『ヴァナキュラー・ウェブ』試訳 (メモ)
このページは個人的なメモ書きです。何かあればご連絡ください。
This is a rough Japanese translation of Olia Lialina's essay ”Vernacular Web” (2015).
I haven’t gotten her permission yet, but I went ahead and translated it anyway because it was introduced in HTML Day 2025 Tokyo and I thought it's worth to be known among the web community in Japan.
- HTML Day 2025 Tokyoで北千住デザインさんが紹介してらしたので、雑に翻訳
- 日本語圏でHTML Energyについて最初に言及されていたのは、ぼくの知る限り hysyskさん
- この辺のだれが紹介したかのクレジットはちゃんとしたい
- うろ覚えなんだけど、Cyberfeminism Indexは庄野祐輔さんが最初期に言及されていたけど、別の方に教えたところ、その方がその道の論者みたいな扱いでイベントに登壇されていたのを悲しんでいた、って話を聞いた
- まだ許諾は取ってません
- こういう翻訳、共同編集でやりたい
- うーん、 https://scrapbox.io/lookdev でやったほうがいいのかもしれない。
- これこそ、 https://neocities.org/ でホストしたほうがいいかも。ヴァナキュラー・ウェブについての論考がヴァナキュラー・ウェブ的なデザインのページに載せられているという自己言及性がエッセンスなので。
- あまり聞き馴染みのないvernacularを「土着の」っていう風に訳しても良かったのだけど、建築系を齧っている人なら「ヴァナキュラー建築(vernacular architecture)」を連想できるので、あえてそのままカタカタにした。
- 訳注でのリンク切れは2025年8月上旬時点
土着民と蛮族たち
わたしがWorld Wide Webに関わり始めたころ、ただいい感じのものを作っていた。それは特別で、他と違っていて、なにより新鮮な感じがした。90年代半ばのウェブにあったものとは、まるで別物だった。
こんなふうに話を切り出すのは、自分の貢献をひけらかしたいからじゃない。ただ、わたしがいくらアーリーアダプターだったとしても、「文明の利器」を享受できるくらいには遅れて参入したということを強調したいだけだ。そのときにはすでに、構造的、視覚的、そして聴覚的な文化が確立していて、それをいじり倒すことも、壊すこともできた。そこには「他と違うものをつくる」というものも含めて、いろんな選択肢が存在していた。
で、その文化ってなんだったんだろう? 90年代のウェブとは何を指していて、それはいつ終焉を迎えたのだろう?
はっきり言うと、あの頃のウェブはまぶしくて、豊かで、パーソナルで、のんびりしていて、発展途上だった。偶然の繋がりと個人間リンクに満ちた場所。それぞれのページは「明日にはより早くなるはずの回線」と「より高性能になっているはずのコンピューター」に期待をかけて作られていた。ある意味では、それは土着民によるウェブだったし、あるいは蛮族のウェブとも言えるかもしれない。少なくとも、アマチュアたちによるウェブだった。それらはやがて、ドットコム会社の野望、プロ向けのオーサリングツール、そしてユーザビリティ専門家たちによるガイドラインの波に飲み込まれていくことになるのだけど。
この変化を「1998年に終わった」とかではなく「やがて」とわたしが書いたのは、そこに病も死も、別れの儀式もなかったからだ。アマチュアのウェブは死んだわけじゃないし、消えてしまったわけでもない。単に隠れてしまっただけだ。検索エンジンのランキングアルゴリズムが古いアマチュアのページを限りなく低く評価してしまうせいで、それらはほとんど目に触れなくなった。文化機関も、ネットアートやウェブデザインほどには、そうしたページを収集したり紹介したりしてくれない。
それに最近のWWWは整備され、ガチガチに管理された空間になってしまったから、当時みたいな勢いで新しいアマチュアページが現れることもない。「〇〇のホームページにようこそ」なんて、ただ世界に向けて発信するためだけにウェブを始めるような時代じゃ、もうない。ウェブは多様化し、状況は変わった。そんな古めかしい仕草する理由は、もはやどこにもない。履歴書は会社のページか求人ポータルに投稿される。日記はブログで管理されるし、旅行写真はiPhotoにアップする。どんな趣味にも質問にも、専用のコミュニティがある。
だから、わたしはアマチュアによるウェブを過去の遺物と呼んでいる。でも、美的観点からいえば、いまだに強烈な過去だ。前世紀のネットを知らない人でも、検索結果の最初の10件しか見ないような人でも、あの時代の兆しや記号には出会うことがある。なぜかって? 皮肉にもユーザビリティの専門家たちが、あの時代の要素やスタイルを反面教師としてパロディ化し、収集してきたおかげだ。
ファッションの世界と同じように、ウェブデザインにも再流行がある。見た目のレベルではそれが起きている。去年、今どきのウェブデザイナーたちが、壁紙や飛び出し文字を再び取り入れた折衷的なスタイルへと戻ってきたのを目にした。そう遠くない未来には、
ここ数年、わたしはこうした失われつつある過去の美学を前面に出した作品を作ってきた。あれこれと偉そうにやっていた初期の自分へのささやかな詫びとして、そしてヴァナキュラー・ウェブの美しさを現代アートの中に保存するために。でも、まだ道半ばだ。
MIDIファイルやGIFアニメを集めてアーカイブを作るのはたしかに大事だ。でもそれと同じくらい重要なのは、問いを立てることだ。あの見た目、あの音、あのナビゲーションは、何を意味していたのか? どんな文化やメディアの架け橋として機能していたのか? どんな願いを背負っていたのか? 何を解決して、何を新たに問題にしたのか? ここからは、その中でもいくつかの要素にまつわる、少々込み入った運命について語っていきたい。
「工事中」






「工事中」標識は、初期ウェブを象徴する強力なアイコンだ。これらを目にすると、「情報ハイウェイ」の建設を科学者やエンジニアたちが終えた直後の輝かしい時代のことを思い出す。そこでは、市井の人びとが自前の道具を持ち寄って、自分の道や交差点ををせっせと作っていた。どこもかしこも工事が行われていて、準備中なものだらけ。リンクはよく切れていたし、仮につながっていても空のページだったり。リンク切れや不十分なナビゲーションに注意を促すサインがそこかしこにあった。
そうやって少しずつ、人びとは自分のページを「ちゃんと動くウェブ」へと育てていって、やがてわざわざ警告を出す必要もなくなっていった。特に、道路標識のような形で情報不足を伝えることは減っていった。でも、それで「工事中」画像が消えたわけじゃない。それは警告から、ページの拡充を約束するものへと意味を変えていったんだ。言ってみれば、言い訳と招待状のハイブリッド。中身がスカスカのページにも、ちゃんと機能するサイトにも登場して、「まだまだ伸びしろあるんで」というサインとして使われるようになった。そのうち「いつも工事中(Always Under Construction)」なんて、新手のサインまで現れるようになった。


「いつも工事中」っていう言葉は、このサイトは永遠に完成しないって意味じゃなくて、むしろその逆だ。誰かがちゃんとこのサイトの面倒を見てるから、また来たときにも何か面白いものがあるかもよ、っていう合言葉だった。
ウェブは常に変化して発展していくものだという考えを強調するという点で、これはとても重要なメッセージだった。でも、あの標識自体は良くなかった。「壊れた道」や「通行止め」みたいなイメージは、継続的な発展とはまったくかみ合ってなかった。1997年ごろになると、「工事中」標識はただの意味のないフッターになって、冗談のネタとして消費されるようになった。ついには大手メディアまで「ウェブは常に工事中」なんて言い出して、みんながそれをどこにでも貼るのをやめた。


これらのバナーは、(W3Cコンソーシアムの言葉を借りれば)「相互運用性のあるウェブページをきちんと作ったことを読者に示す」ためにあるバナーらしい。言い換えれば、このサイトの開発者はウェブを新標準に合わせて作り直し、「世界最大のゴミ山」を、エラーのないクリーンで明快なコード環境へと変えようとしていますよ、という意思表示だ。
わたしはこうした流れ自体にはそこまで賛同はしない。でも、XTMLバナーの見た目はけっこう好き。あれには、エンドユーザーが開発者であることの強み(the power of end developers)がしっかりと示されているし、自分自身のサイトをつくることが、ウェブ全体の(再)構築への関与でもあるんだという前向きな意思が可視化されていると思う。
星空の背景画像
ヴァナキュラー・ウェブを象徴する要素として、星空の背景画像、通称「星空の夜(Starry Night)」がある。黒や濃紺、紫をベースに、またたいたり、あるいは静止したままの小さな光の粒が敷き詰められている。初期のウェブ制作者たちの間でとても人気だった背景画像で、たぶんその彼ら彼女ら多くがSFやコンピューターゲームのファンだったことにも関係しているんだと思う。


当時の人たちが、ウェブに自分たちの好きな作品に出てくる未来的な要素を重ねようとしたことには、単なる趣味の問題だけじゃなくて、新しいメディアに託された希望がしっかりと裏打ちされていた。インターネットは未来そのものであり、わたしたちを未知の次元へ、あるいは他の銀河系へと近づけてくれる存在だった。だから、そのビジュアルも Star Crash(訳注: 1978年に公開されたスペース・オペラ映画) や Galaga(ゲーム)のように、その希望にふさわしいものでなければならなかった。コンピュータの内部みたいでもいいし、どこか遠くの空間でもいい。とにかく、宇宙的な壁紙(space wallpapers)はインターネットを「特別な場所」に見せてくれた。そこは明らかに、他のメディアには果たせない使命を帯びた空間(space)だったんだ。
Andrew Glazebrookによる、Starcrashスタイルの宇宙的ビジュアルの例
Galagaのプレイ動画。画像のリンク先(訳注: すでに切れている)を見てもらえばわかるけど、こうした星空の背景画像のいくらかは、実際にこのゲームをキャプチャしたものだった
星空の背景画像の素晴らしい点は、たった2色、ファイルサイズにして0.5KBくらいで、一瞬でページに未来感を与えられることだった。つまり当時の帯域の問題までクリアしてくれていたわけ。
でも、この星空の背景画像の悲劇は、それがどんなに壮大な見た目でも、実はどんなページの内容ともそぐわなかったということだ。科学系の文章にも、個人のホームページにも、映画館の上映スケジュールにも、探査機が撮った画像ギャラリーにも、全然合っていなかった。宇宙船でさえイマイチ本物っぽく見えなかった。そもそも空を背景に写真が載っているのは変だし、宇宙に文字なんて存在しない。仮にあったとしても、すごく読みづらいことになる。「i」の上の点が星なのか、「%」記号なのか流れ星なのか……すぐにこんがらがってしまう。
これまでになにかしらデザインをしたことがある人なら、星空の背景画像が唯一映えるのは、他に何も載っていないときだけってことは身に沁みて分かっているはずだ。前世紀末に作られたページのリニューアルを頼まれたら、まず最初にすることはstarbck.gif (宇宙の背景.gif)を取り去ることだった。
最後の(だから記録にも残っている)星空除去手術は2004年に執刀された。以下は、90年代スタイルをまとった某オンラインビデオショップのスクリーンショットだ。
リンク(訳注: 切れている)で今の見た目を確認することができる: http://www.video-online.net/
最後の生き残りのひとつが、http://www.kinoservice.de だ。ドイツのシュトゥットガルトとフランクフルトの映画上映情報を毎週更新しているサイトだ。このURLを打ち込むたび、あの星空の背景画像がいつの間にかリニューアルで消えているんじゃないかってヒヤヒヤしている。(訳注: ドメイン自体が失効している)
日が経つごとに、「宇宙的なウェブの未来」への希望は薄れ、現実がその場を奪っていった。ニュースサイト、オンラインマガジン、電子オフィス、オンラインビジネス、そしてその他の “真面目な目的” たちが。「星空の背景画像」も、それに反比例するかのように減っていた。かつては未来の象徴だったそれが、今やウェブ黎明期のシンボルとして見なされるようになった。意味は真逆になった。未来から過去へ。
それはまた、AnniやJensのような人たちが数ページだけ作ってそのまま放置した、あの大勢のアマチュアたちの存在を思い出させてくれる。
この画像が連想させてくれるものはとても強烈だ。最近出会ったのは、車の「ルノー・メガーヌ II(訳注: リンク切れ)」のプロモーションサイトだ。プロによって作られたもので、宇宙船のような車体デザインに合わせたデザインなんだけど、まるでルノーのファンが作ったかのように見える。なぜなら、たとえFlashサイトでも、「ウェブサイトに星空を使う」という行為そのものが、宇宙らしさというよりアマチュアっぽさを感じさせてしまうからだ。
「星空」は、ウェブ文化のメインストリームの外側でこそ輝く。だからこそ、サブカル、オルタナ、カウンターカルチャー的なものと馴染む。「反〜」という接頭辞とも相性がいい。たとえば、http://unamerican.com は、ステッカーのショップであり、反米思想のポータルサイトでもあるんだけど、星空がその理念にある種の説得力を与えている。作者は地球の外から、客観的に状況を俯瞰している、そんな立ち位置を演出している。
わたしが教えているメルツ・アカデミーのプロジェクトページ(訳注: リンク切れ)でも、宇宙的なモチーフをこれでもかと使っている。そこが完全にわたしの空間であり、学校のコーポレートアイデンティティとは一切関係がないということを強調するためだ。
そのほかにも、こんな事例がある:
- Art.teleportaciaによる、星空背景にインスパイアされた作品として
- Gravity
- Some Universe(訳注: リンク切れ)
- 『Raiders of the Lost ArtBase』展(訳注: リンク切れ)のデザインなどがある。
- http://artificial.dk でのネットアート展『Net Stars』。わたしのインタビュー『ウェブの消えゆく星たち(Stars Fading on the Web)』も掲載されていて、星空背景に関するさらなる考察が読める。
さらに、2001年に始まった、きらめきをテーマにした種類豊富なコレクションもある。このコレクションの運営者は、わたしのこの記事を読んで意見を異にした:
「個人的には、星の需要は今まで以上にあると思います。いや、昔ながらの星空背景そのものじゃなくて、“星そのもの”のことです。世界中のデザイナーが、アニメーションや静止画に星を使ってギラギラとしたきらめき効果を出しています。星をフレームごとに違う位置に配置することで、画像を輝かせるんです。この興味は今後もなくならないでしょう。
(…)
もちろん、昔ながらの、つまり最初期の星空の背景が「最も望ましい背景」としての地位を失ってきていることには同意します。ただし、高品質な星空背景はその限りではありません。むしろ高品質な星空背景は、今ではより求められていると思います。
フリーのウェブ素材コレクション
アマチュア・ウェブから受け継がれたのは星空背景だけじゃない。紙、ガラス、水、木目といったテーマも後から登場した。背景画像のコレクションが次々と作られ、さまざまなトーンを演出したり、結婚式やクリスマス、ハロウィンといったイベントを祝うために使われたりした。テーマの幅は、音楽からXファイル、ヴィクトリア朝のベリー・ベイビー(訳注:ヴィクトリア朝風の赤ちゃんにイチゴやブドウなどの果実モチーフを加えたスタイル)まで実に多様で、それぞれに愛すべきところがある。
こうした初期のウェブ素材コレクションを振り返ってみると、当時あちこちのページに使われて有名になった画像がいくつか目につく。虹色の区切り線、“New!” のマーク、そして完璧なアニメーションでカルト的な人気を誇ったフィリックス・ザ・キャットだ。



これらのフリー素材集の中には、ウェブ黎明期の時代性を思い出させる要素もある。たとえば「戻る」「進む」ボタン。これは、ブラウザの標準機能を無視して、自作サイトにナビゲーションを組み込もうとした非プロ向けデザインセットの一部だ。というのも、そんな大事な操作を、半年ごとに新バージョンが出るブラウザなんかに任せておけるか! というわけ。






同じことは「ブレット」と呼ばれる小さな画像、つまり標準のHTMLリスト要素を置き換えるために使われた装飾アイコンにも言える。アマチュア・ウェブの時代的特徴として、構造より表現を優先する姿勢があった。初期のウェブ制作者たちは画像を使えるという可能性に興奮し、地味なリストを派手なグラフィックで喜んで置き換えていたのだ。





- 非順序リスト
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「推奨ブラウザ」バナーの数々が思い出させてくれるように、どのブラウザで見るかという選択は、当時のウェブ制作者にとって美学的にも思想的にも大きな問題だった。


http://sillydog.org/netscape/now.html (訳注:Netscapeに乗り換えよう!バナーの一覧)
ロシア語圏のインターネットユーザー、正確にはキリル文字を使う書き手たちにとって大きな問題だったのが、膨大な文字コードの種類だった。(訳注:筆者のオリア・リアリナはロシア出身)ロシアのサイトのトップページでは、適切な文字コードを選ぶ必要があった。これらの文字コード選択ボタンはデザイナーにとって「遊び場」のようなもので、多くが独自のカスタマイズを施して楽しんでいた。
1996年には、やがてロシアNo.1ウェブデザイナーになる人物が、異なる背景色や好みに合わせた20種類の文字コードボタンセットを作成する。数ヶ月のうちに無数の.ruドメインに広まり、ロシアのウェブ風景に定着した。

けれど、これらの寿命は短かった。1998年末までに文字コードの選択は自動化され、ボタンはページから消えた。伝説的な文字コードボタンのコレクションも archive.org/…/free/buttons/ という歴史の彼方へと消えていった。
巨大なMIDIコレクションは、90年代半ばのウェブがどんな音を奏でていたかを思い出させてくれるが、それについてはMIDIの章で詳しく扱う。
フリー素材コレクションは、ヴァナキュラー・ウェブの魂だ。皆が無料画像を使って自分のページを作り、そして皆がそうした素材集づくりにも携わっていた。多対多の関係が本当に機能していた。自分のサイトを作ることとコレクションを作ることは、多くの人にとって並行したプロセスだった。初期のウェブはスキルよりも精神性が大事だった。頒布することは、創造することに劣らず重要だった。
ウェブページがモジュール構造で成り立っていることから、ウェブ画像の素材集を含まないサイトでさえ、実はそれ自体が素材集と言っていい。ページ上のすべての要素、すべての線や図形、ボタンや音声は独立した存在で、ブラウザから直接でなくても、ソースコードを見てファイルのURLを探せば簡単に抽出できる。
しかしユーザーが「作り手」と「受け手」に分かれてしまうと、フリー素材集は両者にとって魅力を失っていった。1997年頃にはプロのウェブサイトがアマチュアから距離を置き、モジュール設計とは正反対の方法をとり始めた。グラフィックデザインのの勢力が圧倒的に台頭し始めたのだ。(あまりに急速だったため、多くのデザイナーや研究者はウェブデザインをグラフィックデザインの子分のように考えているほどだ。)Photoshopでデザインを制作し、ブラウザ向けに調整する。ページはブロック構造のもと作られ、スライス機能で小さな画像に分割される。しかしこれらの素材はモジュール的とはいえない。なぜなら、それぞれが互いに組み合わさることで初めて機能するからだ。スライスの一部を抽出したり再利用したりすることは作者にとって無意味で、望まれてもいない。
典型的な例としては、1997年にArtemy Lebedevが手掛けたMobile Telecomのサイトがある。これはPhotoshopで作成されスライスされた画像そのものだ。

これはロシアで最初期にプロが手がけたコーポレートサイトの一つだ。瞬く間に話題を呼び、何度もパクられることとなった。。Lebedev はこのコピーの数々を展示するクローン博物館を持っている。これはとても興味深い一例で、パクった側はおそらくこれをある種のテンプレート、つまり「プロフェッショナルなサイトはこうあるべし」というガイドラインとして見ていたんだと思う。
90年代後半、多くの人が自作・発掘した素材集へのリンクを削除し始めた。ただ、削除されたのはリンクだけで、実際のコレクションはまだサーバー上に残っている場合も多い。でもそうなると見つけるのが難しい。リンクがないなら、どうやって探す? わたしのお気に入りの素材集も例外じゃない。リンクがないので、ここで紹介しておくべきだろう。
とはいえ、フリー素材集は過去のものだと一般化するのは誤りだ。「私のウェブ画像素材集(my collection of web graphics)」で検索すれば、レトロなものに限らず今でもたくさんの個人の素材集が見つかる。(ただし、「私の(my)」は非常に重要なキーワードで、これを省くと商用サイトばかりヒットする点には注意。)こうした素材集は今も更新・改良されていて、2001年には復活の兆しすらあった。9.11後、「アメリカに神の加護を(God Bless America)」セクションが多くの米国ユーザーの私的・公的ライブラリに追加されたのだ。スキルを問わず、自分のホームページで愛国心を示したい人々によって。

http://snogirl.snoville.com/MemorialIndex.html
http://www.geocities.com/Heartland/Plains/4601/patriotic.html

http://www.geocities.com/Pentagon/9787/maingraf.html


「XHTML準拠」バッジは、フリーボタン素材制作者にとっての新たな市場でもある。まだ種類は少ないが、着実に増えており、新しいデザインスタイルに合うバリエーションが求められている。
素材サイトほかにも、 http://www.gifsamlung.de/ 、 http://juanna.ch/, http://gifwelt.laureon.org/ 、 http://gif.10000.ru/ などがある。(訳注:どれもリンク切れ)これらは、趣味的だった素材集制作をより高いレベルへと引き上げた一例でもある。ライブラリは膨大で活動的だし、フォーラムやゲストブックも活発だ。こうしたサイトは、アーカイブを行う人々や、既存の素材を使ってモジュール型のウェブサイトを作り続ける人々にとって貴重な情報源だ。たとえば、ロンドンを拠点にするメディア編集者のカップルが、そうしたグラフィック素材を使って結婚式のウェブサイトを作ったように。
2004年、イギリスのデザイナー Bruce Lawson らは、CSS をウェブ美学の標準として証明する共同プロジェクト「css zen garden」を始動した。彼の「GeoCities 1996」テーマは、パブリックドメインのGIFで構成されており、真正の魂(real spirit)は、どんな標準規格もうまくすり抜けていくことを見事に示している。
追記(2007年2月22日):現在、こうした素材サイトの大きな話題は「新世代のアクセスカウンター」を提示することだ。
<リンク切れの何らかのカウンターの画像>
こうしたカウンターは、あなた自身にも訪問者にも、子どもの年齢や出産予定日、次の結婚記念日やクリスマスまでの残り日数などを知らせてくれる。ロシアの若い母親向けフォーラムでは、1つの投稿やコメントに複数のカウンターが署名として表示されているのをよく見かける。
リンク
World Wide Webは常に変化してきた。見た目が2年前、5年前、あるいは10年前と違って見えるって話をするとき、それは思想的にも違っていたってこともセットで語らなきゃいけない。アーリーアダプターたちの実力、熱心なアマチュアたち、ドットコムバブルの幻想、そして第二波(=ブログ文化)による大衆の参入。それら全部が、ウェブの形作られ方と繋がり方を少しずつ変えていった。見た目の違いは、そうしたアーキテクチャの違いがにじみ出てきたに過ぎないってわけ。
一旦ヴァナキュラー・ウェブの見た目は脇に置いといて、ここで「それらがどう機能していたか」について考えてみたい。そもそもウェブはどのような原理のもとそれは育っていったのだろうか? もっとも明白な答えは「リンク」だ。とにかく大量のリンク。どのページもリンクだらけだった。
10年前には、ほとんど全てのホームページには「外部リンク集」コーナーがあった。ウェブに参加する皆が、ホームページを通してウェブという環境を手入れし、そしてインフラを整備することを個人的なな責務のように感じていたからだろう。「多対多」的な価値観は、リンクの貼り方にも現れていた。他のサイトにリンクを貼ることではじめて、ホームページは完成する気がしたものだった。
リンクは、関連する情報への、あるいは全く無関係な世界への入口として機能していた。情報を探すのに時間はかかるけど、その分見返りも大きかった。リンクを辿ることで、当初探し求めていたもの以上のものに出辺りした。
ヴァナキュラー・ウェブは、リンクがもたらす力に取り憑かれて、少し行き過ぎることもあった。リンクだけで構成されたページ、分類もされていない注釈リンク集、ウェブリング(訳注:ウェブリング - Wikipedia)、Netscapeのブックマークをそのまま公開したHTMLファイル——そういったページがごろごろあった。
でも、90年代後半あたりから、リンクはそこまでイケている(hip)ものじゃなくなっていった。検索エンジン、ポータルサイト、ディレクトリ型検索エンジンが、リンク集の役割を肩代わりするようになった。検索は早くなったけど、驚きは減った。秩序や階層を求めるあまり、ウェブはまるごと姿を変えてしまった。外部リンク集が一切ないサイトが当たり前になり、それが今のメインストリームなウェブの「看板」として機能している。ユーザーは検索エンジンの間を進む/戻るするだけ。
リンク——かつてウェブの移動手段として当然の存在だったものが、そのインフラ的な意味合いを失ってしまった。
今日のウェブでは、精緻な検索エンジンに代わって、ブログが「意外なリンク」の供給源となっている。これは進化の道筋として、面白い逆説性を孕んでいる。なぜなら、精度の低い検索エンジンの結果を補完するのが人力によるリンクだったからだ。いずれにせよ、リンクが果たす役割は変わらない。それは、ユーザーにとって「知らない場所」への入口を提供するっていうことだ。知らない話題、思わぬ発見やアクション、そして、ディープウェブへと。
MIDI
かつてのヴァナキュラー・ウェブは、無音じゃなかった。凝ったページでは、大概MIDI音源が流れていた。MP3がネットに登場する前は、帯域はとても貴重なものだったし、ページに丸ごと1曲つけたいならMIDI一択だった。ローカル環境でしかホームページをテストしないような人たちにさえ、非圧縮の75MBのWAV音源を扱うのは現実的じゃないって気づいていた。MIDIが使われ続けたのには、こうした力学が存在する。そしてその流れは今でもどこかで生きている。もちろん今なら、Macromedia Flashのように、MIDI並みの帯域で高品質の音を使える技術もある。でもFlashは、MIDIが築き上げた膨大な資産に比べて扱いが難しいという欠点がある。
https://scrapbox.io/files/68969f59ce423155feac8d09.mp3
(https://art.teleportacia.org/observation/vernacular/midi/alicia_keys-falling.mid を変換)
FinalCountdown.mid
jinglebells.mid
一番の理由は、フリーのウェブ素材画像と同じように、MIDIの素材集も山ほど出回ってたからだ。クオリティの高さに加えて、ほとんどがファンメイドという背景もあって、MIDIは自由に集めたり使ったり共有したりしもいいっていう感覚があった。一方で音声ファイルがそうした地位に就くことは無かった。あれは明らかに「ウェブの外側」から来た異物だった。むしろCDとやラジオの世界の住人だ。でもMIDIは、最初からウェブという環境に馴染んでいるような、そんな雰囲気があった。
http://www.bierstall.de/midi/start.htm
http://www.ezgeta.com/midi.html
http://www.steliart.com/web_designs_midis.html
http://homepage.ntlworld.com/curly.johnson/midis.html
http://www.saturn-soft.net/Music/Music1/MIDI/Chanson/Menu.htm
MIDI素材集が画像素材集と違ったのは、それが需要過多だったということだ。GIF画像みたいに、ウェブページのために音楽を作るという文化はそもそも存在していない。その代わりにあるのは、有名曲をMIDI化したカバーだ。MIDIファイルの出来は、MIDIフォーマットという制約のなかで、原曲の雰囲気をどれだけ忠実に再現できているかで判断された。
つまり、「ウェブ発祥」の音楽ジャンルやスタイルなんてものは無くて、ウェブ音楽は音の質感でしか判別できない。そしてその質感っていうのは、再生環境ごとに鳴り方が違うわりに、いつ聞いてもどこかダサかった。
どうしてこんなことになったんだろう?
MIDI規格ができたのは1983年。もともとは、シンセやサンプラーのような電子楽器同士でデータをやり取りするために策定されたい。その中には128種類の(グランドピアノ、スティールギター、ドラムといった)標準楽器が定義されていて、そのそれぞれには固定のIDが割り振られていた。
つまり、あらかじめ決められた音源パレットを使うのがMIDIの仕様だ。MIDIファイルそのものは音の録音データを含んでいなくて、どのタイミングでどの楽器を鳴らせっていう指示だけを書いた楽譜にすぎない。実際どんな音が鳴るかは、再生する側に組み込まれた音源次第だ。ウェブ音楽の場合は、サウンドカードやソフトウェア・シンセサイザー、あるいはAppleのQuickTimeの性能にかかっていた。これはHTMLが「こういうふうに表示してね」という指示書きだけを渡して、実際の描画がブラウザ任せなのとも似ている。

1983年に標準化された楽器音源を使ってる時点で、MIDIの音は本質的にイタロ・ディスコ(訳注:80年代にイタリアで生まれたダンス音楽)で止まってる。新しくて刺激的なサウンドが出てくることはない。あるのは、古い音の焼き直しだけ。というのも、新しい音を追加すると、既存のMIDIファイルとの互換性が崩れてしまうからだ。ソフトウェアベンダーが「トランペット」の音を勝手に「海王星っぽい謎のファンキー音(honkashizzle)」なんてものに差し替えたら、そのトランペットを使っているMIDIファイルすべてが意図しない響きになってしまう。だから選択肢は一つ、すべての最小公倍数に合わせるしかない。トランペットの音は、ジェームス・ブラウンの『セックス・マシーン』にも、リチャード・ワーグナーの『ワルキューレの騎行』にも、どっちにもハマる感じで鳴らさなくちゃいけない。いや、あえていうなら、どっちも「平等に」ハマらない感じで鳴らさなくちゃいけない。
結果として、ほとんどのMIDIファイルは「誰かが自宅の電子オルガンでヒットソングをこっそり演奏してる」みたいな印象になる。実際にこんな音が鳴ってるのは、村の結婚式とか、ウサギ飼育愛好家の年次集会くらいだろう。
MIDIは、ユーザビリティ専門家にとってこれ以上ないくらい格好の的だった。ほとんどのユーザーにとって気が散って、鬱陶しいものだと見なされていた。特に、CDを聞きながらネットサーフィンしている時なんか最悪だった。
そもそも、ウェブサイトのために作曲されたMIDIはほとんど存在しない。数少ない例外として、伝説的なNetscape 1.1のための『Home』(訳注: 初期ネットアート作品)の作者で知られるミシェル・サミンは、1997〜8年ごろにミニマルなMIDI曲をいくつか書いている。
わりと最近も、2003年末にオンラインコミック『Zombie and Mummy(ゾンビとミイラ)』用にテーマ曲が作られた。
これが結構いいメロディで、音もいい。MIDI規格の制約を理解したうえで、丁寧に作られているからだ。エフェクト無しの「古典的」な旋律後世で、楽器も音で選ばず名前で選ぶという原則に従っている。たとえば「木琴っぽい音」が欲しいとき、今たまたま音が似ているマリンバじゃなくて、素直に「xylophone(木琴)」を楽器名に指定する。そしてHTMLのように、複数の再生環境でテストした上で、微調整までしている。でも、こうした知見がもたらされたのは少々遅すぎた。
というのも、当時登場した流行のブラウザ Firefox は、Windows環境でMIDIを再生できないというバグを抱えていた。しかも開発者たちは、BGMなんて直すほどの価値はないとして放置したんだ。こうして、MIDIは21世紀に生き残る術を失った。ただし、サウンドカードがブライアン・アダムスの切ないフレーズを再現しようと頑張っているのを聴いて、なんか良いなって思うような人がいれば、まだ可能性はあるかもしれないけど。
<以下、未翻訳>
インラインフレーム
W3C の説明を平たくするとこういう意味だ:HTML のインラインフレームとは、1つのブラウザ画面の中に複数の独立したウィンドウ、あるいはたはサブウィンドウを作れる機能のこと。複数ビューは、スクロールやページ遷移をしながら、画面内に特定の情報を表示したままにするというレイアウトを可能にする。たとえば、上に常に固定バナーを表示し、左にナビゲーションメニュー、そして残りのエリアにはそのメニュー操作で切り替えたりスクロールできる本文を表示する、みたいな構成ができる。
W3Cの説明は理にかなっているし、ウェブデザイナーにとっても魅力的なものなのだけど、一般的には依然として素人っぽいもの扱いをされている。インラインフレームは90年代後半にはプロのサイトでもヴァナキュラー・ウェブでもふんだんに使われていて、まさにあの時代を象徴する機能だった。本来ならこの論考で触れるまでもないんだけど、あえて言及するのは2つの重要な理由があるからだ。
まずひとつ目の理由は、インラインフレームがまさにみんなの話題だからだ。HTMLの中でも特段ユニークな要素で、プロもアマチュアも、古参ユーザーも新参も、皆が等しくなにかかしら語れるところがある。なぜそうなったのかはわからないが、ウェブを見たことがある人なら必ずどこかでインラインフレームに出会っていて、皮肉のひとつも口にできる。もはやウェブ民話の一部といっていい存在だ。
「インラインフレームは使うべきか?」この問いが https://designtimeline.org に投稿されたとき、寄せられた回答数は過去最大級だった。千年後、もしこのデータベースを宇宙人(あるいは考古学者)が解読したなら、ウェブとは大量のインラインフレームでできていた、と結論づけるだろう。
ふたつ目の理由は、インラインフレームが非常に特徴的なルックを生み出すことだ。印刷物としてのグラフィックデザインがウェブデザインっぽい要素を参照するときき、このフレーム型のレイアウトはよく使われる。(たとえば Amazonの印刷広告や、新聞の旅行欄に載る格安航空券予約フォームのように)画面をフレーム状に区切る構図は、スコア表示がゲーム画面を象徴したり、コマンドライン上で点滅するカーソルがハリウッド映画におけるハッカーっぽさを象徴するのと同じくらい、ウェブを示す記号になっている。
2003年、Merz Akademie の学生たちは「WWWの最初の10年」を記念して、ウェブ史のランドマークを象徴する物を集めた展示を行った。壁紙画像へのオマージュとして、OB(訳注:ドイツの定番のホーム絵センター)で買った本物の壁紙を巨大なボードに貼り、インラインフレーム風のレイアウトにした作品もあった。シンプルな構造にもかかわらず、それは間違いなくウェブページの骨格そのものだった。


チルダ(~)
よく知られているように、マルチユーザーのUnixマシンでは「~」は「/users」ディレクトリへのショートカットとして使われており、当初はすべてのユーザーが同じ立場だった。名前やニックネームの前に置かれたチルダは、マシンやシステムの権力を示すものであった。あなたはユーザー、そしてゲストであり、周縁的な存在で、あなたはチルダよりも下位のコンテンツだけを所有していた。チルダよりも上位にあるものに対して、何の影響も及ぼせなかった。
チルダはある種の階層構造を象徴していた。ユーザーとインターネットとの関係を可視化していた。URLをひと目見れば、自分にアクセス権を与えてくれたプロバイダや大学、機関が分かった。だからこそ、チルダを取り去ることには意義があった。
1997年、わたしはモスクワのデザインスタジオで働いていた。給料やその他いくつかの条件(たとえば無料のインターネット接続)に加えて、会社は、わたしのファイルを、名前の前にチルダがつかない形で会社サーバーでホストしてくれると約束してくれた。
1年間 www.cityline.ru/~olialia だったわたしのURLは、design.ru/olialia になった。チルダが消え、私はチームの一員になった。チルダをなくすと、その前にある単語との関係はもうはっきりしなくなる。
当時のインターネットユーザーにとっての第二のステップ(今では最初のステップだけど)は、自分の名前を独自ドメインとして登録することだった。技術的には相変わらずサーバー上のいちユーザーであり、権限も特定のフォルダの範囲に収まっているのだが、見た目は違う。「ニックネーム」は、より高レベルのDNSという仕組みによって認証された本当の「名前」になるのだ。
それに、独自ドメインはビジネスの成功を約束するものでもあった。
今では、名前の前にチルダがつくのは特にやっかいだ。なぜならAppleのキーボードにはチルダがなく、「~」を入力するには、AltキーとNキーを同時に押し、離してからスペースバーを押さなければならないからだ。脚注1この「裏技」を知っているですら、覚えていないことが多い。この手間が、古風なチルダを、禁断の果実のようにミステリアスで甘美なものにしている。そしてやがて、チルダはクールで有能であることの印として再び戻ってくるのかもしれない。
実のところ、本当にイケてる人たちはチルダを手放さなかった。
http://www.well.com/~cuba/
http://www.zi.biologie.uni-muenchen.de/~franke/
http://a-blast.org/~drx/
私は、共著者で、このリストの最後の人物にこう尋ねた。「自分のサーバーなのに、どうして a-blast.org の後にチルダを付けるの?」 その答えは「チルダは、私がサーバーコンピューター上の一ユーザーであることを示している。自分とサーバーとの所属関係を明示するのは、自分自身の立ち位置や出自を語っているようなものだと思う。実のところ、URLには面白い関係性を持たせられるんだ。プロジェクトサーバー上の個人ページ、コミュニティの中の一人、友達の友達であること。こうした関係性はURLを“読める”人には伝わるわけで、だから私はできる限り興味深い情報を含めるようにしている。そしてチルダの後にある単語は私のログイン名だ。つまり、自分がログインしたり、FTPやSSH、rsyncだとかを扱える技能があるってことを暗に示しているんだ。」
お分かりだろうか。今ではこの「ユーザー」を指し示す記号は、単なる一般ユーザー以上のスキルの持ち主であることの証明にもなり得るんだ。
**脚注1:**すべてのAppleデバイスがそういうわけじゃなかったみたいだけど
サイモン・ビッグスがこう書いている:
ちょっとした訂正ですが、Appleコンピューターにもチルダ(~)はありますよ。ほら、G4ラップトップで打てました! 英語配列のマシンでは、キーボード左下の ` の上に、Shiftキー入力できる文字として印字されています。
〇〇のホームページでようこそ!
