Baku Hashimoto

橋本 麦

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Diary

曲率

非ユークリッド幾何学自体はエッシャーが「円の極限」でモチーフにしていた位だし、ジェネラティブアート界隈でもそこそこの頻度で引用されてるモチーフだけど、大体2次元で終わることが多い上に、曲率が一定の空間しか扱っていなかったりする。

以前3次元で曲率がゼロじゃない空間の見え方をシミュレーションする「Curved Space」ってソフト見つけた時、めちゃクソカッコええな思ったっけか。

ところがインターステラは、曲率が一定じゃない空間での光の歪み方を正確にシミュレートした上に、2時間の映画表現に落としこんでいるっていう所がありえない程カッコイイし、この映画でしか活用できなさそうな超ニッチなレンダラーを開発した人を尊敬するし、こう、色々置いて行かれた気がして悲しい。

とか言っちゃう自分の衒学趣味はいい加減自覚はしてるけど、とにかくインターステラ楽しみ

すごさ

すごさ ってシンプルに重要な要素だと思う。

センスの良さって、自分で思っている以上に狭いコミュニティにしか伝わらないものだったりするし。ところがすごさって、ちゃんとすごければ、クラスタを飛び越えて理解してもらえるような気がする。

すごくなさをセンスの良さや手法論、コンテクストでもって誤魔化しているような作品って、同じ作り手の共感は買っても、中学の同級生には「で?」の一言で看破されて終わることが多い気がする。

すごさ欲しい。

アナロジー

マネー・ボールを観た。映画としての感想はいいとして、少し考えさせられるものがあったので忘れないうちに書いておく。

自分たちを、マネー・ボールに登場する「経験と勘に頼るスカウトたち」側の人間だと客観視できる人はそう居ない気がする。

マネー・ボールが結果的にある程度の成功を収めたという史実を知っていて、なおかつ映画を通して三人称視点で見つめることの出来る僕たちにとっては、ビリーもスカウト達に劣らず野球に対する愛はあって、ただその立場と用いた手段の為にチーム内や世間に理解されず、一時はバッシングを受けていたに過ぎないんだ。と客観的に捉えることができる。

スカウト達は、自分たちの経験則を盲信し、ビリーのやり方に「野球は数字じゃない」と反発する老害だ。

ただ、あのスカウト自身にとっては、ビリーは自分達が長年培ってきたモノを数字で否定する合理主義の化身で、目の敵にしていたに違いない。


何が言いたいかというと、アナロジーでもって自分を三人称視点から見つめるという発想だ。

FaceBookで最近Viibarの広告が流れてくる。

クラウドソーシングがクリエイティブ業界を侵食することに対するどことない抵抗感は、もしかしたら、僕がそのうち「勘を頼るスカウト」側の人間になっていくことを仄めかしているのかもしれないと思った。

イージング

ルックは然ることながら、イージングが一つ作品のトーンを作り上げているような映像は観ていて楽しい。

## androp – MirrorDance | dir. 田向潤

andropのMVの中では一番好き。クラップに合わせての初速キツ目のイージングが、
乾いたリズム感を強調していて小気味いい。

## X-MEN First Class Main on End | prod. Prologue

重厚なオーケストラにソウル・バス的なミニマルというギャップがいい。
音のピークから微妙に遅れて、引きずるようなイージングや
不安げに揺れるゴースト表現が、硬派で不安定な空気感を醸し出している。

モチーフの選び方も、オゾンの匂い漂うクリーンルームを連想させるような
2重螺旋を描く構造式、塩基のアルファベットなどの分かりやすいメディカル的モチーフを敢えて避けて、
プリミティブな円と多角形でDNA周りの機構を暗喩的に表現している所がニクい。

## Tei Towa – MIND WALL | dir. 中村剛

絶えず視点が揺れ動いている。
ちぐはぐさを感じさせるブレたイージングが、子供の絵のようなルックに病的さを加えている。

## 砂原良徳 – Lovebeat | dir. 小島淳二

線形補間といったらこれ。
モーションが飛ぶ所も、フレーム落ちや中途半端にキャッシュが残っていた時のAEプレビューみたいなんだけど、
一見エラーのようで計算されつくされている。


多分自分が、日本の局所的なクラスタに居るからってだけなんだろうけど
何となく、目指すイージングが似通っているような気がして。

誇張されたスプリング感と吸着感。
「ニューーーーン!」みたいな。

個人的にだけど大橋さんは、吸着感というよりは、入りと抜きの速度を強めに、中間でフワッと決め絵を見せていくイージングが多くて、少し逆の方向を行ってる気がする。

かくいう僕も「ニューーーーン!」をやってしまいがちではあるんだけど、できることなら案件ごとにイージング感をいくつも使い分けられるようになれたら良いなとか思ってる。

「冷房を下げて」

「冷房を下げて」が2つの意味で解釈出来るの、おもしろいなーと思った

「冷房(の強さ)を下げて」だとあったかくなるし
「冷房(の設定温度)を下げて」だとさむくなる

クリエイティブ・ツイート・マン

大学1・2年の頃、モテクリエイティブ学生クラスタなるものを目の敵にしてディスっていたのを思い出した。

奴らは、別にモノづくりに対して”studious”な状態(意識高い用語)になったことなんて無くて。ただ、イケてる人生を送りたいが為にクリエイティブとかいう洒落た響きの領域にファッションで足突っ込んでるだけでしかないんだ。

その証拠に、奴らのTwitterのプロフィールのURLは、ポートフォリオじゃなくて、いかに自分がクリエイティブなマインドを持っているかを誇示したいがためのエントリが並ぶブログだったりする。

というか、そもそも奴らモノなんて作ってないじゃないか。どこぞやのクリエイティブ・ディレクターの語るアイディア論を引用して、さもその真意を汲めているかのように「わかるなぁ〜」ってツイートする。奴らはクリエイターなんかじゃない。クリエイティブツイートマンだ。

質の悪い事に、奴らはセルフブランディングだけはいっちょ前なんだ。クリエイターとクリエイティブツイートマンを区別出来る程のリテラシーの無いクリエイティブミーハーバカを囲い込んでるから、無駄にフォロワー数多いし。

とはいえ、どうせ就活ではうまいこと「オモシロい学生」を演出して、家入一真に気に入られたり、電博なりいって、クリエイティブを武器に一生モテて行くんだ。

とか、そんな風に決めてかかって彼らの事を観察していたと思う。

今、彼らが何をしているかといえば、本当に電通行った方も居るし(いや、多分かなり手を動かしていた方だったと思う けどFacebookの職業欄には「便通」と書いてある)、起業された方もいれば、学生を続けている方もいる。

ただ、かくいう僕も、そういうTwitterに蔓延るエセ・クリエイティブ・マインドを看破して、攻撃し続けるという戦略でもって「カウンター精神に溢れたオモシロい学生」を演出していたような気もするし、「あざとさ」という意味では彼らも僕も多分、同じカテゴリに分類されていたのかもしれない。

黙っていいモノ作る人がやっぱ一番イケメンだと思う。つくづく感じる。

試行錯誤

トライアル・アンド・エラーって言う奴は大概クソだけど、トライ・アンド・エラーっていう奴はよりクソ。

Nic Hamilton

グリッチやローポリ・ローファイ表現をふんだんに取り入れてて。

さもなくば既視感にあふれた「インターネットっぽい」映像になる一歩手前で、それぞれのモチーフを少しずつ曲解して、独特の佇まいがサムネイルからして醸し出ている所がエロい。




リッチ

CSSアニメーションやらパララックス多用したWebデザイナーのポートフォリオよりも、更新のつどHTML直で書き換えてアップロードしている感じのイラストレーターさんの個人サイトの方が普通に読みやすかったりする。

基本的にページ遷移時のフェード効果嫌い。
素人、Webデザイナー両方の目線でそう思う。

リソース全部読み込み終わるまで真っ白い画面でくるくるが回ってるの見せられるよりか、
画像が読み込まれる度、ボックスがガクンガクン縦に伸びていくの見えていた方が、多少不格好だけど親切に思える。

とはいえ、「イマドキこの程度のリッチ表現も出来ないんだー」とか思われるのが怖いから、ついつい要らんアニメーションとか盛ってしまう自分もいて。

あるある

ジェネラティブアートって、「手段がジェネラティブ」ってだけなのに、誰が決めたわけでもなく「ジェネラティブアートっぽいトンマナ」があるよね。矩形、楕円、線みたいな、プログラミング的に描画しやすいグラフィックスに寄っていくのは当然っちゃ当然なんだけど。

配色がビビッドなのもひとつ「ジェネっぽさ」かも。RGB値をカラーパレットからではなくて数値で指定する仕組みだと、無意識にキリの良い数値を選んでしまうし。

と思って前電子回路っぽいパターンが作れるやつ作った時は、エディタのテーマでおなじみのSolarized Darkをモロパクリしてみた。あえて配色を微妙な中間色に寄せてやることで、少しだけジェネっぽさが無くなったように思えた。あと、Adobe Kulerで配色決めちゃうのイイ。今朝書いたやつも、Kulerの適当なテーマを引用してる。

![](/wp-content/uploads/2014/09/housha-kanjo.png)


あるジャンルの表現を、メディアの特性や制作者の経済的にどうしてもそうならざるを得ない「制約」と、ただ単なる「あるある」とに分けて考えると見通しが良くなる気がする。

例えば、屋外のプロジェクションマッピング。ビビッドな色彩を使わなくてはいけないのは、街の反射光を拾って幾分薄く見えてしまうのを防ぐための「制約」で、壁面がさいの目切りになって崩れ落ちていくのは「あるある」。高校生の自主制作ドラマが、ハリウッド映画に比べてショボイのは「制約」で、なぜか、審査員ウケを狙ってか高校生らしい教訓めいたオチになるのは「あるある」。

この両者を取り違えて、「あるある」側のものを「制約」だと思い込んでしまう事が往々にしてあって。Kinectを使ったインタラクティブアートに触れているうちに、段々「Kinectはワイヤフレームやポイントクラウドみたいな、サイバーっぽい表現にしか使えない」って思えてくる。Kinectはただ単に13ビットの深度情報を撮影でき、そこからソフトウェア的に体の関節の動きを解析出来るツールでしかなくて、別に”でじでじ感”の欠片もないビジュアライゼーションに使ったって良いはずなのに。

話が逸れてしまったけど、少なくとも僕は、たまたまそういう作品が多かったっていうだけで、「ビビッドな配色」をジェネラティブアートにおける「制約」側の表現に間違えて分類していて。その中で、別にジェネラティブだからといって、 rgb(115,190,192) みたいな淡い色は禁止されてるワケじゃないって気づけたことで、勝手に自分に課していた発想の足枷を一つ外すことが出来たような気がした。

勝手に「制約」だと思い込んでいるだけで、実はただの「あるある」じゃないかって疑ってかかる癖をつけておくと、ふとした拍子にあたらしい佇まいをもった表現に辿り着けると思う。