橋本 麦∿Baku Hashimoto

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Diary

「冷房を下げて」

「冷房を下げて」が2つの意味で解釈出来るの、おもしろいなーと思った

「冷房(の強さ)を下げて」だとあったかくなるし
「冷房(の設定温度)を下げて」だとさむくなる

クリエイティブ・ツイート・マン

大学1・2年の頃、モテクリエイティブ学生クラスタなるものを目の敵にしてディスっていたのを思い出した。

奴らは、別にモノづくりに対して”studious”な状態(意識高い用語)になったことなんて無くて。ただ、イケてる人生を送りたいが為にクリエイティブとかいう洒落た響きの領域にファッションで足突っ込んでるだけでしかないんだ。

その証拠に、奴らのTwitterのプロフィールのURLは、ポートフォリオじゃなくて、いかに自分がクリエイティブなマインドを持っているかを誇示したいがためのエントリが並ぶブログだったりする。

というか、そもそも奴らモノなんて作ってないじゃないか。どこぞやのクリエイティブ・ディレクターの語るアイディア論を引用して、さもその真意を汲めているかのように「わかるなぁ〜」ってツイートする。奴らはクリエイターなんかじゃない。クリエイティブツイートマンだ。

質の悪い事に、奴らはセルフブランディングだけはいっちょ前なんだ。クリエイターとクリエイティブツイートマンを区別出来る程のリテラシーの無いクリエイティブミーハーバカを囲い込んでるから、無駄にフォロワー数多いし。

とはいえ、どうせ就活ではうまいこと「オモシロい学生」を演出して、家入一真に気に入られたり、電博なりいって、クリエイティブを武器に一生モテて行くんだ。

とか、そんな風に決めてかかって彼らの事を観察していたと思う。

今、彼らが何をしているかといえば、本当に電通行った方も居るし(いや、多分かなり手を動かしていた方だったと思う けどFacebookの職業欄には「便通」と書いてある)、起業された方もいれば、学生を続けている方もいる。

ただ、かくいう僕も、そういうTwitterに蔓延るエセ・クリエイティブ・マインドを看破して、攻撃し続けるという戦略でもって「カウンター精神に溢れたオモシロい学生」を演出していたような気もするし、「あざとさ」という意味では彼らも僕も多分、同じカテゴリに分類されていたのかもしれない。

黙っていいモノ作る人がやっぱ一番イケメンだと思う。つくづく感じる。

試行錯誤

トライアル・アンド・エラーって言う奴は大概クソだけど、トライ・アンド・エラーっていう奴はよりクソ。

Nic Hamilton

グリッチやローポリ・ローファイ表現をふんだんに取り入れてて。

さもなくば既視感にあふれた「インターネットっぽい」映像になる一歩手前で、それぞれのモチーフを少しずつ曲解して、独特の佇まいがサムネイルからして醸し出ている所がエロい。




リッチ

CSSアニメーションやらパララックス多用したWebデザイナーのポートフォリオよりも、更新のつどHTML直で書き換えてアップロードしている感じのイラストレーターさんの個人サイトの方が普通に読みやすかったりする。

基本的にページ遷移時のフェード効果嫌い。
素人、Webデザイナー両方の目線でそう思う。

リソース全部読み込み終わるまで真っ白い画面でくるくるが回ってるの見せられるよりか、
画像が読み込まれる度、ボックスがガクンガクン縦に伸びていくの見えていた方が、多少不格好だけど親切に思える。

とはいえ、「イマドキこの程度のリッチ表現も出来ないんだー」とか思われるのが怖いから、ついつい要らんアニメーションとか盛ってしまう自分もいて。

あるある

ジェネラティブアートって、「手段がジェネラティブ」ってだけなのに、誰が決めたわけでもなく「ジェネラティブアートっぽいトンマナ」があるよね。矩形、楕円、線みたいな、プログラミング的に描画しやすいグラフィックスに寄っていくのは当然っちゃ当然なんだけど。

配色がビビッドなのもひとつ「ジェネっぽさ」かも。RGB値をカラーパレットからではなくて数値で指定する仕組みだと、無意識にキリの良い数値を選んでしまうし。

と思って前電子回路っぽいパターンが作れるやつ作った時は、エディタのテーマでおなじみのSolarized Darkをモロパクリしてみた。あえて配色を微妙な中間色に寄せてやることで、少しだけジェネっぽさが無くなったように思えた。あと、Adobe Kulerで配色決めちゃうのイイ。今朝書いたやつも、Kulerの適当なテーマを引用してる。


あるジャンルの表現を、メディアの特性や制作者の経済的にどうしてもそうならざるを得ない「制約」と、ただ単なる「あるある」とに分けて考えると見通しが良くなる気がする。

例えば、屋外のプロジェクションマッピング。ビビッドな色彩を使わなくてはいけないのは、街の反射光を拾って幾分薄く見えてしまうのを防ぐための「制約」で、壁面がさいの目切りになって崩れ落ちていくのは「あるある」。高校生の自主制作ドラマが、ハリウッド映画に比べてショボイのは「制約」で、なぜか、審査員ウケを狙ってか高校生らしい教訓めいたオチになるのは「あるある」。

この両者を取り違えて、「あるある」側のものを「制約」だと思い込んでしまう事が往々にしてあって。Kinectを使ったインタラクティブアートに触れているうちに、段々「Kinectはワイヤフレームやポイントクラウドみたいな、サイバーっぽい表現にしか使えない」って思えてくる。Kinectはただ単に13ビットの深度情報を撮影でき、そこからソフトウェア的に体の関節の動きを解析出来るツールでしかなくて、別に”でじでじ感”の欠片もないビジュアライゼーションに使ったって良いはずなのに。

話が逸れてしまったけど、少なくとも僕は、たまたまそういう作品が多かったっていうだけで、「ビビッドな配色」をジェネラティブアートにおける「制約」側の表現に間違えて分類していて。その中で、別にジェネラティブだからといって、 rgb(115,190,192) みたいな淡い色は禁止されてるワケじゃないって気づけたことで、勝手に自分に課していた発想の足枷を一つ外すことが出来たような気がした。

勝手に「制約」だと思い込んでいるだけで、実はただの「あるある」じゃないかって疑ってかかる癖をつけておくと、ふとした拍子にあたらしい佇まいをもった表現に辿り着けると思う。

∀ ∃

全称と存在を理解する時、foreachで考えれば分かりやすいと思った。

例えば ∀x∈A [ f(x) ] みたいな論理式があったとすると、

bool flag = true;
foeach (x in A)
    flag |= f(x);

∃x∈A [ f(x) ] は

bool flag = false;
foreach (x in A)
    flag &= f(x);

みたいな感じで書き表せば、自分にも分かるぞ、と…

顕示

自分のFacebookのタイムライン遡ってると、いかに自分がクリエイティブなマインド(笑)を持っているか を顕示したいが為に選り抜いたポストに溢れてて我ながら気持ち悪い。

そういえば自分は「いかに自分が充実しているか」とか「多くの人に慕われているか」を顕示したいクラスタを生暖かい眼で観ていたけど、結局顕示したいものがすげかわっただけで、顕示したさが為にインターネットやってるって意味では自分も彼らも一緒だよな。逆に彼らから観たら自分は「自分の発想力の豊かさをアピっててウザイ」と思われているのかもしれない。

って考えると、お互い様だよなー、自分のやらしい顕示にみんながいいね!してくれているのと同じように、彼らの顕示に付き合ってあげよう いいね!のギブアンドテイクだ。って思えてきて、インターネット的博愛精神高まる。

韻を訳す

ハリーポッターの作中の登場人物の著作で「トロールのトロい旅」ってのがあって。子供ながらに、英語でもダジャレになっていたのか、どう翻訳したらこんな事になるのか、不思議だった

ってのを久しぶりに思い出して、検索かけてみたら原語は「Travels with Trolls」なのな。「グールお化けとのクールな散策」は「Gadding with Gouls」、「バンパイアとバッチリ船旅」は「Voyages with Vampires」

TravelsもGaddingもそのままに翻訳したら韻が韻で無くなってしまうから、「トロイ」「クールな」とかいう形容詞を付けてやる事で無理やり韻を訳すっていう手法論を松岡佑子は編み出したんだなーと想像してほっこりした

アートとデザイン

アートは「問題提起」で、デザインは「問題解決」

凡庸な答えになってしまうけれど、この認識が一番シンプルで的を射ていると思う。誰が言っていたことか忘れたけど。ここでなにやらウマい事言いたい気持ちもあるんだけど、別に大喜利でもコピーライティングでも無いので。

多分、これくらいザックリした認識以外捉えようが無い気がする。

一重に「アート」といっても「商店街をアートのちからで盛り上げよう!」のアートと村上隆がやっているアートとでは全く意味が違うし、デザインという言葉自体、グラフィックデザインに限らず、定義通りに言えば「ある対象について、良い構成を工夫する」行為全般を指す抽象度の高い概念なわけで。

だから変に奇をてらわずこのくらい当たり前のことを言っておいた方が、そういう言葉の意味のブレをバランス良く吸収出来るんじゃないかなぁ、と思って。僕個人はアートとデザインの違いについて聞かれた時、こう答えるようにしている。

そもそもアートとデザイン自体、排他的なカテゴリでは無くて、X軸とY軸のようなものだと思う。その平面上に点としてプロットされた作品はアート的側面とデザイン的側面の両方を孕んでいる訳で、明らかにどちらかの要素が大きければ、おおよそそれはアートだよね、デザインだよねって決着が付く。y=xの近くの作品に関して言えばこれはアートだ!デザインだ!とか厳密に判定できっこない。貴族社会の時代や戦時下の芸術家のようにクライアントワークとして、プロパガンダとしてアートを作っている人達もいれば、ミュージック・ビデオのように、広告でありながらもアート的側面の強いジャンルもある訳で。

この手の「概念の定義」についての尽きない議論って、「その概念にカテゴライズされるものそれ自体が、その概念の境界を定義付けている」場合が多いから、「どちらが定義として正確か」という対決に意味はないよね。議論それ自体が無意味ではないにしても。意見交換だと思っておいた方がお互い楽だなーと思う。アートとデザインの違いについての考察の深さと良い作品を作る能力っていうてそんな関係ないし…。