「山登り」にたとえる人多すぎる (Scratchpad)
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「山登り」にたとえる人多すぎる。
so what?
山登りは
- ものをつくることに宿る求道精神をアルピニズムに例えている、というそんな陳腐な話ではない
- むしろその中でメタファーを展開するためのメタファーとして、まだ擦られ足りないくらい有用だと思う
- ものをつくることに内在するベクトル空間のイメージを、一般に分かりやすくほぐしてあげているって感じ
- どうせ線形代数なんか理系のオタク君のやることで、自分に関係ないと思ってるっしょ。だから目線をあわせて陳腐な「山登り」とやらにたとえてやってんよっていうのが正直な感覚。本当は多峰性最適化、最急降下法(登ってはいないが)、genetic algorithmの話をありのままに話すほうがはるかに細かいニュアンスが伝わるんだけどね、っていうのもダルいから言わない……
- 多すぎることがどうして良くないのか、について今一度考えている必要がある
- 別にただ「多すぎる」つっただけで、それを悪いことだとは言ってませーんってのは小学生レベルの言い訳。「すぎる」という補助動詞は「ありうべき状態から度を越してる」ことを表すわけだから、そこから暗に批判的なニュアンスを読み取っても間違ってはいないだろう
- 例:
- 量産系ファッションがなぜ批判されるのか?
- 文化のばらつき具合の分散は大きい方が冗長性が高いからと言えるものの、釈然としない
- けど最終的にbaku89.iconの立場はコレ。文化的営為をある種の乱択アルゴリズムとして捉えた時「ひとつに全ベットしないほうが良い」「試行回数は多いほうが良い」理由は、道徳的なものではなく、もう少し数理的合理性として説明がつく
- 文化のばらつき具合の分散は大きい方が冗長性が高いからと言えるものの、釈然としない
- 圏論を濫用する人多すぎる
- これはむしろ圏論の中の人?から歓迎すらされている
- 量産系ファッションがなぜ批判されるのか?
山登りのメタファーから得られるimplications
- 制作を最適化問題として捉える → 適応度地形
- 可能性空間の探索 = 『ノウアスフィアの開墾』とししての制作
- 局所最適化と広域探索
- 高次元ほど勾配法で局所最小値に取り残されづらい
- Superposition - なぜ意味空間はニューロン数に指数的にスケールするか?
- 探索空間と潜在空間
- 技術は世界を一様に便利にするわけではない
- むしろ個人的には「登る」 = 適応度の最適化か、「下る」 = 損失を減らすか という世界観の差が気になっている
- 「漸近すべき目標物が世界に存在する」とする限り、それとの差分をloss functionとすることができる