N=1 おじさん
象徴的に「〜おじさん」と呼ぶの、やっぱり悪手だと思う。ぼくは好きくない。たぶんミラーリングの意図があるんだろうけど、接尾語なら「〜びと」(e.g., 企み人)を推したいな。
「N=1おじさん」という言葉を初めて聞いたのは、とあるイベントの人文系研究者の方のライトニングトークだった。(auto)ethnographic な研究発表において、調査母数や再現性にツッコミを入れるサイエンス側の研究者をそう呼んでいる、という趣旨だ。そこで少しモヤっとして、質疑で「逆に、N=1の当事者性にラディカルにこだわる学派はないんでしょうか」と質問した。ぼく自身は必ずしも「Nが多ければいい」という立場ではないし、当事者としてHCI研究をしている立場としてはむしろ発表者のスタンスに近い。けど、そういう「サンプル数こそ正義」という教条性と同じくらい、経験や当事者性を盾にして議論の余地が狭くなる感じにも違和感があって、そこを確かめてみたかったのかもしれない。
結局のところ、社会構築主義と論理実証主義のあいだで、分野ごとにどこで折り合いをつけるかという話に尽きるんだと思う。分野間でスタンスに齟齬が出たときは、「Nを増やしてもこういう限界があって、インサイトの質がこういうふうにサチる1」といった限界と証拠を丁寧に示しながら対話するほうが建設的だし、science も humanities もないまぜの、広い意味でのアカデミアの世界に関わるなら、よその分野の研究者に対して、そういう「作法の違い」をいつでも説明できる準備はしておきたい。(まだ出来ていないのだけど……)
「N=1おじさん」の問題は、結局は他分野への理解や敬意を欠いた、高圧的な物言いに集約されるんだと思う。ただ、ぼくとして気になったのは、そうした態度の問題と、「Nの少なさに疑問を持つ」という関心そのものが、ごちゃ混ぜに扱われてしまっている点だ。高圧的なのは確かに問題だけれど、「問い」そのものまでスティグマ化してしまうと、議論が痩せてしまう。問う側に勉強不足があったとしても、そこまで一緒くたにして「おじさん」とラベリングするのは、研究者同士のやりとりとしては、ちょっとだけもったいない気がした。
