道具としてのAIと所有の問題を分けて考えたい
土屋 泰洋さんの デザインの手前 でのお話、有馬さんも仰る通りべらぼうに面白いなぁ CBCNETの連載 『Dots & Lines』は自分もすごく影響を受けた。ああ、こうやって串刺していいんだ〜というか。「Art & Tech」的な界隈の中でも、土屋さんは編集工学的なセンスがずば抜けている。
ただ、悔しいかなぼくはソフトウェア知財に関してド左翼なので、「AIをどう愉しく使うか」と「そのAIという道具が誰にどう所有されるべきか」を分けずに語る議論には、どうしても違和感を覚える。制作者としてAIとどう向き合うかについては有馬さんや土屋さんのスタンスにとても同意しているのだけど、AIへのバックラッシュというものを、時代についていけていない者のネオフォビア(新奇なもの恐怖症)やぼんやりとした実存的危機として片付けているようにも感じられるので、後者に限って個人的に思っていることを書いておきたい。
誰かの創作物を用いて、その職能を部分的に代替しうる仕組みを作り、それを寡占しながらレントを取る構造を無制限に許すと、結局誰も「生産」に回らなくなる。これ自体は事実だと思う。時代の流れは速くあるべきだし、キャッチアップできる者が生き残るという価値観も理解はできる。でもその一方で、著作権や特許のように、リミックスのサイクルを意図的に「遅く」するための仕組みについては、そうしたネオリベ的な心性を持つ人達も意外なほどに文句を言わないのは不思議だったりする。というか今見たら、そうしたAIサービスこそ、彼らがしていたであろうスクレイピングを自分自身が生成したコンテンツに対して行うことを固く禁じていたりする。ダサ。
- データ又はアウトプット(以下に定義します)を自動又はプログラムにより引き出すこと。
- アウトプットを使用して、OpenAIと競合するモデルを開発すること。
利用規約 | OpenAI
この2つは、権利の保証という側面が強調されがちだが、ぼくがもっと重要だと思うのは、それが期限付きの権利だということだ。無制限に作り手を保護するのでもなく、完全に二次利用を野放しにするのでもなく、その中間で、創作や発明を促すためのちょうどいい制約として、ものづくりの土壌を耕している。
「誰かの創作物をデータセットとして自動的に学習し、その職能を部分的に代替する仕組み」は、既存の著作権や特許の概念では包摂しきれていない。単純にそれは、そうした技術が想定されていなかったからだ。だからこそ、作る側と二次利用する側を取り持つような仕組みがAIにも必要だと思う。作ることが、ただ「うまくフリーライドすること」よりも経済的なインセンティブを持てるように。
(おそらく、作ることが空洞化してからみんな気づくんだろうけど。)
以下、自分のスタンス:
- オプトアウトする権利は保障されるべき
- e.g., https://spawning.ai のようなライセンス体系とか
- オプトアウトでスクレイピングをした場合、モデル自体はコピーレフト化すべき
- その上で、安定稼働させたSaaSとしての提供には対価を取ってもよいし、学習元への再分配は必要としない
- 職能を直接代替する用途には制限を
- 絵師モデルで絵師っぽい絵を生成するようなケースにおいて、絵全体の構図やタッチなど、「主」と言えるような創作要素がAIによって生成されている場合、そのことの明示する義務を
- 何が「主」かは質的な問題なのだけど、米国のフェアユースや日本の著作権法における「引用とみなされる条件」が規定できているなら、おそらくは可能なんじゃないか
- 学習元と競合しない転用、誤用や私的利用は自由に
- そこまでは誰も縛るべきではないと思う