Baku Hashimoto

橋本 麦

あるある

ジェネラティブアートって、「手段がジェネラティブ」ってだけなのに、誰が決めたわけでもなく「ジェネラティブアートっぽいトンマナ」があるよね。矩形、楕円、線みたいな、プログラミング的に描画しやすいグラフィックスに寄っていくのは当然っちゃ当然なんだけど。

配色がビビッドなのもひとつ「ジェネっぽさ」かも。RGB値をカラーパレットからではなくて数値で指定する仕組みだと、無意識にキリの良い数値を選んでしまうし。

と思って前電子回路っぽいパターンが作れるやつ作った時は、エディタのテーマでおなじみのSolarized Darkをモロパクリしてみた。あえて配色を微妙な中間色に寄せてやることで、少しだけジェネっぽさが無くなったように思えた。あと、Adobe Kulerで配色決めちゃうのイイ。今朝書いたやつも、Kulerの適当なテーマを引用してる。

![](/wp-content/uploads/2014/09/housha-kanjo.png)


あるジャンルの表現を、メディアの特性や制作者の経済的にどうしてもそうならざるを得ない「制約」と、ただ単なる「あるある」とに分けて考えると見通しが良くなる気がする。

例えば、屋外のプロジェクションマッピング。ビビッドな色彩を使わなくてはいけないのは、街の反射光を拾って幾分薄く見えてしまうのを防ぐための「制約」で、壁面がさいの目切りになって崩れ落ちていくのは「あるある」。高校生の自主制作ドラマが、ハリウッド映画に比べてショボイのは「制約」で、なぜか、審査員ウケを狙ってか高校生らしい教訓めいたオチになるのは「あるある」。

この両者を取り違えて、「あるある」側のものを「制約」だと思い込んでしまう事が往々にしてあって。Kinectを使ったインタラクティブアートに触れているうちに、段々「Kinectはワイヤフレームやポイントクラウドみたいな、サイバーっぽい表現にしか使えない」って思えてくる。Kinectはただ単に13ビットの深度情報を撮影でき、そこからソフトウェア的に体の関節の動きを解析出来るツールでしかなくて、別に”でじでじ感”の欠片もないビジュアライゼーションに使ったって良いはずなのに。

話が逸れてしまったけど、少なくとも僕は、たまたまそういう作品が多かったっていうだけで、「ビビッドな配色」をジェネラティブアートにおける「制約」側の表現に間違えて分類していて。その中で、別にジェネラティブだからといって、 rgb(115,190,192) みたいな淡い色は禁止されてるワケじゃないって気づけたことで、勝手に自分に課していた発想の足枷を一つ外すことが出来たような気がした。

勝手に「制約」だと思い込んでいるだけで、実はただの「あるある」じゃないかって疑ってかかる癖をつけておくと、ふとした拍子にあたらしい佇まいをもった表現に辿り着けると思う。