橋本 麦∿Baku Hashimoto

授業むずい

イデオロギーありきで行動が伴うというより、説明のつかない感情や体質がまず先にあって、その辻褄合わせに都合のいいイデオロギーを武装するのはよくあることだ。

「理性はお気持ちの奴隷」とは言ったもので、自分を理性的だと考える賢い人ほど、湧きあがる情念に理屈をつけるプロセスを意識することなくこなせてしまうために、その因果関係を逆に捉えてしまう罠が潜んでいる気がする。

極端な例だけど、というかある知人が自認してた例だけど、ポリアモリーだから不倫をするのではなく、不倫がしたいからポリアモリーを名乗る とか(そうではない方も多数いらっしゃるのも承知してますが)。自分の場合は「つくり方をつくる」という信念があるから毎度手法やツールから作るんでなしに、どういう訳かそういうつくり方をしないとひどく不機嫌になる体質がまず先にあって、それを自己正当化するために歪な制作哲学をでっち上げてたパターン。最近だと、既成ツールの設計はあまりに抽象度が低いので、ツール開発から始めるしかないとかいって、本当のところはHoudiniで手打ち音ハメモーションを作るのが色んな意味で大変なので、やらなきゃいけない制作を先延ばしにしている。これを自分で認めるのはなかなかにつらい。

このアプローチは広告仕事においては全く機能してなかったのがむしろ幸いだったのかもしれない。いや、スジ自体は悪くはないのだろうけど、折り合いをつける下手くそさや計画性の無さも込みで毎回スベリ倒してたわけで、べき論として声高に主張出来るほど自分の主義主張に自信を持てなかった。年末に伊藤ガビンさんが女子美で受け持っている授業でお話する機会があって、明日はrobamotoさんの授業のゲストなんだけど、もしそこで「ツールの使い勝手について深く考えない奴らは結局Adobeの掌の上で踊らされてるクリシェ製造職人だ」とかラディカル過ぎることをほざいたら事故になったに違いない。とかいって2016年のFITC Tokyoでは、その辺かなり強めのシャウトをしてたような気もする。


数年前に尊敬する菅俊一さんに僕の活動について書いて頂いたことがあって、とても嬉しかった。ただ、最後の下り

本来、何かを表現するというのは、その方法や道具自体も含めて考えるべきだと思います。ですから、今後はツールや作り方から開発するという流れになってくるのではないでしょうか。

未来問答 No.39 あなたが未来の可能性を感じる人を1人教えてください。

に関しては、自分とはちょっと考え方が違うのかもしれないと思った。いや、基本的には同意なのですが、僕の場合もう少し打算的というか「そういう流れになってくれた方が自分がマシな人間に感じられるので助かるなァ〜」という願望に近い。そして仮にそうなったとしても、それは職能の本質的価値や貴賤とは無関係で、時代的にたまたまそうになってしまった以上の意味は無い。菅さんも、そういうエクスキューズを挟むのも冗長になるから近似として「本来」や「べき」という表現を使われただけのような気もするし、そこに突っかかる自分も面倒くさい。

道具や手法から考える人と、ある手法の枠組みの内側で職人的に精度を高めていく人の両方が重要なのは、ものづくりという天文学的な数のパラメーターから成る多峰性最適化問題において当分変わらない。美術やデザイン業界というのは、美的な「よさ」の山々の山頂を攻略するための人類規模の乱択アルゴリズムプログラムとみなすこともできる。

とはいえ、Octane Rendererに登山道を整備してもらったフォトリアリズムの富士山を楽しげに登ってるクリエイターを見て内心羨ましく思うのも事実。ぼくもこんな林道を整地してみたりアイゼンだのピッケルだの作ってないで、槍ヶ岳位はマウンティング用の手札として攻略しておきたい邪念が働いたりもする。今更開き直ってワイワイ富士登山はちょっと気恥ずかしいし。とはいえ普通に槍ヶ岳ムズいし基礎体力も無いので中途半端な所までしか登れない。そこで内心では「今どんだけルックがナウくてもどうせ8年後には8年前の映像みたくなっちまうんだからな」とかトートロジーめいたことで脳内マウントをとったりもするんだけど、あまり人様に大っぴらに言わなくなったのは、成長なのか、身の程を知ったからなのか。

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Zeitguisedっぽいムードにしたいのかこねくり回したいのか分からんくなったお年賀画像

最大多数の最大幸福という視点では、各々が各々のやりかたで自尊感情を高められるほうが良いに決まっているし、そのためのフックは世の中に無数に存在していてほしい。再生数の多さでも、クライアント企業のメジャーさ、あるいは年収でも良いだろうし。それでいうと僕は「世の中への影響力はdutch_tokyoや寿司君に劣っても、それでも自分はツールから作るという本質的なところから制作が出来ている」というかなり独特なフックを錬成して気持ちよくなっているような気がする。それを誰にもあまり干渉されずに自分のためのものとして今に至るまで温存できたのは、この上なく環境に恵まれていたからだ。難しいのは、そのフックの価値をさらに高めるために、それを他者のフックと(貶さないにしても)比較する形で、過度に正当性を帯びたものとして啓蒙したい欲がでてしまうことで、結果的にそのフックでは幸せになれない人にまで届いてしまうことだったりする。

大学で講師をされている方々が「言う前に自然に手が動いてない学生さんはいつまで経っても作らない」「卒制、今焦ってどうするんでしょうか」とか Just do itみのあることをツイートされると、胸がキュッとなる。尊敬する映像作家が「こんなインタビューを読んでないで作りましょう」とかマッチョなことを仰ってるのもダサい。結局読んでる人たち全員の身動きを取れなくするし、それ言ってるお前が気持ちいいだけじゃんって。もちろんそこで勇気づけられる学生の方もいるかもしれないけれど、自分はダメだ、向いていないなぁと寂しくなっていく方もいるのだろうなと想像してしまう。多分、自分はソッチの気があるからなんだろうな。

美大出身でも、専攻とは関係ない一般職に就く人はいるし、今をときめく一流クリエイターらしい華やいだキャリアパスでなくとも、ひとまずインハウスのデザイナーとして堅実に生きていく方もいる。というかむしろその方が多い。学生の方相手にお話する機会がもてる程度に業界でサバイブ出来た年長者の生存バイアスを濃縮還元したつよつよツイートが、そういう色んな道を選んでいく人達に妙な自卑感情を残すことになるのは、ちょっと悲しい。自分は業界の辺境のダメ社会人として、その種のクリエイター的マチズモを内面化しなくとも、それなりに色んなニッチはあると思います、少なくとも僕は生きてるので…と言うのが精々だ。学生の方から、全然自主制作が出来てなくて焦ってるんですと相談されると、僕も同じです、なんなら課題の締め切りを守れているだけ僕よりうんとすごいじゃないですかと凹んでみせたり。いや、それは傷を舐めてあげてるだけか。でも代わりにこういう言葉がけをしてあげるのが結果的にこの方の為になるなんて、生まれて四半世紀自分の脳みそでしか考えたことのない僕に何が分かるのだろう。だから授業のスライドの冒頭に「これは制作論というより言い訳なので、都合の良い部分だけ真に受けてください」とか書きかけて消したり。大分行き詰まってるなー。

教育や啓蒙というのは、純粋に利他的なものではなくて、体から湧き上がる情動に辻褄を合わせる武装としてのイデオロギーを、多くの人に広め、受け入れられることで自分の理性を再肯定するためのセラピーとしての側面があるのかもしれない。もちろんその気持ちが邪だとか、完全に否定したいわけじゃない。だけど少なくとも、自分は決して論理的に精妙な人間ではなく、お気持ちをロジカルにおめかしするのが年齢相応に器用なだけの情念ドリブン人間だということを認められる程度にナヨナヨしくあり続けたい。そして自分の自尊心を高めるためのフックを一般論として誰かに話し広める気持ちよさ、そしてそのフックが体質的に合わない方に間違えて刺さってしまうことの暴力性にも自覚的でありたい。