、固有名への言及は避けています。公式サイトからもプレスリリースからもちゃんと抹消されているので、以下はbaku89.iconの虚言かもしれません。

今日はあるAI系アワードの授賞式に顔を出したその足で、イメージフォーラム映像研究所でゲスト講師として話をしてきた。同じ日に、ずいぶん違う種類の場を続けて体験したことになる。前者ではかなりモニョり、後者ではむしろ調子がよかった。で、その落差が思っていた以上に尾を引いている。

授賞式、といっても、自分から応募したわけではない。初年度ということもあり、リサーチャーの方が国内外のAI関係のプロジェクトをリストアップし、そのなかから審査員ならぬ「議論メンバー」(これはいい名付けだと思う)が選出するという進行で、ありがたくもMONO NO AWAREとimaiさんとのMVを拾っていただけた。

メンバーにAI関係者や知り合いはいたものの、主催の一般社団法人の方々をはじめ、別にAIと深い関係性があったわけでもない人たちが、どういう算段や後ろ盾のもとでこういう賞を始めたのかが不思議だった。他にどういうプロジェクトが選ばれて、そのなかに友人の大切な楽曲をつかったビデオが並ぶことで、どういった見え方をするのかも読めなかった。だから、事務局の担当の方には事前に授賞リストを見て、それから賞を受け取るかどうか判断させていただけたら、という連絡を送り続けていた。最終的にそのリストを頂けたのは、本番開始五分前だったのだけど1

授賞式を通して、ぼくがしんどかったのは、作品や技術そのものの話よりも、「ホットな領域の近辺に自分たちをどう位置づけるか」という身振りが前に出て見えたことだった。たとえば、受賞作の解説を受賞者ではなく議論メンバー側が中心にしていたこと。集合写真ですら、作り手が中央に立つというより、受賞者が主催者ら(とグランプリ授賞ゲスト)を囲う構図になっていたこと。そういう細部の積み重ねから、この場は作品のためというより、議論する側が「いまAIを語る中心」に自分たちを据える場として設計されているんじゃないか、という疑いが、その時はどうしても拭えなかった。

今になって思えば、邪推が過ぎたのかもしれない。最近東京TDC賞の選考委員も務めた身として、何かを審査するということがどれだけ大変で、金銭的には割に合わないかは身に沁みてわかる。それでもなお引き受けるのは、賞という権威性を背負ってでも、シーンにいい文脈を紡ぐことに寄与したい、という気持ちがあるからだろう2。AIを専門とする人もそうでない人も、初めての試みとなるこの賞で、審査を引き受けたのは、そうした矜持があってのことだと思う。

でも、だからこそ、その労苦を議論メンバーにとってのハレの場として回収するのではなく、TDC賞でぼくや他の選考委員があまり前にしゃしゃり出ていないように、もう少し品のようなものがあってほしかった。もちろんそうした演出に不本意な内部の方もいらっしゃったはずだし、ぼく自身、キャップを被って議論メンバーを囲う側に立ちたくなかったので、集合写真には映らなかった。


九段理江 Rie QUDAN on X: "雑誌「広告」のプロジェクト、「九段理江に95%AIで小説書いてもらってみた。」がAI Creative Future https://t.co/UVTM2npAZW" / X

AIに限らず、未来について語る人はいつの時代もたくさんいる。しかもそれはしばしば、「こういうふうにテクノロジーを使わない人は損をする」「今のうちに乗っておかないと取り残される」といった、損失回避バイアスを突くような脅迫とセットになっている。情報商材まがいの驚き屋から、もっと洗練された顔をした論者に至るまで、その調子は案外地続きだ。で、そうした脅しの先には、たいてい「どうこの先生きのこるか」論が続く。問いを立てる力が大事だとかなんとか。

ぼくは価値やテクノロジーの未来を、変えることのできない天気のようには捉えていない。むしろ、価値は誰かが言葉を与え、場を作り、繰り返し語られることで立ち上がってくるものだと思っている。たとえばクリストファー・ノーランは、CGで置き換えられる場面ですら、執拗にプラクティカル撮影の価値を語る。飛行機を実際に突っ込ませたり、巨大な爆発を起こして撮ったりすることが、純粋に映像として常にCGより優れているとは限らない。それでも、ノーラン自身が「そこに価値がある」と言い続けることで、シネフィルや観客もまた、その手つきに価値を見出すようになる。CGを手法として選ぶことの多い身としては忸怩たる思いもあるけれど。それでも映画制作という現場で、身体を使って試行錯誤し、一つの作品を作り上げていく人たちが、そのプロセスに誇りを持てることは、きっと良いことだ。しかも、そうした調子のいい方法論が自己満足に閉じず、受け取る側もまた、そこに価値を感じられるようになる。これはすごく豊かな文脈構築だと思う。

賞を作ることの意義も、たぶんそこにある。世の中がどうなっていくかを予言することよりも、むしろ「こういうふうであってほしい」という未来を仮設すること。そこで拍手されるもの、言葉を与えられるもの、時間をかけて見てもらえるものを通じて、価値観は少しずつ塑性変形を起こし、再構成されていく。つまり何が言いたいかっていうと、賞は権威と序列化の装置である以前に、願望と編集の媒体であってほしいのだ。

その授賞式の冒頭、審査委員長の方が語っていたことを、ニュアンスを取り違えないよう、録画して(フィラーを除いて)一字一句文字起こししたものを引いてみる。

結局のところ、普通にAIを使って物事をアウトプットするっていうだけだと、本来ものを作るっていうところの喜びっていうものを希薄化してしまうんじゃないかなというか。そういうもともと我々が享受していたものづくりの楽しみっていうところから少し離れていっちゃうんじゃないかなっていうことが、一つ割と重要な論点にもなったんじゃないかなと思います。今回、こういったような形で、こういった話をテーマにして審査を進めていく上で、いろんな論点だったりとか、疑問だったりとか、テーマが出てきました。

「これはAIで作っても楽しいんかい」みたいな話だったり、「それはクリエイティブなのかい」みたいなのは一つのその中でのテーマだったのかなというふうに思います。これなんかは例えば。

AIで生成されたミュージックビデオということになる。これある種ずっと前に進んでいくような映像で、なかなかこの実写で作ったらすごく大変だし、そのものすごくお金もかかるし労力もかかるよねみたいなものだったりします。こういったものが簡単にできる時代ではある。一方で、これは1999年にミシェルゴンドリーっていう有名な映像作家さんが作った映像作品です。

要はもうちょっと見ていただくとわかるんですけど。全部実写だったりするんですよね。実際のところ、これはすごくちゃんと作ってるものなので、これがとてもクリエイティブなものであるということは疑いの余地がないようには思うんですが。

一方で、今例えばうちの子どもだったりとかが、この映像作品を見たときに、「はいはいはいはい、いつものそういうやつね」みたいな、AIで作られたものがたくさん満ち溢れてる中で、これを見たときにグッとこない可能性があるわけですよ。で、割とそういったものづくりがそういったような局面を迎えているっていうのが今の時代なのではないかなということです。

委員長との個人的な関係性もあり、ミシェル・ゴンドリーを敬愛する自分には当てつけのように思えて、正直ムッと来た。ゴンドリーも立てつつ、バランスを取っているように見えて、じゃああなた個人はどう思うのか、というところを宙吊りにしたまま、子どもの視点を借りて一種のナンセンスとして片付ける、少なくともそうした余韻を言葉に滲ませるのが、不誠実に思えたからだ。

でも、これはたぶん事実なんだと思う。Soraでも Sunoでも、あるいはその次に来る何かでも、かつては驚きと結びついていた表現が、どんどん既視感の側へ押しやられていく。そこには抗いがたい流れがある。けれど、だからといって、手をかけてコマを重ねていくことや、回りくどい段取りを組んでまで質感をこねくり倒すことの価値まで、自動的に消えていく、ということにしてしまうには、惜しいものがある。

むしろ、そういうときにこそ場がやるべきなのは、「効率では測れないクラフト」とやらを正当にありがたがるための言葉を用意することなんじゃないか、という気がしている。視聴者にとっての新しさが薄れたとしても、作り手にとってその手つきが切実で、気持ちよく、そこにしかない制作体験を生むのなら、その価値を社会的にでっち上げていくしかない。でっち上げる、なんて書くと少し乱暴だけど、価値なんて多かれ少なかれいつも共同で捏造されているわけだ。その捏造は、記号消費ブルシット・ジョブを正当化する方向ではなく、眼の前の細かすぎて伝わらないギークな営みに向けられていてほしい。けれど実際には、そういう具体性の世界よりも、もう少し輪郭の曖昧な抽象論のほうが流通しやすく、結果としてそちらにばかり光が当たってしまう。

議論メンバーによるトークのなかで、しばし「コンヴィヴィアリティ」という言葉が出ていた。アワードのサイトの総評にも触れられたので抜粋してみる。

様々な論点が生まれる中で、いくつか提示した審査基準の中でも中核になった概念として、なんといっても「人間が介入・学習・判断していく形になっているか、AIが人の活動をどう拡張し豊かにしているか」、つまり「コンヴィヴィアリティ」があります3

AIが人間の活動をどう補助し、どう拡張しうるかという問い自体は重要だし、その観点から作品を評価することにも意味はあると思う。けれど、それをそのままコンヴィヴィアリティ(自立共生、祝祭性)と呼ぶのは、やっぱり少し雑なんじゃないかという違和感が残る。ここで語られているのは、どちらかといえばユーザー体験としてそのサービスがどれだけうまく設計されているかという、いわば一般的なUI/UX論に近い。コンヴィヴィアリティという語をわざわざ引くのだとしたら、もう少し強い十分条件のようなものが要る気がするのだ。

たぶんこの語が出てきた背景には、議論メンバーの一人である緒方壽人さんの単著『コンヴィヴィアル・テクノロジー』があるのだと思う。この数年、テクノロジーやデザインの文脈でこの言葉を語る人は多いし、ぼくもその問題意識自体はかなり好きだ。緒方さんの本も、前半はイヴァン・イリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』のすばらしい要約になっていると思う。けれど一方で、そこでしばしば起きるのは、コンヴィヴィアリティという語だけがバズワードとして空中に浮いて、肝心の実例が具体的に議論されないまま終わってしまうことだ。

そもそもテクノロジーには、かなり大雑把に言って二つの向きがあると思う。一つは、同じ反復をオートメーション化し、限界費用をひたすら下げることで、製品や体験を広く民主化していく方向だ。産業革命以来の機械化やフォーディズムはその典型だろうし、そこには間違いなくぼくらの生活を豊かにしてきた側面がある。けどその引き換えに、規格品に合わせて人間の身体や好みのほうが適応していくという、ある種の均質化も起こる。テクノロジーには、職人の手技 = テクニックを装置として外在化する代わりに、手工芸やオーダーメイドにはあったはずの多様性を削いでしまう、馴致の作用がある4

もう一つは、みんながバラバラなことをやっても、それなりに採算が取れてしまうような形で、個別化した選好やニッチを支える方向である。生産手段を巨大な工場やサーバールームへと集約するのではなく、個人の手元へ降ろしてくる方向と言ってもいい。たとえば3Dプリンタやレーザーカッターの登場で、メイカー運動が盛り上がったり、ガレージブランドのような小さなビジネスが成立しやすくなるのもその一例だと思う。とりわけコンピューターは、こちら側の可能性をかなり強く持っていたはずだった。

ぼくにとってコンヴィヴィアルな実例は、まさにその後者のほうにある。たとえばIndieWebHTML Energyのように、プラットフォームに囲い込まれたインターネットに抗って、自分でサーバーを立てたり、HTMLを手で書いたりする実践。あるいは、ネットレーベルがCreative Commonsをつけて作品を公開し、リミックス可能性ごと作品の一部として差し出していた態度。オープンソースライセンスや、もう少し広く言えば、ブロックチェーンやP2Pのように、誰かが一方的に介在したり、収奪しづらいプロトコルを整えていく試みもそうだ。ああいうものには、中央集権的に管理されきらない、祝祭的で雑多な手触りがある。それこそが、観念的な意味ではなく、字義通りのコンヴィヴィアル・テクノロジーだと思っている。

それゆえに、AIが人の活動をどう拡張し、豊かにするか、という話だけをもって「コンヴィヴィアリティ」で片付けるのは、どうしても引っかかる。議論から得られた示唆として弱いと思う。むしろニコラス・ネグロポンテの言う「良き秘書としてのコンピューター」や、ずばりダグラス・エンゲルバートオーグメンテーション(拡張)の系譜に議論を位置づけたほうがよかったんじゃないか。エンゲルバートに至ってはAIじゃなくてIA = Intelligence Augmentationでしょ!という、今回の賞にピッタリともいえるキラーワードすらあったわけで。

しかも今のAI技術は、むしろコンヴィヴィアリティ(自立共生)の真逆にあるようにも見える。それをインディペンデントなアーティストが使おうと、非西洋の文化遺産と結びつける形でプロジェクトに昇華しようと、技術基盤や所有のあり方という点では、かつてないほど集約的だからだ。もしコンヴィヴィアルなAIというものがあり得るのだとしたら、それは、この緒方さんらによるコンセプト映像のような、管理が行き届いていて漂白されきった世界ではなく、むしろOpenClawやそれを支えるハッカーコミュニティのような、猥雑で収拾のつかないバザール的なもののなかにあるのだと思う。

賞に際して発行予定の白書まできちんと読めていない段階で断定するのはフェアではないのだけれど、少なくともあの場では、本当にAI、ないしGPTやGANといった技術そのものと十分に向き合えていたようには見えなかった。ひとつひとつの言葉の意味が精緻に理解されないまま、「のどごし」だけでディスカッションが交わされていたように思う。その一方で、地に足ついた取り組みや、実際に手を動かしている人たちの営みは、言葉を与えられないまま置き去りにされる。作り手としても、そういうギークな友人たちを数多く知る身としても、そういうノリにはいつも忸怩たる思いがある。

話を少し戻すと、いまの制作環境でぼくが守りたいのは、完成物の見え方だけではなく、作る側の体験だ。UXがユーザー体験なら、LXとでも呼びたくなるものがある。Laborer Experience、労働者体験である。いい映像、いいデザイン、いいソフトウェアを作ることはもちろん大事なんだけど、それと同じくらい、どういう手つきで作ると気分がよく、どんな迂回路を通ると身体が納得するのか、ということが大事なんだと思う。

これは単なるノスタルジーではないし、アナログな実践をフェティッシュに持ち上げたい、というだけの話でもない。いや、半分くらいはそうなのかもしれないけど。けれど、そのフェティッシュさを引き受けた上で、なお「この回りくどい作り方には価値がある」と言い張るための理屈や制度が、これからは必要なんだと思う。手を動かすことそれ自体の充実を、時代錯誤で私的なこだわりとして片付けずに済むような言葉があってほしい5

そう考えると、ぼくが最近しっくり来る場は、作品や手法について具体的に話せる場所だ。イメージフォーラムでやった講義は、実地での参加者はたった三人だったのだけど、そのぶん一人ひとりが何を作っていて、何に引っかかっていて、どういう技法や素材と向き合っているのか、細かく話すことができた。世界がどうなるかという大きな話より、いま目の前で何を作っているかの話ができる。その素朴さに、ぼくはかなり救われた。

講義の終わりにいろいろ思い立って、この授賞をお断りすることに決めた。自分には間違いなく書けないような誠意のある辞退文を、二分でAIに代筆してもらって、そのまま送信した。