橋本 Hashimoto   Baku

橋本 Hashimoto   Baku

ミームとジーン

人間というのはつくづく便利な器で、二種類の自己複製子、つまりジーンとミームの運び屋を兼ねている。

ジーンは言わずもがな、生物学的な自己複製。こちらはコストが重い。妊娠、出産、子育て、教育費。ざっと数千万円と18年の人生を持っていかれる計算になる。一方でミームは、アイディアを広めたり、ものづくりという名の自己複製を行う。こちらもリソース食いではあるが、魅力的に装ってくる分だけ寄生能力が高い。「生きがい」とか「自己実現」なんていう呪文とともに、認知資源をごっそり持っていく。

で、この二者は器であるぼくら人間のリソースを奪い合う。ジーンはホルモンの調整やら情動のバイアスで「この子、かわいい……!」という感情を仕込んでくる。一方でミームは、作品を残したり、思想を広めたりする快感、そして何より虚栄心に訴えかけてくる。

そんなことを、帰省先で妹夫婦の子育てを見ながら考えていた。

たしかにかわいい。でもそれは、家族写真つきのキッチュなデザインの年賀状を見たときの「ああ……うん……」という、あの「無」の感情に近い。自分はたぶん、ジーンよりミームが優勢な人間なのだと再確認した。

ただ赤ちゃんという存在自体は、インタラクティブな装置としてなかなかに興味深い。この人は幼児向け絵本のお話に感動してるのではなく、「紙がペラペラめくれる塊」であるという物体性や、でかい絵と文字の視覚的な気持ちよさに惹かれてるんじゃないか?と仮説を立て、囲碁の教本を読み聞かせしてみた。結果はというと、うん、無反応だったけれど。それでもやっぱり、自分にとって血縁度1/4のか弱い個体そのものへの関心というより、長年ともに暮らしてきた妹が、教員としてのキャリア ≧ 4年と引き換えに全力投球している対象に、自分もそれなりに興味を持ってしまう。そういう関係性。

たぶん、ジーンの自己複製を促すプログラム──一般に父性とか母性とか呼ばれるアレは、有性生殖の出現以来、あるいは哺乳類の出現以来、何億年もかけてリファクタリングされながら洗練されてきたわけで、自分の中にもどこかにはあるんだろう。いざとなったら自己起動してくれると信じた方が賢明なのかもしれない。

あるいは「自分がとった人生の選択にはきっと筋が通ってる」という自己正当化メカニズムこそが、ジーンと共謀関係を結ぶんじゃないかという予感もある。Steve Jobsのかの有名な卒業祝賀スピーチの “connecting the dots” の話って、つまるところそういうことだ。リード大学を退学して、カリグラフィーの授業に潜り込んだ経験が、Macのデザインに活きたと彼は語る。でももし彼がもっとLisaの子育てに注力していたら、MacintoshはもっとAlan Kay的な意味での「子どもたちのためのメタメディア」っぽくなっていたのかもしれない。それはそれで、魅力的だ。つまるところ、「点」は何でも良かったのだと思う。

作品の記録や保存に対する今のぼくの執着も、ジーン的な自己複製を完了していないことと関係あるのかもしれない。例えば清水幹太さんの「表現が揮発すること」への欲動は、ジャズという出自以上に、すでに三人の子の父であるという事実とも関係していそうな気がする。もちろん、hsgnさんのようにジーンにもミームにも興味を持たない人もいれば、Podcast『赤岩やえのRadio Not Found』でやえさんが語られているように、ジーンの自己複製のプロセス(出産と育児)の大半を終えてなお、ミームの保存にこだわる人もいる。人間の形は多様だし、どちらの自己複製子にもそこそこ都合のいいように設計されてる。

というあたりで、再び「無」に戻る。器としての自分は、いったいどの複製子を受け入れようとしているんだろうか。