『チューリング完全ユーザー』試訳
Footnotes
- ドン・ノーマン「なぜインターフェースは上手くいかないのか」(Why Interfaces Don’t Work)ブレンダ・ローレル(編)『The Art of Human-Computer Interface Design』所収、1990年、p.218 ↩ ↩2
- Apple Inc.「Official Apple (New) iPad Trailer」YouTube、2012年、https://www.youtube.com/watch?v=RQieoqCLWDo (2025年10月24日最終確認・現在リンク切れ) ↩
- 「ユーザー」という言葉を避けようとするもう一つの強い動きは、ゲーミフィケーションの支持者たちから生まれている。彼らは「ユーザー」ではなく「ゲーマー」と呼ぶことを好む。しかし、それはまた別の話である。 ↩
- 講演の動画も参照。ノーマンの2006年のエッセイ『言葉が重要だ』(Words matter)より:「心理学者は自分たちの被験者のことを 『対象』(subjects)と呼ぶことで、人格を取り去ってしまう。そして私たちは、自分たちが研究する人々を『ユーザー』(users)と呼ぶことで、その人間性を遠ざけている。どちらの言葉も侮蔑的だ。どちらも、本来の使命、つまり人々を助けることから私たちを引き離してしまう。私は『Power to the people』(人々に力を)というフレーズを借りて言いたい。人々。人類。これこそ、私たちの分野が本当に扱うべきものなのだ。」 ↩
- レフ・マノヴィッチ「デジタルメディアとやり取りしている人の呼び名は?」(How do you call a person who is interacting with digital media?)、2011年 ↩
- ダグラス・ラシュコフ『プログラムするか、されるか』(Program or be Programmed)2010年、p.46、「選択」(Choice)章の副題「どれも選ばないこともできる」(You May Always Choose None of the Above)より引用 ↩
- 「映画『トロン』(1982年)は、この言葉(ユーザー)に対する最大級の評価と最も華々しい定義を示している。(…)ユーザーとプログラムとの関係は、非常に親密で個人的、ほとんど宗教的ともいえるものとして描かれている。そこでは思いやりと敬意を持った創造者と、責任感があり献身的な子孫(=プログラム)が登場するのだ。」 ―― オリア・リアリナ & ドラガン・エスペンシード「あなたはユーザーを信じますか?」(Do you believe in users?)、『デジタル・フォークロア』(Digital Folklore、2009年)より ↩
- ヴァネヴァー・ブッシュ『考えてみるに』(As We May Think、イラスト入りバージョン、PDFファクシミリ)、Life誌、1945年 ↩
- 訳註:bootstrapping = ブームの踵についたストラップを引き上げて、ジャンプするという英語の成句に由来する。「ブートする」の語源。自己起動プログラム、自己進化のメタファーとして彼は使っている。 ↩
- ティエリー・バルディーニ『ブートストラッピング』、2000年 ↩
- J.C.R.リックライダー(Joseph Carl Robnett Licklider)『人間とコンピュータの共生』((Man-Computer Symbiosis)、IRE Transactions on Human Factors in Electronics、第HFE-1巻、p.4-11、1960年 ↩
- アラン・ケイ『パーソナル・ダイナミック・メディア』(Personal Dynamic Media、1977年)、ノア・ワードリップ・フルイ&ニック・モンフォート編『ニューメディア・リーダー』(The New Media Reader)、MIT Press、2003年 ↩
- ダグラス・K・スミス&ロバート・C・アレクサンダー『ファンブリング・ザ・フューチャー』1999年、p.110(Google Booksより)参照 ↩
- アラン・クーパー、ロバート・ライマン、デイビッド・クローニン『About Face 3: インタラクション必携』(About Face 3: The Essentials of Interaction Design、2007年)、p.45 ↩
- テッド・ネルソン『Computer Lib/Dream Machines』改訂版(1987年)、p.9 ↩
- 『Computer Lib』3頁よりスキャン ↩
- Adobe Creative Suite 6(2012年)のWebサイトを参照。(訳注:Wayback Machineより2012年10月11日のバージョンに差し替え) ↩
- ダグラス・ラシュコフ『プログラムするか、されるか』(Program or be Programmed)2010年、p.131 ↩
- 動画とその書き起こし ↩
- ジョン・フォン・ノイマン『EDVACに関する最初の草稿』(The First Draft Report on the EDVAC)序文、1945年 ↩
- M・ミッチェル・ウォルドロップ『ドリーム・マシン』(The Dream Machine)、2001年、p.62 ↩
- テッド・ネルソン『Computer Lib/Dream Machines』改訂版(1987年)、p.37 ↩
- ケビン・ケリー『テクノロジー自身が目指す必然』(What technology wants、2010年)より引用 ↩
- Web 2.0は、本来は人とテクノロジーが完全に融合するはずだったが、実際には疎外を推し進め、ユーザーと開発者をさらに遠ざける結果となった。人々は自作のホームページからSNSへと移行させられていった。 ↩
- 「政治もまたシステムであり、確かに複雑ではあるが同じことだ。もし人々がコンピューターのような複雑なものを理解できるなら、他の物事に対してもより深い理解を求めるようになるだろう。」 — シェリー・タークル『第二の自分』(The Second Self、2004年、p.163)で論じられている、ある回答者の発言 ↩
- 「多くの学校のコンピュータ・リテラシーに関するカリキュラムでは、プログラミングを教える代わりに、プログラムの使い方を教えている。(…)より大きな問題は、こうした教育の全体的なアプローチが『ユーザー』という視点に立ったものになってしまうことだ。」 — ダグラス・ラシュコフ『プログラムするか、されるか』(Program or be Programmed、2010年、p.130) ↩
- 「たとえばMacintoshのデスクトップのような直接編集システムは、コンピューターの世界を現実世界のオブジェクトに直接対応づけて表現することで、インターフェイス上の隔たりを埋めようとしてきた。だが、今日の新しいアプリケーションに備わった複雑で多様な機能——それは人々のコンピューターへの期待の高まりと呼応する——は、私たちをこのデスクトップメタファーの縁から押し出そうとしている。コンピューターの真の力は、取っ手のない扉の向こうに閉じ込められているのだ。」—— ブレンダ・ローレル『劇場としてのコンピューター』(Computer as Theater、1993年、p.xviii) ↩