NEORT++ 『流れのパターン / Patterns of Flow』 (メモ)
このページは個人的なメモ書きです。何かあればご連絡ください。
「流れのパターン / Patterns of Flow」川野やサイバネティック・セレンディピティを引用するのであれば、もっとシステムの解説があって欲しかった。
“当時から Jasia Reichart は、一般観客が戸惑わないように、また同時に専門家を退屈させないように、制作者とタイトルのような基本情報とともに、イメージ生成の方法など制作プロセスに関する情報、そしてプログラムそのものを含む、技術的な説明、という3つの基準に基づいてキャプションを書いていた。
https://x.com/hysysk/status/1842209946060128381 by hysysk
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- シンポジウムじゃないので… by Noriさん
- 川野の思想や作品を受けて、どう現代のgen artistが応答したか、という話であって、歴史研究の発表会ではない
- 中野さんのように、ある意味ナイーブアート的なんだけど、偶然彼女がやっていることが、川野的な関心と(揃いはしなものの)交差する、という例もある。その意味で、ギャラリーとしてのNEORT++はある種の工芸的なナイーブさ、カジュアルさがあっても良いんでないか
- 川野の美学を読んだはいいが、Art Simulation by ComputerもComputer-Aided Art何も、彼女にとってはp5やWebGLのAPIこそが自分にとって身体的に操作できる絵筆そのもので、「シミュレート」も「支援的」もクソもないって話、面白かった
けど林さんだけを矢面に立たせるわけでもなく、僕も似たような話は最近考えていたような気がする
成果物がパラメトリックに形づくられたとて、そのパラメーター、ハイパーパラメーター、あるいはアルゴリズムそのものは作為的に作者によって設定されている以上無限の自律生成というのはあり得ないわけで どの部分に・どの程度自律性が取り入れられているかを(メイキングではなく成果物とともに)明示するのは、コンピューター・アートとしての最低限の誠実さなのだなと、川野洋のK-Systemのことを知るにつけ感じる
もっといえば、どこまでがハードコードされ、どこからが自律的に生まれたのかを知る実装者以上に、ルールの複雑性を超えて作品が創発し始めるスリリングさを実感出来る主体が居ないのは、gen art的な表現の原理的に惜しい点なのよなぁと思う(だからtakawoさんが視覚表象としてのそれではなく、デリコという実践そのものに重きを置いておられるのはめちゃわかる)
https://x.com/_baku89/status/1837682082652606637
この辺の話、Purist / Hybridsにも書いた
- 川野、写美で観たときは、ヴァリツキー然りプリント作品が多かったから特段注目してなかったけど、こうしてたくさんのディスプレイと並置されると、モノとしての嬉しさが結構ある
- シルクスクリーン、良い
- 昔、抽象絵画をFLASHでモーショングラフィックスで動かす、という授業を受けてたが、イラレでモンドリアンをトレースすると思った以上に質感が退屈になる、という発見があった
- ちなみに僕が動かしてたのはFrank StellaのShaped Canvasのやつ。Visual Studioのロゴみたいな。
- 抽象絵画は、面と色彩に還元されたアイコン的なものではなく、キャンバスの質感、側面の厚み、塗りのムラやブレも含めた、物質的な強度を存分に孕んでいたんだなぁって実感した
- 関係ないが、Parcelでやってた岡田舜さんの展示がゆるく繋がっていた気がする。「グリッド/ピクセル」という近しい構造でありながら、こうもまた違った佇まいになるんだなぁ、的な
- タブローにおけるピクセル表現について、今年の年末にリサーチや制作で関わったものがお披露目できるかも。アートってか、もう少しライトなものだけど
映像の展示
- 圧縮のブロックノイズ、なんとかお手伝いしたい
- ループ時のちょっとしたラグとか
- p5.js系のものでも、
exportPNGしつつも、フレーム落ちをしているものがあった- メディアプレイヤー側の問題? それとも、書き出し時の問題?
- ラグさも含めて「コンピューターで実行されている」アウラなのでは by 久保田先生
- 確かに…わかる
- けど、プリレンダ―という形で計算資源を先取りするんであればそのラグさまで取り込む必要はなかったのではないか
- しかも
exportPNG分のオーバーヘッドもあるわけで…
- しかも
フォーマットや圧縮コーデックによるスタイルの誘導
- フルオンチェーンだとピクセルアート、あるいはSVGが中心
- SVG Filters、d attributeの範疇でグラフィックを考えさせられる
- 映像作品も、圧縮形式がインデックスカラーか(Gif、あとWebPでもそんなオプションがあった気が)、あるいは離散コサイン変換か(H.264, JPEG)
- 先に納品形式が決まっていると、そこに無意識にグラフィックが誘導される
- Eharaさん: あえてそこを訊かないことにしている。持ってかれるから
- DCTだと、pixel-perfectでカリッとした表現(ディザとか)を思いつきづらくなるよね
- 川野の作品は、モンドリアンを、一切のボケもないドットマトリクスにブチ込んだところに、カリッとした気持ちよさがあった気がするので、それを受けて作られた作品が H.264 圧縮でぼんやりしていたのは惜しい気もした
- NIIOMIさん: gen artもフルオンチェーンも、ある種の縛プ、競技性のもとに成り立っている
- プロセッサが今より強くなって、フルオンチェーンに載せられるガス代あたりの情報量や、RasPiが16ms内で実行できる計算量の上限が青天井になったときに、どう縛プを設けるか
- ガス代さえケチらなければ、フルオンチェーンでどんなことも出来るわけで。フルオンチェーン純粋主義者の間ではどういった美学があるのか。雰囲気、何Gweiくらいが「節度ある」ガス代なのか
- どう縛プを?
- demopartyの4KBのようなルールを設ける
- あるいはAmiga部門のような、ハードウェアで制約を設けるか
- そうした参照点とされるような、これぞというコンピューティング環境は無いよね。強いて言うならコンソールゲームのハードウェアとか...?
ラスターディスプレイで展示をするということ
- Aizawaさんのはpixel-perfectだった。Patterns of Flowは紙の上に恣意的に引かれたグリッドを単位としたのに対して、Aizawaさんはラスターディスプレイのメディア固有性にしゃんと応答していたように感じられたし、展示でしか観られないものになっていたような
- Pixel-perfectだったのはあとSenbakuさん? とてもぱきっとしていた
- 「光るグラフィック展」の萩原さんの作品を思い出す
- 制作時 アス比を指定されたのか、画面解像度を指定されたのかは気になる
- 川野のPatterns of Flowは、解像度は任意。レスポンシブな作りをしている(が、
NFTの教義
- NFT化するときに
- コードだけをアップするか、出力データだけをアップするか、出力データとともにコードをgenerativeたることのproofとしてアップするか
- 映像の場合、ロスレスか非可逆圧縮か
- demosceneは実行ファイルそのもの
- 出力データを別送するという概念が無い
- IPFSやNFTプラットフォームにもアップしきれないようなロスレスデータをバイヤーに別送するという手法もあるみたいだけど(by Eharaさん)、ブロックチェーンとのつながりは断たれる
- 個別対応なので、secondary以降の市場で売れた分に関して、同じ対応ができる保証は無い
- みんながオリジナルにアクセス出来る。だけどその所有権(ある種のプロトコルで紐づけられたウォレットIDの持ち主)の証明は自律分散的に為される、というところにNFTのエッセンスがあったのでは
- オリジナルデータのハッシュ値をチェーンに乗せることで、「ブロックチェーン上から(IPFSアドレスなどの形で)オリジナルデータにたどり着くことはできないが、その逆「そのデータがそのNFTのオリジナルか」の証明は出来る
- そういう作品もあるのでは...? とのこと (NIIOMIさん)
- 意外と「みんながオリジナルにアクセス出来る」はNFT文化において大事じゃないのかも
- Raphael RozendaalはNFT以前はそれをかなり前に押し出していた記憶がある
- ドメインが売れても、そのドメインをバイヤー以外に非公開にはしない
- Raphael RozendaalはNFT以前はそれをかなり前に押し出していた記憶がある