ハイプとプレーンテキスト
- 勢い
ノートアプリ Obsidian の現CEO、Steph Angoの日記が面白くて、最近は日課みたいに訳している。ちなみにぼく自身は Obsidian をメインでは使ってない。でも開発者の姿勢や設計思想がいい意味で「推せる」ので、Cosenseと並んで人に勧めまくっている。
あまり振り返りたくないことなんだけど、ぼくが「意識高かりし」頃に、成田修造さんや中川綾太郎らが学生時代に開発されていた rizmeeという音楽SNSのPVをつくったことがある。現PARCOの道玄坂ビルに出向いて話を伺ったとき、最初に感じたのは「この人たち、音楽が特別好きなわけじゃないんだな」ということだった。そこにOTOTOYのような文化への愛は(ぼくの印象だとあまり)ない。重要なのは事業を興して世の中にインパクトを残すことであって、扱う対象そのものは『パルプ・フィクション』のスーツケースの中身みたいな、起業家としての彼らの物語における「マクガフィン」的な存在なんだと思った。それは結局のところ、女性向けまとめ転載サイトでもギグワーカー斡旋でも、とにかく何でもよかったんだ、って分かったのはまた後の話なんだけど。
Steph Ango はもともと一ユーザーとして Obsidian にハマり、自作テーマやプラグインまで作っていた人だ。で、色々あって創業者二人が開発に専念できるよう、自らCEO業を引き受けた。だから彼の言葉は平易で簡潔ながら、常にObsidianという個別具体的な存在に向けられている。人々がノートで記憶を外在化する営みの普遍性と、サービスとしての Obsidian の有限性、その両方をちゃんと意識しているし、そこには誠実さがある。
Obsidian はRed HatやVercelのような「オープンソース企業」ではないけれど、そのコアにあるのは「ローカルディスク上のプレーンテキストMarkdown」というオープンな仕組みだ。Steph自身がクセの強いヘビーユーザーだったという来歴は、多種多様な使い手のありようを「ユーザー体験」という形で定式化しようとせず、そしてユーザーにとっての「便利」を一方的にお膳立てしようともしないスタンスとも繋がっていると思う(あくまでフルタイムCEOであって、そういうプロダクトの方針決定にどこまで関わっているかは不明だけど) 。ましてやエコシステムや経済圏とやらにロックインしようともしない。そのかわりに、ユーザー自身がサービスを外部のいろんな仕組みと連動させたり、カスタマイズする余地を意図的に残している。
事実、Stephのサイトも自体も、Obsidianのノートを元に、Jekyllという別のシステムをつかって静的ビルドしている。似たようなことができるObsidian PublishというオールインワンのSaaSがあるのに、CEO自らがそれを押し付けようとしない。そうしたポジショントークを超えた律義さは、ユーザーからの熱い支持にも繋がっている。ゆえに資金調達頼みではなく直接課金によって支えられている。
これは「イノヴェーション」や「ゲームチェンジャー」を連呼してハイプを煽るスタートアップ文化とは好対照だとぼく思う。
世の中がAIで沸き立っているなかで、いまさらプレーンテキストのノートアプリという地味なものに賭けるスタンスには、むしろ信頼を感じる。みんなが社会実装だとか、なんというかメタな構造の話をしたがるなかで、日々の生活における調子のよさ(洒落臭く言えばウェルビーイング)を底上げしてくれるのは、こういう具体的な興味に根ざした、映えないチマチマとした実践の積み重ねでしかないのだろう。期せずして、プレーンテキストとLLMの食い合わせのよさもバレちゃったわけだし。
プラットフォームという形態自体がもう限界に来ている。もちろん、しずかなインターネットのCatnoseさんやstateの清水 幹太さんのように個人として面白い試みをしている人はいる。でも彼らは、あくまで「プラットフォームの中でどうやって静けさをアフォードするか」に注力している。一方ぼくの関心は、そのさらに下層にある「プロトコル」の方にある。それはHTMLかもしれないし、RSS、あるいはトラックバックのようなバックリンク技術かもしれない。あるいはサービス間APIかもしれない。要は、プラットフォームや事業という傘の中でユーザーをコントロールするのではなく、より大きな自律分散的な仕組みの一部に自らを位置づける謙虚さこそが、緒方さんのいう「コンヴィヴィアル・テクノロジー」に繋がっていくんじゃないかな。
そんな議論の中心にあるのが、HTML Energy や Local-First Softwareのような思想だとぼくは捉えている。こういうムーブメントはデジデジ業界ではもっと知られていいし、「プレーンテキストしか勝たん」みたいな90年代のUnix思想みたいな話は、改めて振り返られていいんじゃないか。で、そういう空気を醸成するには「母国語で読める」ことがやっぱり重要だと思う。だから翻訳は今でも意味がある。
もちろん翻訳には「訳せる人はそもそも翻訳を必要としない」という皮肉な宿命がある。それでも、川合史郎がPaul Grahamを、山形浩生がEric RaymondやLaurence Lessigを、久保田晃弘先生がJames BridleやViznutを訳したのには、ある種の使命感があったのだろうと思う。自分自身が必要としない文章を、他の人のために日本語にする経験を通して、彼らが感じたであろう徒労感と面白さを、ぼくも少しは追体験できている気がする。もちろん、自分の言葉として咀嚼できる程度に精読できるっていうメリットはあるんだけど。(研究者の方々の語彙がルー語化するのは、日本語を迂回しない情報摂取や思考が習慣化しているからだと思う。ぼくの英語力はそこまでじゃないので、自分の手で翻訳するのは結構役に立っている)
今はLLMのおかげで、ぼくのような英語が中途半端にヘボい人間でも、雑訳くらいは一気にできる。ありがたい時代だなぁって思う。まだどのテキストも許諾は取っていないけれど、こうした考え方が日本語圏に流れ込んで、北千住デザインさんがHTML Day 2025 Tokyoを主宰されたように、これからいろんな議論が巻き起こればうれしいです。