アメリカ現代思想
- 分配的正義とその批判
- 近視眼的
- Evolution is short-sited
- myopically
- ginreiさん
自分は「全員がリバタリアンであってほしいが、全員がリバタリアンであるためにはある程度のリベラルさがベースにあるべきだろ」という感じ
- 原理的にはリバタリアンではありつつ、有利さそれ自体を元手に有利さを得られたり、有利ゆえの影響力を行使して「有利さ」の定義を書き換える力を個が持ちうる系においては、ある程度の再分配や介入が必要になる という漠然とした直観がある 少なくとも文化政策に対してはそう
- その程度に『文化』というものは複雑で、倒錯的で、自己言及的な系
- ニュー・リベラリズムと古典的リベラリズム
- 大概自分もテクノリバタリアンだったのでお気持ちは分かる オーバーグラウンドで世を賑わせてる表現がどれだけ「金にならない実験や基礎研究」の肩の上に生まれたものかを理解できない
- サッカーのプレイそれ自体によってゲーム中にサッカーのルールを変えることは出来ないが、経済活動の枠組みの中で、経済活動を規定するルールを優位に引き寄せるレントシーキングはできる その意味で、経済活動というのはLisp風に言えば同図像的だし、ゲームでいうとノミック的
- 価値観の多元性のもと、かちあう善や自由を調停する考え方として、正義論なり危害原則を習ったわけだけど、そこで想定されている価値観に「価値観についての価値観」が含まれてないように素朴に思った気がする。言葉や概念はえてして自己言及的な性質を持つわけで、それゆえに「願いを増やす願い」じゃないけれど、「不寛容さに不寛容」「ヘイトに対するヘイト」のようなややこしい言明が錬成出来てしまう
- 寛容のパラドックスについて感じたのは、寛容さを文字通り「原理原則として何に対しても寛容な振る舞い」として定義したことにあると思っている。字義的な意味での寛容さと「ある社会がその寛容さを最大化させるために、とりうる最も効果的な制度設計や、個としての振る舞い」は別物
- 不寛容な個が社会から奪う寛容さと、不寛容さを断罪することそのものが孕む不寛容さを比較したときに、あくまで後者の方がまだ寛容寄り