尖ることは力

テキトーなことを言うんだけど、人類の道具の歴史は「尖らせる」ことから始まった。拳も指も丸っこいけど、尖ったものを手にすることによって、応力を集中させて何かを切ったり刺したりできる。図像を描いて、その一点を指し示しながら意図を正確に伝えることもできる。尖っていることは、肉体的にも知的にも力だった。

Marcus Fleckner, The Design of The Mouse Cursorより引用

マウスカーソルの矢印が尖ってるのも、きっとユーザーにとっては力なんだと思う。カーソルが尖っているおかげで、ぼくらは12ptの文字をストレスなく選択できるし、スライダーで写真を良い色味に調整することができる。ちょっとした雑学だけど、ダグラス・エンゲルバートの「全てのデモの母」で有名なNLSの最初のマウスカーソルは上向きの矢印だった。それがXerox Alto以降、斜めに傾いた矢印になった。Altoの荒いラスターディスプレイでは、上向きの矢印の先端を45°の線を左右から突き合わせて描いてもギザギザにぼやけるだけで、垂直の線と45°の線を組み合わせたほうがずっと鋭く見えた。カーソルを尖らせるために、矢印そのものを傾けたってわけ。macOSをつかう最中にレインボーカーソルになるとき、ぼくはほんのりと無力感を感じる。それは「レインボーカーソルはビジーを意味する」という記号的理解によってではなくて、カーソルから尖りがなくなったことで、ドラえもんの手のような丸いグローブがはめられて不自由になったような、そんな感覚だ。

タッチスクリーンは、入力方式を剥き出しの丸っこい指に退行させることで、ユーザーの表現力をハードウェア的に奪い去る。ボタンのタッチ領域は最低48dp(=論理ピクセル)必要で、動画もコマ単位では頭出しできない。マウスと直立したディスプレイに比べれば、インターフェースは指と画面のあいだに何も挟まらないゼロ距離のところまで来ているはずなのに、入力がぼやけて、思考からはむしろ遠くなった。

Accessibility designing – Material Design 3

意図や欲望を正確に表現できず、言いたいことがうまく言葉にならないエンドユーザー。そこにお節介焼きなUI/UX思想が「あなたはこういうのがやりたいんでしょう?」と先回りして提示する。人々はそれに馴化されていく。意図そのものが、プラットフォーマーが想定する規範にスナッピングされる。

だからクリエイティブ・プロフェッショナルにとってApple Pencilは必然だった。意図があるから尖ったものが欲しくなるんじゃなくて、人は尖ったものを手にすることで、はじめて自分の「意図」を精緻に自覚できる。物理にせよスクリーン上にせよ、指先に尖ったものが連動していて、さてこれで何をしようかと考えるところから、作り手としての能動性は立ち上がってくる。