橋本 Hashimoto   Baku

橋本 Hashimoto   Baku

リバタリアンであるためのリベラルさ filter_list_off(Scratchpad)

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#sage
ginreiさんの言。

自分は「全員がリバタリアンであってほしいが、全員がリバタリアンであるためにはある程度のリベラルさがベースにあるべきだろ」という感じ

  • 鈴木 哲生さんの指摘と相反して、baku89.iconは基本的に自由競争を信じている
    • ただし自由市場資本主義のことは後述の通りそこまで信じていない
    • かといって、頑なに拒否しているわけでもない
  • むしろ、ハッカー文化は伝統的にリバタリアンの土壌。過激な人も少なくない

baku89.iconの立場は:

  • 自由市場を維持するために、自由市場の内部では最小限の介入
  • しかし、その市場の自由性そのものが歪められるなら、メタレベルでリベラルな介入を許容する
    • それは国家かもしれないし、プレイヤーたちの相互評価による圧かもしれない
    • リバタリアンではなく、ネオリベ同様に国家の役割を重視するが、それがあくまで「市場のノミック性を小賢しく利用して立ち回るプレイヤー」を有利にすることではなく、「質そのものの最適化」に資するものでなくてはならない
    • だから楽天の三木谷社長みたいなのは要らない

(別に「メタ」じゃなく、これって要するにベタなリベラリズムだし、Keynesianよな)

完全自由市場は放っておくと自由じゃなくなる

  • 市場のノミック
    • 力の集中したプレイヤーは、市場の性質そのものを自己に有利に書き換えすることが出来る
      • ロビイング、著作権や特許の延長(e.g. Luup、ミッキーマウス法、エバーグリーニング)
        • evergreening: 新薬の高額な研究開発費を回収するために、特許保護期間の延長を図ること。化合物をちょちょい変えしたり、ちょっと新しい製造方法などを持続的に出願する
      • Amazonの価格支配、App Storeの手数料ビジネス
        • Unity vrs. App Store
      • WindowsにIEがプリインストールされ、ブラウザ市場を支配
      • ChromeのManifest V3による広告ブロッカー制限
    • 自由競争が機能しなくなるのは、「ルールを変える側」と「ルールの中で戦う側」が分離してしまう
    • 結果、市場原理そのものを歪めるプレイヤーが支配的になりやすい
  • 自由市場の「自由さ」を担保するために、その自由さを利用して市場を支配しようとするプレイヤーに、積極的に介入することを許容する
  • 一方で、どこまで介入するかの線引きの難しさ
    • 競争を妨げる独占企業に対しては、反トラスト的な介入が必要だとしても、それが行き過ぎると「市場の自己修正能力」そのものを壊す

PayPayが最高のペイ類でもなければ、Adobeが最高のデザインツールでもない

  • ネットワーク外部性の上にふんぞり返っているだけ
  • その巨大な資本を活かして、資本投下(手数料数年無料、無料ガチャ)、競合潰し(Macromedia殺し、Figmaは未遂)で市場を支配する。「皆が使っているから使う」という状況を生み出している。市場の「自由な選択」が形骸化する
  • 「皆が使っている」という事実も質といえなくもないが、製品そのものの質ではない
  • 製品そのものの質の最適化機構として市場が機能していない
  • 文化もそう。文化集合(例: 日本の音楽シーン)の分散を広げ、外的な淘汰圧(例: K-Pop)に対して冗長性を高めているのは、アンダーグラウンドなもの、インディーなもの
    • 創造性のある文化は市場の外部で生まれ、そこが成熟すると市場に取り込まれる
    • group_inou / PAS TASTA / ピーナッツくんの3マン当たってたら良いな
      • 落ちた

市場原理至上主義では、創造的な分野にとって最適な環境は作れない

  • 完全自由市場は「最も質の高いものが勝つ」わけじゃなく、資本とネットワーク効果による力の集中が起こるゲームになりがち
  • 科学やソフトウェア、文化のような「高品質の創造的作業」を生み出すためには、完全自由市場以上に適したアルゴリズムが存在している可能性が高い
    • 歴史的にみて、自由市場資本主義こそが経済効率を求めて協力するための世界的に最適な方法だという審判はくだったようだ。ひょっとして同じように、評判ゲームに基づく贈与文化は、高品質の創造的作業を産み出し(そしてチェックする!)ために協力するにあたって、世界的に最適な方法なのかもしれない。
      『ノウアスフィアの開墾』

    • アカデミア、ハッカー文化の力学
    • その他のクローズドな領域(SIer、クラッカー文化)に比べて、発展の速度が早い
  • 「創造性」の評価関数は往々にして多峰的。最急勾配法のように決定論的には解ける問題ではない
    • 創造性 = いわゆる「クリエイティブなもの、文化芸術にまつわる尊い能力」というイメージではなく、ここでは単に「十分に複雑な最適問題」としている。より具体的には、multimodalなもの、探索次元の大きさのわりに人間が意識できる潜在空間がコンパクトなもの
  • 自由市場のメカニズムは、近視眼的なフィードバックループを強化しがち。つまり「有利さを元手により有利になる」方向に最適化される
  • 創造的作業には、「適応度を下げてでもランダムウォークする」フェーズが必要なのに、市場はその余裕を与えにくい
    • SEO対策、clickbait、Spotifyのリコメンドに乗りやすいAI生成Lo-fi Hip-Hop
  • 資本主義のような「有利さを元手により有利になる」ゲームに乗るか、あるいはゲームルールそのものを書き換えるほうが、質を地道に高めるよりはるかに効率が良い
  • 結論として、自由市場にはない質を持ったアルゴリズムが相補的に機能する必要がある
    • リベラルな介入や保護
    • パトロンモデル
    • オルタナティブな評価軸
    • プロップス経済に基づくオープンソース文化、フリーカルチャー

Tezzoさんと違ってbaku89.iconがオープンソースやフリーカルチャーを重視するのは、ぼくらの分野においては自由市場はややヘッポコで、(みんながそこそこ食えている限り)「評判ゲームに基づく贈与文化」はよりよい最適化機構として機能しうるから

反例

  • 、完全自由市場が「最も質の高いものが勝つ」と機能しやすいのは、unimodal(単峰性)な評価関数を持つ問題
    • ある指標(価格、効率、耐久性など)に対して、誰が見ても「良い」「悪い」が明確に定まり、かつその変数が張る探索空間において、良さの山がただ一つだけの時
    • コモディティかした製品のコスト削減
      • ガソリン、電力、小麦、RAM、携帯の料金
      • 「大した差は無いんだし、安けりゃ安いほどいい」
  • その人がリバタリアンかリベラルかは、畢竟その人にとって最適化すべき問題(製品品質、文化、デザイン、社会システム)がunimodalかmultimodalか、どちら寄りに見えているかに依る
    • 商社のエリートサラリーマンにとっての世界認識がunimodalなのは、まぁ、そういうものの比重が大きく視えているんだもんな、当然だよなって思う
    • 文化芸術の領域に身を置きながら世界の諸問題がunimodalに視えているんだとしたら、もっと色んなものに触れたら? って思う
  • あとは自由市場資本主義によってGoogleのようなコングロマリットが登場したからこそ、ソフトウェアの重工業たるAI開発は促進されたとも言える
    • バザール方式でAIモデルは作れたか?
      • アカデミアは得てしてバザール的なので、研究自体は進んだだろうが、それをこうした形で一気に社会実装は出来なかった

(鈴木さんへの返信)

労働者として仕事の需給に対してどう振る舞うかって目線に関しては同意見です。にしては不律儀な振る舞いが多すぎるのが駄目なんですが。ただ、いちプレイヤーとしての目線と、市場全体を見渡すメタな目線は同時に存在しうると思います。生活防衛のためにふるさと納税は使うけど、ふるさと納税はクソだと声を上げるのは、実は矛盾していない。プレイヤーであると当時に、プレイヤーとして持ちうる市場への自己言及能、自己改変能を出来る範囲で発揮するのは、変なことではないんじゃないですかね。鉱山の巨大重機に対するユンボ程度の影響力しかないですが。

「創造性」は、いわゆる文化芸術にまつわる尊い能力、というよりも、十分に複雑な問題の最適化を指していて。シンセサイザーで与えられたツマミを捻ることに対して、モジュラーを組んでツマミの配置自体を考えることが、創造的作業なのかなと。しかも何がいい音か・いい音楽かってのは定性的で、考えうる局所解が無数にある。「創造的である」は、人間性にまつわる尊厳や豊かさの話というよりは、単に「その問題がそうした性質を備えている」という述語として受け止めているところがあります。

同様に、アカデミアの力学やオープンソース文化も、それが善いものだからというよりかは、もっと数理的なレベルで、少なくとも金融資本主義のような疎外、形骸化した市場によりはマシなものだと信じている。「信じている」としか書けないのが惜しいですが。

「適応する」と「勝つ」も、それなりに慎重に使い分けていますね。「適応する」は、競争の中で生存できる程度に適応度を上げていくこと、「勝つ」はその競争がゼロサムに近い場合。決済手段、ファイルフォーマット、生物学的ニッチとか。そもそもその競争がゼロサムだと決められたわけじゃないってのは大事ですよね。電子メールのようにオープンなフォーマットだと、各々が好き勝手なメーラーを使うことが出来て、そこには質的な競争も起きる。だけど .aiのようにクローズドなフォーマットにすると、どのグラフィックデザインや組版ツールを使うかという選択は、美人投票的なものになる。

オープンソースフォーマットを使おう、プラットフォームで囲わずにマイクラやFediverseみたく自由にサーバーを建てられるようにしよう、みたいな動きが好きなのは、その競争の性質を、ゼロサムで小賢しいメタゲーマーが市場をハック(誤用)することで幅を利かせるものから、「それそのものの質」にまつわるものに変えてくれるから、だったりもします。

けど久保田晃弘先生も「世の中には戦いのメタファーが多すぎる」って話していて、そうよなぁ〜って。「勝つ」だの「支配」だのを使うときは嫌悪感を滲ませてるつもりなんですが、「脳死」と一緒で、喩えとしてもこれからはあまり使いたくないなと自分も思いました