橋本 麦∿Baku Hashimoto

メタマウンティング・ゲーム

気づいたらマウンティングの話をあまりしなくなったなー思ったので、忘れてしまう前に20代の独自研究をまとめておきます。


年収、地方都市の中心駅への近さ、フォロワー数など、大雑把に定量化・比較できる尺度で競うことを「0次のマウンティング」と呼んでいる。これはチンパンジーが馬乗りになり力の優位性を示すように、もっとも原義に近い動物的なマウンティングだ。しかし考えてみると、そもそも「マウンティング」という言葉の発明そのものが、そうしたせせこましい競争を繰り広げている界隈まるごとへの見下しであって、それもまた一つのマウンティングといえる。こうしたマウンティングを「0次のマウンティングに対するマウンティング」、つまり「1次のマウンティング」とここでは呼ぶ。イケハヤさんの「まだ東京で消耗しているの?」は、東京という都市において見下し見下され、個人としての内面的な幸福より外面的な成功に心血を注ぐ競争社会全体を俯瞰し、地方移住という視点から無効化する意味では、日本一有名な1次のマウンティングだ。

そんな話を聞かされると、面倒くさいことをしとりますなぁ、もっと気楽に生きたら良いのに、と思うかもしれない。しかし、そうした老婆心を1次以下のマウンターに間接的にでも開陳した時点で、それは「マウンティングから降りた」マウンティング、つまり2次のマウンティングとなる。そのことを2次のマウンターに指摘する(= 3次のマウンティング)時にありがちな反応が、「いやいや『降りた』とかでなく元から土俵に上がったつもりは無いから」だ。しかし、本当にそう言い切れるのは、競争せずとも見下しせずとも、自己肯定感を自己供給できるだけの健やかな環境に生まれ育った人だけだ。だから、こうした話題にそもそもピンと来ないのが、本当の意味で土俵に上がってない人、つまり「マウンティングからの他者」の正しい反応。

そんなしょうもないマウンティング論を飲み会でお披露目したとき、ある画家の方から「麦くんは何歳の頃からマウンティングされているのですか?」と、素朴な眼差しで訊かれた。場がなんとなく面白がる雰囲気になっていた中での、とても人当たりの良い素敵な方からのこのズレた質問こそが、マウンティングに勝ったわけでも降りたわけでもない、他者を体現していると思った。謎の敗北感。しかし、本人からしてみたら勝ったつもりなどさらさらない。(そうした話題へのアクロバティックな嫌味という可能性もそれなりにあるのだが、ここまで気品ある刺し方ができるのはどのみち高次からのマウンティングだと思う)どれだけ次数をあげようとマウンティングに囚われている身としては、彼女のようなアティテュードこそが永遠の憧れだ。しかし一度でもマウンティングという概念を意識してしまった時点で、「ピンクの象のことを考えるな」よろしく、マウンティングというものを知らなかった状態、ピンと来ていない状態には戻れない。少しでもマウンティングからの他者に近づこうと努力したところで、行き着く先はせいぜい達観であって、しかもそれはその境地に至らなかった低次のマウンターに対する差異化としての偽装された達観でしかない。

このようにマウンティングというのは、ある尺度での良し悪しを脱構築する方向に拗らせるのが通常運転であって、何かに対する競争心、嫉妬心、向上欲のメタ認知の積み重ねで、より高次の、より面倒くさいマウンティング野郎へとアセンションされていく。0次のマウンティングに留まり続けられるのは、そこで価値とされる尺度上の勝者のみで、彼ら/彼女らから見た高次のマウンターは、そもそも接点が無いか、あるにしても負け犬の遠吠え、なんちゃってニヒリストのように映っている。それでもなお、ある次数において完全試合ができなかったマウンターにとって、マウンティングの次数を上げていくことは自衛であり、一つの救済だ。

3次以上のマウンティングは、空気の読み合いに近づいてくる。マウンティング野郎に対する直接的な俯瞰行為もまたマウンティングだと気づける程度に自意識過剰さをいたずらに発達させたマウンターは、決して言葉には出さないし、表情にも出さない。キツいマウンティング空間から離れた後に、彼らをまるごと見下するようなツイートをしたためて、(彼らが知っているであろう数少ないメディア・アート界のセレブリティこと)落合陽一氏にQTされて妙な脳汁を味わうのも、こうした文章を書いては一歩俯瞰したマウンティング構造を解き明かしたつもりになるのも、マウンティング界においては比較的低次といえる(という自己批判を欠かさないことも、3次以上のマウンティングの特徴だ)。また、マウンティングを通してしか自尊感情を満たせない人をある種の弱者とみなし、社会奉仕としてマウンティングを取らせてあげるというマウンティングもあり得る。


最近、数学の一分野である圏論を生半可に学んでいるので、クソ雑になぞらえて今一度概念を整理してみる。こういう衒学趣味じみた例え方もまた、進んでマウンティングを取らせてあげるタイプのマウンティングとして生暖かく受け取って欲しい。

マジで適当な図示

0次のマウンティング圏は、ある尺度を通して序列化できる全順序集合だ。対象はその圏で価値とされる尺度を持った個(個人、会社、家庭)、射は「マウンティング」。0次における尺度は一意に大小関係が定まるので、A → B、B → Cというマウンティングが成り立つなら、A → Cというマウンティングも成り立つ(推移律)。しかし、BやCの視点に立つと、Aから永劫マウンティングされ続けるのは癪に障る。そこで奴らが取りうる戦略は2つあって、1つ目が、トランプゲームの大富豪の「革命」のように、射の向きを逆にとることだ。これを「0次のマウンティングの双対圏」と呼ぶ。わかりやすい例が年収マウンティングに対して「嫌儲」「清貧」という概念を打ち出すことだ。しかしこの場合も、富めるか、貧しいかという尺度に囚われれていることには変わりない。そこで、こうした尺度自体を無意味に帰すよう、「まだ東京で消耗しているの?」と序列化構造全体をマウンティングするのが2つ目の戦略だ。それを冒頭では1次のマウンティングと表現した。 1つめの戦略と区別するために、こうした脱構築的なマウンティング手法論を以後「メタ・マウンティング」と呼んでみる。彼らは0次のマウンティング圏をメタ・マウンティングしているという点で大枠同じ方向を向いているが、彼ら同士でもまた「より『粋』で『力の抜けた』メタ・マウンティングが出来ているか」という尺度でのマウンティングがなされている。0次のマウンターの精神を逆なでするイケハヤさんのやり口は、1次のマウンティング圏においては恐らく大多数からマウンティングの対象となっているのだろう。

そこから先ほど述べたように、2次、3次とメタ・マウンティングは高次になっていくのだが、こうしたメタ・マウンティングも、普通の意味でのマウンティング同様に圏をなす。この場合の対象はマウンティング圏そのもの(=マウンティング手法論)、射はメタ・マウンティング(マウンティング手法論に対するマウンティング) だ。0次のマウンティング圏と異なるのは、推移律も成り立たなければ、XとYとがお互いにお互いをメタ・マウンティングし合っていることもあり得る。0次のマウンティング圏はひとつなぎの数珠のような明快な形をしていたが、メタ・マウンティング圏は、お互いに絡み合った複雑な形をしている。しかし0次付近のマウンティング圏同士は、「まだマウンティングしてるの?」「まだマウンティングがどうとか拗らせてんの?」というように、比較的一本線に近い構造をしているので、1次、2次…、と番号付けしてもそこまで実態からは離れない。

こうしたマウンティングの階層構造について思い巡らすにつけ、一度でもマウンティングに足を踏み入れた者には悲観的な将来しかないようにも思えてくる。ただ、ぼくが思うのは、マウンティングからの他者のもつ素朴さへの永遠に到達できない不断の歩みこそが、傍からはより拗らせているように映る一方で、本人の心には平穏をもたらすということだ。……というと話が胡散臭くなるので、もう少し地に足ついたことを言うと、恐らくぼくらがマウンティングとかいう不毛なことを気にし始めたのは、決して自分たちだけの責任ではないんじゃないかと思う。程度に差はあれ、閉鎖的環境、抑圧、色んな外的要因のなかで、勝たないと、出し抜かないと、という気持ちが芽生えてくるわけで、それはあまり本人にどうにかできるものではない。そんな手負いの状態から出発し、人並みに気の良い振る舞いが出来るようになったとしたら、それは元から健やかに育って機嫌よく過ごしている人以上に頑張ったと言って良いんじゃないかと思う。自分を褒めたって欲しい。マウンティング野郎としての自分のさもしさを必要以上にさもしいものとして自卑するほど、自分より低次のマウンティング圏に対するメタ・マウンティングはより苛烈なものになってしまうし、理想とする機嫌の良い他者から離れていく。だから、ウィズ・マウンティングな心持ちで、マウンティング意識というものから過度に解脱しようとはせず、スタンディング・デスクやスーツ着用と同じ、理性に緊張をかける程よい負荷として味わうくらいがちょうど良いのではと思う。

また、もう一つ、「自分を直接メタ・マウンティングしてくるのは一つ高次のマウンティング圏のみ」という重要な法則もある。なぜなら、n次のマウンティング圏にとっての最大の恐れはn-1次のマウンティング圏と同じ土俵に立ってしまうことだからだ。それゆえn-2次のマウンティング圏にメタ・マウンティングすることには特段慎重になるし、少なくとも直接交戦は避ける。その意味では自分を直接メタ・マウンティングしてくれる存在というのは、遠からず自分と近いアティテュードを通過してきた人たちであって、高次のメタ・マウンターへと移行していくための道標といえる。もちろん高次ほど良い、エラいというわけではない。しかし、より高次のマウンティング圏へと自らを引き上げ、健全に拗らせを深めることで、少なくともより楽な状態には近づける。

小野ほりでいさんが書きそうなことを数倍しょうもなくしたような分析だったけど、このしょうもなさの言語化に心地よさを覚える程度に自分のしょうもなさに自覚的な、かつ自らのしょうもなさにそこまで自卑的でもないしょうもない人というのは、自分を含めてそれなりに居る気がする。