グリーンバーグ批評選集 (メモ)

伊藤ガビンさんに買いなさいとの
西洋の絵画芸術にとって明度対比、色彩の明と暗の対立は、自らを他の絵画芸術の伝統から最も区別するあのもっともらしい三次元性のイリュージョンに対する主要な手段であり、それは遠近法よりはるかに重要なものである。
P.128
芸術における独創性がいかに人の心を掻き乱し離反させるものであるかということ、趣味に対する独創性の挑戦が大きくなればなるほど、いかに趣味はますます頑なにそれに抵抗するようになるかということ
P. 130
ジャン・デビュッフェ🇫🇷
- 「生の芸術(low art)」
- アール・ブリュット運動(= アウトサイダー・アート)
- 「帰する場所なき再現性」
- 密かな低浮彫(レリーフ)
Bay Area Figurative Movement
サンフランシスコのアーティストのグループで後世された、
Abstract Expressionism
Homeless Representation
50年代、抽象表現主義の絵画の多くが、3次元空間へのイリュージョンへと回帰、だけど完全な回帰じゃない。イリュージョンもあり、その絵の具自体のこんもり感、低浮彫性もある。2つの三次元性。
自己-批判のプロセス
個々のジャンルにとって、これ以上削減し得ない基盤的な本質を決定すること。純化。そのジャンルの因習の多くが、無くても良い、非本質的なものであることが露呈していく。
- 本質的なもの: 平面性と、平面性の限界づけ
- 非本質的なもの: 再現性、イリュージョン
絵画をそういうものとして構成するか、ではなく、「良き芸術」を、そうした純化された絵画的なものとして構成するにはどうしたらいいか。という転回。
コンセプション
技量で訓練でもなく、唯一、「コンセプション」だけ。技量、器用さは、もはや質を生み出せない。なぜなら、それがあまりに一般化し、得やすいものになり、そして類型化したから。
P.160 インスピレーションと構想だけが徹底して個々人に属している。その他のものは全て、今や誰にでも入手できるのである。インスピレーションつまり構想だけは依然として、複製も模倣もされ得ない、成功作の想像における唯一の要因である。
「因習的な技量」
新奇差は、独創とは異なり持続力を持ってはいないからである。
うーん、「因習的な技量」(要するに絵の巧さ)を持っていた上で、その自己否定のためにそれ自身を使う、という自傷性があって初めて、素人目には拙く見える抽象絵画に何らかの正統さがもたらされるという考え方もまたしょうもない気がする。ピカソは実はめっちゃ絵が巧かった、みたいな。
俺がジェネラティブ・アートや、デジタル・アートの視覚表象や表面の質感、すなわち「ルック」に先祖返りしたいのって、何ていうんだろう、逆にそういうコンセプチュアル・アート以降の「構想」への過度な比重の置き方が、自然主義時代「「主題」へのそれのように思えてしまうというか。彼らにとって、ピクセル性ってのは、写実主義時代におけるストローク程度に、限りなく精細化しやがて視えなくなるべいものであるし、OpenGLのジェネジェネした筆致は、油画作家が油画の油画っぽさを透明なものとみなしているのと同じ感じに思えてならないというか。そのメディウムへの意識の低さを、コンセプチュアル・アートを援用することで正当化しているような気がする。
いや、単にルックとして「美的」なものを作らなくてはいけないって話でもないわけ。ともすると、こういう素朴さに陥るわけで。
単に、メタメディア(= メタ絵の具、メタキャンバス、その物性自体をソフトウェアによって可塑的に変化させ得る存在)性を無視して、結局一つの具体的な「様式」に収まっていることが我慢ならない。
異世界モノ、換字式暗号
同じことが、死んだ雉の代わりに羽根をむしられた鶏を、花瓶の花代わりにコーヒー缶とパイを描写するのに没頭している画家たちにも当てはまる。 グリーンバーグ批評選集 P.163
湯浅
そうです。ホント、嫌なんですよ。異世界って言いながら地球っぽいアニメって。
小黒
ああ、はいはい。「これって単にヨーロッパじゃん」みたいな。
湯浅
そうそう。普通にバーがあって、バーボンみたいなのが置いてあったりとか。未来風の携帯電話っぽいメカを使ってたりとか。そういうのが嫌だったので、地球とは全然違う世界を作れればなあ、と思ってたんです。フランスのルネ・ラルーの『ファンタスティック・プラネット』とか、わりと唯一に近いぐらい、全然違う世界を構築してると思うんですけどね。
WEBアニメスタイル | 『カイバ』湯浅政明監督・公開インタビュー(1)
ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学
「新奇さ」「異世界」を銘打っておきながら、構造を留めたまま、その表象だけを張り替えたものに対する反感。不思議な異世界の言語、と銘打っておきながら、だんだんただの換字式暗号暗号だと分かってくる残念さ。→ 7 Days to End with You
俺たちが住む現実の圏から、作品世界の圏への「関手」が見て取れてしまった時点で、異世界は異世界でなくなる。
ただ一方で、その構造の内側での整合性を留めるにせよ、あまりにその構造が僕ら側の構造と異なるものになれば、そっから何も読み取れなくなってしまう。
文化に携わる界隈、比較的ネオフォビア・フォビア(新奇なものを嫌悪する人扱いされることへの嫌悪)な気が強いので、老害やお気持ち表明の烙印を押されないためにすべての新しいものを歓迎する他ない、というそれはそれでお気持ち表明層以上に反射的で頑迷な態度に追い込まれている層も多い印象がある。
ネオフォビア・フォビアはネオフィリアに反転し得ない。むしろネオフィリアとしての嗜好を満たし続ける為に、シーンの駆動力を不可逆にスポイルするしぐさや、収斂進化を促すミームの跋扈には、定義上新奇なものであっても分別を持ってムカつく、という立場。
というか、ほどよい「分別」のあり方もまた、利害関係者が各々の立場でお気持ち表明することで、環境間の競争によって最適化されていくメタ変数の一つなので「どういう行いが文化を豊穣にし、あるいは焼き畑にするか」について分別があるという思い込みは傲慢、という思い込みこそ、実はそのレベルでの自由競争を妨げている
制作支援による恩恵と、職能の価値が(評価)経済的、実存的に揺るがされることのマイナス分とを差し引きしたうえで損に感じるのなら、国産スタートアップの将来を一絵師の立場で慮る必要もなくムカついていいと思う そこを勘案できなかったのはそれこそ関係者の「天然さ」であり落ち度な気もする。