Baku Hashimoto

橋本 麦

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Diary

Nic Hamilton

グリッチやローポリ・ローファイ表現をふんだんに取り入れてて。

さもなくば既視感にあふれた「インターネットっぽい」映像になる一歩手前で、それぞれのモチーフを少しずつ曲解して、独特の佇まいがサムネイルからして醸し出ている所がエロい。




リッチ

CSSアニメーションやらパララックス多用したWebデザイナーのポートフォリオよりも、更新のつどHTML直で書き換えてアップロードしている感じのイラストレーターさんの個人サイトの方が普通に読みやすかったりする。

基本的にページ遷移時のフェード効果嫌い。
素人、Webデザイナー両方の目線でそう思う。

リソース全部読み込み終わるまで真っ白い画面でくるくるが回ってるの見せられるよりか、
画像が読み込まれる度、ボックスがガクンガクン縦に伸びていくの見えていた方が、多少不格好だけど親切に思える。

とはいえ、「イマドキこの程度のリッチ表現も出来ないんだー」とか思われるのが怖いから、ついつい要らんアニメーションとか盛ってしまう自分もいて。

あるある

ジェネラティブアートって、「手段がジェネラティブ」ってだけなのに、誰が決めたわけでもなく「ジェネラティブアートっぽいトンマナ」があるよね。矩形、楕円、線みたいな、プログラミング的に描画しやすいグラフィックスに寄っていくのは当然っちゃ当然なんだけど。

配色がビビッドなのもひとつ「ジェネっぽさ」かも。RGB値をカラーパレットからではなくて数値で指定する仕組みだと、無意識にキリの良い数値を選んでしまうし。

と思って前電子回路っぽいパターンが作れるやつ作った時は、エディタのテーマでおなじみのSolarized Darkをモロパクリしてみた。あえて配色を微妙な中間色に寄せてやることで、少しだけジェネっぽさが無くなったように思えた。あと、Adobe Kulerで配色決めちゃうのイイ。今朝書いたやつも、Kulerの適当なテーマを引用してる。

![](/wp-content/uploads/2014/09/housha-kanjo.png)


あるジャンルの表現を、メディアの特性や制作者の経済的にどうしてもそうならざるを得ない「制約」と、ただ単なる「あるある」とに分けて考えると見通しが良くなる気がする。

例えば、屋外のプロジェクションマッピング。ビビッドな色彩を使わなくてはいけないのは、街の反射光を拾って幾分薄く見えてしまうのを防ぐための「制約」で、壁面がさいの目切りになって崩れ落ちていくのは「あるある」。高校生の自主制作ドラマが、ハリウッド映画に比べてショボイのは「制約」で、なぜか、審査員ウケを狙ってか高校生らしい教訓めいたオチになるのは「あるある」。

この両者を取り違えて、「あるある」側のものを「制約」だと思い込んでしまう事が往々にしてあって。Kinectを使ったインタラクティブアートに触れているうちに、段々「Kinectはワイヤフレームやポイントクラウドみたいな、サイバーっぽい表現にしか使えない」って思えてくる。Kinectはただ単に13ビットの深度情報を撮影でき、そこからソフトウェア的に体の関節の動きを解析出来るツールでしかなくて、別に”でじでじ感”の欠片もないビジュアライゼーションに使ったって良いはずなのに。

話が逸れてしまったけど、少なくとも僕は、たまたまそういう作品が多かったっていうだけで、「ビビッドな配色」をジェネラティブアートにおける「制約」側の表現に間違えて分類していて。その中で、別にジェネラティブだからといって、 rgb(115,190,192) みたいな淡い色は禁止されてるワケじゃないって気づけたことで、勝手に自分に課していた発想の足枷を一つ外すことが出来たような気がした。

勝手に「制約」だと思い込んでいるだけで、実はただの「あるある」じゃないかって疑ってかかる癖をつけておくと、ふとした拍子にあたらしい佇まいをもった表現に辿り着けると思う。

∀ ∃

全称と存在を理解する時、foreachで考えれば分かりやすいと思った。

例えば ∀x∈A [ f(x) ] みたいな論理式があったとすると、

bool flag = true;
foeach (x in A)
    flag |= f(x);

∃x∈A [ f(x) ] は

bool flag = false;
foreach (x in A)
    flag &= f(x);

みたいな感じで書き表せば、自分にも分かるぞ、と…

顕示

自分のFacebookのタイムライン遡ってると、いかに自分がクリエイティブなマインド(笑)を持っているか を顕示したいが為に選り抜いたポストに溢れてて我ながら気持ち悪い。

そういえば自分は「いかに自分が充実しているか」とか「多くの人に慕われているか」を顕示したいクラスタを生暖かい眼で観ていたけど、結局顕示したいものがすげかわっただけで、顕示したさが為にインターネットやってるって意味では自分も彼らも一緒だよな。逆に彼らから観たら自分は「自分の発想力の豊かさをアピっててウザイ」と思われているのかもしれない。

って考えると、お互い様だよなー、自分のやらしい顕示にみんながいいね!してくれているのと同じように、彼らの顕示に付き合ってあげよう いいね!のギブアンドテイクだ。って思えてきて、インターネット的博愛精神高まる。

韻を訳す

ハリーポッターの作中の登場人物の著作で「トロールのトロい旅」ってのがあって。子供ながらに、英語でもダジャレになっていたのか、どう翻訳したらこんな事になるのか、不思議だった

ってのを久しぶりに思い出して、検索かけてみたら原語は「Travels with Trolls」なのな。「グールお化けとのクールな散策」は「Gadding with Gouls」、「バンパイアとバッチリ船旅」は「Voyages with Vampires」

TravelsもGaddingもそのままに翻訳したら韻が韻で無くなってしまうから、「トロイ」「クールな」とかいう形容詞を付けてやる事で無理やり韻を訳すっていう手法論を松岡佑子は編み出したんだなーと想像してほっこりした

アートとデザイン

アートは「問題提起」で、デザインは「問題解決」

凡庸な答えになってしまうけれど、この認識が一番シンプルで的を射ていると思う。誰が言っていたことか忘れたけど。ここでなにやらウマい事言いたい気持ちもあるんだけど、別に大喜利でもコピーライティングでも無いので。

多分、これくらいザックリした認識以外捉えようが無い気がする。

一重に「アート」といっても「商店街をアートのちからで盛り上げよう!」のアートと村上隆がやっているアートとでは全く意味が違うし、デザインという言葉自体、グラフィックデザインに限らず、定義通りに言えば「ある対象について、良い構成を工夫する」行為全般を指す抽象度の高い概念なわけで。

だから変に奇をてらわずこのくらい当たり前のことを言っておいた方が、そういう言葉の意味のブレをバランス良く吸収出来るんじゃないかなぁ、と思って。僕個人はアートとデザインの違いについて聞かれた時、こう答えるようにしている。

そもそもアートとデザイン自体、排他的なカテゴリでは無くて、X軸とY軸のようなものだと思う。その平面上に点としてプロットされた作品はアート的側面とデザイン的側面の両方を孕んでいる訳で、明らかにどちらかの要素が大きければ、おおよそそれはアートだよね、デザインだよねって決着が付く。y=xの近くの作品に関して言えばこれはアートだ!デザインだ!とか厳密に判定できっこない。貴族社会の時代や戦時下の芸術家のようにクライアントワークとして、プロパガンダとしてアートを作っている人達もいれば、ミュージック・ビデオのように、広告でありながらもアート的側面の強いジャンルもある訳で。

この手の「概念の定義」についての尽きない議論って、「その概念にカテゴライズされるものそれ自体が、その概念の境界を定義付けている」場合が多いから、「どちらが定義として正確か」という対決に意味はないよね。議論それ自体が無意味ではないにしても。意見交換だと思っておいた方がお互い楽だなーと思う。アートとデザインの違いについての考察の深さと良い作品を作る能力っていうてそんな関係ないし…。

好きなWikipedia記事

専門用語よりも、
割りと日常的なことばの方が
意外な発見があったりして楽しいのがWikipediaです。

松井秀喜

長いです。

トリスタンダクーニャ

「世界一孤立した有人島」だそうです。
島民の生活なども書いてあって面白いです。

地球の極と端の一覧

「極」と「端」という抽象的なカテゴライズが無性にワクワクします。

世界一の一覧

ギネスブックみたいなものでしょうか、意外な所に日本がランクインしたりしていて楽しいです。

数量の比較

記事の最後の方、天文学的な数字が出てくると死にたい気分になります。

心の哲学

ページ下部の「思考実験」カテゴリの記事が特におすすめ。

八大地獄

やけに設定が細かいです。
一方寒い地獄はわりと適当なのがツボ。

共感覚

共感覚がたくさん載っています。

地上天気図

砂塵嵐の記号なんてあるんすね。

作り手至上主義

半年以上前に書いていた日記。「ある人」はhydekickさん。
あと、クリエイティブ業界全般に関する話というよりは、学生限定の話です。
「プロデューサー」だとか「クライアント」だとかいう言葉が出てきたとしても、
それぞれ学生の立場に置き換えてもらえたらと思います。


なんというか、ある方に作り手至上主義だねって言われたのがずっと心の中で反芻しているので自分なりの考えをまとめてみます。

まず、作っている人がエライなんてことは一切思ってません。
「助けたい」「繋げたい」「より便利にしたい」「研究したい」とか
いろんなモチベーションの元でいろんな職業が成り立っている訳で、
あくまで、そのなかで「表現したい」「伝えたい」をモチベーションにものを作っている僕達が居て、
それは並列な存在でしかないと思ってます。
「クリエイター」って言葉がしっくりこないのも、
なんとなく「警察」とか「教師」に比べてトクベツ感が出てしまっている気がするからで。
そもそも海外では通用しない呼び方らしいです、
どうやら「創造主」みたいな意味合いなんだそうです(笑)

「作り手至上主義」って揶揄されたのは
多分、その人と一緒に制作をする上で作り手として信用に足る人かどうかを
「何かをゼロからフィニッシュまで作り終えた経験があるかどうか」
で判断しているという部分を指しての事だと思っています。

スマホアプリだとか、ソーシャルデザインだとか、インタラクティブだとか、
かっこよさげな横文字飛び交うクリエイティブ業界って、
そういうかっこよさげな単語に走性のあるだけの人が案外多い気がしています。
勿論僕自身にもそういう部分は少しはあると自覚しています。
ただ、それ以上に、純粋に何かを作ることが大好きでなくちゃ、
ものづくりはやってられないと思うのです。

クリエイティブ職というとかっこよさげで華やかなイメージがある一方で、
それこそ、名義だけ貸しているようなケースでもない限り、
アイディアを考える人であろうとソフトをいじって作業をする人であろうと関係なく
実は地道で膨大な作業の連続です。
何十時間も紙や画面とにらめっこして、あーでもないこーでもないと試行錯誤する、
そうやってやっとの思いで完成した映像・Webサイト・グラフィックデザインでも
結局受け手にとって数分くらいの体験にしかならないってのが殆ど。

作品で誰かに認められたい、
そういう欲求もうまく活かせば制作にとって強力なモチベーションになりますが、
それ以上に実作業を楽しめるようでないと、
絶対にどこかで嫌になってしまうし、妥協が生まれてしまう。
だからこそ、どんなレベルでも構わないから
「ゼロからフィニッシュまで作り終えた経験」
というのは、その人のものをつくることへの意識の高さを、
高い正確性で担保してくれるものだと考えています。
「アイディアは沢山あるんだけどねー、なかなか時間なくてさ。」
本当にものを作るのが好きな人は、何かを作るという行為自体がルーチンワークのように身に染みていると思います。
「いろいろ勉強しなくちゃいけないことが多すぎて何から勉強したらいいか…><」
結局そのステップで躊躇している時点で、その程度のモチベーションしかないということです。
好きな人は誰に言われずとも勉強しているし、気がついたらスキルは見に付いているものだと思います。

みんながみんな、そういう高い志とやらを持った人だけではないというのも分かります。
「自分が直接手を動かすことは無くても、何かかしらの形でものづくりに携わりたい」
そういう人って、プロデューサー的な立場のほうが向いていると感じています。
制作に直接関わる人って、ビジネスやクライアントとのコミュニケーションに苦手意識を持っている人が多いような気がしますし、
ついつい自分のフェチにのめり込んでしまいがちなので、
一般人に近い、引いた目線で意見を言える人は、とても重要な役割だと思いますし、すごく尊敬しています。

うだうだ書いてしまいましたが、結局は何が言いたいか乱暴にまとめてしまえば、
「クリエイティブな俺を見て!」みたいなタイプは大っ嫌いだという事です…。
そして「クリエイティブな俺を見て!」クラスタの方々は往々にして、
自分のおしゃれライフをFBやInstagramでアピって
何年たっても実現されないであろうWebサービスの構想を
悟ったようにTwitterで発信し続けるのです。
で、さてさてどんなものを作ってきたんだろうこの人は、とプロフィールのURLを開けば
「クリエイティブとは何か」と、何処ぞの広告人がアドタイの連載で言っていたような事が書き綴られた
意識高いブログがポップアップ表示されるのです。
っていうのは僕の偏見ですが…

だから、繰り返すと、あなたの創造性に満ちた脳内から溢れ出るクリエイティブなアイディアなんてクソ程もどうでも良いから、
とっとと作ったもの、やってきたことを見せてください!
考えるだけ、言うだけなら誰だって出来るから!
って事です…。

作風

映像の世界にも、流行みたいなのはあって。
●▲■が音に合わせて動くモーショングラフィックスもそうだし、
グリッチやデーターモッシュ表現とか、
ここ数年の日本の映像作家界を見てると、
やっぱり作風が似通ってるなぁと思うことはあります。

前までは、
自分なりの作風を見いだせない = オリジナリティの無いダメなクリエイター
だと思っていたのですが、
最近、それでも良いじゃないか、と思えてきまして…。

多分、細金拓矢チルドレンみたいな人達が、
ミニマルモーショングラフィックス系の映像をどんどん作っていって、
お互い刺激し合うことで、そのジャンルの中で表現として熟成されていく
という創作文化自体に十分意味があるんだと思います。

ニコニコ動画ってまさにそういう文脈を持っていて、
他の人の作品を30%づつ集めて、そこに自分が10%上乗せする
みたいなのでも、十分成立しちゃう世界。
自分の作品、という所有意識があまりないんですよね、
作品をぽいっと放り込んで、コミュニティとして楽しむって考え方。
何となくそこに抵抗感を感じてしまっていたのは、
価値観が古かったのかなーって。

自分の作風を持つ、というのは、
クリエイターとしての代替不可能性を確立するための
セルフブランディング戦略の1つでしかなくて、
そういう映像が好きだから作ってるんです!って
気持ちまでを否定するような事はしちゃいけないなーと
過去の自分を反省するのでした…。

多分、とっとと流派やジャンルとして名前を付けてしまって、
そこに所属しちゃうのが一番良いよね、
ダダイズムとかエレクトロニカとか。

そういう風に明示化されていないうちは、
あーこれってなんだかあの作品っぽいけど本人には言えないなー
って探り合う気持ちの悪い状態が続いていくのかもしれない、
とか思うのでした。