橋本 麦∿Baku Hashimoto

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Diary

あー

やっぱり美大って、何かしらの創作意欲を持った人が集まってくる。
もちろんそうじゃない人もいるけれど、
そういう人だって面白い趣味を持っていたり、
すっごい絵が描けたり、
やっぱり何かしら凄いモノを持っている。

じゃあ僕に何が出来るかって考えてみたら、

….映像制作の経験が既にある?

….元々理系で、工学系の知識もある?

いや、映像科で映像やったことがあるんだったら十分すげぇじゃん!
って自分に言い聞かせたくなるんだけど、
なんでそんなにビクビクしているかって言うと、
現時点でこれだけの発想力や感性を持っている人達が
自分のアイディアをそのままの形でアウトプットできるだけの
ノウハウや技術を身につけたとしたら、
果たして自分には何が残っているだろう、
って思っちゃうからなんだよね。

僕自身は、自分が作ったりディレクションしてきた作品が
大会や地域でそれなりに評価を得てきたのは
単に技術力があったから、ではなくて
それ以上にアイディアの力が大きいんだ、
って思っていたりする。
勿論それは高校放送局っていうアマチュアのレベルではの話。
僕が目指しているプロの世界では評価される閾値はぐんと高くなる。
あー

ツール

自分では、
何にも束縛されない自由な状態での発想を
出来る限りそのままアウトプットするために、
技術やテクニックを身につけているつもり。

「空中を飛び回るUFO」の映像を
マッチムーブや3DCGを扱えないから、
なんてつまらない理由で諦めてしまうことが
勿体なくて溜まらないわけ。
して僕の場合、ディスカバリーチャンネルやSFモノが好きだったから
頭に思い描く映像はいつも制作する上での難易度が高い映像ばかり。

だから、審査員の方に
技術に走っている、
学生らしからぬ、
的な感想を述べられたとき、
いわれないような無念さを感じてきた。
自分ではそんなつもりはないんだ。
ツールありきで表現を詰めてきたことは一度も無いし、
技術力を見せびらかしたくて映像をしているワケじゃない。
ただ自分の思い描くイメージを
そのままの形で映像化したいために
ツールの力を借りているだけなんだ。
そう心のなかで反論してきた。

だけど、
いざ自分からツールを取り去った状態で映像を撮ってみて、
ああ、
自分っていつの間にか
ツールを使うことを前提とした発想しかできないんだなって
痛感した。
弘法筆を選ばず、なんて言うけれども、
良い筆を使う事に慣れすぎて
100均で買った安い筆しかない状態で、精一杯良い表現を求めてあがくことを忘れてしまったんだ、
とでも言うのかな。(笑

頑張ろー

伝える責任

不謹慎な話かもしれません。

高校で放送局をしていたころのハナシ。

全国大会でドキュメント部門を見ていました。
その時なんだか腹が立ったのが、
テーマが「戦争」だとか「障害のある方」になった瞬間に
その番組をツマラナイと言うのがタブーになること。

大事なことだよ?
社会的問題に対して関心をもたなくちゃね。

そんな無言の圧力に
ただ「とても考えさせられました。」とでも
無難に感想を述べることしか許されない。
あたかも、そのような感じがしました。

別に「戦争」や「障害のある方」というテーマ自体に
興味がないわけではありません。
ただ、NHKのプロの方々のドキュメンタリー番組を
人並みに観てしまっている僕にとって、
高校生が作った番組から得られるものは
ほとんどなかった、それだけです。
(もちろんそのテーマを取り扱っていながら、
独自の始点で切り込んだ、
素晴らしい番組もありました。)

度々耳にする評価。
「高校生が社会的問題についてここまで興味関心を持って調べたとは
素晴らしいことだ。」
そう言えるのは、
高校生という年代を客観的に捉えられる年齢になった大人だからであって
同じ高校生だった僕からは、
だから何?
で終わってしまうものです。
というかそもそも、
それは作品そのものに対しての評価ではない気もします。

僕達って、思っている以上に残酷だと思います。
正直に言えば、
僕は悲惨な戦争の歴史や、
街のバリアフリー化よりも、
iPhone 5の発表の方が気になります。
頭では分かっています。
過去の過ちは二度と繰り返してはいけないこと。
障害のある方々の苦労。
それは一企業の一製品の動向よりも
ずっとずっと重要であると。
ただ、戦争を直接体験していない世代に、
五体満足で生まれ、不自由なく育ってきた僕にとって、
その大切さを「常識」としてでなく、
「本音」として理解することは
とても難しいのです。
それは僕ばかりでは無いと思います。
誰しも、少なくともそういう残酷さを持ち合わせているはずです。
修学旅行にて、原爆について講演が終わった後、
多くの生徒と、そして一部の先生も眠っていたことから考えても。

だから、戦争や障害といったテーマの
「スルーできない」という性質に依存し続ける限り
本当の意味で、見る人の本音に訴える番組には成り得ないと思います。

重いテーマを取り上げるには、
相応の責任を負わなくてはいけません。
それは「視聴者に、その重大性を伝える」という責任です。
正直な話、見ている人全員が、
心の底からそのテーマについて関心があるわけではありません。
そういった人たちを振り返らせて、
メッセージを伝えていくだけの力量が
番組には求められるはずです。
でないと、その当事者の方々に失礼です。
テーマがテーマなだけに、
小学校の頃道徳や社会の時間で見せられたビデオと
似たり寄ったりなまとめでも押し付けて
見る人に「とても考えさせられました」と
表面上で納得させることは容易いかもしれません。
しかし、そうであってはいけない。
番組に精一杯の工夫を凝らして、
本音に訴えかけるものにしなくてはいけない。
全国大会の夏、そう感じずにはいられなかったのです。

                    

上手く文章にまとめられなかった。
共感してもらえるかなぁ、このモヤモヤ感。

シニシズム

時々、馬鹿な考えだけど、
本気でいることが不恰好に映るんじゃないか、
なんて不安になる。
成長段階にある僕が
中途半端な持論を晒したところで、
中途半端な作品をアップしたところで、
所詮「滑稽」の一言で片付けられるのかもしれない。

そんな時、ふと友人が、
「そういうのを冷笑的に見る人は成長しないね。」
と一言。

なるほど。

モーショングラフィックス

小さい頃から、
映画の冒頭に出てくる、配給会社のCGが作りたくて、
CMの最後の1.5秒、企業ロゴのVIみたいなのが作りたくて、
たまらなかった変な小学生でした(笑)

ソフトもないからペイントで縦長の画にフィルムの要領でコマを描いて
Media Playerでバック音楽を鳴らしながら
一画面ずつスクロールした絵を段ボールの上に置いたカメラで撮影したっけ。
だけど肝心の最後の部分で台所の包丁の音が「トントントン♪」って入ってしまって
がっかりしたっけ。

そんな奇妙なフェティシズムは誰にも理解されないわけで、
自分でもそんな事位分かっているつもり。
画面上をぬるぬる動くグラフィックスだけでお腹いっぱいになれるのは
僕がそういう「映像を視覚のみで楽しむ事ができる」人種だからなわけで
ほとんどの一般ピープルは、それだけを見せられたところで
「だから何?」
でスルーしてしまうことくらい目に見えてる。
一般ピープルの感性が低いとか言いたいわけじゃなくて
ただモーショングラフィックスというジャンルが広く認知されていない為に
それを楽しむという概念が定着していないだけ。

だから、今まで何か映像を組むときは
「モーショングラフィックスとしての美しさ」
だけではなくて
そこに常に
「映像コンテンツとしての面白さ」
を加えるようにしていた。
いや、むしろ後者を第一に優先していた位。

たまには
徹底的に「映像美」にだけ拘ったものが作ってみたいな。
なんて最近思っています。

器の広さ

それが他人に迷惑をかけるもので無い限り、
個人がどのような価値観を持っても干渉すべきではないよね。

と言いつつ、
本当はだらだらと享楽的なモラトリアムを過ごしている人たちを許せない。

どんな進路を選択しても
最終的に本人が満足する結果が出せれば、
学歴で序列化することに意味はないよね。

を建前にしつつ、
高卒や中卒を卑下せずにはいられない自分がいる。

友達が、
「どんな生き方をしてもいいんじゃない?
結局『充実している』に対する捉え方は千差万別だから、
俺は本人が現状に満足していれば、
人生に正解はないと思うんだ。」
というようなことを言っていて
純粋に、器、広いなぁって思った。
その一方で、
彼の言うことは建前ではないのだろうか、
と勘ぐってしまう。
本当は嫌いな人達がたくさんいるんだろーって。
それは多分、僕自身がそういう器量の狭い人間で
世の中をひねくれフィルターを通してみているからなのだろうな。
して結局、
そんなことを考えてしまう僕は
全然人間として未熟だよなぁって
自己嫌悪に陥るんだよね。

全然だめだー

知識

知的好奇心はきっかけにしか過ぎないと思います。
それこそが学問の本質でありモチベーションだ、
という人がいます。
基礎科学のような分野は例外かもしれませんが
知的好奇心のみに突き動かされて
知識を吸収するのではいま一つ足りないと思うのです。

知識は大きく二つの面で役に立ちます。
「自分の身になる」ことと
「他人に貢献する」こと。
経済用語を知り、ニュースをより深く理解できることは
前者。
それを子どもにも分かりやすく解説できるのは
後者にあたります。
知的好奇心から知識を得る、ということは
確かに自分の「知りたい」という欲求を満たすことが出来ますし
自分の日常体験もより豊かになりますが
一方でそれを誰かの役に立てるという意識の欠如をもたらすと思います。

個人の持っている能力って
それが他者に還元されて初めて評価されます。
もちろん評価が全てではありませんし
知識を蓄えること自体は依然として素晴らしいことには変わりありません。
ただ、自分の為だけの知識を身につけるばかりで
「僕はいろんなコトを知っているんだ」
という自尊心だけが膨れ上がっていく。
それをアウトプットしようともせずに
周囲から真っ当な評価が得られないことを嘆き、
或いはその自尊心から他人を蔑視するようになる。
そんな負のスパイラルに陥るべきではないと思うのです。

言い過ぎのようにも思えますが
こういう人って実際にいます。
僕もこのタイプです。
自覚してからは大分治ってきたと思っていますが…。

知識は価値そのものではありません。
知識を得ることは、価値を生み出す可能性を手にすることに過ぎません。
だから、勉強するにつけても
「自分は学んだ」という安心感に浸ること無く
そこから何を生み出していくかを常々考えていくようにしたいと思っています。
頑張ります。

未来

テクノロジーが発達した未来。
って言うけど、僕はそれこそアップルシードやベクシルみたいな世界は来ないで欲しいです。
廃れた世界だから、じゃなくて、
空中に投影される電子キーボード、
訳の分からない文字が飛び回るヘッドアップディスプレイ、
テクノロジーそのものが全面に押し出されたツール群に
囲まれながら暮らすのは御免です。

僕は、テクノロジーが発達するからこそ
製品は使い手にその内部構造が完璧に隠蔽された、
ユーザーフレンドリーなものになるべきだと思います。
専門的なことは一部の技術者だけが気に留めておけばいい。

ByteやHard Disk Driveという概念や存在が忘れ去られ、
それぞれ体積とそれを収納するボックスというメタファーに置き換えられる。
パソコンにくっつけたボックスにファイル容量に比例した体積の物体が
ころころと流れこんでいく。

複数ボタンのマウスや、ポインタという現実には不自然な概念がなくなって
iOSのような直感的で、
さらにディスプレイから触覚でフィードバックされるタッチスクリーンが普及する。

テクノロジーという区分けでこれまで成立してきた
「家電」というカテゴリーが無くなって
家電量販店も消え去る。
製品が、その本来の機能に適った場所で買えるようになる。
電子書籍リーダーは、書店でブックカバーの隣に売られることになるし、
音楽プレーヤーはタワレコに当たり前の様に陳列される。

来るなら、こんな未来がいいです。

テレビ

最近はくだらない番組が増えてきたとボヤく大人がいます。
僕もそう思います。
それは僕の感覚が変わってきたからなのか
本当にそういった番組が増えているのか
実際の所なんとも言えません。

ただ
くだらない番組ってなんだろね
って考えると、
これまた難しい問題です。
「くだらない」の閾値は人それぞれであって
絶対的な基準なんてものはないからです。
くだらない番組がダメだという大人は
くだらない事そのものを否定しているのではなくて
単にその年代にとって
くだらない上に理解できない(=つまらない)だけなのだと思います。

結局自分の価値観のもとに
番組を高尚か低俗か判断する事自体が傲慢な気がします。
年末のガキ使をくだらないと一蹴するおじいちゃんも
若い頃は『8時だョ!全員集合』を観てゲラゲラ笑っていたのかもしれない。
そしておじいちゃんのおじいちゃんは同じように
くだらないと一蹴していたりして。
価値観なんて相対的なものだから
迷惑を被らない限り、人の価値観に干渉してはいけない。
ただ大切なのは、多様な価値観を持った人たちのニーズに
幅広く応えうる環境を残すこと。
それはテレビで言うと、番組の多様性に当たります。
だから、くだらない番組を頭ごなしに否定することは
決して正しいことではなく、
問題は
くだらない(とされている)番組の増加が
テレビ全体の多様性を損ねていることなのだと、そう思います。

まぁまぁな才能

恥ずかしながら、自分にはまぁまぁの才能があると思っちゃってます。
はい、あくまでも「まぁまぁ」です。
それも、絵が巧いだとか数学ができるとか
そんな主流なものではありません。
まぁまぁ飲み込みが速くて
まぁまぁ観察力があって
とんでもなく理屈っぽくて
ほんの少し芸術肌。
結果それなりに、「らしい」ものが作れる。
こんな所だと自己分析しています。

ただ、世の中で活躍する人たちの抜きん出た才能と
僕のまぁまぁな才能にはどれくらいの開きがあるのか、
さらには自分はどの程度の「まぁまぁ」なのか、
今の環境ではイマイチわかりません。

だから僕にとって美大にいくということは
自分の才能がどれくらい通用するかということを
より客観的に知る一つのきっかけです。

知りたいけれど、少し怖くもあり。
わくわくどきどき