橋本 麦∿Baku Hashimoto

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ダーウィンを数学的に証明する

中村健太郎さんに教わったこの本、自分には少々難しくて完璧には理解出来なかったけれど抜群に面白かった。

遺伝的アルゴリズムが最適化手法として有用なのは、遺伝という仕組み自体が35億年の歴史を通して自己最適化されてきた最適化手法だから、っていうのは前から気になってて。

遺伝という仕組みを生き物たちの適応度を高めるための一種の乱択アルゴリズムとして考えると、遺伝を通してその生き物の適応度を少しずつ高めてきたと同時に、その遺伝というアルゴリズム自身も、それによって進化させられる生き物の適応効率(速度? 探索精度?)という適応度を高めるべく自己最適化されてきたわけで。放射線か何かによる無秩序な塩基の置き換えから、交叉や有性生殖のような、より洗練されたランダム性を獲得した経緯もそうだし。もしかしたらミームもその延長にあって、遺伝子の容れ物として、個体の生涯変わることなく生殖のタイミングでしか変異を試せないDNAではなく、より可塑的な「記憶」を用いることで、生まれた後もなおスピーディーに形質を変化させていけるという、生物史における最新鋭の変異テクニックなのかなぁと思った。(『拡張された表現型』はまだ読んでいない…)

本当の意味で「遺伝的アルゴリズム」を実装しようとすると、今現在自然界に見てとれる遺伝の仕組みを切り取ってマネするだけじゃ足りなくて。まず、ある変異ルールによってランダムウォークさせられているつぶつぶ同士を競争させて、元々与えられた目的関数に適う形で最適化させていく。しかしそれと同時に、遺伝の仕組みそのものもまた、それぞれの変異ルールのもと動き回るつぶつぶ集団同士を戦わせて、集団としての適応効率を適応度に取ることで淘汰的に進化させていかなくては、真に遺伝を模倣していることにはならない。それは単に「交叉率」のような、プログラム中に予め埋め込まれた変数のチューニングに留まらなくて、ソースコードそのもの、つまりアルゴリズムレベルでの自己最適化も含まれる。ソフトウェアとして例えると、生き物の進化のダイナミズムがものすごく分かりやすいなぁ思った。

AIやIA(知能増幅)がバズワードとして持て囃されていた2014年は「トランセンデンス」や「ルーシー」なんかが公開されていて、個人的にシンギュラリティ映画(?)の豊作年だった。(「インターステラー」もある意味でシンギュラリティ映画なので。)どれも観に行ってたけど、案の定なんというかコレは本当に超越的な知能なのか…? っていうモヤモヤした気持ちしかなくて、高校時代の友人に愚痴ったらゲーデルの不完全性定理を勧められた。それからしばらくロイホで高校以来食わず嫌いしてた数学ガールを読み耽ていたのだけど、ペアノの公理以降で理解がおぼつかなくなってきて、そもそもこれって「知能」に関係あるっけ? という釈然としない読後感だけ残っていた。

ただ、何となく公理主義とその限界、あと記号論的な考え方はずーっと頭に残ってて、めちゃめちゃその後の制作や人間関係の改善に役立ってたりする。一方で、シンギュラリティの話題に対してゲーデルを勧められたその心は…?という引っかかりに、6年越しに合点いったのがこの本だった。

同図像性のプログラミング言語としてのDNAや、自己複製における複雑さの増加、エンゲルバートのABC Activities(「最適化手法の自己最適化」手法の自己最適化…)と、結構最近考えてた色んなことに一本筋が通るような快感があって良かった。

IAで思い出したけれど、テッド・チャンの「理解」の映画化はどうなってるんだろか。

おもちゃの設計

目的に関知しない に関連して。

そのおもちゃがどれだけ遊ぶ人の創造性を育むみやすいかどうかも、それがどういう遊ばれ方をし得るかにどれだけ設計主が agnostic(不可知)な態度を貫いているかによって決まるのではないかと思った。別におもちゃの良し悪しをジャッジしようってワケじゃない。

「創造性」なんてスピった言葉を使うこと自体が気色悪かったりもするのだけど、僕なりの定義を挙げるとすれば、「あるやり方をよりうまくこなす」に対する「やり方そのものをよりうまく編みだす」ことなのかなぁと思ったりする。違ったやり方を編みだすことは、結果的に新しいものを生み出すことにも繋がりがちなので、そこだけに着目して「新しいものを創り出した = 創造的」と勘違いされやすいのだけど。単に新しいものを作るだけでOKなら、工場で働いている方々は僕みたいな手工業でものを作る人達の比じゃないくらい創造的なことになるし、その言葉の直感的イメージに反する。むしろそれは「創る」というより単に「増やす」に過ぎないだろうと。だから実は創造性において着目すべき点は、結果そのものではなく、そのプロセスの真新しさなのではないかと思う。

もう少し突っ込んでいえば、何をもってして創造的かもまた、あるルーティーンの枠組みに対して相対的に定まるものでしかない。「あるやり方をよりうまくこなす」に対する「やり方そのものをよりうまく編みだす」とあえて対比してみせたのも、まさにそういう意味で。例えば プログラマーのような、やり方そのものを日々編み出し続ける仕事をしていると、やり方を編みだすということ自体が日常的行為なので感覚的にもそれらがおしなべて創造的とは言い難い。だから彼らのようなレベルの仕事においての創造性は、より高次の行為、例えばより賢いプログラミング言語そのものや、より新しいパラダイムを編みだすことにあるのではないかと思う。そこまでいかずとも、その人なりに今まで挑んだことのないアプローチでエンジニアリングをしに掛かることも、ルーティーンを回す技能や効率向上でなく、ルーティーンそのものに対する改良行為なので創造的と言えるかもしれない。その点で、創造的行為は常としてメタ性を孕んでいる。

話はおもちゃに戻って。そういう僕なりの創造性の定義でいけば、ある遊ばれ方や、クリアまでの直線的な道のりを想定されたおもちゃを遊ぶことで育まれるのは、その遊ばれ方の枠組みのなかでよりうまく楽しむことでしかない。先の定義でいうと、おもちゃを想定された遊び方で遊ぶという一連の行為に対して「相対的に」創造性のある行為は、おもちゃの遊び方を考えることになる。だから、遊び主(?)が自らそのおもちゃをどういう風にして遊ぼうかを考える余地を残しているか、遊ばれ方に対して設計主がどれだけ不可知な態度を貫いているかが、そのおもちゃが育む創造性に関わっているように思えた。それがズバリ、目的に不可知な態度、つまりおもちゃの purpose-agnosticさ(目的に関知しない性質)だ。そしてその最良の例が積み木やレゴブロックで、そのソフトウェア版が Minecraft だったりするのだろう。砂場でもビー玉、お人形でも何でもいいけど。

とはいえ、現実にはトイ・ストーリーのシドのように、おもちゃをハックすることでその遊び方というのはいくらでも拡張していける。むしろアンディはカウボーイの人形をカウボーイとしてしか遊んでいないわけで、その意味でシドの方が数段クリエイティブだ。(というような文章を残したのは誰だっけ? 思い出せない)しかし、設計主の想定に関わらずこうした抜け道がおもちゃに残されるのは物理世界の話でしかない。ソフトウェアのおもちゃは、赤ちゃん人形の頭部と機械仕掛けのクモを組み合わせてキメラを生み出す感覚では、ゲーム同士をくっつけたり改造したりできない。あくまでゲームデザイナーが意識的にそうした設計にしない限り、そのゲームの遊び方自体を考える余地は生まれにくい。その代わりに「バグ」という小学生男子・女子には恐ろしく甘美な領域が潜んでいたりするのだが。

23 Hilarious "Toy Story" Moments That'll Make You Laugh Every Time ...

最近も香川県でアホい条例が可決されていたりするけれども、ああいった種の人達が抱えがちな「ソフトウェアのおもちゃ」への謎の抵抗感は、無理やり理由付けするとすれば、そうした「遊び方を考える」というメタ遊びがやりづらい点にあるのではないかと思った。別にゲーム脳なんて唱えている人達はそんなこと微塵も考えてないだろうけど。ただ、このアプローチで攻めてこられたらゲーム派としては結構ぐぬぬ…という感じなので、このまま思いつかないままでいて欲しい。

話は逸れるが、来たるプログラミング教育の時代に向けて遊び感覚でプログラミングが学べます、というような教材が最近増えている。ただあれも「パネルを組み合わせてドラえもんをゴールまで運ぼう!」という具体的な目標が設定されてしまっている時点で、プログラミングで遊ぶことを通して本来育み得るメタ思考の良さ、面白さがスポイルされているなと思った。とはいえトイザらスでめっちゃ楽しく遊んでたけど…(笑)その点、Sketchは初めかららちゃんと完成されていて凄い。

Lifelong Kindergarten | The MIT Press


追記

「大量生産は創造的か」の下りで、創造性は成果物というよりプロセスの新しさによって定まると結論づけてしまったけれど、どの特徴をもってして成果物が同じか違うかという同値性の定義に置き換えても良いと思った。ある行為を通して新しい同値類のグループが生まれた時、それは創造的だと…。どちらの意味でも、創造的という言葉には単にあるジャンル、ある作法の中でまた一つ誰かの手によって成果物が増えたというより、そうした枠組みそのものに対する何らかの発明が含まれているように思える。その意味で、創造的、特に英語でいう creative という言葉の、デザインやアートっぽいものに付随したイメージは個人的に的を射てないような気がする。どの分野であれ、その枠組みをいかにハックしたり相対化したりして結果的に新しい何かを発明するかが creative たり得る要素のような気がするし、その意味でデザインやアートじゃなくても creative な態度は、たとえば税理士の世界にも存在しうると思う。今所属してる会社の税理士の方とかまさにそんな感じの方だし、ゲーデルの不完全性定理は20世紀の脱構築史の最骨頂だとも思う。その逆も然りで、職種はクリエイティブ業でも、また一つシコシコとクリシェで塗り固められたものを増やすに過ぎない仕事は多くある。「車のパーツを擬人化して、なんかボカロPにイメージソングを歌わせる」みたいな企画の話が来た時にそう思った。そういう仕事が卑しいとは思わないけど、自分の中では全く違う世界のような気がするので、「クリエイティブ」という言葉を譲っても良いので何か上手く業界内で棲み分けする方法が欲しい。

あと、ゲームの良さは案外武道と同じような所にもあると思う。とはいえ僕も柔道と、あと圓和道という謎の韓国武術しか経験ないけど。最近読んだ本で「(武道を通して)ふだんの身体の使い方とは違う身体の使い方が出来るようになる。その『別の身体』から見える世界の風景もまたふだん見慣れたものとは全く違ったものになる。」という一節があった。ゲームもまた、全身とは言わないが、その指先を通して、ヨッシーにしろゼビウスのソルバルウにしろ、生身の身体とは全く違う環世界に憑依する特異な感覚というのが確かにあって、それは鬼ごっこや木登りのような外遊びでは得難いものだと思う。

目的に関知しない

外国語を学ぶ一番の醍醐味は母語では文節出来ない概念を知ることだ、という話は、本当にその通りだと思う。その点で、この数年で一番、良いなぁ~、便利だなぁ~と思った形容詞が、agnostic だ。語源はagnosticism、不可知論。宗教的には、明確に神の存在を否定する無神論とは異なり、神は居るとも居ないとも断定できないとする立場のことだが、そこから転じて、大雑把に「分かりかねる」「知り得ない」のような意味になるらしい。ソフトウェア工学の世界では、プロトコルやインターフェースの詳細に関知しない状態で設計された、つまり「非依存の」に近い用法で使われることが多い。例えば、platform agnostic で「特定のプラットフォームに依存しない」というような成句になる。似た言葉に cross-platform「複数のプラットフォームで動く」があるが、両者の語義的なニュアンスの違いはまだ上手く日本語に置き換えられていない気がする。

アグノスティック (情報工学) – Wikipedia (拙訳ですが…)

同じ汎用化でも、それぞれ特有の仕様に合わせて個別対応した結果、総体としてプラットフォームを跨いでサポートしてますよ! というのが cross-platform。に対して、「知り得ない」「関知しない」からこそ、個々の細かい仕様に依存しないよう、設計を抽象化して留め置く、というのが platform agnostic。これはあくまで第二言語学習者として語源から辿った印象なので、実際にはドミニク・チェンさんが教えて下さったイメージが適切そう。どちらの場合も結果的には同じようなコードを書きそうなものだけど、その根本の態度の違いはとても示唆的だと思う。

デザインツールについて考える時、この agnostic が帯びる意味合いというのはとても有用で。多くのツールにとっての一つの目標が multi-purpose〈多目的〉にあるとすると、僕個人にとって理想的なツールの設計思想は、purpose-agnostic〈使用目的に関知しない 〉という言葉が感覚としてとてもぴったし来る。果たしてそういう言い回しがあるのか、意味として通じるかはわからないけど。もっと良い表現があれば教えて欲しいところですが、さしあたりこの妙な造語で話を進めます。

見渡すところ、デザイナーにやりたい表現をヒアリングし、それに特殊化した単機能のツールを無造作に追加していくアプローチの製品開発が多い気がする。結果として出来上がるのは多機能化の末に膨れ上がったスイスアーミーナイフ、もしくは特殊化の果てに数ヶ月に一度しか使わないような白髪ねぎカッターだ。

それは、業界の標準的なワークフローの中で使う分には過不足無いのかもしれないし、世の中の9割方のデザイナーの需要をカバーするものでもある。一方で少しでも開発者の想定から外れた使い方をしようとした瞬間に、急にハックめいたことを強いられるという弱点にもなり得る。それは「想定の範囲が狭かった」ところに非があるというより、「想定し切る」こと自体に限界があるからだと思う。

iPhone以前のスマートフォンは、あらゆる用途を想定した上で、最小公倍数的にボタンを追加することで多機能性を達成しようとした。に対してiPhoneは、想定し切ることの限界を認めた上で、物理キーの押しやすさと引き換えに、タッチディスプレイ上でボタンの配置自体を可変にすることで多機能化を果たした。実際のKeynoteではもっと違う意味で対比はなされていたのでこれは個人的な解釈になってしまうけれど。だたこれはとても purpose-agnostic なアプローチだと感じた。

これは殆どの人が忘れている感覚かもしれないが、そもそiPhoneをゲーム機として使うという想定は発表当初されていなかった。しかし、発売後になってマルチタッチデバイスに可能性を感じたハッカー達が、iPhoneをJailbreak(脱獄 = アンロック)し、当時許可されてなかったお手製アプリをむりくりインストール出来るようにした。その中で、タッチスクリーンの操作感を生かしたゲームアプリも登場したりなんかして、あぁ、そんな使い方があったのか!と界隈がざわついた記憶がある。

その後どういう流れかApp Storeが登場して、ちゃっかり「ゲームも楽しめるiPod」としてiPod touchのCMが打たれたりなんかしたワケだけども、結局それはマルチタッチディスプレイという、purpose-agnostic なインターフェースだからこそ為せた多機能化だったのだと思う。Appleがどこまで想定していたのかは分からないけれど、むしろ想定し切きれない所に、逆説的に道具としての応用の余地があった。

iPhoneの登場と同じような転回が、GUIベースのデザインツールに起きてほしいと思う。

Adobeの今の開発の方向性に共感出来ないのも、ここ最近のUI/UX系ツールが根本的な解決に感じないのも、その目指す重点が、特定の用途を想定した多機能化と特殊化にあるからだ。年々、旧スマートフォンのように、メニューもボタンも不用意に増えていく。たまーにIllustratorのProertiesパネルのように表面上の見た目はスッキリさせてみるけど、内部的な機能構造はますますゴチャゴチャしていく。XDやFigma、Framerは、一見モダンな設計に思えて、フラットデザイン以降のペタンとしたグラフィックに特殊化されている分、Illustratorに比べても表現力が乏しい。今更スキューモーフィズムをやろうとする人は居ないにしても、それがデザイナーの意思でもってそうするのと、ツールの機能上無意識に選択肢から除外されるのとは決定的な違いがある。

話は戻って、スイスアーミーナイフのアナロジーになぞらえると、じゃあお前が欲しいのはサバイバルナイフか、とか突っ込まれそうな気がする。だけども、purpose-agnostic であることは、何も「ソリッドでありながら、使い手の技量次第でいかにでも多機能化する」ということに限らない。デジタルツールにおいてそうした設計を達成するヒントは、むしろ数十年前のUNIX思想や、プログラミング言語上の概念に既に隠されている。(というか歴史上最も purpose-agnostic なプログラムは、オペレーティング・システムそのものだと僕は考えている)

例えば「単機能の抽象化されたプログラムをパイプで繋げる」UNIX思想。これは素朴にGUIに置き換えるとノードベースUIになりそうだ。Houdiniや(少ししか触った事が無いけれど)Touch Designerの強みはそこにあると思っていて。あるスタイルの為に具体的に設計された粒の大きい機能を与えられてしまうと、そのスタイル内のバリエーションを表現するに足るだけの限られたパラメータを弄くりまわすくらいしかやることは残されていない。あるいは裏ワザ的に変な組み合わせを試してみたり。だけど、それ単体としては抽象的操作でしかないフィルターを自由な順序で組み合わることが出来たら、その表現の幅はずっと豊かなものになる。モジュラーシンセなんかはそんな感じなのかなぁ。(違かった)そういう余地をツールに残すということはとても purpose-agnostic だ。

オブジェクト指向言語におけるカプセル化やインスタンス化は、ここ最近のUI/UXツールにおけるコンポーネント系機能や、AfterEffectsのEssential Graphicsといった形で応用され始めている。これがもう少し進化すると、例えばグラフィックのまとまりをいくつかのハンドル、パラメータによってコントロールしたり複製出来るようになる。その結果、ドローイングアプリの中で、例えばフローチャート、Webワイヤフレーム、あるいは間取りを描くツールと、デザイナー自らがその目的・スタイルに合わせた使い勝手のツールのサブセットを作り上げる事が出来る。開発者自身が関知せずとも、ユーザー自身が様々な目的に合わせた機能性を手にすることが可能になる。1 これはプラグインを通して可能なこともあるけれど、秘伝のタレ状態のSDKを解きほぐす必要も無しに、あくまでGUI上で普段のデザイン行為の延長として可能になるべき。 あと、あるオブジェクトの複製を一元的に編集できるだけの単純な「共通化」とカプセル化は違うのに注意。

これをAEでつくるのすごい。間取りコンポーネントがあれば…

というと業務的なメリットばかりになってしまうけれど、僕が言いたいのはもっと表現っぽい話。グラフィック要素を自在にカプセル化して、より高次のパラメーターや配置の工夫に集中できるというのは、グラフィックスタイルそのものの試行錯誤をより自由なものにする。これはちょっとイメージし辛いので、逆から話した方が分かりやすいかもしれない。例えばビルトインの丸・矩形・多角形だとかをテクく組み合わせるのを強いられる今の状況ってのは、開発者自身が「多分こんなのを描くにはせいぜいこの位の図形で事足りるっしょ」と想定した範囲の内側でもがいているようなものだと思う。 意識的にもがくうちはまだ良い。問題は、だんだんとその使い勝手を内面化して、例えば、カーブがトロコイド曲線になっている角丸四角形を描きたいなぁー、みたいな発想自体が生まれなくなることだったりする。こういう無意識のアイディアの狭窄が積み重なることで「○○アプリで描いたっぽい感じ」は生まれる。だから、どんなスタイルのグラフィックが描かれるかに不可知なドローイングアプリを作ろうとすると、必然的にシェイプやコンポーネントをビルトインのそれらと同じレベルでユーザー定義できて、なおかつカプセル化できる設計になっている必要があると思う。

時々不用意にディスってしまって申し訳無さを感じつつも、やっぱりcreative codingが好きなのは、コードやコマンドを通して表現出来る操作が、現状GUIベースのデザイン以上に抽象化されていて豊かだからなのだと思う。コード上での「丸を書く」という命令は、単にディスプレイ上に描画する以外にも、3Dプリンタのヘッドを動かすGコードとして解釈することも出来る。さらにopenFrameworksならC++、p5.jsならnpmを介して、その言語によって過去作られた膨大なライブラリと接続できる2npmというパッケージマネージャを挙げるなら、oFはConanになるのか。いやだけどofxAddonsのような気もするし。上手く対応するものが思い浮かばない…。。どれも大まかに「絵を描く」という目的に最適化されつつも、それは特定のメディアやスタイルにまで特殊化されているわけでも、コレとアレと…といくつか選りすぐって個別対応し “multi-purpose” を掲げているわけでもない。製本のためのInDesign、UIデザインのためのXDと違い、それがどういう使われ方をされ得るのか、そもそも何のためのものなのかに関知しないことによって、適度に実装が抽象化されていることが creative coding 系ライブラリのデザインツールとしての最良の点だ。その立ち位置の危うさがクリエイティヴなコーディングってなんなん…ってツッコまれポイントにもなっているような気はするけれど。そうした道具としての purpose-agnostic な設計こそが、これらのライブラリがお絵かきもゲーム制作にも、インスタレーションにも使われるようになっている所以だと思う。

じゃあ大人しくコードだけ書いてろよ、って言われそうだけど、そこには欠点もあって。プログラミングを通した表現は、どうしてもコードとしての見通しの良さが気にかかってしまう。結果として全部をパラメトリックに小綺麗に完結させようして、それはそれで表現が似通ってしまったりする。「良さ」のような漠然とした審美は、パラメトリックに記述しようとすると却って冗長にかつ中途半端になることが多い。だからこそ、限界までパラメトリックに作り込んだその先に、チマチマとしたチューニング行為や行き当たりばったりの破壊的編集を通した手数の積み上げが必要になってくる。これは根性論ではなくて、単にその方があるレベル以上の「良さ」にたどり着くには効率的だからだ。

GUIベースのデザインの利点はなんと言っても、素早くその「チューニング」や「破壊的編集」が出来るところにある。マウスやスタイラスを通したアナログ入力、WYSIWYGな操作感、裏側のレイヤー構造をさして気にせず目の前のアートワークだけに集中してイジイジ出来る環境は、コードに比べてうんとその一踏ん張りがやりやすい。3インタラクションデザイナーが、ツメの段階でdat.guiやimguiのようなライブラリを通してGUIからパラメーターをいじくり回せるようにするのはこのためだと思う。

いろんな所で言っているのが、制作行為ってある種の多峰性最適化だということだ。いうなれば、いくつも峰がある山地を目隠して皆で登るイメージ。登山の目的は「良さ」という標高を突き詰めていくことだ。標高が低すぎると、それは「良くない」ということなのでたまに死ぬ。もちろん万人にとって絶対的な「良さ」の基準なんて無いわけなので、そういうものがあったとしてと仮定の話。むしろその「良さ」の評価関数の多様さこそが、この集団山登りで全滅しないための肝だったりするのだけど。

繰り返し言う通り、現状多くのデザインツールは、素朴な多機能化、特殊化への方向に留まっている。これは、ツールが具体的にドコとドコの山専用に設計されていることを意味していて、そこで出来るのは、ツール開発者によって想定された山の中での局所最適化だ。デザインとは?論はnoteで死ぬほど見たしあまり突っ込みたくない話題だけども、この「良さ」の集団山登りにおいては、デザイナーの役割はそうした局所最適化、つまり8合目より上の針の先ほどの山頂を目指してその繊細な足裏感覚で探り当てるように登っていく役割を担うことが多い。

一方で、こんな可能性もある。その峰自体が果たして唯一の最高峰なのか。他にも未踏破の山が、既知の山の間、あるいは知らない次元の先に広がっているのではないか。そんな考え方をそっと提示するのが、例えばだけど、メディア・アーティストの役割だと思う。山の登山口を見つけられたら大成功で、こっちの方向に多分こういう山があるのかもしれない、と予言めいたことをするだけでも十分。というかデザイナーと違って根本的に「踏破」を求められてない。なぜなら、この多峰性最適化において、彼らの一番の存在意義は、集団全体が局所解に取り残され、緩やかな死を迎えないための乱択性の担保にあるから。これはメディア・アートそのものの定義や意義では決して無くて、結果的にこの適応ゲームの中でそういう役回りに回りがちという傾向の話でしかない。別にメディア・アートに限らずとも、技術者や折り紙研究者で構わない。つまり、特定の峰の局所解を目指してひた走る集団に対する、峰の配置自体を大域的に探し回るランダムウォーク集団だ。この2つの集団はどうにも相性が悪そうだし、根っからアティテュードが違う分現実にもいがみ合いがちだったりするのだけど、実はこの最適化アルゴリズムにおいては相補的な存在だ。もしかしたら佐藤雅彦先生がいう「ジャンプ」というのは、ロジカルに考えると峰の勾配にそって登っていくしかない所を、偶発的に峰から峰へ飛び越えてしまう瞬間のことを言うのかも知れない。そして、そういう跳躍力を「良さ」の追求集団のなかに内包するほど、その集団全体の生命力はしぶといものになる。

僕がとても中途半端なのは、デザイナーとしてはあまりに足裏感覚が雑過ぎる上に、メディアアーティストほどラディカルにメディアにおける表現というものを相対化したいワケでもない所にあると思っている。映像というメディアの中で、更にMVやモーショングラフィックスという狭いカテゴリの中でさしあたりは満足している。だけど気移りもしやすいので、その枠の中であってもそれなりにいろんな山には登ってみたい。一方でチマチマとしたチューニング作業も好きだから、なけなしの足裏感覚でもって5合目位までは登っておきたいし、ついでに褒められてみたい。

「良さ」の峰を大域的に走査するための設計の抽象度。そしてこの峰と決めた時、高い精度で山頂を探り当てにいくのに必要不可欠な、道具としての直感性や体への馴染みの良さ。それぞれcreative coding、GUIベースのデザインソフトウェアが得意としてきたことだが、この2つをうまい具合に兼ね備えたツールが無いのが、最近の一番の悩みで、制作が終わらない原因なのかと思う。いや、制作が終わらないのは完全に自分の計画性の無さにあるけれど…道具のせいにした。ごめんなさい。

色々話は戻って、purpose-agnostic なデザインツールを切に願うのは、そういうことなのだと思う。だってそのツールが使われる山が予め想定されている時点で、その山はある程度クリエイターにとって観光地化されていて、製品化する程度に需要があるってことだ。別に今更自分ごときが登っても屁にもならないわけ。だからこそ、あまり需要は無いのかもしれないけれど、それがどういうスタイルやジャンルに使われ得るかに「不可知」な態度のもと作られたツールがもっと世の中に充実していたら素晴らしいよなぁ、と個人的に思った。


追記

ちなみに、JavaScriptの factoryパターンのようなものをデザインツールで作りたかったのが、このデモ。 新千歳国際映画祭のID映像を作る時に開発した。ドローイングツールにおけるコンポーネントやプリミティブをユーザー定義できるのと同じように、それを一連のマウスインタラクションの中でどういう風に生成するかを定義できると最高だよねっていう実験でした。

https://twitter.com/_baku89/status/1022709978182774784?s=20

あと、去年Adobe Creative Residencyに落ちちゃった時に提案していたのが、よりデザイン作業に向いたUIコンポーネントの開発と、それを使ったよりプログラマブルなドローイングアプリだった。インタビューの最中「で、Adobe製品はどういう所に活かせるの? 」と痛い所を突かれ、アイコンとか作れます…とか応えてしまったのも落ちる一因だったと思う。(前からリスペクトしていた方が受かったので本当に良かったです)本当はもっと開発してから一般公開したかったけど、そんな事思っといて半年近く放置してしまっているので、所々動かないけど載っけておきます。積み残した制作終わったら再開します。

http://ui.baku89.com/

健全なマウンティング社会

ある素朴な価値観へのマウンティングがあったとして、そのマウンティングに対するマウンティング、に対するメタマウンティング… と、マウンティングは階層構造になっている。そして高次になるほど、良くも悪くもニヒリズムに近づいていく。高次が必ずしも良いということではないけれど、精神衛生的にはマシになることが多い。

一度マウンティング脳に目覚めた時点で本当の意味でその階層構造から抜け出す事は難しくて、一つずつ高次のマウンティング脳に移行して達観という極限値への収束を図っていくしかない。ただ問題は、n次のマウンターにとって直接的に嫌味に映るのはn+1次のマウンターだけということだったりする。それを超える次数のマウンターはそもそもそのn次のマウンターのことを嫌味抜きで「かわいいね」としか思っていないし、遠巻きに眺めるだけで真意を伝えようともしない。(少しでも腰を据えてn次のマウンターと関わろうとした時点でn+1次のマウンターと同化してしまうことをn+2次以上のマウンターは無意識的に恐れている)

だから、マウンティング脳の呪縛から逃れる段階において、n次のマウンターである自分に直接マウントを仕掛けてくれるn+1次のマウンターはとても大切な存在なのだと思う。健全なマウンティング社会には、それぞれの段階のマウンターが一つ下の階層のマウンターにマウントを仕掛けて、高次のマウント脳への移行を促していくポンプ作用が働いていて、その限りにおいて、すべての隣接する次数のマウンター同士は相補的な存在だ。だからあまり自分のマウンティング体質やその次数に悩まずに、健康増進の度合いに応じて穏便に一つ下の次数のマウンターにマウントを仕掛け続けていれば良いのかもしれない。と最近になって感じた。

おいしいゲルを増やす

最近、ヨーグルトを増やすのが楽しい。年末に母から貰った種菌を、煮沸消毒したタッパーに牛乳と入れて冷蔵庫の上に放置すると、一日後にはぷるんぷるんになっている。「キッチンで増やせる食べ物」の代表格である豆苗とも違うのは、ヨーグルトは生き物というより物質に近いということで、それを特徴づけるのは全体の造形というより「白くてブルブルして酸っぱい」という物性だ。西洋菓子よりおもちの方がかわいいという僕の好みにも近いところがある。視覚的にかわいく感じるよう、だれかの作為でもって形どられているよりも、感触、舌触り、匂いのある種のバランスに、どういうわけかかわいさを感じ得てしまう方に惹かれてしまうのだ。ヨーグルトはその点、おもち以上に抽象度の高いかわいさを孕んでいるように感じられて、この情感は掘っていくと中々面白くなりそうだと最近気になっている。

自己複製能をもったおいしいゲルを日々愛でる楽しさは、実は色んな発酵文化を下支えしてきたのかもしれない。ぬか床を育てるおばあちゃんの気持ちもこれに近しいのかなと想像してみたり。ぬか床の風味は混ぜる手の常在菌にも影響されるらしく、文字通り「おふくろの味」を培養してることになる。ヨーグルトにそこまでの複雑さは無いのかもしれないが、何かを醸す楽しさをお手軽に味わえる、なかなか良い日課を見つけられたなぁとうれしくなった。

辞めるというプロテスト

地元の病院で、ある部署の部長が妊娠した部下の産休代替を人事部に要求したら拒否された上に「次から男を採用したらいい」と言われた話をある知人から伝え聞いて胸糞が悪い。何が辛いって、その部長自身が知人にその胸糞悪い話を愚痴った上で口止めしたことだったりする。ちなみにその話を僕が聞いた時、ご当地経済誌のメディアあさひかわにタレ込もうぜって言ってみたら、その知人にも口止めされた。伝聞の伝聞だから当然か…。この話に登場する男性は僕とその人事部の人間だけなのだけど、かくして性差別は閉鎖環境において蔓延り続けるのだなと実感する。

誰に明確な悪意は無くとも、それぞれがそれぞれの立場でふんわりと日和見した結果、巨視的に悪を創発する構図っていうのは案外ありふれているのだと思う。多分それが身近なレベルで実感出来る悪の凡庸さってやつなのかもしれない。しかしそこにはヒトラーとアイヒマンという主従構造すら無くて、無数のアイヒマンだけが分散ネットワークを成し、不条理の種を少しずつ反響、増幅させていく。自分にパスされた不条理を、職場での居心地を犠牲にして今ここで潰すか、それともそれを101%にして次の人へとパスするかの二択の中で、まだその種が小さい頃は「この位なら別に…」と、成長しすぎた折には「自分の手に負えない」と言い訳しながらそれぞれが後者を選んでいく。

そうして複利的に大きくなった不条理の結果だけを見せられたぼくらは、象徴的な悪を想定して物事を単純化したがるわけだけど、実際の所そうした悪は創発的なものである以上、原因を特定の誰かに還元出来ないから事態はややこしい。山根会長くらい濃いキャラ芸人のせいにできる方がむしろラッキーというか。

こうした不条理に対して、すべての労働者が持っている確実なプロテストの手段が「辞める」ことだ。どれだけ上司が聞く耳を持たなくても、公務員でストライキ権を持たなくとも、辞めることで、少なくともその悪の創発システムには加担しなくて済む。皆が皆そういう方法が取れたら、個々のモラルに任せずとも、クソみたいな職場は労働市場のもと淘汰される。エンジニアやクリエイターのような専門性の高い業種は人材の流動性も高い分労働環境の淘汰と改善のスピードも高いとは良く言われる。じゃあ医療従事者なんてのは専門職の最たるものなのに、なんでこうも地元の病院ではこういう不条理が(今回の例に限らず)頻発するのだろうと不思議に思う。そしてこれは穿った見方かもしれないけれど、専門職だろうがなんだろうが、その職場の人達にとって「辞める」ことへのハードルが高いほど、裏返して言うと働き口としての「安泰さ」に対する志向が高いほど、そういうことが起こりやすいんじゃないかなと思ったりする。これはあくまで傾向であって、そうでない人もたくさん居るのは前提として。

あくまで原理的な話だけど、安泰な働き方を選ぶというのは、クソみたいな人間にとってもまた安泰で辞めさせられ辛い職場を選ぶということでもあって、働き口の保証と引き換えにクソみたいな人間関係に悩まされるストレスという保険料を払わされることを意味する。その保険料を高いと思うかどうかを冷静に判断した上で、安泰さを選ぶ、もしくは何らかの信念を持ってその仕事を続けるならそれは本人の意思である以上素敵なことだと思う。ただ、この地元に育って、この街の自称進学校で謎の進路指導に洗脳されかけた身として、そもそもそうした種のストレスを安泰さへのコストとして認識できているかすら怪しいような気もする。

終身雇用が当たり前だったぼくらの親世代や、人生を通して教育機関の外に出たことの無い(場合が多い)学校の先生方は、その労働観が当たり前になり過ぎて、そういう不条理さに甘んじるストレスと引き換えに安泰さを手に入れているという構図自体見えていなかったりする。そんな状況を内面化する為にこしらえられたのが「社会人生活たるもの不条理なことは多々ある」「今辞めたとてどこへ行っても同じ」という高二病的教訓であって、それをしつけや進路指導、上司からのパワハラを通して着実に受け継いだことで、今でもしんどい思いをして働いている同世代を見ると、とても辛いものがある。

それを言うと自分は色んな意味でクソ寄りの人間なような気がしていて、本来淘汰されるべき存在な中、周りの人達にさしあたり生温く見守って貰えている今の環境に感謝しかない。一方で、フリーランスとして流動性の高い働き方をしているからこそ感じるこうした考えを、それはそれで上手く心のバランスを取りながら働き続けられている人達に押し付けるのもまた一つの暴力なんじゃないかと思ったりもする。向こうからしたらこちら側こそが、何らかの自己暗示でもってこの不安定な時代に非正規雇用に甘んじる自分を正当化しているように映るかもしれないし。だからこそ、冒頭のような話を聞いた時に、どういう風に応えればいいのかとても悩む。

労働経済学に関しては素人なので、全然的はずれなことを言ってしまっているかもしれないけれど、こういう話を耳にする度に色々考え込んでしまう。最近さのかずやさんのテキストに共感してしまうのはこの辺の心境が関係している気がする。関係ないけど彼が個人的におすすめしてくれた本から漂う諦観やヤバい地元の構造物にゆるくインスパイアされてビデオを作っている。(本当は先月末に作り終わる予定だった。アートワークは納品した…)

何のイケハヤ的ステートメントも無しに私生活の(わりかしポジティブな)事情で地方に数年限定で移り住んだけれども、すっかり忘れかけていた地元の価値観や高校時代の生きづらさがフラッシュバックすることが最近多い。事務所が母校から2ブロック横ってのもあるかもしれない(笑)。ともかく、そういう風に地元と東京のコミュニティのあり方を二項対立的に考えてしまうあたり、あぁ、いかにも地方移住者っぽい悩み方してんなぁーダサいなーとか思うこの頃。

けんちん汁のドロドロ

ラフォーレの件に関連してダラダラツイートしてしまったことのログ。センボーさんの発言を違ったニュアンスで援用したことで、ご本人からも色々指摘を頂いたので、まだまだ考えを整理していかないとけない。日和ってツイ消ししそうなので、平文でコピペ。


麦: Whateverではアイディアを思い付いた人をクレジットに明記している話があったけれど、その延長でリファレンスを列挙する文化がこっちでも確立して欲しい。理想はパクられる人が変な誤認を受ける事もなく予め金銭的にも報われることだけど、それが出来ないなら、せめて影響元として挙げるのが最低限のリスペクトだと思う。パクリとインスパイアの区別は悪意の有無も絡んで他の人には判断は難しいが、本人がリファレンスの明記に少しでも後ろめたさを感じるならそれはパクリか粒度の低いインスパイアなのかなと思う。少なくとも本人には分かる。

麦: これはフリーカルチャー的な価値観の影響が強いから言えるのかも分からないけど、Everything is remixな以上「引用」も色彩構成やデッサン同様に技術の一つだと思う。 その時のエッセンスの抽象化や組み合わせ方が甘いと、あそこさん家で取れた人参そのままゴロっと入ってるじゃん!状態になるし、 上手く行けば鈴木哲生さん曰く「けんちん汁のドロドロ」(あのドロドロこそがけんちん汁の本体であり本質で、個々の食材に還元できない)になる。その意味ではパクリとインスパイアは連続体を成していて、その区別はモラルの問題というより引用という技術の巧拙の話でもあるのかなと思ったり。つまり、 悪意のある引用がパクリになるんでなく、稚拙な引用がパクリになるって考え方。

麦: 俺も、影響が強すぎる直近の作品をカモフラージュするために気の利いたクラシックをリファレンスとして挙げがちでダサいんだけど、毎回包み隠さず開示していきたい。

その週末多摩美の学外展で、谷口暁彦さんと飯沢未央さんとのトークショーで上がった話題に関連して以下のツイート。

麦: 「オープンソース的態度での個人制作の対局にあるものは商業案件か」という話のくだりで多分言おうとしていたのが、制作過程や影響元を明かさない姿勢こそがむしろプロプライエタリ的なのでは、ということだった気がする。商業案件は大方そうなりがちなのは前提として、一部の作家然とした態度も個人的には当てはまる。 これは別にアーティストっぽい態度は胡散臭いというdisではなくて。研究にしろ作品制作にしろ、俺が、作家性が、オリジナリティが、ではなしに、無数の参照と引用の鎖からなる集合知にどう組み込まれにいくか、みたいな心構えで居たほうが調子が良いんじゃないかなという話。少なくとも僕にとっては。


に対して以下の引用RTとメンションが続く。

Oさん: 現代アートにかけられた魔法とか、ギャラリー内での価格設定基準とか…

麦: むしろ現代アートはオープンソース的だと思っています。先行事例を綿密に参照した上でそこにどういう新しさが付加できているのかを論理的にステートメントにするので、プロセスやfolk元が明快で…。exonemoの千房さんが仰ってた「作品そのものがソースコード」という言葉が腑に落ちます。


という引用に対し、センボーさんご本人。

Semboさん: エゴサで見つけちゃったバク君のツイート。文脈全体理解できてないけど、自分の発言「作品自体がソーコード」発言を捕捉すると、 メディアアート活動をしていく中で、作品を文字通りオープンソース化する事例に多々出会うのだけど、その時に違和感を感じてた、その理由2点。

Semboさん: 1.既に正しいと位置付けられるオープンソース運動を作品に付加価値として与える事のダサさ。アート作品に社会的な正しさなんていらなくない?という感覚。 あと、本来的なオープンソースが機能する条件って、実用的なソフトに有効で、例えばWebサーバのプンソースだと「性能の向上」「セキュリティ」なんかはソースが公開されることで、改善されたりする。つまり利害が完全に一致する。

Semboさん: でもアートにそれははまらなくて。作品の映像の解像度が低くても、それがその時の作家が見せたいものだったらそのままであるべきで、不特定他者の意見によって解像度が上がれば良い作品になるわけでもない。

Semboさん: さらにオープンソース信仰者は「なんでソースオープンにしないの?ダサくね?」みたいに正義を振りかざしてくる。その時に思ったのが、Webサーバみたいに性能のチューンが必要じゃないアートは、表現そのものが全てだし、それがソース、つまり 解像度が低いのを良しとして出してるモノのソースを公開して、解像度上げられるのは誰も求めてない訳で、表現そのものから、受け取ったものから発展させる事の方が本質に近い。

Semboさん: そう考えると、作品を発表している事自体がオープンソースじゃん、と思い至るわけです。目の前に表現されているものが全てなので、それがアートのソースでしょうと。そういう話をいくつかの場所でしてきた気がします。 性能が重要視されるソフトと、アートはそもそも違うし、同じソースだからと安易にシェアすれば利益があるという発想が間違ってる。本当の”ソース”がどこにあるか考えないと、履き違える。そう思って言った事だと思う。

Semboさん: ちなみに僕はオープンソース信仰者だけど、原理主義者ではない、って感じかな。そのカルチャーに感銘を受けて来たし、活用もさせてもらってる。でも必ずソース公開すれば良いとも思わない。人それぞれ、使える時間ややりたい事が違うので、やりたい事にフォーカスすれば良い、という立場。

麦: 論文やソフトウェア開発の文化は、そもそもからして参照や継承を前提とした仕組みからスタートしているのに比べて、 例えばグラフィックや映像は、作家性やオリジナリティへの所有欲のようなものが不自然に強いのが気になったという話でした。論文における参考文献の正書法や、ソフトウェア開発におけるオープンソースライセンスのような、明文化された引用や相互参照の仕組みを文化の世界に応用する試みの一つが CCライセンスやニコ動のコンテンツツリーだったりすると思います。ただ完全な形式化は難しいので、どのジャンルの制作者も「どうリミックスし、どうリミックスされていくか」が文化という営みのそもそもの基点であるという意識だけでもあれば、色んなことが拗れずに皆少しはヘルシーにやれるなぁ、との思いでのツイートでした。(パクリ騒動とかみて思います。)

麦: ただ引用RTで「作家然とした態度」という部分を抽出して、アートのきな臭さへの批判に援用されたのは違うと思いました。むしろアートは、作品やステートメント自体からその参照点が自明というなのでオープンソース的(引用や相互参照の仕組みがある程度明文化されていて、そこへのアクセスもそこそこオープンという意味で)だと思う、という反論の中で、あやふやな記憶で「作品がソースコード」という話を持ち出しました。 元のお話は、正確には「作品を発表する事自体が – 」だったということも、OSS運動そのものを具体的にアートに組み込むことへのアンチテーゼとしてのものだったということも理解出来てませんでした。ノガミに「オープンソースにしました」がそのままコンセプトになるとか安直じゃね、っつか偽善臭くね、 とよく突っ込まれていたのを思い出します。

Semboさん: なるほど、科学者が新しい発見をした時、その人のお手柄だけど、先人の肩の上に立ってることは大前提で、デザインもアートもそこは同じかなと。ただ科学は他人の研究をそのまま引き継ぐのも普通だけど、クリエイティブ系はあからさまにそれをする事少ないのが違うね。やったらパクリになる。

Semboさん: 先人の成果に、自分はここを足しました、と明確に言えて、そこを評価対象としてみてもらうカルチャーが根付いたら解決しそうだけど、まだ天才が突然閃いたみたいなストーリーが根強いのかな。ちょうど今bitformsでのクラウディア・ハートとアプロプリエイションの話ししてたのでタイムリー。 リチャード・プリンスとか、クーンズとか、意図的にそれをやってる作家もいるし、そこにいる人の間でもここまではアリという線引きがみな違くて面白かった。なかなかスッキリはしなそう。

麦: 科学やクリエイティブに限らず、あらゆる社会文化的進化が「巨人の肩の上」だとも思うのですが、クリエイティブ系の妙な作家性信仰はどこから来ているのか気になります。

麦: もちろんOSS用語をカルチャーに当てはめること自体無理はあるのですが、「作家性の縄張りを主張し過ぎることはプロプライエタリ的でダサい」というレトリックは作家主義的な価値観を転倒させるのに個人的にはそこそこ説得力があったので頻用してました。

麦: アプロプリエーションに関しては線引きもそうですが、身近な所でもMUSTONEが炎上していたりしてて、そもそも分かるようにやってるのに言葉にして明かした所で別に、という感じですしね…。今までの話(対策法?)はあくまでクリエイティブ系に限定したほうが良かったです 。

模倣する意図

ラフォーレの広告が、酒井いぶきさんの作風と類似していることで最近炎上していた。

2年前にラフォーレのCMを同じ代理店の元ディレクションさせて頂いた事があった。一切ポートフォリオにもSNSにも載せていなかったのだけれど、 その時の苦々しい思い出が蘇って来たので珍しくTwitterにダラダラと長文を書いてしまった。その後、別の案件で色々ハプニングや僕のやらかしが続き、完全に気持ち的に落ちてしまってその代理店からのお仕事は今後お請け出来ないと泣き言を言ったこともあり、思い出すのも辛い。

これも微妙っちゃ微妙で、Vaporwaveの影響を雑に受けた結果出来上がったインターネット感の成れの果ての一つのよう感じもする。個人的に激推ししていたgalen tiptonに代わって起用されたパ音さんが、曲自体は最高なのに「バーゲンの広告」に充てがわれてしまったことで結果的にmuzakっぽく響いてしまったのも、この得も言えぬVapormeme感に一足買っている気もするし。 そもそもGUIの抽象化・コラージュもRafae; Rozendaalの専売特許というわけでもない。

ただ、ヤミ市のドキュメンタリーを作っていたり、ネット・アートやNEENの流れはフォローしているイメージはあっただけに、配色といい偶然以上の一致を感じる中で、彼らから一切打ち合わせ中にその名前が出なかったのが妙に不自然で後味が悪かった。その後も、去年の広告でもパクリ疑惑が出ていたりして、このレベルの絶妙な類似は有意に多いチームなのかなと思った。

ただ僕は先のツイートで「看過してしまった」側というある意味被害者ぶった言い方をしてしまったけれど、仮に当時もし炎上したとしたら、そんな区別をするまでもなく「加担した」側の人間なのだということは肝に銘じないといけない。それはアートディレクターの方もおそらく同様で。僕含めそれぞれがふんわりと「似てる気もするけど誰も指摘してないから、まぁ、アリなのかな…」と自分を納得させるプロセスが巨視的にパクり案件を創発させる構図は、この類の炎上の典型的なパターンかもしれない。炎上に怒りたい側は、分かりやすいスリザリンを想定することで「悪い奴らが悪だくみした」というストーリーを求めることが多い分、「誰も明確な悪意も剽窃の意図は無い」という事実は事態をより拗れさせる。

こういう炎上はほとんどの場合「意図は無い」のだから、意図の有無は論点としてズレているとも思う。むしろ問題は、この方の作風が今後「ラフォーレの広告っぽい」ものとして逆に認知される可能性を高め、結果的に作家性を搾取する形になってしまったことだ。そこに触れていない分、このステートメントは的外れだしダサいなと思う。パクったかどうか、そもそもテプラを使う発想自体がこの方の専売特許なのか、は、それはそれで外野同士で議論するには楽しいことなのかもしれないけれど、分けて考える議題に思える。ましてや本人に直接リプライを飛ばして絡むことではない。

普段から色んな社会問題におこ気味な業界人の方が「 他人にアイデアをパクられたパクったという話題に、関係者でもないのに異様にエキサイトする人達、ちょっと怖い。 」とツイートされていた。結局この方も含め、外野でやんや言う人達のモチベーションはおしなべて「気持ちいいことを言って気持ちよくなりたい」に尽きると思う。 その極めて生理的かもしれない欲求を、「正しいことを言いたい」という正義感や理性として勘違いしている。というのは僕に限った話なのかもしれない。とにかくこのレベルの言説は人の目につく所にわざわざ書く価値も無いので、いつかのために個人サイトの階層の奥まったところにひっそり残しておく。

正しさの相対化

社会規範、常識、モラルとが絶妙に絡み合ったある問題について、それまではある考え方が寡占状態にあった中、ある進歩主義的な考え方が台頭しはじめる状況があったとする。僕はわりかし進歩主義派のつもりでいることが多かったりするのだけど、進歩派が保守派に対して使う個人的にちょっと苦手な言い回しが、「それは自明に正しく、時代背景や社会情勢関係なく元来そうあるべきだった」というニュアンスのものだ。

「自明」は、実際には「普遍的」「絶対的」だとか、あるいは正義や善に訴えるもう少しボワッとした表現に置き換えられられるのだけど。ともかく、その言説の正しさは、まるで恒等式のように、その記述そのものから自ずと見てとれるでしょうに、と押し付けるのはナイーブ過ぎるんじゃないかなぁと思ったりする。というのは、 保守派も同じくらいの確からしさで保守派の考え方を「自明」なものだと信じているという意味で、お互いの立場はまったく対照的だから。

それぞれの信じる自明と自明をぶつけ合って、どちらが正しいかを議論するのはそもそも無意味だとも思う。ちょうど、平面に住む二次元の生き物が「三角形の内角の和は180°」だと主張するのに対して、球面に住む生き物が、いや、必ず180°以上になるよと反論しているようなもので。

事あるごとに非ユークリッド幾何学のアナロジーを持ち出しがちなので辛い

それぞれの立場に立つ限りそれぞれの主張は正しい。ただこの場合、お互いが見落としているパラメーターが一つあって、それが「曲率」だ。異なる曲率のもとでは、異なる幾何学の体系が生まれる。そしてその幾何学の内側で証明された定理は、その幾何学の内側では自明に正しい。(僕らが高校までに習ったのは、その無数の幾何学のパラレルワールドのうち、曲率が1の平面幾何学だけ)

現実で起こる議論も、こんな状況が案外多いんじゃないかなと思う。つまり、その人にとってある言説が正しく感じるのは、そもそもその言説がその人が思考の基盤にしている価値観から演繹されたものであって、その言説をその価値観の内側から評価するからでしかない、ということ。例のミーム、「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」状態だ。

ただ、自明と自明がぶつかり合う状況に収集をつける方法はあって、その一つが、証明問題を境界値問題として捉え直すことなのだと思う。 三角形の内角の和の例でいうと、論点を「それぞれの主張のどちらが正しいか」ではなく「三角形の内角の和を180°、もしくはそれより大きくする曲率の境目はどこにあるのか」に置き換えることにあたる。そして「三角形の内角の和は、曲率が1のときのみ180°で、曲率が1を超えるときは内角の和も180°を超える」という、簡潔とは言い難いけれど、両方が納得できるより一般的な定理が導きだされる。

現実での議論に話を戻すと、そうした態度はお互いにとってある種の譲歩を意味する。つまり、普遍的正しさの代わりに、「ある条件のもとではこちらが正しいし、そうでないときはそちらにも理がある」という限定的な正しさの主張に留めることだ。とすると議論の流れはこんな風になる。

  1. まず、幾何学の例に同じく、正しさと正しさが切り替わるその条件にはどういうパラメーターが関わっていて、 その境界値はどこにあるのかをお互いに見極める。
  2. その上で、じゃあ今現在そのパラメーターはどの値を取っているっぽいから、差し当たりそちらの主張が理にかなっているね、とお互い納得する。

別に箇条書きにすることでも無い気がする。とはいってもこえはあくまでも理想論で、そのパラメーターの境界条件の見極め方や現状の値の評価さえも、フィルターバブルのような色々なバイアスに影響されるので、お互いに納得できる共通の方法を見つけるのは難しいのが現実なのだけど。

急に具体的な話になってしまうけれど、個人主義も男女同権も、ある社会のパラメーター、例えば「人数」「教育レベル」「競合する社会の存在」「多様性を抱え込むコスト」 がある値域に収まる限りにおいて、条件的に正しいものに過ぎないんじゃないかと思うことがある。例えば、数千人規模のスペースコロニーでは、均質化がもたらす脆弱性以上に、逸脱がもたらす危険性のほうが遥かに大きいので(自爆テロで外壁に穴なんか空けられたら終わりだ)、監視や個人の自由の制限のような全体主義はリベラリズムに優越する。 そんな極端な例を挙げずとも、 歴史的には、生産性が体力と人数に比例していた時代においては性別役割分業は正しかったのだろうし、土地を代々長男が受け継ぐ農民にとっては家制度というシステムは正しかったのだろう。もちろん、この場合の「正しい」はあくまで合理性のもとに正しい以上の意味は無い。

それでもなお、自分のモラルが拒否している考え方を、条件付きでも認めるのはそれなりに辛い。しかし、価値観からして自体が違う相手に、こちらの信じる自明な正しさを伝える難しさを考えると、論点を正しい・間違いの二者択一から、正しさの境界条件に移すことは手として間違っていないと思う。 現に今の社会のパラメーターは、別にモラルや正義を持ち出すまでもなく、個人主義や男女同権にメリットがある範囲にわりかし収まっているとも思うし。…と断言しきれるだけの個々の事例への深い理解も無いので、あくまで「社会規範のアップデートに対する保守派と進歩派の議論」という抽象的観点に留めて置きたかった。

一部の進歩派の、こちらの考え方こそ普遍的に正しいとして、相手側のモラルや常識を過去にさかのぼって否定する様子は、基本的なスタンスに同意見なことが多いだけに、見ていて辛いものがある。もちろんハラスメントのように時代関係なくゼロ・トレランスなものもある。だけど、普遍性というワードを持ち出した時点で「どちらか一方が過去未来永劫正しい」という非現実的で極端な結論をめぐる椅子取りゲームになるだけなわけで、人身攻撃に持ち込んだ時点で、議論というより意地をかけた喧嘩になってしまう。 必要なのは「正しさ」の相対化であって、信念とモラルを賭けた絶対的正しさを巡るガチンコ勝負を、正しさの境界値問題として捉え直すクールさだと思う。SNSばかり見ているから押しの強い意見が目につくだけなのかもしれないけれど、そういう相対主義的な立場からこうしたゴタゴタを俯瞰出来る人達がもう少し居ても良いような気がした。

姓の命名法

選択的別姓に関しては「選択的」でしかないのに反対意見があること自体理解出来ない立場なのだけど、同姓・別姓の二択以前に、そもそも姓の命名法自体世界には色々なものが知るだけでも相対化が捗りそう。

父称もその一つ。父親のファーストネームにWilson の -son のような〇〇の息子・娘という意味の接語を加えて姓やミドルネームとする仕組みなんだけど、あのストイコビッチっていうサッカー選手は -vich だからスラヴ系だなとか、O’Reillyは O’- だからアイルランド系とか、父称の種類から出自がわかったりする。

とはいえ父の名前を直接継ぐのは日本のそれ以上に男系的な印象もあったけれど、同じく 父称を使うアイスランド人の中には、 父称と母称両方名乗るパターンもあるのを知って面白かった。例えばレイキャヴィク元市長の Dagur Bergþóruson Eggertsson は、両親の BergþóraとEggert の両方から名前を受け継いでいる。

アイスランド人の名前 – Wikipedia

夫婦同姓・別姓にかかわる議論は、そもそもからして日本の姓の仕組みを前提としている。父称や母称をつかっている文化圏にとっては、ファーストネームとは関係のない「名字」を引き継ぐというシステム自体がまどろっこしいものに感じるのかもしれない、と思った。