Hashimoto   Baku

Hashimoto   Baku

Proof of X メモ (メモ)

このページは個人的なメモ書きです。何かあればご連絡ください。

たぶんブログでも書きかけていたのだろうな

Genomeについて?


年明け早々、Proof of Xというグループ展に制作中のNFT作品を出展しました。タイトルはGenome。庄野祐輔さんとKai Yoshizawaさん、そして僕という三者でのコラボレーションです。

庄野祐輔さんは僕が10代から影響を受けていた編集者の方の一人でした。MASSAGE MAGAZINEや映像作家100人を通して紹介されてきた映像や音楽、アートは自分の骨身になっています。Kai Yoshizawaさんはミュージシャンのtoiret statusやアーティストの松田将英さんへのグラフィック提供などを通して存じ上げていたビジュアルアーティストの一人です。CGIを中心に用いながらも、広告的なモーションデザインやVFX業界とも違った感覚も感じられて、彼のプロフィールでも触れられていたDIS Magazineやポストネットアートに同じく当てられてきた同世代として、彼の作品のもつ温度感にどこか共感を覚えています。

そうはいうものの、出展者ながらに実はNFTアートの魅力に今ひとつ気づけずに今に至ります。Genomeを作る過程で、ブロックチェーンの技術的要素や、SolidityやERC721について一通り学んだのですが、「世界計算機(world computer)」としてのEthereum / Tezonsの思想に喰らったものの、アートとしてのそれはそこまでピンと来ていないのが正直な気持ちです。あ、ギャラリートークは忖度抜きに面白かったです。NFTアート所有者によるコミュニティの盛り上がり。アプロプリエーションがプログラム的なレイヤーで可能となったこと。アート・ワールドという権威に、ストリートとしてのインターネットに住まうハッカー達がどう挑んでいくかという物語。「投機だしハイプじゃん」「ただのピクセルアートじゃん」という雑な見方も少なくない中で、今回のキュレーションの関わられていた方々がどういう視点でもってNFTアートという現象に魅力を感じておられたのか今更ながら理解することができました。その上で僕の興味は、作品がどう社会とエンゲージしていくか、文脈に対する切り口をしてどうユニークかであることにもある一方で、一介の映像作家として、そうしたテクノロジーによって可能となる「佇まい」や「手触り」にあるような気がしています。コンセプチュアリズムという大文字のアートにおける主流に対して、良くも悪くも素朴な感覚しか持てていないのだなと。ともあれ、手触りとしてちゃんと嬉しいクラフト性のあるものを作ろうというのは、個人的なテーマでした。

ギャラリートークの中で、Genomeについて触れられる際、多くのPFPプロジェクトはユーザーのハッシュ値などに基づいてランダムに作品がジェネレートされるが、インタラクティブであること、カスタマイズ可能であることが、自己のアイデンティティの反映たる「プロフィール画像」として一つの愛着に結びつくのではないかという趣旨のことを語られていたのですが、僕個人としては少し疑問だったりします。

  • 脳内メーカーや、誕生日占いでも喜べる。CryptoPunkだって。自分の何らかの属性に基づいて、純粋関数的に何かが充てがわれたら、たとえその対応関係がてんてんばらばらでも、そこに愛着を見いだせるのでは。それは名前でも誕生日でも血液型でもハッシュでも良くて。
  • その逆に「キャラメイク」に近づくほど、自分の美的判断がダイレクトに反映されたものとなってしまう。迷いや後悔が生まれる。(Mii然り、世の中のキャラメイクは意図的に自由度を落として、そうしたジャム理論のような迷いを
  • 主体的行為としてのGenerative art
    • だから敢えて、WYSIWYG的な操作感ではなく、キャラクターの骨格と結合のパターンが「折りたたまれる」というアクションを挟むことにした。コンセプト文にもあるとおり生物にも着想を得ていて、DNA配列から対応するアミノ酸の鎖が複製され、その配列に基づいて一定のパターンで鎖が水素結合などによって折りたたまっることで、「酵素」として機能しうる立体構造が生まれる。それを、「遺伝子そのものが折りたたまれることで、形質が発現する」というように簡易化したのが今回の作品。
    • 体色も、ただのカラーピッカーで明示的に選べるようにするのではなく、Perlin Noiseで生成された2次元のグラデーション上の線分をサンプリングするようにしている。
    • 初期条件がどういう結果をもたらすかある程度のイメージが持てる一方で、実際に発現するまである程度の確定要素が残る。
    • だけどこれってgenerative artistが普段感じていることそのものでもある。パラメトリックに何かを秩序立てて統べる愉快さと、乱択性がもたらす意外さへの驚き。実はこの豊かさを誰より味わえるのは、作り手本人だったりもする。
    • ジェネラティヴアートの強度ってそういう「作り手としての体験」にあると思っている。generative artがアートピースとして世の中に認められて欲しいではなく、デイリーコーディングという主体的行為としてのデイリーコーディングを推すのも、同じcreative coderとして実はすごく分かる。
    • 鑑賞者がパラメーターをコントロール出来るgenerative artは、そうした作り手があれこれこねくり回していたパラメーターの一部を外側に出してあげることで、このおもろさをおすそ分けしてあげようという親切心なのかもしれないけど、その時点で多くの場合作り手が味わえたであろう愉しさはスポイルされている。
    • カラーパレットや要素数のように、出力を直接的にいじれるパラメーターか、シード値のように極端にランダムに思えるパラメーターの二択しかない。その中間の、予想可
  • またもう一つ、コンピューターの性能が上がるに従って失われるものとして、「ビルド」の時間がある
    • コードとコンパイル、釉薬と焼成、窯変、シーンファイルとレンダリング。モノづくりのプロセスには結構「ビルド」に類するものがあって、実はそれは結構制作の幸福感に寄与していたのではないか。結果がリアルタイムに表示されることで上がるクオリティも勿論ある。一方で、そこに「待ち」というプロセスが挟まることで強制的にイテレーションの回数が抑えられ、コーヒーを淹れたり一服できる。「これでいっか」と思える(諦められる)契機が外的に与えられるという楽さがある。別にこれは作品の善し悪しの話というより、ただの僕らの調子の良さの話。
    • プロシージャルになり、手戻りが効くことに
    • だから、この作品も、「ビルド」の過程を作品の面白さとして見せることにした
    • 技術上まったく出来るのに、操作体系としてやめたのは、こういうE字型の状態遷移図。今
    • ランダムウォークやレイトレースでジワジワと見せていく、みたいな、有るごりうズム的にそうした「ベイク」のアニメーションが生まれざるを得ない、みたいな必然性が無いのは少し後悔。
  • というか、フォトリアルな質感にしなくてはいけない箇所など、かなりの部分を事前計算している。
    • 8 x 4 x 4 x 24 = 3072通り全てを、半月相当GPUをブン回して事前計算している。そこに多くのPFPプロジェクトのように、福笑い的なレイヤー分けをしたり、ポストエフェクト的な処理も入れることで、事前計算とリアルタイムを綯い交ぜにしている。
    • NFTといえばピクセルアートや簡易なベクターグラフィックのイメージがあるけれど、フルオンチェーンにするためのある種のコードゴルフや、2024年現在のブラウザ環境で動きうるものにするという最適化に労力が割かれるために、それが集合的無意識としていつのまにか様式として確立してしまっていた。そういうものだよね、と。そこで映像用語でいう「プリレンダリング」という形で、計算資源の前借りをしてしまえば、そうした制限で無意識に諦めていた質感が出来るのではないか、いわゆる「NFTっぽさ」とは違った趣のあるもの出来るのではないか
    • それでいうと、パラメーターを決定した時点でサービスのバックエンド側に投げて、十数分かけてレンダリングするというNFTプロジェクトも世の中には存在する。
    • NFTが、所謂美術的訓練を受けた人たちの外側のアウトサイダー・アート的なものなので、アート・ワールド的な主流 ソーシャルエンゲージドアートやコンセプチュアリズム的な方向に行きがち。アートワールド 虎の威を借りる
    • ちゃんと手触りとして嬉しい、クラフト性のあるものを作ってみたかった。
    • 最初にgenerative nftにすることだけが決まっていた中で、ピクサーにモフモフの絵を頂いた時は、正直頭を抱えた。だけどそれが逆にこうしたアプローチに開き直るきっかけをくれた。
    • この感じはMUTEKでYOSHIROTTENさんとオーディオ・ビジュアルパフォーマンスをしたときや、紙のグラフィックデザイナーとWebデザインをするときの面白さに近い。
    • いい意味でジャンルの手癖とは異なったものが生まれやすい。
  • という話は全部今日林洋介さん、いすたえこさんに作品を解説する時にでまかせで思いついたものなのですが。
  • Mintableではない時点で何を言っても頭でっかちであれですね。
  • それとは別に、今日はDIG SHIBUYAのトークセッションに、豊田啓介さんとToshiさんと登壇した。Proof of XはDIG SHIBUYAという複合イベントのうちの「採択プログラム」の一つだったが、全く関係ない Motion Plus DesignのKookから話がきたので、映像作家としてのお誘いなら良いかなと思い蓋を開けてみたら、タイトルも「テクノロジー…」で全然予想と違かった。
  • 凄く正直にいうと、豊田さんのモデレーション能力はやToshiさんの物腰柔らかな語りとは裏腹に、申し訳ないくらい自分は芯の食った話が出来ずに後悔している。素直にテクノロジー・アート的なものや、オープンイノベーションだか共創みたいな言葉にブチ上がれる方をアサインした方が、お二人が持っていきたいところと変にバッティングせずに済んだのではないか。
  • 結局「場づくり」について語る人が多すぎて、プレイヤーが居ない問題。コミュニティが生まれたからどうなの? そうして育まれた中で、どう具体的にクソどうでもよくないものを作るかという、地に足付いた「ニュアンス」の話が出来る人が、このシーンにはほとんどいない。
  • この仕事をし始めた初期からずっと課題意識があって。テクノロジーアートはメディアとしての永続性の他に、手触りやニュアンスに対する解像度が大味過ぎて、表現としてヘボいので時代的耐久性を持ち得ないという
  • 普通に雑
  • だし、別にみんなそういう「時代の語り部」を求めているだけで、あまりないようには興味ないでしょ? Nosaj Thingの作品がどうヤバいのか、落合陽一のあれがどう研究者として誠実に色々やっているのかではなく、おそらくこの人はこう凄いんだろうみたにあぶぶんから入っているでしょ
  • そういう「未来っぽさ」を、ブランド広告やハイプ 上手く需給が合致している
  • ucnvさんとtakawoさんのトークでも同じことにふれていた。コミュニケーションが生まれた、コミュニティが育まれた。で、何?っていう →
  • 正直そこに関しては、takawoさんの肩を持ちたい。「仲間がふえて嬉しい」という素朴さ
  • 文化的営為が一つ乱択アルゴリズムなので、母数が増えるほどモンテカルロ法的に 「数撃ちゃ当たる」の精度も上がる。Flashを見ていたある人が言ってた、「9割9分のクリシェの死屍累々の先に、一滴の qubibi という才能が生まれただけで、Flasherコミュニティとしての存在意義はあった」という暴論。結構自分はその立場に近い。
  • 別にテクノロジーアートは、何か時代でもてはやされている何やら凄いものを取り入れているとう雰囲気さえあれば、それが具体的に何なのか
  • weirdcoreやらしかさんみたいな人、Nic HamiltonやMSHRのような人たちが凄い。
  • 何ならHyperballad
  • 一方で木原さんの言ってることも分かる。自分は結構潔癖なのかもな