十分興味深い意味論的なカテゴリーは生産的な集合
与えられたシステムでは証明できない心理を追加することによって、ちょっとばかり強力なシステムを作ることができる。しかしこのシステムも、もとのシステム同様、ゲーデルの魔力から逃れることはできない。諺で有名なオランダの少年が、漏れた部分を指でおさえるたびに新しい漏れ口が出現するような堤防を創造してみよう。彼に無限の指があったとしても、堤防の壁には彼の指でおさえられていない部分がいくらでも見つかる、というしだい。少なくとも、一つの証明できない真理を含むシステムのことを不完全であるといい、どうやってもこの不完全さから逃れられないとき、本質的に不完全という。このまったくあきれるほど頑固な性質をもった集合のことを生産的というのである。
「意味論的なカテゴリーは生産的な集合である」という私の主張は、もちろん数学的に証明できる事実ではなく、一つの比喩である。メタマジック・ゲーム 13章『メタフォント, メタ数学, そしてメタ思考』p.251
生産的集合: 与えられた系では できない を追加することで、より強力な系を構築することができるが、その中においてもなお できない が存在する
ゲーデルの不完全性定理においては
自然数集合も、0からNまで数え上げることで自然数全体を外延的に記述しようとしても、常にそこから漏れ出す が存在する
制作においては、演繹規則 = 発想術, 定理 = アイデア
ファイマンも、「物理法則は、同じ方法論を繰り返し適用することによってではなく、つねに異なる方法論によって発見されつづけてきた」みたいなことを言ってた記憶がある
- ニュートンやケプラーの時代はある種の直観主義によって
- 相対論や量子力学の時代は、どれだけ奇妙に思えたとしても、観測結果を説明さえすればいいという形式主義的なアティチュードによって
- そしてシミュレーションによる発見(ちょっと違うが群論の有限単純群の分類とか)
- 概念全体を掴み取ろうとしても、つねに(succのような操作によって)そこから取りこぼされる要素が生まれてしまう
- 人間社会における「十分興味深い」概念のカテゴリーには、得てしてそうした「生産的」な側面がある
- 「表現はやりつくされた」という主張への反証
- たとえば現代美術。現代美術としての新奇性が「現代美術として取り扱われてこなかった」ことにも依拠する限り、現代美術は新しい を取り込み続けてその意味を自己拡張し続けることができる
- 実はデザインもそう。「形は形態に従う」とか「『それっぽさ』やアフォーダンスの演出」としてのデザインは、ある種の最適化問題であり、やがてはある程度の大域解に収斂していく。だけどデザインには同時に「差異化」いう大事な機能がある
- 「差異としてのデザイン」は、自然数集合と同じで、やり尽くされることはない
実は広い意味での「広告」という技術も、十分生産的な集合なのではないか
連呼系CM、クリックベイト、あえて180度看板をひっくり返す、「閉じる」ボタンをみつけづらくする、広告が埋め込まれた……。よくもこんなことを思いつくなぁ
お絵描きにせよプログラミングにせよ何にせよ、その表現集合が本質的に「生産的」な側面を持っている限り、やり尽くされることはない
そして最後の砦として残るのは、人は(ユースカルチャーのように世代ごとに差異化したいという欲動のため、あるいは顕示的消費のために)「新奇でこれまでと違うもの」を求めるという気風。それが再流行や再発明だったとしても、人々が差異を求める限り、デザイナーや美術家(AIエージェント含む)のやることは尽きない