詰め方の問題

デザインの話をしているって言いながら、「グラフィック」デザインの話がぜんぜん出てこない。
出てくるのはキャリアのこととか、組織論とか、どこからどこに資本が流れているかとか、Design Thinkingがどうとか、そういう話ばかり。もちろん、それも大事な視点ではある。現実にお仕事としてやる以上、社会的な関係性や構造を抜きに語ることはできないし、実際それに無頓着な態度には限界もある。
でも、そればかりに目がいくと、ローレイヤーな部分——例えばツールとか、配置のアルゴリズムとか、ベクターグラフィックの仕様だとか——がもう空気みたいに透明化されて、視覚的な佇まいがどう技術的・制度的に規定されてるかって視点がスコーンと抜け落ちる。
で、「表現はもうやり尽くされた」とか言うんだ。けど、それって本当に“やり尽くされた”んだろうか? 実際には、思考の抽象度を早い段階で上げてしまったせいで、むしろ自分自身が他の可能性を見失っているようにも思える。つまり、まだ見ぬ手法や構造、ツールとの接続の仕方といった具体的な探究の余地があるにもかかわらず、「もう語る必要もない」ものとして処理してしまっている。その結果、手技や身体感覚に立脚した実践の地平がごっそり見落とされてしまう。
UIデザインの話に多少ずれるけど、たまたまKatashinさんの『UI の実装に関する勉強会をやりたい』ってポストを読んだ。読んでて、たしかになぁって思った。ユーザー体験とかインセンティブ設計とか抽象的な話題、あるいはライブラリ選定とかプラグマティックな話はいくらでも出てくるのに、UIの見た目やインタラクションの手触りのような話になると、各々による現場レベルの工夫として、それっぽいデザイン論から疎外されてしまう。記事中で紹介されていた Skyline アルゴリズムは、CSS Grid や Masonry レイアウトでは表現できないような要素の詰め込み(パッキング)を実現する技法で、空きスペースを最小化しながら視覚的なリズムを成立させるような仕掛けになってる。こういうのって、一見「技術語り」に見えるけど、じつは表層の“感じ”をどう作るかっていう極めて感覚的な設計の話でもある。計算アルゴリズムの選択が、画面の重心や流れ、間のニュアンスにまで影響を及ぼしている。デザイナーにしてはローレイヤーな技術の話に生真面目に取り組むことが、そのままグラフィックの佇まい(しいてはユーザー体験……?)に直結する好例だ。
実務レベルではみんな、グラフィックについて手を動かしながら考えているのだと思う。けど、いざメディアに出たり本を書いたり、あるいは私的な会話ですら、グラフィック表現そのものについて語ることは意外なほど少ない。もちろん、そういう具体的でローレイヤーなことが語られにくいのにはそれなりの理由もある。Skyline アルゴリズムのような実装レベルの工夫って、デザイナーにとってはコードが絡みすぎて遠いし、逆にエンジニアにとっては「そんな微妙な“佇まい”にどれだけコストかけるの?」ってなりがちで、どっちの領域にもちゃんと引き取られない。現場では確実に扱われているのに、語る言葉も場所もない。だから、実際に手を動かしてる人も、自分が何をやってるのかを言語化しづらくなる。語られないから可視化されず、可視化されないから語る文化が育たない、というループがあるように思う。
加えて、そういうことについてチマチマ語ること自体が、「仕切る人、企み人としてのスマートさ」から外れるとされる空気もある気がする。細部の話をしていると、「現場レベルにとどまっている人」っぽく見られる。だから、活躍している人たちほど逆に、メタな構造や意図、戦略だとか、いわば語っても恥ずかしくない話に収斂していってしまう。別に放っておいたっていいのに、この手の語り口をぼくが寄稿とかでつつきたくなるのは、そこにちょっとしたゼロサムっぽさを感じるからだ。界隈にいるデザイナーの方々の有限財としてのアテンションや言語資源が、そうしたメタい話にばかり使われてしまうと、それ以外の語りがどんどん場を失ってしまう。べつに世直しをしようってわけじゃない。けど、「もういいんじゃない? その話」くらいは言ったっていいと思ってる。
Skyline アルゴリズムの「詰め込み」で思い出したんだけど、グラフィックデザインにおいて“詰める”といえば、まずは文字詰めのことだ。組版の現場では、1字ごとの間をどう詰めるかで誌面全体のリズムが決まるし、読みやすさの質も左右される。今でこそ DTP ソフトがある程度自動化してくれているけど、当時はすべて人力で、かつ感覚の勝負だった。
この文脈でいつも浮かぶのが杉浦康平だ。なぜ彼が今でも変わらずアツいのかって、組版技術とか写植機の構造に本気で萌えていたし、その技術的制約にだれよりも深い関心があったからだ。たとえば日本語の金属活字は縦書き横書き兼用の都合ですべてが同じ正方形で、物理的に「詰める」なんてこともできない。結果として、ひらがなやカタカナはどうしてもスカスカになる。そこで杉浦や同時代のデザイナーは、写真植字で印画紙に打ち出した文字を切って貼る「詰め貼り」を実践した。ここで大事なのは、それが単なる視覚的調整ではなく、当時のデザイン技術が当然視していた字間という変数の値域を、マイナスの値にまで拡張した点だ。そしてそうした実験の積み重ねが、今日の和文タイポグラフィ文化へと繋がった。事実、文字詰めという言葉自体、彼とその周辺から立ち上がってきたって話を『杉浦康平と写植の時代』で読んだっけ。つまるところ、デザイナーであると同時に技術オタクでもあったからこそ、あれだけの表現が可能になった。それこそが、あの本の言葉を借りるならば「デザインにおけるアバンギャルド」だった。(うろ覚えだからファクトチェックが必要そう…)
結局のところ、ぼくが気になっているのは、ものごとを媒介する関係性や構造ばかりが語られて、肝心のそれ自体——グラフィックであれ、アニメーションであれ、画面に現れる表層的な“何か”そのものが、語られることなくどこかへ押しやられていることだ。もちろん、それをめぐる構造、物語性、組織や経済がどう影響しているかは、無視できるわけじゃない。でも、だからといってそれ「ばかり」に意識を向けるのは、Lev Manovichが言うように、画面の「出力」だけを見てその背後にあるプログラムのアーキテクチャを問わないのと同じくらい片手落ちだ。それは生存戦略として間違っちゃいないにせよ、グラフィックデザイン文化としては貧しいと思う。
なぜCSSのborder-radiusによる角丸が曲率不連続で、ベジェ曲線は円弧を近似的にしか表せないのか。それは何を前提にしていて、どこから手をつけられるのか。そういう、地味でオタクっぽくて、だけど具体に接地していて、そしてグラフィック全体の佇まいをボトムアップに統べる問いに、もう一度きちんと戻ってこないとならない。この手のコトに引っかかり続けるのは、たぶんあまり効率もよくないし、話としてもウケが悪い。でも、視覚刺激としてのグラフィックそのものへの興味、そこに素朴に惹かれている自分の感覚を、もう少しだけ信用してみてもいいのかなって、最近は思っている。