体験をデザインする (メモ)
このページは個人的なメモ書きです。何かあればご連絡ください。
Xに投稿したけど、放っておくとcontext collapseをしそうなのでこちらに転載
- 自分は映像を通した体験を作っているんじゃなくて、映像そのものが作りたくて映像を作っている。それに、多様なバックグラウンドをもちながら見てくれる人がそれぞれにどう感じるかを関知するのは限界があるし、それらを「ユーザー体験」という形にモデル化できるほど、オーディエンスを舐めちゃいない
- いわんやコクヨをや

- ふと思うのが、ドリルの穴理論ってむしろなぜ「穴」止まりなんだろうか?
- 別に穴に限らず、家具そのものを提供したっていいし、その家具によって為さんとする目的——仮に本棚なら、本を収納するという機能を、電子書籍アプリのようによりスマートな形で提供したっていい
- 極論、脳に「快」を直接注入することだってあり得る
- けどそういうパターナリスティックなおせっかいをせず、ドリルそのものの使い心地や堅牢性を高めつづけるのは、「ユーザーは何を為したくてこのプロダクトを求めているかを身を持って理解している」という信頼の証でもあるし、メーカーとしての誠実さなんだと思う
- だって、MakitaがUXとか言ってたらシャバいじゃないですか
- コクヨは文房具から始まって、椅子から家具、空間、そして働き方や暮らし方へと領域を広げてきたのは確か(ぼくがウェブサイトで関わったFeatured Projectsの場所の提供もしていたり)。 だけどそこには具体的な専門知と企業文化があるはずで。(それもテセウスの船なのだが)
- そういうあれやこれやを全部「体験のデザイン」という言葉に収斂させて、フォーカスの抽象度を上げてしまうことで見過ごしてしまうものがあるんじゃないか
- 実際にAdobeはそうだからつらい。道具の手触りにおいて出来ることはまだまだあるのに、Adobeの興味の中心はもはやそこになくて、AIだとかコラボレーション機能だとか、アドホックに市場の需要に応え、なおかつ新機能としてファンシーに映えるような、より高レイヤーなところにいってしまっている。これはUIST(今週参加した国際学会)のAdobe勢の(デモ)発表を見た時もほんのりと思ったことなのだけど
- そういう企業文化だからこそ、After Effectsで数値スライダーをクリックするたび、ピクって動く実装を何年間も放置できてしまうわけ
- (ちょっと話逸れて無くない?)
- 「体験をデザイン」するのは、人を相手取る時点でむしろ前提条件なんだ
- むしろ「どういう専門知に基づいて、何を通して」を精緻にするほうがずっと大事で
- うどん職人が「実は体験をデザインしています」とかいい出したら、その先は「うどん気持ちいい」の世界が待ち構えている
- ∵ うどんという体験も、旨み成分が味蕾を刺激し、グルテンの含まれたシコシコした麺を噛んだときに出てくる脳汁やそのクオリアに還元できてしまうから。だから街裏ぴんくは存外本質を突いている
- いや、それはクソリプじゃない? だってコクヨはうどん職人よりもずっと多角経営しているし、各領域の最大公約数を取れば「体験」くらいにしかならないんじゃないの?
- けどもし現場で具体的なプロダクトに関わっていたとして、自分のやっていることが「体験のデザイン」に括られたらちょっと悔しいけどなぁ。そうした領域横断の先に、ほかのどの企業でもなくコクヨさんを特定するにたり得る十分条件としての言葉を炙り出すのがコピーライティングの力なんじゃないのかなぁって勝手に思っていた
- すべてを「デザイン」や「体験」といったぼやっとした概念にアセンションさせてしまう デザイン・パニズム的な態度は、単に意識が高くてキショいだけじゃなくて、さまざまな組織やシーンが培ってきた専門性、具体性といった差異をも均質化してしまう。そして、もっと低レイヤーなところに解決されないままに残されている、彼ら彼女らだからこそ取り組めたであろう問題を不可視化してしまう
- その意味では、ぼくは自分が関わっておきつつも「問いフェス」とか「Featured Projects」に対して、ちょっと懐疑的でもある。(だんだん内容がぐちゃぐちゃしてきた)
- (ぼくが見知る)アニメーション作家、HCI研究者は、常に問いが具体的。けどそのドメイン固有さ、細かすぎて伝わらなさは、必ずしも普遍性を持たないとは限らない → Generalizabilityの幻想
- デザインカンファレンスやイベントという形でオープンクエスチョンを投げかける場を作るのはいいことだけど、じゃあその中で誰が具体的その問いを立て、取り組み、世の中に発表するのかが人任せに思えてしまう
- そこに登壇する人たちこそが主役で、その枠としてのイベント自体は無色透明に徹するということは不可能
- そうした態度って、一見開かれているようで、抽象度の高さで責任を拡散している
- そして、そこに登壇する人たちの具体性に接地した問いを、イベントの主宰者自身の成果として搾取することになる
- 「多様性は中立の結果ではなく、さまざまな立場の衝突の結果として生まれる」chatgpt.icon
- 新千歳国際アニメーション映画祭は、映画祭としてのスタンスがとても明瞭。ただ単に「議論や評価の場」をつくる以上に、アニメという文化をめぐってどういう文脈を紡ぎたいか、ディレクターや選考委員全員が共有しているからこそのキュレーションなんだろうなって外側の人間として感じる
- それがゆえに東京国際映画祭(のアニメ部門)に比べて人を選ぶところもあると思う。けどそうした明確な意見を持った場っていうのが多元的に存在することが、全体としてシーンを豊かにするんだと思う
- そして、「意見的な(opinionated)場」を立ち上げる以上、主催者も透明ではいられない。その自分の意見表明に出演者を利用するという立場にもなりかねないこととその責任を引き受ける必要がある。DemoDay Tokyoも同様に「意見的な場」だったが、清水幹太さんやciotanさん自身の「クラフトマンシップをもった作り手に寄り添う」という立ち位置を補強するのに自分たちが駆り出されたような感覚があったし、最終的にBASSDRUMが選んだのは、そうした「職人」たちのために先陣を切って道を作る方向ではなく、より上流工程におけるある種のコンサルティング業だった
- 意見的なイベントにおいて、ぼくが出てよかったなって思えたのはAIST Creative HCI Seminar #6とかかな。加藤 淳さんの「現場(in the wild)の実践をアカデミアは汲み上げていく必要がある」というシャウトの補強要員として自分を利用して頂けて良かったと思えるくらいに、彼のその後の活動や興味は一貫している
話が逸れ過ぎた
- ぼくが、Web文化ひとつをとってもCBCNETやhallointer.net、UNIBA、HAUS、Olia Lialina, Yehwan Song、エキソニモ、Ryu Utsunomiyaさん、オオタソラさん、JODI、田中良治さんや中村勇吾さん、布施琳太郎さん、竹久直樹さん、NEW Creators Club界隈、角田創さん、qubibiさん、畑ユリエさん、北千住デザインさん(他多数)のような方々の活動を敬愛する一方で、コクヨさんのスペシャルサイトのような、デザインの作り込み以前の言語感覚や世界観をまだしゃんと理解しきれてないのは、そういう文化の違いに一つ原因がありそうな気がする。もちろん、技術やクラフト力にすごく尊敬の念を抱いているのは前提として...(自分はAwwwards無冠だし)
- そしてWebのフロントエンド実装のスキルをある程度持ちながら、それをクライアントワークにすることに抵抗感があるのも、そういうカルチャーギャップに自分が耐えられないから(そしてご迷惑をおかけしたくないから)というのは大きい
- 実際、かつてお仕事としての依頼にしゃんとお応えできず、立ち消えになってしまった過去がある…
- → 意識の高いWeb
- けどその理解しきれなさは、単に良いきっかけがないからなのかもしれない。そのうち法人は作るだろうし、経営や経済活動というものへの理解が今ほどナイーブじゃなくなったときに、コクヨさんのWebサイトみたいなコピーライティングにピンとくるものがあるのかも
- ちょうど今年の頭まで「詩が理解できない」という悩みがあって、福田ぺろさんに相談したときに教わった渡邊十絲子さんの本がすごくよかった → 『今を生きるための現代詩』
- 紹介されている詩以上に、彼女の地の文の書きっぷりに感動して、京阪電車に乗りながら読んでほろほろ泣いていた。以来、詩情というものが、人並みにではなくとも、すこしだけ理解できるようになった(ちょろい)
- もしかしたらコーポレートサイトとかデザインコンサル界隈に横たわる言語感覚にも、そうした切実さが横たわっているのかもしれないという可能性は常に頭に留めておきたい。良書とか、そういう人ともっと深いかかわりを持つこととか、それを外野なりに理解する手がかりはあるのかもしれない
- そういう言語感覚の当事者の方と話してみたいな……
- → ちょっとそういう界隈の方と話した 体験最高な方もいれば、少し懐疑的な方もいて、当然一枚岩じゃないよなぁと思った 問いフェス Vol 3

