橋本 麦∿Baku Hashimoto

けんちん汁のドロドロ

ラフォーレの件に関連してダラダラツイートしてしまったことのログ。センボーさんの発言を違ったニュアンスで援用したことで、ご本人からも色々指摘を頂いたので、まだまだ考えを整理していかないいけない。日和ってツイ消ししそうなので、平文でコピペ。


麦: Whateverではアイディアを思い付いた人をクレジットに明記している話があったけれど、その延長でリファレンスを列挙する文化も確立して欲しい。理想はパクられる人が変な誤認を受ける事もなく予め金銭的にも報われることだけど、それが出来ないなら、せめて影響元として挙げるのが最低限のリスペクトだと思う。パクリとインスパイアの区別は悪意の有無も絡んで他の人には判断は難しいが、本人がリファレンスの明記に少しでも後ろめたさを感じるならそれはパクリか粒度の低いインスパイアなのかなと思う。少なくとも本人には分かる。

麦: これはフリーカルチャー的な価値観の影響が強いから言えるのかも分からないけど、Everything is remixな以上「引用」も色彩構成やデッサン同様に技術の一つだと思う。 その時のエッセンスの抽象化や組み合わせ方が甘いと、あそこさん家で取れた人参そのままゴロっと入ってるじゃん!状態になるし、 上手く行けば鈴木哲生さん曰く「けんちん汁のドロドロ」(あのドロドロこそがけんちん汁の本体であり本質で、個々の食材に還元できない)になる。その意味ではパクリとインスパイアは連続体を成していて、その区別はモラルの問題というより引用という技術の巧拙の話でもあるのかなと思ったり。つまり、 悪意のある引用がパクリになるんでなく、稚拙な引用がパクリになるって考え方。

麦: 俺も、影響が強すぎる直近の作品をカモフラージュするために気の利いたクラシックをリファレンスとして挙げがちでダサいんだけど、毎回包み隠さず開示していきたい。

その週末多摩美の学外展で、谷口暁彦さんと飯沢未央さんとのトークショーで上がった話題に関連して以下のツイート。

麦: 「オープンソース的態度での個人制作の対局にあるものは商業案件か」という話のくだりで多分言おうとしていたのが、制作過程や影響元を明かさない姿勢こそがむしろプロプライエタリ的なのでは、ということだった気がする。商業案件は大方そうなりがちなのは前提として、一部の作家然とした態度も個人的には当てはまる。 これは別にアーティストっぽい態度は胡散臭いというdisではなくて。研究にしろ作品制作にしろ、俺が、作家性が、オリジナリティが、ではなしに、無数の参照と引用の鎖からなる集合知にどう組み込まれにいくか、みたいな心構えで居たほうが調子が良いんじゃないかなという話。少なくとも僕にとっては。


に対して以下の引用RTとメンションが続く。

Oさん: 現代アートにかけられた魔法とか、ギャラリー内での価格設定基準とか…

麦: むしろ現代アートはオープンソース的だと思っています。先行事例を綿密に参照した上でそこにどういう新しさが付加できているのかを論理的にステートメントにするので、プロセスやfolk元が明快で…。exonemoの千房さんが仰ってた「作品そのものがソースコード」という言葉が腑に落ちます。


という引用に対し、センボーさんご本人。

Semboさん: エゴサで見つけちゃったバク君のツイート。文脈全体理解できてないけど、自分の発言「作品自体がソーコード」発言を捕捉すると、 メディアアート活動をしていく中で、作品を文字通りオープンソース化する事例に多々出会うのだけど、その時に違和感を感じてた、その理由2点。

Semboさん: 1.既に正しいと位置付けられるオープンソース運動を作品に付加価値として与える事のダサさ。アート作品に社会的な正しさなんていらなくない?という感覚。 あと、本来的なオープンソースが機能する条件って、実用的なソフトに有効で、例えばWebサーバのプンソースだと「性能の向上」「セキュリティ」なんかはソースが公開されることで、改善されたりする。つまり利害が完全に一致する。

Semboさん: でもアートにそれははまらなくて。作品の映像の解像度が低くても、それがその時の作家が見せたいものだったらそのままであるべきで、不特定他者の意見によって解像度が上がれば良い作品になるわけでもない。

Semboさん: さらにオープンソース信仰者は「なんでソースオープンにしないの?ダサくね?」みたいに正義を振りかざしてくる。その時に思ったのが、Webサーバみたいに性能のチューンが必要じゃないアートは、表現そのものが全てだし、それがソース、つまり 解像度が低いのを良しとして出してるモノのソースを公開して、解像度上げられるのは誰も求めてない訳で、表現そのものから、受け取ったものから発展させる事の方が本質に近い。

Semboさん: そう考えると、作品を発表している事自体がオープンソースじゃん、と思い至るわけです。目の前に表現されているものが全てなので、それがアートのソースでしょうと。そういう話をいくつかの場所でしてきた気がします。 性能が重要視されるソフトと、アートはそもそも違うし、同じソースだからと安易にシェアすれば利益があるという発想が間違ってる。本当の”ソース”がどこにあるか考えないと、履き違える。そう思って言った事だと思う。

Semboさん: ちなみに僕はオープンソース信仰者だけど、原理主義者ではない、って感じかな。そのカルチャーに感銘を受けて来たし、活用もさせてもらってる。でも必ずソース公開すれば良いとも思わない。人それぞれ、使える時間ややりたい事が違うので、やりたい事にフォーカスすれば良い、という立場。

麦: 論文やソフトウェア開発の文化は、そもそもからして参照や継承を前提とした仕組みからスタートしているのに比べて、 例えばグラフィックや映像は、作家性やオリジナリティへの所有欲のようなものが不自然に強いのが気になったという話でした。論文における参考文献の正書法や、ソフトウェア開発におけるオープンソースライセンスのような、明文化された引用や相互参照の仕組みを文化の世界に応用する試みの一つが CCライセンスやニコ動のコンテンツツリーだったりすると思います。ただ完全な形式化は難しいので、どのジャンルの制作者も「どうリミックスし、どうリミックスされていくか」が文化という営みのそもそもの基点であるという意識だけでもあれば、色んなことが拗れずに皆少しはヘルシーにやれるなぁ、との思いでのツイートでした。(パクリ騒動とかみて思います。)

麦: ただ引用RTで「作家然とした態度」という部分を抽出して、アートのきな臭さへの批判に援用されたのは違うと思いました。むしろアートは、作品やステートメント自体からその参照点が自明というなのでオープンソース的(引用や相互参照の仕組みがある程度明文化されていて、そこへのアクセスもそこそこオープンという意味で)だと思う、という反論の中で、あやふやな記憶で「作品がソースコード」という話を持ち出しました。 元のお話は、正確には「作品を発表する事自体が – 」だったということも、OSS運動そのものを具体的にアートに組み込むことへのアンチテーゼとしてのものだったということも理解出来てませんでした。ノガミに「オープンソースにしました」がそのままコンセプトになるとか安直じゃね、っつか偽善臭くね、 とよく突っ込まれていたのを思い出します。

Semboさん: なるほど、科学者が新しい発見をした時、その人のお手柄だけど、先人の肩の上に立ってることは大前提で、デザインもアートもそこは同じかなと。ただ科学は他人の研究をそのまま引き継ぐのも普通だけど、クリエイティブ系はあからさまにそれをする事少ないのが違うね。やったらパクリになる。

Semboさん: 先人の成果に、自分はここを足しました、と明確に言えて、そこを評価対象としてみてもらうカルチャーが根付いたら解決しそうだけど、まだ天才が突然閃いたみたいなストーリーが根強いのかな。ちょうど今bitformsでのクラウディア・ハートとアプロプリエイションの話ししてたのでタイムリー。 リチャード・プリンスとか、クーンズとか、意図的にそれをやってる作家もいるし、そこにいる人の間でもここまではアリという線引きがみな違くて面白かった。なかなかスッキリはしなそう。

麦: 科学やクリエイティブに限らず、あらゆる社会文化的進化が「巨人の肩の上」だとも思うのですが、クリエイティブ系の妙な作家性信仰はどこから来ているのか気になります。

麦: もちろんOSS用語をカルチャーに当てはめること自体無理はあるのですが、「作家性の縄張りを主張し過ぎることはプロプライエタリ的でダサい」というレトリックは作家主義的な価値観を転倒させるのに個人的にはそこそこ説得力があったので頻用してました。

麦: アプロプリエーションに関しては線引きもそうですが、身近な所でもMUSTONEが炎上していたりしてて、そもそも分かるようにやってるのに言葉にして明かした所で別に、という感じですしね…。今までの話(対策法?)はあくまでクリエイティブ系に限定したほうが良かったです 。