一億総クリエイター
「一億総クリエイター時代」の帰結が、それっぽいものを作る技術がコモディティ化して、ギグエコノミー的に買い叩かれる世界になりそうな気がしてならない。
とかお昼ごはんを作りながらツイートしてたら、伊藤 ガビンさんや中村健太郎さんから反応があった。適当に言ったので正直あまり深くは考えてない。
そんなことをぼんやりと呟いたのは、モーションデザイナーの友人と「10 年前に比べて制作人口もレベルも圧倒的に上がりましたね」という話を最近していたからかもしれない。Twitter から#b3dで検索をかけると超絶クオリティのグラフィックが無数に見れる。ある友達が「クサ歌詞キネティック・タイポグラフィー」と形容していたタイプのビデオもタイムラインによく流れてくるようになった。いや、揶揄したいというより、ゆるっとした諦観に近い。あるスタイルが流行り始めると数カ月後にはチュートリアルがアップされ、焼き畑農業的に消費されることで数年後にはひどく古臭く見えている。そのサイクルは年々早まりつつある実感もあって。自分もいつか感覚のアップデートが追いつかずに「ホワイトキューブ上で磁性流体がウウネウネする」系の演出を 10 年後やらかしているんだろうな。既にそうかも。
田島さんも多くのフォロワーを生んでいる気がするけれど、その追従をものともしない強度があって尊敬するそんな自分も、高校生で映像を始めた当初は「それっぽい」ものを作る喜びに素直だったような気がする。色んな映像を参考にして、学校祭や部活動紹介ビデオで MTV の ID をパクった映像を流して悦に浸ってた。
これは高校三年間のリール。もう 10 年前になるけれど、今観ると非常にヘボい。曲もアジカンだし、バチバチに拍を拾った編集も笑う。一方で、当時は周りに高校生でこのレベルのものを作る世代が現れたとは…という扱いをされていた。今では想像がつかない。
その当時において、どれだけナウくて「これぞ最終形態」と受け止められていたルックでも、10 年経たずしてポートフォリオから消し去りたくなるという儚さを身を持って実感している。「それっぽさ」への憧憬は、初期衝動としては健全なような気もするのだけど、それが作品の強度たり得るのは作り手が若いか、その「ぽさ」が消費され尽くすまでの数年でしかない。去年、ある若い方々が作られたビデオを観てとても衝撃を受けた。だけど、一方でこのフレッシュさというのは(友達に免じて例示を許してほしいのだけど)bait 斎藤氏とモデラーの森田氏が共作した 2014 年当時の「FACT - ape」くらいの感じにも思えた。そして、彼らのビデオも、そして彼ら自身も、かつてはフレッシュとされていた、よくあるプロ集団の一つとして埋もれていく気がした。
そんな気持ちを同業の人に漏らすと、考えすぎでしょうといなされる。その瞬間瞬間で最高なものと思えるものを作れれば、数年後にダサく見えてもその価値まで無かったことにはならないんじゃない? と。それはそれで真実かもしれない。ただ「今見てもちゃんとヤバいものを過去に作っている」状態が不可分に自尊感情と結びついている面倒な性格の持ち主として、一つひとつの作品の良さは細く長く持続してほしいという願いがある。「その都度自分の感覚を更新し続けるまでよ」というマッチョな意見も頂くことがある。確かに、そのスタンスもまた力強くて尊い。だけど、ぼく個人としては十数年後おじさんになった自分のキャッチアップ力をさして信頼できない。この辺のひんやりとした感情というのは、CGI やモーションデザインに限らず、実写においても抱えてる方はいるような気もしていて、Clubhouse のダウナー系ルームでそういう話をウジウジしていると少し救われる。
ちなみにぼくなりの解決方法は 2015 年にgroup_inou の MVを作ったあたりすこし見えている。「ぽさ」以外に強度の軸足を置くのはもちろん、あまり後発の人に擦られそうにない映像技法を自分で開発する、センスよりも知的興味を信頼する、とか何とか。十年後、どんな風に答え合わせができるかが楽しみでもあり、怖くもある。