『再び、ドアノブ』試訳visibility_off
アフォーダンス、赦し、曖昧さ、そして人間とコンピューターのインタラクション、人間とロボットのインタラクションについて
これは、2018年6月8日に Akademie Schloss Solitude で開かれた「アフォーダンスを再考するシンポジウム」(Rethinking Affordance Symposium)のための講演原稿です。1
アフォーダンスについて考え直す催しがあるなんて、本当にすばらしいことだと思います。たぶんわたしは、自分が扱っているメディアそのものを批判的に振り返るアーティストとして招かれたのでしょう。実際、これまでにネットアーティストとして、このメディアの性質そのものを露わにしようと努めてきましたし、ウェブ・アーキビスト、デジタル・フォークロア研究者2として、開発者たちが人々を投げ込む世界において、ユーザーがどうふるまうかを調べてきました。ただ、この話はあとで質疑応答で触れられたらと思います。まずはもっと応用的な文脈、つまり HCI とインターフェースデザインの文脈から始めるほうがよさそうです。なぜなら、そうした領域では、「フォークダンス」という言葉が今もなお生きていて、解釈され、議論されているからです。そして、そうした解釈は、かなり重大なことに影響を及ぼしています。
以下の話は前置き、あるいは長い余談みたいに聞こえるかもしれません。けれど実際には、まさにそれこそがわたしの言いたいことなんです。ユーザーインターフェースを設計するという仕事には、深い専門性と強大な職位としての責任が伴うものです。静かに、穏やかに、多くの決定がそこでなされます。悪意があるとは限りませんし、たいていは無意識です。だとしても、そこで選ばれたメタファー、学習されたイディオム、導入されたアフォーダンスが重要だということに変わりはありません。
ユーザーインターフェースがわたしたちの日常を左右している、という言い方は決まり文句でもあり、同時に過小評価でもあります。インターフェースは、人々がプロセスをどう理解するかを決め、サービスを提供する企業との関係を形づくり、コンピューター文化においてユーザーがどんな役割を担うかを定義してしまいます。
わたしは、いま学生たちに教えています。もし進路を変えなければ、彼ら彼女らは将来インターフェースデザイナーになるでしょう。(あるいは「フロントエンド開発者」、「UXデザイナー」かもしれません。呼び名はさまざまですし、その呼び名自体も考察の対象になりえます。)わたしは、インターフェースデザインを学ぶ人たちには、最初から既存のものを真似たり、改良したり、少し違うかものを作ってみたり、そんなプロトタイプを作るところから始めてほしくありません。Sketch の機能を覚えたり、ドロップシャドウや角丸を習得したりすることを出発点にしてほしくないのです。とはいえ、代わりに哲学やサイバネティクス、マルクス主義、ドラマツルギー、アートを一通り学んでから、いきなりボタンやジェスチャーをデザインして、と言うのも現実的ではありません(そうすることはとても望ましいことではあるのですが)。
だから妥協案として、まず彼らに「インターフェースデザイナーがどれほど大きな力を持っているか」「そこに客観的な現実や自然の法則なんてなくて、ただ意識的あるいは無意識に下された決定があるだけだ」と気づかせるテキストを読ませることにしています。
デザイナーやコンピューターアプリケーションの開発者は、「透明性」の歴史を理解することが重要である。そうすれば、自分たちには選択肢があるのだと理解できる。3
これは、ジェイ・ボルターとダイアン・グロマラによる『窓と鏡』(Windows and Mirrors)の冒頭近くに出てくる一節です。ニューメディア理論の文脈では、この本は「再メディア化」という言葉を作ったことでもそこそこ知られていますが4、インターフェースデザインの界隈ではほとんど無視されています。なぜならこの本は不運にも「最良のインターフェースは直感的で、透明で、ひいてはインターフェースなんて存在しないのだ」という主流の実践そのものに疑問を投げかけているからです。
この本は、今回のシンポジウムの趣旨とも共鳴しています5。透明性よりも省察を選んできたのは、たいていアーティストたちでしたし、すでにある価値観を問い直し、組み替え、ときに介入してその流れを変えてきたのも彼ら彼女らだからです。
10年ほど前、わたしは元学生のヨハネス・オスターホフを招いて、インターフェースデザインの「基礎」を教えてもらいました。彼は『Google』6 や『iPhone live』7、『Dear Jeff Bezos』8 といった作品で知られ、自分を「インターフェース・アーティスト」と呼ぶ、かなり珍しいタイプの実践者です。
彼はその授業を先述の本にちなんで『窓と鏡』と名付け、学生たちがインターフェースを俯瞰し、メタファーやイディオムやアフォーダンスを反省的に扱うプロジェクトを生み出す過程で指導を行っていました。
しばらくして彼は SAP のシニア UX デザイナーになりました。世界最大級のエンタープライズソフトウェア企業です(これは余談ではありません。あとでまた触れたいと思います)。数年前にわたしがその授業を引き継ぎました。
ところで、2018年の今、インターフェースデザインをどう教えたらいいのでしょうか?
わたしはまず、ブレンダ・ローレル編『ヒューマン・コンピューター・インターフェース・デザインの技法』(The Art of Human-Computer Interface Design)9 に収録された、1991年のドン・ノーマンのエッセイ『なぜインターフェースはうまくいかないのか』(Why Interfaces Don’t Work)10 から始めます。この本は、読み返すたび、新たな発見があります。そこには、いまから見れば、電子時代の英雄みたいなポップスターになった人たちの文章もあれば、忘れられてしまった人たちの文章もあり、最近になって再評価された人たちの文章もあります。1990年、GUIを「我々一般人」が初めて体験してから5年ほどしか経っていなかったころ、実践者たちは、何がうまくいかなかったのか、そしてその失敗にどう対処できるのかを考えるために集まっていました。
わたしがドン・ノーマンの『インターフェースはなぜうまくいかないのか』のうち学生に読ませるのは、次のような有名なフレーズが並ぶ箇所です。
- インターフェースの問題は、インターフェースがあることだ。10
- コンピューターは何のためにあるのか。ユーザーのためだ。ユーザーの生活を楽にするためだ。11
- タスクを主役にし、道具は見えなくせよ。12
- 未来のコンピューターは見えないものであるべきだ。13

わたしたちはタスクを補助すべきであって、そのタスクへのインターフェースの補助をすべきではない。未来のコンピューターは見えなくなるべきだ。そこにはアプリケーションとドキュメントの区別すらないだろう(プログラムもファイルも)。そもそも、なぜプログラムやファイルが必要なのだろうか? そうしたものはハードウェアの制約が生んだ人工物にすぎない。いまコンピューターで何かをしようとするとき、どれほど多くのことが技術によって強いられ、どれほど少ししか、実際のタスクに直接関係していないかを考えてみてほしい。
興味深いことに、この下りは著者自身がとくにタイポグラフィ上で強調していたわけではありません。それでもなお、この一節はコンピューターを考えるためのマニフェスト、そして主流のパラダイムになっていきました。
『インターフェースはなぜうまくいかないのか』でノーマンは、 ユーザーはコンピューターそのものには関心がなく、できるだけコンピューターに時間を使いたくないはずだと主張していきます。理論家として、なによりAppleで働く実践者として、彼は透明な、あるいは見えないインターフェースの開発を強く後押ししました。こうして「透明」という語は、インターフェースデザインの世界では「見えない」「シンプル」という意味で使われるようになっていったのです。
シェリー・タークルは2004年、『インティメイト・マシン コンピュータに心はあるか』新版への序文で、この変化をこう書いています。
わずか数年のうちに、「Macintosh的な意味」での透明性は新たな共通語になった。1990年代半ばには、人々が何かを「透明だ」と言うとき、それは「どう働いているかを知っている」という意味ではなく、「すぐ使える」という意味になっていた。14
ユーザーがインターフェースの存在にすら気づくべきではない、という考え方は、広く、ほとんど全面的に、まるで福音のように受け入れられていきました。Macintosh プロジェクトの立ち上げ役であり、思慮深く、いま読んでもなお強く薦めたくなるテキストを数多く残したジェフ・ラスキンも、『ヒューメイン・インタフェース 人に優しいシステムへの新たな指針』のまさに冒頭でこう書いています。
ユーザーは箱の中身なんて気にしない。必要な仕事をしてくれさえすればいい。(中略)ユーザーが求めているのは便利さと結果である。
以上です。これに異を唱えるマニュアルも論文も、見当たりませんでした。とはいえ実際には、オルタナティブは存在していました。さきほど触れた『窓と鏡』で論じられているメディアアーティストたちの作品、そしてもちろん90年代のウェブです。
ユーザーはインターフェースについて考えたがらない、という考えに対する最良の反例は、初期ウェブのデザインでしょう。そこでは人々が、インターフェースを思い描き、作り、育むことに、絶えず勤しんでいたのです。
すみません、つい One Terabyte of Kilobyte Age アーカイブからいくつか例をお見せしたくなってしまいます。こうしたページを作った人たちが、インターフェースの不可視性や透明性に抗うように制作していたことが、少しでも伝わればと思います。





もっとお見せしたいところですが、ノーマンに戻りましょう。彼は自分の意図、つまりインターフェースをユーザーの視界の周辺からも消し去ろうとする意図を補強するために、『誰のためのデザイン?』の議論を持ち出し15、「ドアノブ」のメタファーを工業デザインからHCIの世界に持ってきました。
ドアにはインターフェースがある。ドアノブや他のハードウェアだ。しかしわたしたちは、自分がそのインターフェースを使っていることを意識する必要はない。単にドアを通ること、閉めること、開けることを考えればいい。16
これはインターフェースデザイン界隈でもっとも頻繁に引用されたマントラのひとつでしょう。
あなたはこう問いたくなるでしょう。ノーマンの視点にわたしがあからさまに冷笑的で、同意もしないというのに、なぜ学生にあえてこのテキストを読ませるのか?って。その応えは、直後に続く次の一文のためでもあります。
コンピューターは本当に特別な存在だ。単なる機械装置ではない。17
この一瞬のほころびには、誰も触れたがりません。ノーマン自身も次の文で、ともかく「ドアノブ」のメタファーはコンピューターにも適用可能で、コンピューターの目的は生活を楽にすることだと言い切ってしまいます。
けれどわたしが学生に気づいてほしいのは、まさにこの「単なる機械装置ではない」という点です。汎用コンピューターの複雑さと美しさ、と言ってもいいでしょう。その目的は、必ずしも生活を単純にすることではありません。そうなることは、ときには副作用としてあるのかもしれませんが。本来その目的は、たとえば人間とコンピューターの共生だったのかもしれません。リックライダーは綱領的な論考『人間とコンピューターの共生』で、フランスの哲学者アンリ・ポアンカレの「問題なのは、答えが何かではなく、問いが何かである」という言葉を引いています。つまりコンピューターは、同僚のような存在として、問いを立てること自体に関わるべきだったのです。18
あるいは、エンゲルバートの言うブートストラッピングだったのかもしれませんし19、フルッサーが1991年、ノーマンの例の文章が発表された同年に『デジタルの仮象』(Digitaler Schein)で定式化した「可能性の実現」だったのかもしれません2021。これらはどれも、「生活を楽にする」という話とはかなり違います。
振り返ってみると、ノーマンの同僚や、同じ時代を行きていた人々は、ドアノブのメタファーにそこまで感心していたわけではなかったことが伺えます。ブレンダ・ローレルは『インターフェースとは何か』(What Is Interface)という短い導入文で22、ドアやドアノブというものが、実は複雑さや制御や権力、「誰が誰に何をしているのか」を強く示していると指摘しています。

インターフェースの形は、インタラクションされる側(そしてあなたがそう望むならインタラクションする側との双方)の物理的な性質を反映している。ドアノブが硬くしっかり固定されているのは、ドアの重さと硬さゆえだ。ドアノブが丸く、あるいはハンドル型なのは、それを使う手の性質ゆえだ。さらに、その形は機能も反映している。ラッチを解除し、引いて開けやすくするために回されるようできている。
しばしば見落とされるのは、インターフェースの形が「誰が誰に何をしているのか」も反映していることだ。ドアノブは人間のほうへ突き出しており、その性質は手に都合よくできている。開けられるのはドアで、開けるのは人間だ。人間が行為者で、ドアはその対象である。だが、先日訪れた機密性の高い政府施設にはドアノブがなかった。わたしは隠しカメラで確認され、問題ないと判断されてはじめてドアが開いた。そのとき、どちらがインタラクションを支配しているかという感覚は、自宅の部屋に入るときとはまったく違っていた。そこでは、ドアが、ひいてはその制度が支配していたのだ。
1992年、フランスの哲学者ブルーノ・ラトゥールは、参考文献を見るかぎりノーマンの著作も踏まえたうえで、『失われた大衆はどこにいるのか?』(Where Are the Missing Masses?)を書きました。23 そのテキストには、驚くべき「ドアの記述」という節があります。そこで彼はドアを「壁の穴を可逆的な状態に保つ技術の奇跡」と呼びます。そして、ドアに貼られた「ドアボーイはストライキ中です。お願いだからドアを閉めてください」というメモの文言を逐語的にたどり、ノブや蝶番やクローザーといった機械的細部をひとつひとつ精査しながら、ドアノブを単純で、自明で、直感的なものとして捉えようとするノーマンの意図を解体していきます。
『なぜインターフェースはうまくいかないのか』では、アフォーダンスという語そのものは出てきません。けれどドアノブはその象徴であり、この言葉はデザインマニュアルからマニュアルへと受け継がれ続けています。そして何より、ギブソンの生態心理学から持ち込まれたアフォーダンスをHCIの世界向けに翻案し、意味づけ直したのもまたドン・ノーマンでした。
この話題についてのとてもよい基本的な要約として、良質な資料としてもよく知られる『HCI百科事典』第2版に収められた、ヴィクトル・カプテリーニンによる「アフォーダンス」の項目があります。
アフォーダンスは、(中略)HCI研究における基本概念と見なされており、HCIおよびインタラクションデザインにおける基本的な設計原理として説明されている。24
ただしここで言うのは、ギブソンではなくノーマンの意味でのアフォーダンスです。

その違いは、ジョアンナ・マグレネアとウェイン・ホーが2000年に書いた『アフォーダンス 概念の明確化と展開』の、広く引用されている表でうまく説明されています。25 二人はこの転位をこう要約します。
ノーマンは、効用が容易に知覚されるように、「環境を操作し、あるいは設計すること」に特別な関心を持っている。25
……あるいは逆に言えば……
対象の知覚された性質、あるいはむしろ、その対象がどのように使えるかを特定する情報まで含めるノーマンとは異なり、ギブソン的なアフォーダンスは、それを知覚する行為者の能力から独立している。26
ご存じのとおり、ドン・ノーマンはのちに自分がこの語を誤解していたことを認め27、「知覚されたアフォーダンス」(perceived affordance)と言い換え、この語の混乱と価値の切り下げを始めてしまったことを詫びました。28
グラフィックデザイナーが「画面デザインにアフォーダンスを追加した」と言うのをよく耳にするが、たいてい彼らが意味しているのは、ある種のグラフィック表現がユーザーに特定の行為が可能だと示唆している、という程度のことだ。それはアフォーダンスではない。実際のアフォーダンスでも、知覚されたアフォーダンスでもない。正直、そうではない。それは象徴的コミュニケーションであり、ユーザーがその慣習を知っている場合にだけ機能する。29
それから20年近く経ち、コミュニティが大きくなるにつれて、主張はさらにばかげたものになっていきます。UX デザイナーたちは「アフォーダンス」という語を、何にでも使える同義語として、ありとあらゆる意味で使っています。
この講演の準備を始めたころ、いまのわたしの関心をいつも把握している Medium.com が、uxplanet.org の新しい「11分で読める記事」を届けてきました。『UXでアフォーダンスをどう使うか』です。30 題名だけでもう混乱していますが、当の書き手はそう思っていないようでした。彼にとってアフォーダンスはアプリの一要素で、メニュー、ボタン、イラスト、ロゴ、写真の同義語として使えるらしいのです。その記事は、3年前の別の記事31も参照していて、そこでは明示的、隠れた、パターン、メタファー的、偽の、否定的という、なかなか奇妙な6種類のアフォーダンスが並べられています。
この用語の混乱自体は、デザイン分野では別に新しいことではありませんし、アフォーダンスという語とその用法だけが最大の問題というわけでもありません。もっと厄介なのは「透明性」や「体験」のような別の語です。あるいは、このアフォーダンス騒ぎは無視してしまってもよいのかもしれません。クリック、スワイプ、ドラッグ&ドロップの世界に何とか意味を与え、心理学や哲学を通してそれらを文脈化し、解釈しようとする、善意の試みとして前向きに見ることすらできるでしょう。
でも、アフォーダンスを語り、定義したがるこの衝動は、それほど無垢でもありません。アフォーダンスはHCIのパラダイムであるユーザー中心設計の礎石であり、そのユーザー中心設計という語を1980年代半ばに作り、概念化したのも、またしてもドン・ノーマンだからです32。そしてユーザー体験というバブルを始めたのも、これまたドン・ノーマンでした。33 どちらも、彼が1993年にAppleで研究責任者になったときに大きく膨らみました。ユーザー体験、すなわち UX は、インターフェースとは何か、それがどうありえたのかを考える他の可能な見方を飲み込んでいったのです。
わたしは以前のエッセイ『リッチ・ユーザー・エクスペリエンス、UX、戦争のデスクトップ化』(Rich User Experience, UX and Desktopization of War)34 で、ユーザー体験をスクリプト化し、演出し、組織化することの危険について書きました。また『チューリング完全ユーザー』(Turing Complete User)35 では、この概念を批判するのがいかに難しいかにも触れました。なぜなら UX には、「正しいことをしている」「より多くを見ている」「その先を見ている」といった強いオーラが育ってしまったからです。
前述のヨハネス・オスターホフに、UX をどう理解しているか尋ねてみました。彼のダイレクトメッセージを引用します。36
UX と言うとき、わたしはたいてい、プロダクトが顧客、つまりユーザーのニーズを満たすように整えるためのプロセス群のことを意味しています。プロセス群と言うのは、ふつうわたしが扱うのが、最初のモックアップとその後の素早い実装だけでは済まない、長い時間をかけて開発し洗練していく複雑なツールだからです。… わたしが言いたいのは、ある特定のソフトウェアを長期的に改善していくために必要な諸手段の相互作用です。そこにはユーザーリサーチ、ユーザビリティテスト、インタラクションデザイン、情報可視化、プロトタイピング、科学的・文化的リサーチ、ある程度の視覚設計といった複数の領域が関わります。大きなソフトウェア企業なら、戦略や心理学もその一部です。それにコミュニケーションの流れもあります。どんな形と頻度が適切か、拠点の離れたチームで何が機能し何が機能しないか、ということです。36
元学生のひとりで、シュトゥットガルトのソフトウェアデザイン/リサーチ会社 zigzag の代表である Florian Dusch も、質問への答えのなかで UX を「many things」「holistic」「not only pretty images」と呼んでいました。37
これで引用するほど気の利いたことになっているかは分かりませんが。:)
わたしたちは、UX は単にきれいな画面ではなく、プロダクトを組み立てるためのホリスティックでユーザー中心のアプローチなのだと、クライアントに分かってもらうために懸命にやっています。これについてはドン・ノーマンのよい動画があります。37
次の引用は、2015年にゴールデン・クリシュナが世に出した、きわめて表現力の強い本『さよなら、インターフェース 脱「画面」の思考法』からです。彼は「Android の未来を形づくるデザイン戦略に Google で取り組んでいる」と自己紹介しています。3839
UI とは、ナビゲーション、サブナビゲーション、メニュー、ドロップダウン、ボタン、リンク、ウィンドウ、丸角、影、エラーメッセージ、アラート、更新、チェックボックス、パスワード欄、検索欄、テキスト入力、ラジオボタン、テキストエリア、ホバー状態、選択状態、押下状態、ツールチップ、バナー広告、埋め込み動画、スワイプアニメーション、スクロール、クリック、アイコン、色、リスト、スライドショー、バッジ、通知、グラデーション、ポップアップ、カルーセル、OK / Cancel などなどである。
UX とは、人々、幸福、問題解決、ニーズ理解、愛、効率、娯楽、喜び、魂、暖かさ、個性、満足、魔法、生産性、効果などなどである。
ドイツの研究者マルク・ハッセンザールも、自分のウェブサイトの自己紹介で、UX をみごとに定義しています。
彼はインタラクティブな技術を通して意味のある瞬間をデザインすることに関心を持っている。要するに、Experience Design に。40
こうした、長くこの仕事に携わり、自分が何をしているのかをよく分かっている人たちの、ごくわずかな引用だけを見ても、UX がいかに大きく、大きく、しかも善いものとして語られているかが分かります。小さくて、些細で、こせこせしたものより、ずっと大きくて立派なものとして。
逆説的なのは、技術的に言えば、実践の場でユーザー体験デザインが生み出すプロダクトは、そのイメージやオーラと矛盾していることです。UX は物事をきっちり固定することであって、そこに曖昧さや開かれたプロセスの居場所はありません。
マルク・ハッセンザールは、詩的な言い回しやインタビューだけでこの界隈に貢献しているわけではありません。実際、2010年の著書『経験のデザイン なぜテクノロジーを使うのかという正しい理由のために』では、「体験を提供するためのアルゴリズム」41 を掲げ、そのなかで「なぜ」が決定的な構成要素であり、UX の特別な地位を正当化する特徴だとしています。
ハッセンザールは、Interaction Design Foundation のために収録した一連のビデオ・インタビュー42のなかでも、人はただ電話をかけたいわけではなく、その背後には仕事、寝る前のキス、子どもが家にいるかどうかの確認、食べ物の注文、といったさまざまな理由があるのだと言います。そして、そうしたひとつひとつの「なぜ」は、ソフトウェアとハードウェアの両方のレベルで、それぞれ固有のデザインを必要とする。言い換えれば、理想的な UX 電話とは、必要の数だけ別々の電話があること、少なくとも通話の種類ごとに別々のアプリがあることなのです。
UX における Why は、哲学的な問いではなく、実践的な問いです。言い換えれば「具体的に何のために?」であり、「具体的に誰のために?」なのです。
ユーザー体験デザインは、ドン・ノーマンが1980年代後半の「使いにくい」インターフェースの原因として挙げた、ある歴史的偶然を乗り越えようとする、成功した試みでもあります。
わたしたちは汎用技術をきわめて専門的なタスクに適用しながら、なお汎用の道具を使っていた。43
UX のスキルをどう鍛えるかについて、UX Collective というスタジオが最近出した洞察はこんなものです。
いくつかの前提、制約、そしてプラットフォーム(モバイル / デスクトップ / タブレットなど)を自分に課して、範囲を限定するのはよい考えです。二人組で取り組むなら、一人が問題を選び、もう一人がそれを洗練させてもいいでしょう。では、次のうちどれかを選び、モバイルかデスクトップかの解決策を決めて、そこからひたすら問いを立て続けてください。44
リストには100個の提案があります。いくつか挙げると、こんな感じです。
- スマート冷蔵庫を作る。
- 休暇中、駐車した車が盗まれないようにする。
- 鍵をかけた自転車の位置を把握し、動いたら通知を受ける。
- 何らかのウェアラブル技術で健康状態を追跡する。
- ユーザーに日々の親切な行為を促す。
- スマートミラーを作る。
- 音楽プレーヤーを作る。
- 金融上の意思決定のためのチャットボットを作る。
- 時間追跡ツールを作る。
- 大手テレビネットワークがコンテンツにタグを付け整理できる社内ツールを作る。
- 目覚まし時計を作る。44
ノーマンは2014年に「経験のためのアフォーダンスをデザインできる」と語りました。45 詩的なフレーズですが、HCI におけるアフォーダンスが「明確で即時的な手がかり」を意味し、体験が「狭くスクリプト化された体験」を意味するなら、それはあまりにも雄弁に問題を露呈してしまっています。
そういう、用途をきつく限定したシナリオの例は身の回りにいくらでもあります。いままさに世間の注目を集めているものをひとつ挙げるなら、2018年5月初旬、ケンブリッジ・アナリティカのスキャンダルのさなかに Facebook が発表した、長期的関係のためのアプリです。46 マーク・ザッカーバーグの言葉を借りれば、「フックアップ」ではなく、本物の長期的関係のためのアプリです。汎用コンピューターと汎用ユーザーについてのわたしの立場をご存じなら、わたしがそもそもデーティングアプリなど存在すべきではないと考えていることも分かるでしょう。デートに反対だからではなく、人は汎用ソフトウェアを使ってデートできるとわたしが思っているからです。メールでも、チャットでも、Excel でも、Etherpad でもデートはできます。でも、もし自由市場がデーティングソフトウェアを求めるのだとしても、それは「なぜ?」や「具体的に何のため?」や「フックアップか、長期関係か?」といった問いをあらかじめ立てることなしに作られるべきです。
ここでもう一度、昔のウェブページのスクリーンショットを何枚かお見せすることを許してください。One Terabyte of Kilobyte Age アーカイブには before_ というカテゴリがあって、いまでは工業化され、中央集権化されたツールやプラットフォームに置き換えられてしまった用途を、かつて人々が特定の目的をもって自力で作っていたページに付けています。最初のカテゴリは before_flickr、次が before_googlemaps。最後のものは ratemyprofessors.com を思い出させたので、before_ratemyprofessor と名付けました。これらのページはすでに死んでいて、どれひとつ成功しませんでした。けれど、自分たちの欲望をかなえるために、最初からその目的だけのために設計されたわけではない環境のなかで、人々が自分なりのやり方を見つけていた例ではあります。わたしなら、これこそ本来のユーザー体験と呼びたい。UX のイデオロギーとはまったく逆のものとして。
ですから、ドン・ノーマンの呼びかけに反して「未来のコンピューターは見えるべきだ」と言うだけではなく、ここでわたしは、アフォーダンスという語をそろそろノーマンの解釈から切り離し、体験からも、知覚する能力からも(ギブソンの意味での知覚からも)、経験設計のニーズからも切り離して考えたいのです。アフォーダンスを行為の可能性の選択肢として捉え直したい。そして、プログラムする機会さえ与えられれば何にでもなりうるという、汎用コンピューターのアフォーダンスにこだわりたい。機械時代の法則や人工物に縛られていない世界の、機会とリスクを見つめたいのです。
影響力の大きいインタラクションデザインのマニュアル『ABOUT FACE インタラクションデザインの本質』のアフォーダンス章で、著者たちはこう書いています。この本は長年 “the essentials of interaction design” を副題に掲げ、最新版では “classic of creating delightful user experiences” へ変わりました。47
ノブがドアを開けられるのは、それがラッチにつながっているからだ。しかしデジタルの世界では、あるオブジェクトが何かをするのは、開発者がその力を与えたからにすぎない。画面上には、押したくなるような立体的な長方形が現れていても、それが本当に押されるべきとは限らない。文字どおり、ほとんど何でもできてしまう。
章全体を通して、著者たちはこの可能性に抗い、一貫性と慣習に従うよう助言します。0と1の世界では本当に何でも可能だからこそ、彼らは「契約」という考え方を持ち出すのです。
画面上にボタンを描くとき、わたしたちはユーザーとひとつの契約を結んでいる。48
画面上にボタンがあるなら、それは押されるべきであって、ドラッグ&ドロップされるべきではなく、それに応じた反応を返すべきだということです。そして、その通りだと思います……ただし、インターフェースがノブとボタンに限られているあいだは、です。
ブルーノ・ラトゥールは、読者にドアのない世界を考えさせようとして、こう書きました。
[……]人々が建物に入ったり出たりするたびに壁を壊しては作り直すところや……あるいは、放っておけば本来いるべきでないほうへ行ってしまうあらゆる物や人を、内側あるいは外側にとどめておくために必要な仕事を想像してみてほしい。49
美しい思考実験ですし、たしかにそんな世界は想像しがたい。けれど、コンピューター生成の世界なら話は別です。そこでは本当はドアなんて要りません。壁を通り抜けてもいいし、そもそも壁がなくてもいいし、壁そのものを時代遅れにしてしまうルールを導入してもいい。ノブのふるまいではなく、こうしたルールや契約こそがユーザーインターフェースの未来なのだとすれば、インターフェースデザイナーの教育について、わたしたちはとても慎重でなければなりません。
タイトルに掲げた概念のうち、まだ一言も触れていないものが二つあります。赦しと、人間とロボットのインタラクションです。
わたしの問いはこうです。強い手がかりと、きつく縛られた体験、つまりアフォーダンスと UX へのこの執着は、理論上あらゆるインタラクティブシステムの一部であるべき美しい概念、「赦し」にどう影響しているのか。そして、透明性、アフォーダンス、形態は機能に従う、形態は感情に従う50、ユーザー体験、赦しといった概念は、HRI においてどのように屈折するのか。
まず赦しから始めます。次に引くのは 2006年版『Appleヒューマンインターフェースガイドライン』からの引用で、ユーザーインターフェースにおける赦しが具体的に何を意味するのかを、とてもよく示していると思います。51
赦し
システムやデータを壊すことなく試せるのだと人々が感じられるように、たいていの操作を容易にもとに戻せるよう設計しなさい。人々は、システムを傷つけたりデータを危険にさらしたりすることなく試せると感じる必要がある。「元に戻す」や「保存した状態に戻す」のような安全網を用意しなさい。そうすれば、人々は安心して製品を学び、使えるようになる。
取り返しのつかないデータ消失を引き起こす操作を始めたときは、ユーザーに警告しなさい。もっとも、警告が頻繁に現れるようなら、その製品には設計上の欠陥があるのかもしれない。選択肢が明快に提示され、フィードバックが適時に返ってくるなら、アプリケーションの利用は比較的エラーの少ないものになるはずだ。
よくある問題を予測し、起こりうる副作用をユーザーに知らせなさい。各段階で十分なフィードバックとコミュニケーションを提供し、適切な選択をするのに十分な情報があると感じられるようにしなさい。
ここで言う赦しの核心は、操作を可逆的にすること、知覚上の安定した手がかりを与えること、そしてつねに「元に戻す」を許すことにあります。
ところが 2015年、ブルース・トグナツィーニとドン・ノーマンは、iOS のガイドラインから赦しという原則が消えたことに気づき、怒りのこもった『Appleはいかにデザインの名を汚しているか』を書きました。52 ブルース・トグナツィーニ自身、1978年から始まる Apple Human Interface Design Guidelines の8つの版を手がけた人物であり53、インターフェースデザインをイリュージョンや舞台マジックの文脈で考えてきたことで知られています。
けれど、Apple でも Android でも、キーボードのないモバイル端末のユーザーたちは、それよりずっと前から赦しの消失に気づいていました。そこには ⌘-Z や Ctrl-Z に相当するものがなかったからです。彼らは気づいていました。でも抗議はしませんでした。
わたしの世界観では、「元に戻す」は憲法上の権利であるべきです。わたしのプロジェクト『ユーザーの権利』54 でも、それは第一の要求になっています。わたしはこれまで別の場所でも「元に戻す」を支持してきましたが、この講演との関係で強調したいのは、アフォーダンスや UX をめぐる熱狂のすべてが、「元に戻す」の消失と並行して進んだということです。これは偶然ではありません。一画面に一つのボタンしかない単一目的のアプリケーションは、人々を「元に戻す」の必要のない人生へと導いていくでしょう。
けれど、ユーザーが OS ベンダーに本当に求めるべきなのは、システム全体に対して効くグローバルな「元に戻す」機能です。それこそが唯一の契約でありえたのかもしれないし、そうであれば、アフォーダンスについてこれ以上議論する必要のない世界もありえたのかもしれません。
ニューメディアの力学の一部である HCI の分野は、とても活気があり、とても「多元的」です。インターフェースデザイナーの仕事は、もはやパーソナルコンピューターの画面や送信ボタンの向こう側にだけあるわけではありません。仮想現実や拡張現実、会話型インターフェースや音声 UI、さらには脳とコンピューターのインタラクションまで、新しい課題が現れています。もちろん、これらの分野はそれ自体として新しいわけではなく、GUI と同時代のものです。わたしが「新しい」と言うときに意味しているのは、HCI の論文や大衆メディアのなかで「いま流行している」あるいは「また流行している」ということです。
ここ数年は、映画や文学や消費者向け製品のなかで、人工知能、ニューラルネットワーク、人型ロボットが至るところに現れていました。わたしもカリキュラムを調整し、インターフェースデザインの授業に ELIZA スクリプトの書き換えを導入しました。55 学生たちが、ユーザーに話しかけ、理解しているふりをするインターフェースを設計するための準備をするように、です。わたし自身もボットを持っていますし56、この講演もそのアルゴリズムに食べさせられて、ボットのパフォーマンスの一部になるでしょう。あと数年もすれば、このボットがわたしに似た人工の身体へ注入され、わたしの代わりに講演へ行くようになるかもしれません。
ロボットが主要な登場人物である映画やテレビドラマを見たり、ニュースでソフィアの冒険を追ったりするなかで57、一般の人々も、少し前まではごく一部にとってしか身近でなかった問題のなかへ飛び込んでいます。シンボリックAIと強いAIの違い、ロボット倫理、トランスヒューマニズム。
ロボットが、たとえ媒介されたかたちであれ、いたるところに現れることは妄想を引き起こします。
わたしたちは知的な機械に、わたしたちを愛し、無私であることを期待する。その同じ尺度で、彼らがわたしたちに反旗を翻すことを、究極の裏切りとみなす。58
妄想は逆説を生みます。
わたしたちを無生物とのますます濃密な関係へと誘惑するロボットが、いまや、デジタル接続への過剰な没入を癒やす治療薬として提案されている。日本人が期待しているのは、ロボットがわたしたちを物理的な現実へ、そして互いのもとへ連れ戻してくれることだ。59
逆説はさらに多くの問いを生みます。
わたしたちは本当に、決して友だちにはならない友だちを製造する仕事に携わりたいのだろうか。60
ロボットは権利を持つべきでしょうか。ロボットやボットは、自分が何者であるかを名乗るよう求められるべきでしょうか。
最後の問いは、Google Duplex の最近のデモのあと、突然この言説のなかへ入り込んできました。61 Google のアシスタントは「うーん」「ああ」「ええと」のような間投詞を使ってよいのか、そもそもそうした言いよどみを使うこと自体が許されるのか、ネットのユーザーたちが議論し始めたのです。
気づかないうちに、わたしたち一般の人々は、倫理だけでなくインターフェースデザインについての問いや判断まで議論しています。わたしは、それがしばらく続いてほしいと思っています。
「ソフィア(ロボット)の頭はなぜ透明なのか?」62 ユーザーたちは、インターネットに向かってもうひとつのデザイン上の問いを投げかけます。Ex Machina っぽく見せるためなのか、それとも整備しやすくするためなのか。あるいはそれは、「透明性」という語が、マッキントッシュ以前のもともとの意味、つまり「見えること」へと回帰している徴なのか。
おもしろいことに、いま科学者やインタラクションデザイナーが「透明性」と言うとき、それはアルゴリズムを露出し説明することと、ロボットとのコミュニケーションの単純さとのあいだを揺れています。
自律ロボットをリアルタイムに点検するための透明性の設計と実装63
ロボットの透明性 知的ふるまいへの理解をデザイナーとユーザーの双方に改善する64
ロボットの透明性を改善する ロボットAIのリアルタイム可視化は初心者観察者の理解を大幅に高める65
研究者 Joanna J. Bryson は、この倫理の問題についてきわめて明確な立場を取っています。「ロボットは権利を持つべきか?」は、彼女にとって問うべき問題ではありません。むしろ彼女は、そもそもなぜそんな問いを引き起こすような機械を設計するのか、と問います。66
けれど、人の代わりではなく人とともに働く場面においては、道徳性を演じる人型ロボットこそ適切なアプローチだと示す研究も十分にあります。いわゆる社会的ロボットのシナリオです。そこでは「社会的ロボットは、人間と機械のあいだに人間らしいコミュニケーションのパターンを可能にするメタファー」であるとされています。67 これは Frank Hegel の論文『社会的ロボット 人と機械のあいだのインターフェースデザイン』からの引用で、わたしは少し前にこのテキストに本当に感銘を受けました。もっとも、そこに革命的な何かが宣言されているわけではありません。むしろ、「ロボットの人間らしさは擬人化と強く相関する」68 とか、「見た目に魅力的なロボットは、より多くの社会的能力を持つと考えられがちである」69 といった、きわめて当然のことが淡々と書かれています。
とても静かに、ほとんど行間に紛れ込ませるように、Hegel は「適切で公正なロボット設計」の原則として「機能を十全に伝える擬人的なかたち」を導入します。70 それは、人間がロボットの目的と能力を即座に理解するよう導くべき形態です。新しい時代のアフォーダンスです。
ロボットはすでにここにいます。産業機械としてではなく、社会的な、あるいは「愛される」存在として。その主な目的は、人を置き換えることではなく、人々のあいだにいることです。彼らは擬人的で、ますますリアルに見えるようになっています。目があるのは、見る必要があるからではありません。見ることがそのロボットの機能のひとつだと、わたしたちに知らせるためです。鼻があるなら、それはガスや汚染を検知できるとユーザーに知らせるため。腕があるなら重いものを運べるし、手があるなら小さなものをつかめる。もしその手に指があるなら、楽器も弾けるのではないかと期待してしまう。ロボットの目はユーザビリティを放射し、その身体はアフォーダンスを表現する。顔は文字どおりインターフェースになるのです。
ここでノーマンの有名な定義に戻りましょう。
アフォーダンスは、物がどう操作されるかについて強い手がかりを与える。板は押すためにあり、ノブは回すためにあり、スロットは何かを差し込むためにあり、ボールは投げたり弾ませたりするためにある。アフォーダンスがうまく利用されているとき、ユーザーは見ただけで何をすべきか分かる。図もラベルも説明も要らない。71
手で扱うアフォーダンス、つまり「強い手がかり」は、それが GUI の一部であるかぎり、まだ理解し受け入れやすいものです。グラフィカルに表現され、どこか……画面上に位置づけられているからです。いわゆる「ポスト GUI」、仮想・拡張・不可視の空間でのジェスチャへ移行したとき、デザイナーにとってもユーザーにとっても事態はずっと複雑になりました。けれど、それでも人間とコンピューターのインタラクションから人間とロボットのインタラクションへ思考を移したときの、驚くべき複雑さの水準には及びません。
わたしは学生たちに、「機能を十全に伝える擬人的なかたち」を極端に押し進めるスケッチを描かせました。もし匂いを嗅がないなら鼻は不要ですし、片手で足りるなら二本の腕も要りません。機能を示さない部分をすべて削ぎ落とした擬人的なデザインはどんな姿になるのか。そこから問われるのは、こうした「非曖昧さ」がインタラクションやプロダクトデザインにとって何を意味するのか、ということです。
そして今夜の最後の問いです。HCI の原則である赦しは、HRI においてどのように現れているのでしょうか。グラフィカルでタッチベースの現在のユーザーインターフェースの状況とは対照的に、赦しはロボットや AI の領域ではむしろ元気にやっているように見えます。
それはもう組み込まれているのです。「知的システムの外部観察者は、そのシステムから切り離せない」。72 ロボットの伴侶たちは、「わたしたちの相手に値するロボットを作ったからここにいるのではなく、わたしたちが彼らの相手になる準備ができているからここにいる」。そして「ロボットは、彼らがうまくやっていけるように、わたしたちに振る舞い方を教えながら、わたしたち自身を形作っていく」。73 タークルとザルカダキスのこうした言葉は、リックライダーの人間とコンピューターの共生や、エンゲルバートのブートストラッピング、その他の人間とコンピューターの共存についての先鋭的な投射を思い出させます。ただ今回は、人間とロボットについて語っているのであって、机の上のコンピューターとの関係についてではない、というだけです。
赦しは組み込まれています。ただし、HRI においてそれが組み込まれているのは人間の側です。全部こちら側の役目です。
わたしたちはいま、HCI の最良の概念だった「元に戻す」が、シンボリックAIの基本原理のひとつ、すなわち「人間のインタラクターをスクリプト化すること」と出会うところを目撃しています。74 これから先、どんなアフォーダンスがさらに現れてくるのか。そして、いまそう呼ばれている「強い」あるいは「本物の」AI にシンボリックAIが置き換えられたとき、いったい誰が誰を元に戻すのでしょうか。
オリア・リアリナ、2018年6月