橋本 Hashimoto   Baku

橋本 Hashimoto   Baku

ユーフォニアムロス

響け!ユーフォニアムの何が刺さったのかずっと考えてたのだけど、結局佐藤雅彦氏の言うところの「studious」に行き着くのかなって思う

『Q9:将来佐藤さんのようになりたいと思っている若者や子供たちへのメッセージをお願いします』

僕は実は 30過ぎてから表現の世界に入ってきたわけなんですけど、今なんでこんなに物を作ることに集中とか夢中になれるかっていうと、ちっちゃい時僕は静岡県の伊豆で育ったんですね。
毎日海に行って、海の生物・・・アメフラシとかですねヒトデとか、そういったものに夢中になってたんですね。
それとか近所の子ども達に新しい遊びを提供することに夢中になってたりとかしてて、あと海もありますし山もあるし川もあって、もう夢中になれるものがですね、素材がまわりにあふれてたんですね。
'虫も魚もものすごくいっぱいあったし、遊びも自分で作ってて、ものすごく夢中になったんですね。

で、その時には例えば表現の「表」の字もないですよね。デザインの「デ」の字もないんですよ。やっぱり何が面白いか、これに夢中になるっていう、
僕は夢中になるってことを「studious」っていうラテン語で表してるんですけど。
あの「study」っていうと勉強って訳しますけど、その「study」の語源っていうのは「studious」っていって、夢中になる・熱中する状態なんですね。
ですからスタジオ(studio)なんかみんなが熱中して物事を作ったり撮影したりしてるわけですけど。
「studious」になることを覚えた子どもだったら、将来それは表現をやろうと、他の例えば研究をやろうと、あるいは物を作る人になろうと、
それはすごくやっぱりひとつのものを集中の仕方が分かっているので到達できるんですね、自分のやりたいことに。

一番いけないのは、体裁だけを整えて「こっちの方が見栄えがいい」とかですね、その表面だけのことを覚えて取りつくろうことだけが巧みになるっていうのが、僕はすごく今恐れていることなんですね。
もう小さいときは……この映像って多分、子どもが直接見るっていうか、お母さんとかあるいは大学生とか、これから若い人を育てる立場の人だと思うんで言いたいんですけど、
それが釣りだろうと音楽だろうと、特にスポーツですね。野球やサッカー、そういうものに夢中になることを周りで勧めたいなと思ってるんですね。そういう環境を作りたいっていう。
例えば僕は結構、体育会の子が好きなんですけど、野球やってた子って、中途半端な面白さ、世の中の例えばシュールな面白さみたいなああいうものは「え、つまんないんじゃないの?そういうものは」と一言で看破できる力を持ってるんですね。
ですから一度夢中とか熱中した経験のある子だったら、「何が本当に面白いのか」「何が本当に美味しいのか」とかが分かるんです。
世の中マスコミがすごくうるさいから、「これがなんか美味しいですよ」とか「これが面白いですよ」とかって、いっぱい情報がありますよね。
その時にやっぱり大事なのは自分の考え、自分の意見ですよね。「なんだつまんないじゃないか」と、「なんか世の中間違ってるな」と思ってもいい。
そういうなんかこう自分が一度夢中になった・熱中した体験があると、本当のものを見つける力があるなと思うんですね。

僕は本当に表現の世界に入ったのはすごく遅いんですけど、
それまでに夢中になったものが今思うとたくさんあって、たまたま故郷が伊豆で海とか山とか自然がとてもきれいなところで、それはすごく今感謝してますね。
本当に面白いもの・きれいなもの・美味しいものっていうのを、そこで身をもって知ったと思うんですね。 子ども達にはそこを体験させたいですね。
間違っても上辺だけ、あるいは人との関係だけで成立するような人間にはなってほしくなくて、だからズバッと本当に面白い番組とか表現をやりたいなと思っているんですね。

「新しい発想のために必要なこと」佐藤雅彦さんのインタビューが非常に良かった - Blog@narumi

最初から才覚とモチベーションに溢れた主人公スポ根するんじゃなくて、さして夢中に打ち込める事も無ければ、かといって無気力ヤレヤレ系でもない、
人並みに真面目で人並みにシニカルな一面を孕んだ久美子が、麗奈という身近な人物のstudiousさに異化されて、自分なりのstudiousに目覚めていく過程こそが、ユーフォの一つの大きな魅力だと思う。

そういう意味でも「進学クラスも存在するそこそこの高校の部活動」は 舞台設定としてとても上手くて。
スポーツ漫画みたいに、プロプレイヤーになるであろう将来が透けて見えるワケでもなければ、部活で活躍したとて受験勉強ほど実利的な見返りがあるワケでもない。
現実的な進路の影が常に付きまとい続けるからこそ、その学生限りの活動に打ち込む登場人物の内的動機付けが輝いて見える。

もちろん承認欲求や打算が完全に無いとは言わない。けど、studiousに何かにのめり込んでいる時の気持ちって「こうこうこうだからこれが好き」みたいに説明できるものではない気がする。
再帰的な言い方だけど、「好きだから好き」「自分はこれが好きだという気持ちが何よりこれを好きでいさせてくれる」というか。
ぜんぜん論理的じゃないんだけど、なんかそういうフワッとするような、ジリジリするような、そんな感覚。

この数年で気づいたのは、そういしたものに十代のうちに出会えるのは、実はとても幸運なことだったということだ。
なにかにstudiousになれた経験があるからこそ佐藤雅彦氏の言うように物事の本質を看破できるようになれる。
就活を控えてガクチカをでっちあげたり、自分探しの旅に出る、なんてことにならずに、自分にその瞬間大切だと思うことにまっすぐに打ち込める。

少しだけ強調したいのは、studiousであるためには、スポーツ選手のように人生を通して情熱が一貫している必要はないということだ。
その時々に熱中する対象は変わったっていい。
「自分の好きが見つからない」というよくある悩みは、アイデンティティを深刻に見定めようとしすぎているゆえんの擬似問題にも思える。
Studiousになるのが上手な人は、そこまで深く考えない。興味のあることにぐいっと体重を乗せて、ときに目的がすげ替わったりしながらも熱中しているうちに、
後付け的に自分の好きなものが浮かび上がっていたということのほうが多い気がする。
彼のいうstudiousさというのは、単に熱い情熱だけではなく、そうした軽やかさをも孕むんじゃないか。これはだいぶユーフォそのものから離れてきた……。

多分ナードな第一印象ほど深夜アニメが好きというワケでもないぼくが、アニメアイコンとか柄でも無いことをするくらいにハマったユーフォは、
studious であることの尊さを再認識させてくれる作品だったと思う。