Web文化とコピーライティング (Scratchpad)
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言語感覚ひとつとっても、overclaimをせず常に具体性に接地すること(e.g., 学術研究)、寡黙を貫くこと(多くのカルチャー)、丁寧にハイプや文脈を紡ぐことで投機的に価値を獲得すること(株式会社、現代美術)との文化の違いには常に揉まれていて、田中 良治さんにご相談したことがある
結論を先取りすると
Webデザインだけでもいろんな村がある:
- ポスト・インターネットアート村
- FWA/Awwwards村
- JAGDA/TDC村
- 広告村
- デザインコンサル村
下に書いたような摩擦って、うすらグラフィック、JAGDAっぽさとか、そういう話とも通じ合ってくるんだろうな。
つまり、それぞれの村が自己参照を繰り返す「界隈」であることには変わりなくて、お互いがお互いの村の閉鎖性に対して見下し合っている。
その点、baku89.iconはかなり「越境」できている側だと自負している。広告映像、モーション、グラフィックデザイン、独立系アニメーション、HCI、ニューメディア、してWeb、と。なんだけど、越境しているから良いものが得られたかっていうと、実はそうでもない。むしろ相反するいろんな価値観の目線を同時に意識してしまうことで、界隈ごとに猫を被ってしまったり、イップスになってしまったりしている感覚すらある。
そして自分の価値判断の多くは、いろんな界隈に触れた上で、例えばWebデザイン界隈についてだけ言っても「ポスト・インターネット」村「JAGDA/TDC」村を最終的に信頼してしまっているところがある。「それぞれに違って、それぞれに良い」となんて微塵も思っていない。→ なぜディスるのか
最近(Jun 8, 2025)古屋 蔵人さん、いすたえこさん、hysyskさんとご飯した際に、意識の高いWebがなぜ生まれるのかってことについて聞いた。結論、みんなbaku89.iconほどなにか具体的な興味があるわけでもなければ、Academic writingのような文章を理解できるほどクレバーじゃないんだよ。だから、たとえ意味は無くとも、それっぽいスローガンみたいなのがあって、れれによってチームが一丸となってアツくなれることってのは悪いことじゃないんだ、と諭された。
けどあまり納得してなくて、その翌日早朝にこんなことを書いた:
コンサルファームやクリエイティブエージェンシーの企業サイトにありがちなコピーライティングの空疎さが、一体どういう機序で生まれて、そこにデザイナーとしてどう向き合っているのか、去年のnormalize.fm 公開収録(normalize.fm #71 公開収録 付録)以来いろんな方に伺っている……。
ぼくは空疎だと思う、レトリックらしきものだけで構成されていて、文章全体としての意味がわからないんだもん。ワクワク感は煽っているものの、で、何を具体的にどうしたいの? っていつも思ってる。
e.g., “作る” を超えて、“創る” へ。 (拙作)
あれをポエムとも呼びたくない。詩に失礼だから。アカデミック・ライティングや、アニメーション作家が企画書に書くシノプシスのように、具体的な関心に根ざしているがゆえ文章に滲む実直さに日々触れていると、デザインとしての良し悪し以前に、言葉というものへの扱いの軽さに閉口してしまう。
だから、ぼくはこういうので良いんじゃないかって思ってる。シャバいステートメントで盛らずとも、実際に彼らがしてきたことが何よりの説得力になっているし、ただそれを列挙するだけでも、イベントの唯一無二さを十分に表現できている
https://motion-plus-design.com/home
に対して、ium inc.(小玉さんの会社)の社員の方の望月良輔さんがレスを下さった。
ただそういったコピーライティングを掲げている企業の方が、「界隈」カルチャーの中で花を持たせ合うようなシャバい稼ぎ方から越境できているような気がして、それはすごく良い事だなあと思ったりします。
に対してぼくの返信。
ありがとうございます!
デザイナーとしてのお気持ちの部分を聞けてとても嬉しいです。せっかくなので、もう少し掘り下げてみたいと思っています。もちろん、これ以上お付き合いいただく必要はないのですが…。望月さんのおっしゃる「界隈」とは、例えばどのようなものを想定されているのでしょうか。そして、そこからどのように「越境」できて、その結果どんなものを得られたのでしょうか。こういったディスカッションは、できるだけ具体に根ざしていったほうが良いように感じています。
前提として、ぼくが指す「シャバさ」とはこういうノリを指していました。個別具体的な例への攻撃をしたいわけではなく、あまり表立って公開していないメモなのですが…。
極端な話、ぼくが言うところの「シャバいコピーで言語過多」なスタンスの対極には、全く説明もリッチなインタラクションもなく、その野ざらし感自体がセンスとして信頼されるようなシーンもあると思います。ぼくが友人のDJ/プロデューサーのために作った(というほどでもないのですが)
https://powd.jp
などは、あまりにハイコンテクストで、まさにおっしゃる通り「界隈」としては内向きです。グローバルとはいえ、クラブカルチャーの中で評価が回るだけで、確かに越境は起きないと感じます。ただ、個人的には好きな文化ですし、彼女のことを作り手として敬愛しているからこそWebを作らせてもらいました。一方で、Motion Plus Designや学術コミュニティのように「成果と事実に基づく平熱で具体的な記述を徹底する」スタイルが、同じような閉鎖性を招き、「花を持たせ合うシャバい稼ぎ方」につながる、というのは少し疑問なんです。むしろ、専門用語の使い方にさえ気を配れば、印象としては地味でも門外漢に開かれたものになるのではないかと思っています。少なくとも、引用符やダッシュが多用されて文意の不明瞭なハイプがスクロールに合わせてモニュモニュ動くより、うんと誠実なデザインに感じられます。
結局のところ、ある種の制作会社や(広い意味での)コンサル業の顧客層に対してぼく自身が無知で肌感覚を持ちあわせていない、ということに尽きるのかもしれません。ああいったポエティックさ——詩に相応しくない言い方かもしれませんが——が業界でうまく機能していることは理解しています。ただ、もっと気持ちの面で、あの書き方が彼ら彼女らにどう刺さっているのか、作り手としてどう気持ちを乗せているのか、それとも割り切っているのか、気になって仕方がないのです。
雑な見立てであることは承知していますが、ああいった企業サイトのコピーライティングは、意味伝達において機能をもったものではなく、広告やWeb業界内で相互参照を繰り返すうちに、そうしたトンマナとして形骸化したものに過ぎないのではないでしょうか。それが、依頼する側にとっても「ぽさ」として受容されているというか……。マンションポエムにも近いと思います。そのワチャワチャをWeb業界の外側から見ると、ちょこっとだけサムく見えてしまう。少なくとも、ぼくが好きなシーンにまで、あのノリは越境しきれていないように映ります。
ただ、それを単に腐したいわけではなく、こうした暗黙のクリシェをWebやデザインコンサル界隈の中で見直すのはどうだろう、という提言がしたいのかもしれません。実際、ぼくはあのノリが苦手で、
https://ac-bu.info/kindolphin/
や
http://baku89.com/work/futureofair
のようなものはつくる一方で、ある種の企業サイトのWebデザインはお断りしてしまうことが多いです。ぼくの文章も決して読みやすいものではないですし、人をどうこう言えるほど優れた言語感覚があるとも思っていません。それでも、詩人やアカデミアの友人たちの言葉への精緻さに触れていると、ああいったコピーを掲げることについて色々と思うところがあって、同じく手を動かしているみなさんに聞いてみたかったのです。
に対して、彼が深夜に描いてくださった返信。
その真逆が「東京TDC展のメインビジュアルが翌年の東京TDCに入選する」みたいな、論理的に筋は通っているけど、なんとなく「ん?」となる現象です
恐らく中村 勇吾さんのこと。
「何に閉塞感を感じているか」の対比は面白い。ぼくは「デザインコンサル」村のある種の意識の高さに対して。そして彼は、デザイン実社会でどう受容され、世界を変えていくかではなく、デザイナーがデザイナーに感心してもらうことに目が向きがちなデザイン業界の自己目的性に対して。
- ここで「意識が高い = よくないこと」と無批判で使ってしまっているが、なんで意識が高いことってだめなんだろう。意識が高いなんて普通にすばらしいことなんじゃないの? それともあなた、冷笑系? っていう問いに対して、しゃんと答えなくちゃいけない
- いわゆる「意識高い系」を批判する動きには、それまで爛漫だった学生が(就活などで)いびつに社会化されることへの揶揄が一番大きいと思う
- ぼくはむしろ、「意識高い系はむしろ意識が高くない」というテーゼを推してみたい
- なにか具体的な問い、そして取り組みを持っている人は、どうとでも受け取れるようなほわほわしたスローガンなんか掲げない。興味を引いてやまないのは、絵コンテ支援ツールであり、Lispであり、CNCであり、和文における組版、あるいは実験映像におけるあらたな手法かもしれない。
- Inventing on Principles
- 彼にとっての原則: ”Creators need an immediate connection to what they're creating.”
- Direct Manipulationのような原則に言い換えても良かったんだけど、彼の具体性は、それがアイデアを具現化する(広義の)作り手を支援するものであることっていう風に狭めているところ
- コンピューターの使われ方のうち、「知る」とか「抽出する」っていうすごく具体的な
「ソフトウェアを使いやすくしたい」「ユーザーを喜ばせたい」とか、特に最近は「シンプルにしたい」と耳にすることも多いでしょう。悪くはないし、ある程度の指針にはなるかもしれません。しかしどれも漠然としすぎていて、それだけでは直接の行動に繋がりません。Larry Teslerの「誰もモードに閉じ込められるべきではない」という洞察は、もっと具体的で、世界の見え方そのものを変える力がありました
- どんだけ好きなんだ
ただ一方で、特に僕がグラフィックデザイナーを志す大学生だった1、2年前に「これもう20代でグラフィックデザイナーとしてJAGDA界隈に入るにはターンテーブル回せるようになるかオルタナティブスペース運営するかしかなくね?」という閉塞感を感じていたときに、そうではない道を見せてくれたのは、主に橋本さんのいうところの「シャバいコピーで言語過多」なスタンスの人たちでした。それが「越境」の意味するところです。
笑った。そして同時に、この悩みはすごく切実なものなのだろうな、とも思った。
ぼくも、メディアアーティストとして(経済的に)成功するには、DJを始める必要がある、って冗談で思っていたことがある。

