尖ることは力
テキトーなことを言うんだけど、人類の道具の歴史は「尖らせる」ことから始まった。拳も指も丸っこいけど、尖ったものを持つことで、応力を集中させて何かを切ったり刺したりできるようになった。図像を描いて、それを指し示しながら意図を正確に伝えることもできた。尖っていることは、肉体的にも知的にも力だった。

マウスポインタの矢印が尖ってるのも、きっとユーザーにとっては力なんだと思う。ポインタが尖っているおかげで、ぼくらは12ptの文字をストレスなく選択できるし、スライダーでちょうど良い色味に調子よく調整することができる。これはちょっとした雑学だけど、ダグラス・エンゲルバートがデモをやったNLSの最初のマウスポインタは上向きの矢印だった。それがXerox Alto以降は、斜め右下からの矢印になった。想像するに、多数派の右利きにとって、それがごく自然な向きだったことと、左から右に書く書記体系では、カーソルが文字の邪魔をしないからなんだろうな1。macOSをつかう最中にレインボーカーソルになるとき、ぼくはほんのりと無力感を感じる。それは「レインボーカーソルはビジーを意味する」という記号的理解によってではなくて、カーソルから尖りがなくなったことで、意図の表現能力がぼやけるような、そんな感覚だ。
タッチスクリーンは、入力方式を剥き出しの丸っこい指に退行させることで、ユーザーの表現力をハードウェア的に奪い去る。ボタンは最低48dp(=論理ピクセル)必要で、動画もコマ単位では頭出しできない。マウスと直立したディスプレイに比べれば、インターフェースは指と画面のあいだに何も挟まらないゼロ距離のところまで来ているはずなのに、入力が大ざっぱになって、思考からはむしろ遠くなった。

意図や欲望を正確に表現できず、言いたいことがうまく言葉にならないエンドユーザー。そこにお節介焼きなUI/UX思想が「あなたはこういうのがやりたいんでしょう?」と先回りして提示する。人々はそれに馴化されていく。意図そのものが、プラットフォーマーが想定する規範にスナッピングされていく。
だからクリエイティブ・プロフェッショナルにとってApple Pencilは必然だった。意図があるから尖ったものが欲しくなるんじゃなくて、人は尖ったものを手にすることで、はじめて自分の「意図」を精緻に自覚できる。物理にせよスクリーン上にせよ、指先に尖ったものが連動していて、さてこれで何をしようかと考えるところから、作り手の能動性は立ち上がってくる。