橋本 麦∿Baku Hashimoto

normalize.fm #50 付録

Web業界だと知らない方は居ないであろうdoxasさんによるPodcast『normalize.fm』にお呼び頂いた。出演、というより、感覚としてはDiscordでの作業通話ではあったけれど。映像と同じく、考えについてもプリレンダーしたい気持ちがあるので、普段こうしたリアルタイムで語らう場へのお誘いは基本的にお断りしてしまっている。ただ、業界の中で「編集者」的な立ち振舞いをされている方への感謝の気持ちもあり、特例的に承諾させて頂いた。広告映像における林ナガコさん山本加奈さん、アニメーションの土居伸彰さんDIESKEさん、The CollectiveのAsh Thorp、MASSAGE MAGAZINEの庄野祐輔さん土屋泰洋さんのような方々への敬意にも近い何かをdoxasさんにも感じているので。

普段こうした内容を口に出すことがないので、案の定、暗喩表現の多い不親切な語りになってしまった。3時間半も聴いてくださった一桁台の方に向けて、補足事項などを書いておきます。


ピューリタン的な労働倫理

「働かざるもの食うべからず」を無意味に小難しく言っただけ。マックス・ウェーバーは真面目に読んでません。ごめんなさい。

パターナリスティックなUX

「ジャムの法則」「ドリルの穴理論」のようなおせっかい心を、デザインや創作のような探索的(explorative)な分野に適用することへの忌避感をルー語っぽく表現してしまった。「銃で足をぶち抜く」はここからの引用:

何をする場合でも、ユーザーにはただ一つの方法しか与えてはならず、その方法は誰の目にも明らかでなければならない。間違いの起こる余地を極力なくし、そのためには選択肢の制限もやむをえない。UNIX的な柔軟性や順応性の行き着く先は混乱でしか無い。 Atariのアプローチからは、一般人にピストルなどもたせたら自分の足を撃ち抜くかもしれないという考えが読み取れる。これと対象的に、UNIXシステムは、初心者にピストルどころか突撃銃を押し付け、20発の弾を込めた上で、重厚を足に向けさせてやる。

UNIX的なアプローチが大混乱を引き起こしかねないことは容易に想像がつく。UNIX環境は選択肢にあふれ、制約がほとんどない。何をする場合にも、10通り以上の方法があるだろう。このとりとめもない自由が、初心者の神経を絶えられるぎりぎりまで追い詰めてしまう。コマンドを選び間違えてデータを破壊し、どうしたらよいかと途方にくれる。しかし最後には、ほとんどのUNIXユーザーの混乱は、UNIXを理解することによって静まっていき、ユーザーは人為的な制約より柔軟性と順応性とを好むようになる。

Mike Gancarz『Unixという考え方』 p.137、芳尾桂 監訳

WebGL界の柳宗悦

エピソードが公開された週末に観た『美の壺』で、名前の読みが「そうえつ」ではなく「むねよし」だと知って顔から火が出た。どちらでもありっちゃありらしいけど。当時芸術と見なされてこなかった職人による日用雑貨や工芸品に美的価値を見出すという民藝運動の提唱者。

HSVは色空間としてクソ

HSV(HSB, HSL)は、いうなればRGB色空間を斜めに串刺しして円柱座標に変換したもの。ディスプレイにとって都合のいいRGB色空間と、人が感じ取る 色相 / 彩度 / 明度 といった認知的パラメーターが張る空間との中途半端な中間地点を取っている。実際、HSVの彩度100%、明度100%での色相スライダーを眺めてみると、緑の領域は広く、黄色やシアン、マゼンダの明るさは赤や緑より明るい。そして青は同じ明度とは思えないほどに暗く落ち込んでみえる。

こうした色空間に対して、認知的に均一な色空間(Perceptually Uniform Color Spaces, UCS)というのも提唱されている。Oklab(Okhsl)が有名。最近だとHCTなんてのも。Googleのデザイン言語であるMaterial Design(Material You)でも使われており、可読性の高いコントラストを維持しながらUIの各カラーを算出するのに認知的な均一さが一役かっている。

「カラーピッカー、90年代から変わって無くね?」論文

加藤淳さんに教わった。HCI研究者のNolwenn Maudetさんの博士論文『Designing Design Tools

4次ベジェ曲線は曲率連続

適当なことを言った。3次ベジェ(通常のベクターツールで用いられる、始点と終点にハンドルが一つずつある曲線)はすでに曲率連続(C2 continuous)。4次ベジェは恐らく「曲率の変化率」が連続(C3 continuous)。2023年現在、個人的に世界一わかりやすいスプライン解説動画もついでに貼ります。

Straight-AheadとPose to Pose

このブログがわかりやすい。

Animation Obake: Straight Ahead and Pose to Pose(ストレートアヘッドとポーズトゥポーズ)

この辺の話は、ビデオサロン誌のウェビナーに登壇した際にも触れています。(33分付近)

VSW171「クライアントワークには役立たない 道具制作から始める愉しいモーションデザイン」(講師:橋本 麦)

CBCNET

www.cbc-net.com

思い入れのあるWebメディアの一つ。『君と僕とインターネット』には、hydekickさんと学生の頃に出たことがある。栗田さん萩原さんの知識の深さについていけず、苦い思い出。収録後に事務所のキッチンで、◯◯は観てない?flapper3山本太陽君はこの辺ちゃんと追ってるみたいだよー、と教えてもらって、点で追ってた映像カルチャーを真面目に深掘りしようと思った。非公開になっててほっとした。(これもある意味デジタルタトゥーとして残しておくべきだったのかも)

時代的耐久性を見据えた文化的こねくり回し

Webサイトをハードウェアごと収蔵する美術館

適当にNew Museumと言ってしまったけれど、Rhizomeな気もしてくる。うろ覚えなので、どなたか教えてください…。

建築家か花火師

よく使ってしまうたとえ話。「残るから偉い」ではなく、刹那的なものであってもその瞬間の「わ〜」にも価値はありますよね、っていうのを中立的に表現したいときに便利。

花火か建築か、に関連しているかはわからないけれど、谷口暁彦さんのこの漫画をふと思い出した。

マンガでよむ たにぐち部長の美術部3D – メディア・アート編-

Web Designing誌のマーケティング雑誌化

Web Desining(ウェブデザイニング) 発売日・バックナンバー

(ポスト・)インターネット・アート

インターネットアート – Wikipedia

上京直後にICCで展示「インターネット アート これから – ポスト・インターネットのリアリティ」の洗礼を受け、以後夢中になっていた。一方で、制作ジャンルとしては意識的に距離を置いたような気も。一部のアート好きだけではなく、コマーシャルなWeb制作会社やインタラクティブ業界、クリエイティブ・エージェンシーの方々も、この辺の「インターネット感」をリテラシーとして共有していたと思う。そうした時代感のハブとしてexonemoIDPW(アイパス)が機能していて、周辺の方々が楽しそうにわちゃわちゃしていたのが、下の世代ながら羨ましかった。そういえばW+K Tokyoもこんなドキュメンタリーを作っていたっけ。

付言すると、ハッカー的対抗文化の残り香を継ぐ「ネット・アート」と、インターネットが遍在して以後の「ポスト・ネット・アート」にはアティチュードに隔たりがある。この辺の感覚はGuthrie Lonergan『Hacking vrs. defaults』から何となく読み取れると思う(谷口暁彦さん訳)。

早起き

アサヒカメラ

写真家の小林健太

アート系のメディアではないからか、このインタビューが特に面白かった。昔からのファンです。

この線は、トラックパッドで指を動かした軌跡なんですが、指の動きの連続性を表現できないかなと思ったのが出発点です。ブラシの濃度を変えたらこの表現が生まれました。(中略)デジタルにも質感があると僕は考えていて。パソコンの処理速度は、どうしても自分の指のスピードより遅くなるので、モニタ上では実際の指の動きを追いかけた軌跡ができますよね。指の動きに対して、軌跡がゆっくりと変化していく。すると視覚的な重みや質感が感じられて、まるで重たい液体をかき混ぜているような感覚になるんです。

テレ朝POST » 写真は「真」を写すのか?デジタル世代の写真家・小林健太が挑む写真表現の可能性

塗り絵批判

僕はむしろヤコーさんのこういう態度に痛快さを感じている。小林健太さん然り、写真の真正性への幻想を別の角度から斬ってる感じが。

桜の名所で撮影された「奇跡の1枚」が話題! 「これは恋愛成就しそう」「天才…!」- Buzzfeed

「なんとか部」は恐らく東京カメラ部。

意義深い音楽活動

10年代、ネットレーベルが国内外で盛んだったころから、ヤコーさんはGo-QualiaさんとBunkai-kei Recordsを主宰されている。同人音楽的なノリをルーツとしながらも、権利関係をクリアした上でCreative Commons(BY-NC-SA)ライセンスを全作品に付与したり、CCライセンスを利用したリミックス・コンピレーション(その名もCCCD; Copy-Controlled CDをもじったCreative Commands Compilation Data)をリリースされるなど、フリーカルチャー運動の動向をかなり意識的に取り入れていた。精華大のこの記事でご本人が活動について振り返っている。

フリーカルチャー運動は実は特に思い入れのあるムーブメントで、それまで別々に追ってきた音楽や映像カルチャー、インターネット文化、そしてハッカー・カルチャーが一つに交錯するアツさがあった。メイキングやツール、話してるところの動画をできる限り二次利用可能な形で公開しているのも、この辺の思想の影響が多分にある。

提唱者のローレンス・レッシグ(アーキテクチャの考え方は制作やツール開発に生きている)も、著書の多くを翻訳された山形浩生(最近、一部界隈で物議を醸した翻訳本のあとがきを『某山形氏』呼びで批判したらエゴサに引っ掛かってソーシャル・ディスタンスされた)も、この辺の実践を日本に紹介されたドミニク・チェンさんもみんな好き。いや、話が逸れた。

この辺の動向も含むネットレーベル文化は永野ひかりさんの論文「フリーミュージック/フリーコンテンツ —インターネットレーベルと初音ミク現象に見るコンテンツ制作者の未来」が総括されている。必読。

山登り、局所最適と広域探索

適応度地形のアナロジーをよく持ち出しがち。生物学や機械学習の分野で用いられる概念。視覚的にわかりやすいGIFもつくった。この記事でパブリックドメインのもと公開している。(利用例

鉄塔さんの写真展

愛聴しているPodcastのImage Castのスピーカーでもあり、エンジニアの友達の鉄塔さんが2022年に企画したグループ写真展。彼が自作した3Dプリント製レンズ TETTOR(テットール)をそれぞれが用いて撮影した。本音を言うと、写真を「作品」として発表するのではなく、カメラメーカーの製品展示会や写真展のトーンをほんのりと擦るシミュレーショニズムっぽい感じ(印象としては明和電機が近い)のほうが、僕の周辺に限っていえば届きやすかったのかな…?という反省がある。その辺のノリは自分の出展タイトルや、装丁・編集したTETTORのZINEに込めてみた。

トークイベントに関しても、出展者同士で展示を振り返るのも楽しいですが、たとえばucnvさんgnckさんと鉄塔さんが一対一で話す形式だと、それはそれで芯の食った議論になったような気がする。SUB-ROSAのtakawoさんとucnvさんの対談のようなマジックが起こりそう。そういうシーン違い(メイカーズ・ムーヴメント/テキストサイト文化の鉄塔さんと、美術/美学畑)の人たちが事故的に交わる場を、両方が好きな身としてセッティングしてみたいなぁと常々思ってる。結果に責任は負えないけど。

落合陽一さんに拾われたのはコレコレ。ツンツンしておきながら数年後には共作してそう、と周りの人に言われる。薄っすら自分もそんな予感がする。

少しでもマシな映像を作りたい

大好き

頭の中でつい使ってしまう分かりづらい口癖

  • アウラメディウムコンセプチュアリズムプロップスマイクロドージングノブレス・オブリージュ: 相応しくない場面に限って、やけに仰々しかったり、軽々しい言葉を使ってみたくなってしまう
  • アティチュード: 態度と言い換えても良いのだけど、音楽でいうアティチュードには独特のニュアンスがある気がする。あるトーンやノリを受け入れた上で比較可能な「センス」や「スキル」ではなく、もっと手前の話というか、そもそもどういった方向性の精度を「センスがある」「スキルフル」と見なすか、という価値観について言い当てた言葉だと思っている。
  • 「公共の福祉に殉じる」: 制作者にとって、過去の稚拙な作品を忘れさってもらうのは重大な権利だが、文化の発展のためにはその権利は部分的に制限され、後続の人たちに晒され続けなくてはならない、という趣旨を大げさに表現している。

恥ずかしい読み間違い

  • 人月: ✕ 「じんつき」 ◯「にんげつ」
  • 悪手: ✕「あくて」◯「あくしゅ」(フリーレンのセリフで気付いた)

ここで触れていることって、知ってる方には今更感はある気がするのだけど、今一度ちゃんと整理して語り直すことは、色んな意味ですごく、こう、Web業界を「文化」として捉え直すのに意義がありそうな気もしている。僕はその意味であまり適任ではないので、このPodcastで開陳してしまった雑なFlasher史観を叩きに、みんなで正史(カノン)を編纂できたら楽しそう。

そういえば、「Web作品の残らなさ」に関連して、高三の頃に衝撃を受けた『SOUR – 映し鏡』が10年でもってドメイン失効しているのを、いつもの調子でXしたら、作者の一人の清水幹太さんに引用Xされ、色々あってソーシャル・ディスタンス頂かれた。これはだいぶ「オーバードーズ」に当たるかも。このしょうもなさもまた、相対的に丁寧な暮らしをしているという実感の糧にしてもらえたら、僕(ら)としては本望です。

あと、感想をX頂いた方、絵日記にしてくださった方、Podcastで言及してくださった方、ありがとうございます。

メタマウンティング・ゲーム

気づいたらマウンティングの話をあまりしなくなったなー思ったので、忘れてしまう前に20代の独自研究をまとめておきます。


年収、地方都市の中心駅への近さ、フォロワー数など、大雑把に定量化・比較できる尺度で競うことを「0次のマウンティング」と呼んでいる。これはチンパンジーが馬乗りになり力の優位性を示すように、もっとも原義に近い動物的なマウンティングだ。しかし考えてみると、そもそも「マウンティング」という言葉の発明そのものが、そうしたせせこましい競争を繰り広げている界隈まるごとへの見下しであって、それもまた一つのマウンティングといえる。こうしたマウンティングを「0次のマウンティングに対するマウンティング」、つまり「1次のマウンティング」とここでは呼ぶ。イケハヤさんの「まだ東京で消耗しているの?」は、東京という都市において見下し見下され、個人としての内面的な幸福より外面的な成功に心血を注ぐ競争社会全体を俯瞰し、地方移住という視点から無効化する意味では、日本一有名な1次のマウンティングだ。

そんな話を聞かされると、面倒くさいことをしとりますなぁ、もっと気楽に生きたら良いのに、と思うかもしれない。しかし、そうした老婆心を1次以下のマウンターに間接的にでも開陳した時点で、それは「マウンティングから降りた」マウンティング、つまり2次のマウンティングとなる。そのことを2次のマウンターに指摘する(= 3次のマウンティング)時にありがちな反応が、「いやいや『降りた』とかでなく元から土俵に上がったつもりは無いから」だ。しかし、本当にそう言い切れるのは、競争せずとも見下しせずとも、自己肯定感を自己供給できるだけの健やかな環境に生まれ育った人だけだ。だから、こうした話題にそもそもピンと来ないのが、本当の意味で土俵に上がってない人、つまり「マウンティングからの他者」の正しい反応。

そんなしょうもないマウンティング論を飲み会でお披露目したとき、ある画家の方から「麦くんは何歳の頃からマウンティングされているのですか?」と、素朴な眼差しで訊かれた。場がなんとなく面白がる雰囲気になっていた中での、とても人当たりの良い素敵な方からのこのズレた質問こそが、マウンティングに勝ったわけでも降りたわけでもない、他者を体現していると思った。謎の敗北感。しかし、本人からしてみたら勝ったつもりなどさらさらない。(そうした話題へのアクロバティックな嫌味という可能性もそれなりにあるのだが、ここまで気品ある刺し方ができるのはどのみち高次からのマウンティングだと思う)どれだけ次数をあげようとマウンティングに囚われている身としては、彼女のようなアティテュードこそが永遠の憧れだ。しかし一度でもマウンティングという概念を意識してしまった時点で、「ピンクの象のことを考えるな」よろしく、マウンティングというものを知らなかった状態、ピンと来ていない状態には戻れない。少しでもマウンティングからの他者に近づこうと努力したところで、行き着く先はせいぜい達観であって、しかもそれはその境地に至らなかった低次のマウンターに対する差異化としての偽装された達観でしかない。

このようにマウンティングというのは、ある尺度での良し悪しを脱構築する方向に拗らせるのが通常運転であって、何かに対する競争心、嫉妬心、向上欲のメタ認知の積み重ねで、より高次の、より面倒くさいマウンティング野郎へとアセンションされていく。0次のマウンティングに留まり続けられるのは、そこで価値とされる尺度上の勝者のみで、彼ら/彼女らから見た高次のマウンターは、そもそも接点が無いか、あるにしても負け犬の遠吠え、なんちゃってニヒリストのように映っている。それでもなお、ある次数において完全試合ができなかったマウンターにとって、マウンティングの次数を上げていくことは自衛であり、一つの救済だ。

3次以上のマウンティングは、空気の読み合いに近づいてくる。マウンティング野郎に対する直接的な俯瞰行為もまたマウンティングだと気づける程度に自意識過剰さをいたずらに発達させたマウンターは、決して言葉には出さないし、表情にも出さない。キツいマウンティング空間から離れた後に、彼らをまるごと見下するようなツイートをしたためて、(彼らが知っているであろう数少ないメディア・アート界のセレブリティこと)落合陽一氏にQTされて妙な脳汁を味わうのも、こうした文章を書いては一歩俯瞰したマウンティング構造を解き明かしたつもりになるのも、マウンティング界においては比較的低次といえる(という自己批判を欠かさないことも、3次以上のマウンティングの特徴だ)。また、マウンティングを通してしか自尊感情を満たせない人をある種の弱者とみなし、社会奉仕としてマウンティングを取らせてあげるというマウンティングもあり得る。


最近、数学の一分野である圏論を生半可に学んでいるので、クソ雑になぞらえて今一度概念を整理してみる。こういう衒学趣味じみた例え方もまた、進んでマウンティングを取らせてあげるタイプのマウンティングとして生暖かく受け取って欲しい。

マジで適当な図示

0次のマウンティング圏は、ある尺度を通して序列化できる全順序集合だ。対象はその圏で価値とされる尺度を持った個(個人、会社、家庭)、射は「マウンティング」。0次における尺度は一意に大小関係が定まるので、A → B、B → Cというマウンティングが成り立つなら、A → Cというマウンティングも成り立つ(推移律)。しかし、BやCの視点に立つと、Aから永劫マウンティングされ続けるのは癪に障る。そこで奴らが取りうる戦略は2つあって、1つ目が、トランプゲームの大富豪の「革命」のように、射の向きを逆にとることだ。これを「0次のマウンティングの双対圏」と呼ぶ。わかりやすい例が年収マウンティングに対して「嫌儲」「清貧」という概念を打ち出すことだ。しかしこの場合も、富めるか、貧しいかという尺度に囚われれていることには変わりない。そこで、こうした尺度自体を無意味に帰すよう、「まだ東京で消耗しているの?」と序列化構造全体をマウンティングするのが2つ目の戦略だ。それを冒頭では1次のマウンティングと表現した。 1つめの戦略と区別するために、こうした脱構築的なマウンティング手法論を以後「メタ・マウンティング」と呼んでみる。彼らは0次のマウンティング圏をメタ・マウンティングしているという点で大枠同じ方向を向いているが、彼ら同士でもまた「より『粋』で『力の抜けた』メタ・マウンティングが出来ているか」という尺度でのマウンティングがなされている。0次のマウンターの精神を逆なでするイケハヤさんのやり口は、1次のマウンティング圏においては恐らく大多数からマウンティングの対象となっているのだろう。

そこから先ほど述べたように、2次、3次とメタ・マウンティングは高次になっていくのだが、こうしたメタ・マウンティングも、普通の意味でのマウンティング同様に圏をなす。この場合の対象はマウンティング圏そのもの(=マウンティング手法論)、射はメタ・マウンティング(マウンティング手法論に対するマウンティング) だ。0次のマウンティング圏と異なるのは、推移律も成り立たなければ、XとYとがお互いにお互いをメタ・マウンティングし合っていることもあり得る。0次のマウンティング圏はひとつなぎの数珠のような明快な形をしていたが、メタ・マウンティング圏は、お互いに絡み合った複雑な形をしている。しかし0次付近のマウンティング圏同士は、「まだマウンティングしてるの?」「まだマウンティングがどうとか拗らせてんの?」というように、比較的一本線に近い構造をしているので、1次、2次…、と番号付けしてもそこまで実態からは離れない。

こうしたマウンティングの階層構造について思い巡らすにつけ、一度でもマウンティングに足を踏み入れた者には悲観的な将来しかないようにも思えてくる。ただ、ぼくが思うのは、マウンティングからの他者のもつ素朴さへの永遠に到達できない不断の歩みこそが、傍からはより拗らせているように映る一方で、本人の心には平穏をもたらすということだ。……というと話が胡散臭くなるので、もう少し地に足ついたことを言うと、恐らくぼくらがマウンティングとかいう不毛なことを気にし始めたのは、決して自分たちだけの責任ではないんじゃないかと思う。程度に差はあれ、閉鎖的環境、抑圧、色んな外的要因のなかで、勝たないと、出し抜かないと、という気持ちが芽生えてくるわけで、それはあまり本人にどうにかできるものではない。そんな手負いの状態から出発し、人並みに気の良い振る舞いが出来るようになったとしたら、それは元から健やかに育って機嫌よく過ごしている人以上に頑張ったと言って良いんじゃないかと思う。自分を褒めたって欲しい。マウンティング野郎としての自分のさもしさを必要以上にさもしいものとして自卑するほど、自分より低次のマウンティング圏に対するメタ・マウンティングはより苛烈なものになってしまうし、理想とする機嫌の良い他者から離れていく。だから、ウィズ・マウンティングな心持ちで、マウンティング意識というものから過度に解脱しようとはせず、スタンディング・デスクやスーツ着用と同じ、理性に緊張をかける程よい負荷として味わうくらいがちょうど良いのではと思う。

また、もう一つ、「自分を直接メタ・マウンティングしてくるのは一つ高次のマウンティング圏のみ」という重要な法則もある。なぜなら、n次のマウンティング圏にとっての最大の恐れはn-1次のマウンティング圏と同じ土俵に立ってしまうことだからだ。それゆえn-2次のマウンティング圏にメタ・マウンティングすることには特段慎重になるし、少なくとも直接交戦は避ける。その意味では自分を直接メタ・マウンティングしてくれる存在というのは、遠からず自分と近いアティテュードを通過してきた人たちであって、高次のメタ・マウンターへと移行していくための道標といえる。もちろん高次ほど良い、エラいというわけではない。しかし、より高次のマウンティング圏へと自らを引き上げ、健全に拗らせを深めることで、少なくともより楽な状態には近づける。

小野ほりでいさんが書きそうなことを数倍しょうもなくしたような分析だったけど、このしょうもなさの言語化に心地よさを覚える程度に自分のしょうもなさに自覚的な、かつ自らのしょうもなさにそこまで自卑的でもないしょうもない人というのは、自分を含めてそれなりに居る気がする。

一億総クリエイター

「一億総クリエイター時代」の帰結が、それっぽいものを作る技術がコモディティ化して、ギグエコノミーに買い叩かれる世界になりそうな気がしてならない。

とか昼飯作りながらツイートしてたら、伊藤ガビンさんや中村健太郎さんから反応があった。適当に言ったので正直あまり深くは考えてない。

そんなことをぼんやりと呟いたのは、モーションデザイナーの友人と「10年前に比べて制作人口もレベルも圧倒的に上がりましたね」という話を最近していたからかもしれない。Twitterから#b3dで検索をかけると超絶クオリティのグラフィックが無数に見れる。ある友達が「クサ歌詞キネティック・タイポグラフィー」と形容していたタイプのビデオもタイムラインによく流れてくるようになった。いや、揶揄したいというより、ゆるっとした諦観に近い。あるスタイルが流行り始めると数カ月後にはチュートリアルがアップされ、焼き畑農業的に消費されることで数年後にはひどく古臭く見えている。そのサイクルは年々早まりつつある実感もあって。自分もいつか感覚のアップデートが追いつかずに「ホワイトキューブ上で磁性流体がウウネウネする」系の演出を10年後やらかしているんだろうな。既にそうかも。

田島さんも多くのフォロワーを生んでいる気がするけれど、その追従をものともしない強度があって尊敬する

そんな自分も、高校生で映像を始めた当初は「それっぽい」ものを作る喜びに素直だったような気がする。色んな映像を参考にして、学校祭や部活動紹介ビデオでMTVのIDをパクった映像を流して悦に浸ってた。

これは高校三年間のリール。もう10年前になるけれど、今観ると非常にヘボい。曲もアジカンだし、バチバチに拍を拾った編集も笑う。一方で、当時は周りに高校生でこのレベルのものを作る世代が現れたとは…という扱いをされていた。今では想像がつかない。

その当時において、どれだけナウくて「これぞ最終形態」と受け止められていたルックでも、10年経たずしてポートフォリオから消し去りたくなるという儚さを身を持って実感している。「それっぽさ」への憧憬は、初期衝動としては健全なような気もするのだけど、それが作品の強度たり得るのは作り手が若いか、その「ぽさ」が消費され尽くすまでの数年でしかない。去年、ある若い方々が作られたビデオを観てとても衝撃を受けた。だけど、一方でこのフレッシュさというのは(友達に免じて例示を許してほしいのだけど)bait斎藤氏とモデラーの森田氏が共作した2014年当時の「FACT – ape」くらいの感じにも思えた。そして、彼らのビデオも、そして彼ら自身も、かつてはフレッシュとされていた、よくあるプロ集団の一つとして埋もれていく気がした。

そんな気持ちを同業の人に漏らすと、考えすぎでしょうといなされる。その瞬間瞬間で最高なものと思えるものを作れれば、数年後にダサく見えてもその価値まで無かったことにはならないんじゃない? と。それはそれで真実かもしれない。ただ「今見てもちゃんとヤバいものを過去に作っている」状態が不可分に自尊感情と結びついている面倒な性格の持ち主として、一つひとつの作品の良さは細く長く持続してほしいという思いがある。「その都度自分の感覚を更新し続けるまでよ」というマッチョな意見も頂くことがある。そのスタンスもまた力強くて尊いのだけど、僕個人としては十数年後おじさんになった自分のキャッチアップ力をさして信頼できない。この辺のひんやりとした感情というのは、CGIやモーションデザインに限らず、実写においても抱えてる方はいるような気もしていて、Clubhouseのダウナー系ルームでそういう話をウジウジしていると少し救われる。

ちなみに僕なりの解決方法は2015年にgroup_inouのMVを作ったあたりで見えていて、「ぽさ」以外に強度の軸足を置くのはもちろん、あまり後発の人に擦られそうにない映像技法を自分で開発する、センスよりも知的興味を信頼する、とか色々試行錯誤はしている。どれだけ上手くいったかの答え合わせは十年後になるのだろうけど。

🌊

同調圧力と聞くと田舎の村落共同体の陰湿な感じを思い浮かべるけれど、実際のところ僕らの世代でいう「KY」くらいのカジュアルさをもって若者にも浸透している。年齢差別も、「BBA」「オジサン」のようないかにも香ばしいタームや中高年の再就職問題が目の敵にされがちだったりする。だけども、リベラル寄りの多いこの業界でも、何某のアワードのダラッと並んでる各国の審査員クリエイターの中で日本人だけ書き出しが「Born in 19xx..」と揃っていたり、キャリア論の流れで n歳までに○○する流れは間違いなくて… などとか知り合いの方が穏やかに仰ってたり、そのレベルではふんわりと染み渡っている。

最近僕も、遠からず近からずな業界に転職しようとしている身近な人を、ポートフォリオサイトを作ったりその方面の知人に相談する機会を設けたりと、出来る範囲で応援している。一方で、これはもう一歩踏み込んで口利きなんかし始めると、まさに「コネ」とかいうヤツになるのだなとも思って。

僕らを日々ムカつかせる旧態依然とした価値観を思い浮かべる時、あからさまな排他性や悪意を孕んだドロドロを想定しがちなんだけど、それらは実際のところずっとアンビエントかつほんのりとした善意と軽やかさをまとって僕ら自身の行動規範にサラリと溶け込んでいるように思えてならない。ちょうど海面を揺らすさざ波のようなもので、ほんの時たま四方から波が集まることで、大波となり飛沫を上げては悪目立ちする。それに心を乱された僕らは、その尖点の高さだけに気を取られて、けしからんと叩いたり、アレにはなっちゃいかんねとか反面教師にするのだけど、結局その大波ってのは独りでに生まれたわけではなく、ほんの十数cmのさざ波の重なり合いが傍からはその高さとして観測されたに過ぎない。いろんな諸問題がこれだけ世の中をざわつかせてるわりに一向に解決されないのは、そうした「さざなみ性」を見落としているというか、「社会悪は一部の悪い奴らの悪い品性に還元することができる」という前提が間違っているからなんじゃないかと思っている。

別に、皆の連帯責任だよねとか、悪の凡庸さといった話で終わらせたいわけでもなくて。ましてや全員がさざ波に加担している以上、人のこと指差せないよなとか、逆に免責されると言いたいわけでもなく。悪の実体は、そもそも個々人に内在する性質ではなく、人と人との相互作用の中で創発的に生まれる一種のパターンなんじゃないかっていうのが最近の妄想。アイヒマンすら居ない善人からなる集団でも高次構造として悪が芽生えることはあり得るし、むしろその方が多い。んでそんなマクロな悪も、無理やりミクロの要素に分解しようとしたところで、賢明さ、お節介、義憤、軽い冗談 程度のものしか出てこなかったり。勿論そのなかに多少の悪意は無くもないのだけど、その総量は見かけの巨悪が醸し出す禍々しさに比べると微々たるものでしかない。

最近気になるのは、「利権」でも「女性蔑視」でも何でも良いんだけど「お主も悪よのう…」とか「ツイフェミはババァばかり」みたいなあからさまにヤバい奴ら以外の、その手の言説を自覚なしに下支えするサイレントマジョリティーが、その価値観を善良で常識的な精神性にどういう論理でもって自然に溶け込ませているかだったりする。その辺、僕は遠くない過去にモラハラもイジメも、ろくでなし子さんをディスってしまったこともあるし、今でもその時どういう風に「これは世間で叩かれるところの○○とは違う根拠のあるものなんだ」と正当化していたかをガッツリ覚えているので、自己分析だけするでも素材には事足かない。ただなんかこう、これから五輪パラというビッグイベントが控えている中で、そういう分かりづらい悪への想像力と自己相対化なしには、場外エクストリームスポーツとしての石投げを素直には楽しめないなぁと思った。

態度のちゃんぽん

昨晩、さのかずやさんにお誘い頂いて、メディアアーティストの平川紀道さんとトークライブに登壇させて頂いた。

今まで制作環境や仕事論の話をするのを意識的に避けていた。それはなんというか「作品以上に生き方がクリエイティブな人」になってしまったらダセぇなという気持ちもあったりする。それに、純粋に私生活上の都合で地方移住したことに高木正勝的な心境の変化を見いだされたり、「まだ消耗しているんですか?」という妙なステートメントになると気が引けるというのも大きい。そもそもコロナが無かったら今月で東京に戻る予定だったし。

モデレーターのさのかずやさんは5, 6年前から認知しあっていて、尊敬する同世代の一人だ。一方で、これは昨日のClubhouseでも話したのだけど、ある時期まで彼のことを苦手な「企み屋さん」タイプの方だと思ってしまっていて、フォローとリムーブを繰り返していた。意識高いマンとしての同族嫌悪もあったかもしれない。ただ、彼が学生時代から書いていたブログやそれをまとめた書籍を読んでいるうちに、彼の出自に対してアクチュアルな活動をされているということが理解出来てきて自然と近況を追いかけるようになった。地元への愛憎入り混じった感情を抱えた道産子として共感を覚えるというのもある。だから、あまり僕向きではない今回のイベントへの登壇を承諾したのも、今まで冷笑的に見てごめんなさいの気持ちと、納期も守れない駄目人間なりに少しでも彼の活動を手伝えたらという思いが背後にあった。

トークライブ自体は、オンライン開催の常としてこれといった手応え無しに終わった。なるたけ誰も傷つけないように力んだ結果、自卑的なことばかり言ってた気する。その反動か、その後にClubhouse座談会でくっちゃべった時にやたらディスりがちになってしまって、その後布団で反省して痙攣してた。

イベントでもClubhouseでも上手く言えなかったのだけど、制作仲間としてのコミュニティと、存在を薄々感じ合うコミュニティは分けて考えたほうが良いのかもしれないと思った。前者に関していうと、僕はとことんクローズドであって欲しい立場だ。それは同僚のオオクボリュウがチーム作りの秘訣は「余計な人を入れない」といっていたように、本当に感覚の合う人と少数で作る方が純度の高いものができると、経験則として実感しているからだったりする。制作メンバーのやみくもな多様性は、雑多なカラーが足されることで作品のトーンを凡庸な灰色に収斂させんとする。チームの内側の多様性は結果としてシーン全体の同質性へと繋がることはしばしばある。もちろん中間色ならではバランス感や薄味こそが機能として求められる場面もあるので、それが一概に駄目とも言えないのだけど。偶然の出会いが有難がられがちな昨今ではあるけれど、本当の制作仲間は、作品のヤバさだけを基準に偏屈に探し合うのが良いのではと内心思う。コワーキングスペースやコミュニティベース、交流会の場で、成果物もお互い知らずに「なんかオモシロいことしましょう!」と近寄ってくる人は根本的に信頼してない。

一方、「存在を薄々感じ合うコミュニティ」については、僕はとことん多様であって欲しい立場だ。単に業種やスタイルの違いに留まらず、そもそも意思疎通もままならないくらいに「ノリ」からして違う人同士が事故的に同じ場に居合わせてしまうことで、自分のアティテュード(態度)を自問・相対化せざるを得ない状態に身を置くよさは確実にある。そういえば以前さのさんと食事した時に、「スキル < センス < アティテュード」と、三層構造を成しているという話をしたような気がする。同じセンス体系の中ではスキルは比較可能で、同じアティテュードの中ではセンスは違いを超えて相互評価し合える。しかし、違うセンスの元ではスキルは序列化が出来ないし、根本的にアティテュードが違うもの同士ではセンスについての言語が違い過ぎて会話が成立しなくなってしまう。例えば、デイリーポータル的なセンス体系の中ではライティングスキルはある程度定量化できる。デイリーポータルZ新人賞はそれゆえに開催できる。デイリーポータルとオモコロも、センスの指向の違いはあれど、インターネットオモシロコンテンツクリエイターとしての根っこのアティテュードにそれなりに共通するところがあるので、ある程度はお互いに認め合える。だけど、オモコロとユーフラテスは、世の中の事象の「面白がり方」、そしてそのコンテンツへの昇華の仕方にあまりに態度の違いがあり過ぎて、恐らく意思疎通ができない(ような気がする)。実際、業界としてもきっぱり別れている。

今居るINS Studioには、映像でいえばAC部にオオクボリュウ、そして僕が所属しているのだけど、本当に三者三様で、全員の共通点はgroup_inouのMVを作ったことくらいだ。というか、僕以外は本当にみんなカッコいいし凄いので、こういう「僕の居る環境ヤバい面子揃ってまっせ」なんてダサいアピールは僕くらいしかしない。だた、元々僕もオオクボリュウの作品はよくあるおしゃれ美大生アニメーション位の粒度でしか捉えてなかったし、「すべてがFになる」のEDをオオクボリュウに見せたときも、麦ちゃんの映像は密度感が凄いね〜くらいの雑な感想をくれた気がする。

しかし、そういう根本のアティテュードからして違う者同士が、コラボレーションは一切しないながらも近しい空間で黙々と作業していることで、自分の思う「センスの良さ」「技術的すごさ」「映像の気持ちよさ」が実は業界の内側の局所的な価値観でしかないという事実を常に突きつけられる。そして、あるセンス体系の内側で細々と先鋭化を図る以上の越境性を作品に持たせんと自然と意識させる。Flash板出身のモーションデザイナーの大好きなドキツいイーズアウトに凝っていた時期に、作った映像を父と同い年の建築家に見せたら「君の映像の動きはいつもキュインとしているね」とこぼされた。なんかそれで急に冷めちゃって、それ以降もうキュインとしたアニメーションは toiret status 氏の音楽への映像以外にはつけてない。そもそもああいう吸着感のある動きが音の質感としてマッチしているのはバブルガム・ベース位だろうし。

この時期に作った映像どれもダサすぎて地面に埋まりたくなる
toiret status 氏の音楽は本当に良い

こうした経験以降、ダサいダサくないのジャッジ以前に、ただただ敬遠していまうような根本的にアテュテュードの違う存在といかに気軽に触れ合うかを意識するようになった。「触れ合う」くらいの雑な距離感がちょうど良い気がする。group_inouのEYEのMVで、ノガミカツキと共作したときは「メディア・アートとしてのコンセプトの太さ」「映像としての気持ちよさ」に対する意識が違い過ぎて喧嘩ばかりしてたので、無理してコラボレーションするのも不健康に思える。

知り合いには意外に思われるけれど、映像イベントのFRENZに毎年行っていた時期があった。友人のmisokabochaにはそれはそれで嫌味っぽいので止めて欲しいと言われたが。モーションデザイナー仲間の荒牧康治さんや千合洋輔さんと作ったfhánaのMVの感想をあえてkoyaさんやシシヤマザキさんに聞いて、案の定「最初の5秒のエディット感でその後のノリが読めてしまって冷めた」という主旨の感想を貰って凹んだこともある。というのを荒牧・千合両氏にLINEで共有したら変な空気になった。本当に悪いことをしてしまった。

そういうのもクソ意識高い上に露悪的な感じがして、さすがに最近は辞めた。とかいいつつ最近Clubhouseで灰色ハイジさん(最近著作を買いました)とお話させて頂いた時、UIのルック的なフェチってあるんですか? という変な質問をしてしまって、これまた微妙な雰囲気になってしまったので何も変わっちゃいない。もしかしたら、むらさき君やさのかずやさんによく絡んでいるのも、「よさ」のニュアンスの話はできなくとも、違う態度の同世代からの視点をどこかで求めているからなのかもしれないと今自覚した。

「存在を薄々感じ合うコミュニティ」の話に戻すと、ともかくそういう意味で多様なアティテュードの人たちに揉まれながら、シーンの内側で暗黙的に良しとされているフェティシズムの追求に時たま虚無感を覚えるような環境はわりと悪いものではないようにも思える。むしろそれこそが僕が個人的に場やコミュニティというものに求める機能なのかもしれない。

Motion Plus Design(M+D)の運営に関わってるHu Yuは2016年にINSにインターンに来て以来の友人だ。最後に会った時、M+DにWeirdcoreJesse Kanda, Cyriakのようなクセスゴ・ビジュアルアーティストが登壇することは無いのかなぁという話になった。パートナーのSteven Tungはそういう非フォトリアル、アンチハリウッドなCGIシーンが案外好きらしく、MVを漁りながら盛り上がった。だけど結局主宰のKook氏のキュレーションなのでそれはそれで良いよねという結論に。いやだけども、「スマホのTVCMや映画のタイトルバック」のようなクオリティを良しとするイベントに、平岡政展さんのようなアニメーション作家や、CGが下手くそな僕なんかがぶっ込まれたこと自体が、既にその意味でのアティテュードのちゃんぽん感を意識してのものだったような気もする。そういえば、昨年末のMPDに辻川幸一郎さんや冠木佐和子さんが登壇したのは個人的にめちゃめちゃ良かった。ダストマンさんやGrayscale Gorillaのチュートリアルをこなし、Ash Thorp, Gmunkを目標とするモーションデザイナーに事故的に届けられる「肛門的重苦」は、良い意味でシーンの価値観を引っ掻き回しそうで、素敵だなぁと思った。

全然話にまとまりが無いので制作に戻る。今日はふきのとうをテクスチャリングする。

行き当たりばったり性

この前imaiさんに持ちかけられて、ちょっとしたビデオを作った。

待たせてしまっている制作が終わるまで他のMVやアートワークの相談は断らせて頂いていた中で、この曲だけ請けてしまうのは気が引けた。だけど、この前imaiさんと長電話した時に全然制作が進まなくて気が滅入ってるという話になり、その翌日くらいに振ってくれたのがこのアートワークとティザー映像で。僕の中では「短尺のを一つでも作りきってみたら気分転換になるかもよ」という計らいとして受け取りつつ、軽い気持ちでやれたのがすごく良かった。久々にツール開発とか考えずに肘から先だけでものを作る感覚を思い出せたような気がする。それでも色んな既成ソフトへの不満や「つくり方を作る」方面へと意識を向かわせるスピりのスイッチを意識的に切って手を動かしたことには変わりないのだけど。

こういう映像を書き出すのが密かな楽しみだったりする。ワンカット系MVで、フレームアウトした美術を慌ただしく組み替えるスタッフたちを俯瞰で撮ったメイキング映像のような滑稽さがあって面白い。最近は、空間的に整合性の取れたレイアウト上をただスムーズに気持ちよく視点がアニメーションするモーショングラフィックスに個人的にはあまり惹かれなくなった。むしろ本来それなりにインテリジェントな使い方をされるべきツールを、作ってる本人もプロジェクト構造が分からなくなる位しっちゃかめっちゃかになりながら、息継ぎ無しに作りきったような動きがとても楽しい。TYMOTEによるクラムボンのMVは、ジンバルロックなんて気にすっか、という適当さが感じられてCinema4Dアニメーション界の私的オールタイムベストでありつづけている。

参考にした作品を他にも挙げるとすれば、illionのMVでもガッツリリファレンスにされていたっぽい、オーディオビジュアル界の名匠ことLucio Areseのこのビデオや

Flyのコマ撮りをし終わった直後に公開されて妙なシンクロニシティを覚えたMoritz Reichartzのラブ風船MVとか。これは伊藤ガビンさんの紹介記事で知った。

本当はこのアイディア自体、Cuusheさんが昨年リリースされたEP、Wakenの曲のうち一つでビデオを作れないかausさんにお誘い頂いた時に持ち込もうと思ってた企画なのですが、それ以前から作っていたビデオが未だに終わってないので先延ばししてしまっていて…。いわゆるオーディオリアクティブ表現って、IDMやクラシックかにあてがわれることが多くて、しかもそのトーンもワイヤフレームがバキバキするかパーティクルがシュワ~と溶けるかのどちらかに収束しがちだったりする。リリース前にT6. Dripのデモをサンクラのプライベートリンクで頂いた時、これまでのCuusheさんのリリースのトーンからの変化含めて色んな意味で感動してしまって。力強いキックでわらび餅が弾け飛び、交錯するピアノで紐グミが細切れになる、ソフトボディな人力オーディオビジュアルが3分半ワンカットで展開したらとても素敵だろうなぁ思って聴き込んでいた。imaiさんの餅MV以降「映像の技法をつくりたい人」という認識を知り合いにはされてるような気がするので、今は逆にナンセンスでただ気持ちいいだけのものを作りたいモードになっている。こうして宣言したのでMV2本絶対作り切ります。


こっからは技術的なコマい話と愚痴。

Houdiniでこの手のアニメーションを作るのはとても骨が折れる。まず根本的に音再生が正確ではないというのは致命的だ。この辺のバグはこの1年ずっとSideFXに報告しているけれど、一向にアップデートがなされない。他のユーザーの方はそもそも手付け音ハメアニメーションをHoudiniでやったことがない(する必要性も感じない)という方が殆どで、僕だけが変な因縁をつけてるようでつらい。ソフト上の再生が当てにならないので、FlipbookをFFmpegでエンコードしてQuickTimeでプレビュー出来るスクリプトを描いた。

また、非破壊的に造形することを前提とした操作感になっているのも手付け中心の制作に不向きな要因で。Houdiniでは何故かベジェスプラインが描けないので、自分でそういうツールを作った。

Non-procedural Houdini assets – baku89

カメラや物体をスプラインに沿わせるのも、標準的な方法だとCHOPsを介したりなんだりして融通が利かないので自分でいい感じのエクスプレッションを組んだ。

キック合わせで弾けるバルーンは、Vellumでシミュレートした3パターンを音に合わせて1つ1つ手動で配置してるのだけど

そういうことをするとSOPコンテクストの下流にグチャグチャな枝分かれと、それを束ねるMergeノードが出現したりする。汚い。

青枠の内側で、TimeShiftとTransformを同時に行った

もちろんパフォーマンス的にも定石としても、1つ1つをOBJコンテクスト上のジオメトリノードとして分離させる方が賢いのだけど、バルーン群全体に対してまとめてポストエフェクト処理をしたい時にそれなりに面倒くさいことになる。だから、レイアウトのような求められるプロシージャル性の低い操作ではツリービューを使えたり、SOPの中にもOBJコンテクストのようにその階層にあるジオメトリ全てが暗黙的にmergeされるようなsubnetが作れたら最高だなとか思ったりもする。

そんなこんなで、HoudiniをいかにもHoudini的でない、雑でチマチマとしたアニメーション制作のために飼い慣らすのに手一杯になっていたのが去年一年なのだけど、このビデオを作ったことで、結局斎藤あきこさんの仰る通り「ツールベンダーは僕のお母さんではない」のだと再実感できて、ある程度は諦めてただ作ろうという境地に至ったのがここ最近。

それでもなおHoudiniに拘るのは、それが可能にしてくれる発想の柔軟さが以前に使っていたCinema4Dに比べとても高いからだ。Cinema4Dは確かに直感的で安定していて、アニメーション作りにも向いているのだけど、ノードベースUIによる造作の自由度が粘土だとすれば、Cinema4DのMoGraphやDeformer同士の限られた組み合わせで表現できるそれは積み木程度に感じる。実際プリミティブオブジェクトの組み合わせで実現できるジオメトリックな造形に無意識に発想が引っ張られるので、耳小骨みたいなやつがスネア合わせでチャチャチャチャっと現れるようにしよう、とか気軽には考えつかなくなったりする。

耳子骨 – Wikipedia

じゃあHoudiniで全部を完結させずにアセットとして作ったものをCinema4Dに読み込ませりゃいいじゃん、とも思って一時期試していたのだけど、パラメトリックに制御されたオブジェクトとしてパッケージ化する過程と、それを配置して動かす過程がワークフロー上分離しているのは、アニメーションから「行き当たりばったりゆえのバイブス」をスポイルする感覚があってそれはそれで辛かった。そういう気持ちも込みで下記のツイートをしたら、こんなリプライを頂いたのでやんわり反論したらブロックされてて40秒くらい凹んだ。

ツールに対して文句をいってばっかりな自分に嫌になったりもする。HoudiniもCinema4Dも気持ちとしては大好きなソフトなのに。ただ一方で、その辺のデザインツールがあるべき設計思想や操作感の答えは既に僕の中でかなり具体的な形で出ていて、Glispの開発を通して世の中に、とはいかなくとも半径50mくらいの知人友人にはプレゼンテーションしていきたいと思っている。あのプロジェクトを通して実現できるのは、一部のハッカーマインドに溢れた人たちだけに刺さるニッチな機能だけではなく、Illustrator 9で不足なく使えてるよって方含めてみんなにとって便利で良いことだと確信しているので。他方で、一介の映像作家としてそんな根源的なことなんぞ考えずにただ映像をシコシコ作っていたい気持ちもあって、常にその板挟み状態なのは変わらない。ともかく、このビデオや、最近続けてる一日一枚グラフィック制作のおかげでだいぶ気持ちが晴れやかになったので、今年はこの感じで突っ切っていこうと思った。

有性生殖論

アルゴリズムとして遺伝を捉えたときの面白さの一つは、アルゴリズムによる個体や種の形質の最適化と同時並行でアルゴリズム自体の最適化もなされていることだったりする。映像やグラフィックづくりに使いやすいオレオレLisp方言について考えてるうちに進化という仕組みそのものの進化論の話を読みたくなって買ったんだけど、年明けそうそうオモロいテキストに出会えて良かった。

突然変異というランダムさをいかにして致死性を持たないように潜在化させながら効率的にDNAに溜め込みつつ、その変異が有利か有害かを検証していくという、いわば遺伝におけるテストシステムの洗練の結果が「性」という理解も自分には新鮮だった。高校の頃二倍体とか色々勉強したけど、あれは雑に言えばRAID 1なんだなと。普段の制作用に使う分には冗長性が大事なのでRAID 1で運用するけど、たまに意図的にグリッチさせたい時には、部分的にぶっ壊れてるかもしれないであろうディスクの片方だけを取り出してそいつのデータだけでまたRAID 1を組むといい感じにバグってるという。(オートガミーという自家受精、有性生殖の一種らしい)ほとんどの場合データファイルの読み取り自体ができなくなるんだけど、ごくたまに元のグラフィック以上にカッコいいグリッチアートが出来る。そんな感じで生殖のことを教われたら、高校生物もっと楽しかったんになー。

表現型の多様性はむしろ異系交配よりも同系交配によって起こるという話も面白かった。考えてみれば似た遺伝子同士を組み合わせれば潜性ホモが作られやすいという当たり前の話なんだけど。ミームに置き換えて言えば、多様な意見がぶつかり合う場で表現が均されていくよりも、閉じた人間関係や自分ひとりの思考同士を近親婚的にかけ合わせて濃ゆく熟成された偏りが(多くの場合致死性のダサさとしてスベって消えていくんだけど)表現の裾野を広げてくれるというのは言い得てるなと思った。

クセ

ここ最近(元)ユーフラテス関係の方とオンライン長電話する機会が立て続けにあった。具体的には山本晃士さんと石川将也さんなんだけど、久々に人と制作の話をしたので、言ってることが支離滅裂になる上に滑舌も最悪でなかなかにひどかった。地元に移住して以降、コロナ禍以前から身近に会える友人との話題が主に結婚や出産とボードゲームの話だったので、そのあたりの言語野が退化したような気さえする。

で、別にそれが本題じゃなくて、僕の中での長年のプチ疑問をぶつけてみたかったんだけど日和ってあんまちゃんと聞けなかったって話。 雑に言ってしまうと「佐藤雅彦研出身者界隈の方々の作るトーンはなぜピタゴラッとしているのか」という至極失礼な質問だ。それを「ピタゴラ感」そのもののオリジネーター達に聞くのも変だし意味がわからない。そもそも僕のこれまでキャリア自体が、藝大院の佐藤研に行けなかったコンプレックスによる反動形成だったりするので、リスペクトと僻みが粘っこく絡み合った謎の感情がその手のマウンティングを自分に取らせるのかもしれない。そういえば、c-projectの作品を一つも観れてないし。ダメじゃんね。

そういえば3年前、FlyのMVのインタビューを伊藤ガビンさんから受けていた時にもそういう話題になった。ガビンさんからの伝聞によると、その疑問に対してとある“研”出身者の方は「そもそも取り組んでいる問題が(佐藤先生と)同じなので」と語っていたらしい。ああいった〈気づき〉や〈認知〉の面白さをより明瞭に浮き上がらせるにはピタゴラ的トーンは一つの最適解で、そこに収斂進化するのは否定的に捉えることでも無いと解釈した。たしかに納得。

そもそもピタゴラ感を見慣れたものだと感じてしまうのは、多分僕が物心あるころから佐藤雅彦さん的ユルさに慣れ親しんでいたからなんだろうな。初めて買ったNEC機にはバザールでござーるの壁紙がプリインストールされていたし、ピタゴラスイッチの放映開始は小5のときだ。だからそれ以前の教育番組に対して、「ピタゴラ」がどのくらいフックのある表現だったか、そして攻めた佇まいだったかを相対視できてない。ただ、ご本人を存じ上げない一視聴者としては、佐藤雅彦さんが作られるものは決してニュートラルでプレーンなものでは無かったような気がする。むしろ不条理とユルさとの不気味な共存関係が、さも教育的な体を装いつつも、作り手の意図しないところで醸されているような不可思議さがあったような。あの作為の読め無さ — どこに焦点が定まってるのか見て取れない雰囲気が、小学生の僕や同級生に妙な引っ掛かりを残していた。あのトーンが、『IQ』しかり、かなり意図的にデザインされていたのを知るのは僕が成人してからだ。

この十数年を経て、「ピタゴラっぽさ」は至るところに浸透してきたと思う。世の中一般の思うピタゴラ感は僕らの想像以上に粒度が粗いので、高校の友達がいうには『テクネ』や『デザインあ』もピタゴラっぽくみえるらしい。(前者に至っては川村真司さんだし…)つまり、あの種のトーンは、良し悪しの話とは全く別に、あまりにフォロワーが多くなりすぎて、フックとしては既に機能していないってことなんだと思う。広告はアートだなんて言われていた感性消費の時代へのある種の反抗として ♪スコーンスコーン…と連呼したあの精神性、エッジーさを今現在に体現するなら、もっと違ったクセのスゴさがそろそろ発明されても良いような気がする。柴田大平さんはその境界を押し広げようとされているような印象を勝手に持っている。

なんか、そういう意識をふんわり抱きつつ4年前に作ったのがこのMVだった。

モノクロームなスナップ写真の、奥行きに対する無意識の予想が裏切られていく浮遊感を表現しようとしたのだけど、その認知的面白さを全面に押し出すならば、まだまだ要素を削ぎ落とせたかもしれない。音楽もエクスペリメンタル系ではなくサラっとした感じに出来ただろうし、ナレーションだって入れても良かった。途中のマーブル模様に映像が溶け出す下りは単にグラフィカルなだけで、映像の技法としての主題を伝えるには蛇足だ。だけど、もしシュッとした表現に削いだところで、観る人は作品から透けて見える作り手のアティテュードの均質性にはとても敏感なもので、サムネイルをひと目観た瞬間に、ああ、そういう感じね、とスルーされてしまうような気がする。たとえ「そういう感じ」が明確に言語化できなくとも。少なくとも自分の中にはそういう強迫観念があって、それが作品に対して天の邪鬼にクセのスゴさを付加させんとしてる。もちろん、目の惹きやすさを安直に突き詰めた先にあるのは国内YouTuberのバカデカいテロップやTwitterの創作実話のようなアテンション・エコノミー地獄だったりするのだけど、あれはあれでまた別種の「そういう感じ」に収まってるとも言えるし。

分かる。反感とまではいかなくとも、なんというか教科書を見てるような気持ちになるときはある。だから、自分が作る側のときも、手法だけをシャープに伝えることへの抵抗感があるし、むしろ、手法とモチーフ、どう澄ました態度をしてみせても混じらざるを得ない個人的嗜好との総体が一つのおぼろげな印象として観た人の記憶に残ってくれれば良いなぁと思う。いや、ちょっとカッコつけたかも。ただ、歴史的にトンチ派っぽく受け止められている作品のエッセンスは、トーンやクセとひとまとまりになってることのが実際多いように感じる。例えばVirtual Insanityのビデオは、床が動く(実際はセットの方をみんなで手押ししてる)というギミックとジェイ・ケイのダンス、クソでかいゴキブリと血が渾然となって一つの世界観を提示している。川村さんが意味深にツイートしたこの有名なビデオも、スケートフィルムというちゃんと分かってる人にしか撮れないフォーマットを選んだことや、西日で白飛びした画の生っぽさが、結果としてとても個人的な感じ(語彙力)を醸し出している。

言っておくと、技法は似ていてもトーンが違うんで、全く別物だと思っとります。個人的にはAC部フォロワーのような、トーンを低い解像度で真似した作品の方がモヤりがちです

だから、面白さの核というのは分離可能なものでも、個別に検証可能なものでもなくて、作り手のクセのスゴさや好みの押し売りと不可分なものなんじゃないかなと思ってる。この辺は自分がラピッド・プロトタイピングや「A4一枚で伝わるシンプルなアイディア」をあまり信用してないところにも通じている。面白さの原器それ単体で伝わる良さはもちろん好き。だけど、作ってる側にははっきり見えていてもエレベーター・ピッチなんぞではとても伝えきれない込み入った情感が、手法・モチーフ・エディット全部がカチッと組み合わさることではじめて創発的に完成されるような良さも、自分には同じくらいに魅力的だったりする。ただ、もし面白さの原器をプレーンに提示しようとするがあまり、なんかそういうクセのある感じに何か拒否感を覚える方がいるのだとすれば、僕の個人的興味として、そういう真摯に表現と向き合ってる方だからこそ、クセのスゴい一面を観たいなと思わずには居られない。もちろん、そういう作家主義的なものの方が世の中に圧倒的に多いなかで、トーンというパラメーターはひとまず広義の「ピタゴラ感」に固定した上でより本質的な部分に集中するスタンスを意識的にとられているはずなので、そんなことを言うのは野暮なのだろうと反省しつつ。


意味からの開放宣言 – 平均律

ちょうどさっき、授業のお礼にと、山本晃士さん個人が主宰されているサークル〈平均律〉の同人誌が届いてとても嬉しい。山本さんは物腰の柔らかさや文章の丁寧さも含めて、つい卑屈になりがちな自分としてはかくありたい方で…。と、色々リスペクトしてる所を書き連ねたいのですが、ヨイショ感がキモいので程々にしときます。ともかく山本さんのグラフィックが好きなのは、真っ当に取り扱えば学術的で凛としたトーンに収まりやすい主題のなかで、物怖じ無くクセのスゴさが発揮されているように思えるところで。パラメトリックなグラフィック表現や識字能力というテーマにおいて、女の子のかわいさは決して本質的ではない。だけど、そういう生真面目なアレコレとか色々すっ飛ばして、良い意味で軽薄であれる感じが、傍からはとても軽やかに映るというか。僕みたいな映像作家、ニューメディアアート、観察・気づき界どっちサイドからも中途半端で頭でっかちだと思われている立場として、表現のエッセンスについて掘り続ける傍ら、そういうクセのスゴい活動をされている業界の年長者の存在に妙にホッとする。

Fitness landscape

Sorry, this entry is only available in アメリカ英語.

I’ve often used the notion of fitness landscape as a metaphor when thinking of genes and memes in a complex world. It can be useful to understand natural selection visually, but it’d be also a nice model to abstract how evolution or innovation works in society, design, and even software development as a sort of mountain climbing. Here are some gifs that show how particles behave in various environments. All of the imageries are under CC-0 so please feel free to use them anywhere.

Fitness landscape assets


The “height” of the landscape represents a visual metaphor for fitness. The definition of fitness varies depending on the context — the degree of adaptation to the environment in biology, the quality for design, or the productivity of society or company. In such cases, each of the particles may represent a life, designer, and person respectively. 3D landscapes like the below can visualize the fitness function that takes only 2 arguments (X and Z axes), but most of the problems on the earth have to handle astronomical number of parameters, thus the terrain would take a form on the higher-dimensional space consists of millions of axes.

The first example shows that particles on the terrain try to climb a slope to increase fitness. However, the “hill-climbing” strategy only works in the case that there’s a single peak on the terrain, where each particle can reach to the summit someday as far as it keeps moving along the upward direction of the slope on its vicinity.

The single peak mountain

But if there are more than a single mountain, this strategy won’t work since it brings a possibility for particles to be left behind on a small hill.

Multimodal optimization

Not to do so, particles have to be brave to run down from the known peak and traverse the valley to find out much higher mountains.

How selendipity works

On the other hand, the breadth of the landscape could be expanded by some external factors (such as the improvement of the technology). There might be much higher peaks outside of the known areas of the landscape.

How the invention of pigments like ultramarine blue and Vantablack expands the color-space that artists can handle with

As you can see, the behavior of each particle has two aspects; rationality and randomness. As particles never know the whole elevation map of the terrain (there’s no perfect function to quantify beauty parametrically, you know) and it’s too foggy to look out the landscape far away, the only reasonable way for particles to increase the elevation for the time is to sample the height of neighbor positions and carefully step forward in the direction where the slope is steepest. The methods like growth hacking and A/B testing are basically categorized as this strategy but they are always dicey because it might lead the group into the dead-end of evolution. The randomness supplements this vulnerability — you can see it by how destructive innovation and serendipity break through the status quo in the human history.

Furthermore, the landscape is not necessarily static. It might be eroded or lifted along in time. On such a so-called “dynamic fitness landscape”, to keep standing on the known peak brings a danger of annihilation to the group.

“Overspecialize, and you breed in weakness. It’s slow death.” – Ghost In The Shell

The height of the landscape also can be affected by the particles themselves. For example, the more particles get together, the more the upward force lifts up the landscape on that place. And a mountain created by this action gathers further particles and the mountain grows and its summit gets sharp furthermore.

Network Effect

This sort of positive feedback loop can be observed in various situations such as language evolution, how messaging app takes a market share, and how de-facto standards are formed. The above gif visualizes this sort of network effect.

In the complex world, there is not only positive feedback but also a negative one.

Be unique.

In other words, the place where particles are crowded is pushed down like a waterbed and then particles try to escape from the pit they created. It works like a repulsive force between particles and particles keep moving until they are placed uniformly. The culture that prioritizes originality can be abstracted with this model.

In the real world, these mechanisms are intertwined in an intricate way and it makes the particles-landscape interaction so chaotic. Even when I’m about to fall into a narrow perspective and become a decisive thinker, regarding culture or society as the model of fitness landscape always makes me feel agnostic.


P.S. This simply shows how recent Adobe products confine designers. They don’t let us wander around the mountains uniformly but rather is trying to build “shortcut” trails between trendy and known styles (like flat design in UI/UX).

授業むずい

イデオロギーありきで行動が伴うというより、説明のつかない感情や体質がまず先にあって、その辻褄合わせに都合のいいイデオロギーを武装するのはよくあることだ。

「理性はお気持ちの奴隷」とは言ったもので、自分を理性的だと考える賢い人ほど、湧きあがる情念に理屈をつけるプロセスを意識することなくこなせてしまうために、その因果関係を逆に捉えてしまう罠が潜んでいる気がする。

極端な例だけど、というかある知人が自認してた例だけど、ポリアモリーだから不倫をするのではなく、不倫がしたいからポリアモリーを名乗る とか(そうではない方も多数いらっしゃるのも承知してますが)。自分の場合は「つくり方をつくる」という信念があるから毎度手法やツールから作るんでなしに、どういう訳かそういうつくり方をしないとひどく不機嫌になる体質がまず先にあって、それを自己正当化するために歪な制作哲学をでっち上げてたパターン。最近だと、既成ツールの設計はあまりに抽象度が低いので、ツール開発から始めるしかないとかいって、本当のところはHoudiniで手打ち音ハメモーションを作るのが色んな意味で大変なので、やらなきゃいけない制作を先延ばしにしている。これを自分で認めるのはなかなかにつらい。

このアプローチは広告仕事においては全く機能してなかったのがむしろ幸いだったのかもしれない。いや、スジ自体は悪くはないのだろうけど、折り合いをつける下手くそさや計画性の無さも込みで毎回スベリ倒してたわけで、べき論として声高に主張出来るほど自分の主義主張に自信を持てなかった。年末に伊藤ガビンさんが女子美で受け持っている授業でお話する機会があって、明日はrobamotoさんの授業のゲストなんだけど、もしそこで「ツールの使い勝手について深く考えない奴らは結局Adobeの掌の上で踊らされてるクリシェ製造職人だ」とかラディカル過ぎることをほざいたら事故になったに違いない。とかいって2016年のFITC Tokyoでは、その辺かなり強めのシャウトをしてたような気もする。


数年前に尊敬する菅俊一さんに僕の活動について書いて頂いたことがあって、とても嬉しかった。ただ、最後の下り

本来、何かを表現するというのは、その方法や道具自体も含めて考えるべきだと思います。ですから、今後はツールや作り方から開発するという流れになってくるのではないでしょうか。

未来問答 No.39 あなたが未来の可能性を感じる人を1人教えてください。

に関しては、自分とはちょっと考え方が違うのかもしれないと思った。いや、基本的には同意なのですが、僕の場合もう少し打算的というか「そういう流れになってくれた方が自分がマシな人間に感じられるので助かるなァ〜」という願望に近い。そして仮にそうなったとしても、それは職能の本質的価値や貴賤とは無関係で、時代的にたまたまそうになってしまった以上の意味は無い。菅さんも、そういうエクスキューズを挟むのも冗長になるから近似として「本来」や「べき」という表現を使われただけのような気もするし、そこに突っかかる自分も面倒くさい。

道具や手法から考える人と、ある手法の枠組みの内側で職人的に精度を高めていく人の両方が重要なのは、ものづくりという天文学的な数のパラメーターから成る多峰性最適化問題において当分変わらない。美術やデザイン業界というのは、美的な「よさ」の山々の山頂を攻略するための人類規模の乱択アルゴリズムプログラムとみなすこともできる。

とはいえ、Octane Rendererに登山道を整備してもらったフォトリアリズムの富士山を楽しげに登ってるクリエイターを見て内心羨ましく思うのも事実。ぼくもこんな林道を整地してみたりアイゼンだのピッケルだの作ってないで、槍ヶ岳位はマウンティング用の手札として攻略しておきたい邪念が働いたりもする。今更開き直ってワイワイ富士登山はちょっと気恥ずかしいし。とはいえ普通に槍ヶ岳ムズいし基礎体力も無いので中途半端な所までしか登れない。そこで内心では「今どんだけルックがナウくてもどうせ8年後には8年前の映像みたくなっちまうんだからな」とかトートロジーめいたことで脳内マウントをとったりもするんだけど、あまり人様に大っぴらに言わなくなったのは、成長なのか、身の程を知ったからなのか。

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Zeitguisedっぽいムードにしたいのかこねくり回したいのか分からんくなったお年賀画像

最大多数の最大幸福という視点では、各々が各々のやりかたで自尊感情を高められるほうが良いに決まっているし、そのためのフックは世の中に無数に存在していてほしい。再生数の多さでも、クライアント企業のメジャーさ、あるいは年収でも良いだろうし。それでいうと僕は「世の中への影響力はdutch_tokyoや寿司君に劣っても、それでも自分はツールから作るという本質的なところから制作が出来ている」というかなり独特なフックを錬成して気持ちよくなっているような気がする。それを誰にもあまり干渉されずに自分のためのものとして今に至るまで温存できたのは、この上なく環境に恵まれていたからだ。難しいのは、そのフックの価値をさらに高めるために、それを他者のフックと(貶さないにしても)比較する形で、過度に正当性を帯びたものとして啓蒙したい欲がでてしまうことで、結果的にそのフックでは幸せになれない人にまで届いてしまうことだったりする。

大学で講師をされている方々が「言う前に自然に手が動いてない学生さんはいつまで経っても作らない」「卒制、今焦ってどうするんでしょうか」とか Just do itみのあることをツイートされると、胸がキュッとなる。尊敬する映像作家が「こんなインタビューを読んでないで作りましょう」とかマッチョなことを仰ってるのもダサい。結局読んでる人たち全員の身動きを取れなくするし、それ言ってるお前が気持ちいいだけじゃんって。もちろんそこで勇気づけられる学生の方もいるかもしれないけれど、自分はダメだ、向いていないなぁと寂しくなっていく方もいるのだろうなと想像してしまう。多分、自分はソッチの気があるからなんだろうな。

美大出身でも、専攻とは関係ない一般職に就く人はいるし、今をときめく一流クリエイターらしい華やいだキャリアパスでなくとも、ひとまずインハウスのデザイナーとして堅実に生きていく方もいる。というかむしろその方が多い。学生の方相手にお話する機会がもてる程度に業界でサバイブ出来た年長者の生存バイアスを濃縮還元したつよつよツイートが、そういう色んな道を選んでいく人達に妙な自卑感情を残すことになるのは、ちょっと悲しい。自分は業界の辺境のダメ社会人として、その種のクリエイター的マチズモを内面化しなくとも、それなりに色んなニッチはあると思います、少なくとも僕は生きてるので…と言うのが精々だ。学生の方から、全然自主制作が出来てなくて焦ってるんですと相談されると、僕も同じです、なんなら課題の締め切りを守れているだけ僕よりうんとすごいじゃないですかと凹んでみせたり。いや、それは傷を舐めてあげてるだけか。でも代わりにこういう言葉がけをしてあげるのが結果的にこの方の為になるなんて、生まれて四半世紀自分の脳みそでしか考えたことのない僕に何が分かるのだろう。だから授業のスライドの冒頭に「これは制作論というより言い訳なので、都合の良い部分だけ真に受けてください」とか書きかけて消したり。大分行き詰まってるなー。

教育や啓蒙というのは、純粋に利他的なものではなくて、体から湧き上がる情動に辻褄を合わせる武装としてのイデオロギーを、多くの人に広め、受け入れられることで自分の理性を再肯定するためのセラピーとしての側面があるのかもしれない。もちろんその気持ちが邪だとか、完全に否定したいわけじゃない。だけど少なくとも、自分は決して論理的に精妙な人間ではなく、お気持ちをロジカルにおめかしするのが年齢相応に器用なだけの情念ドリブン人間だということを認められる程度にナヨナヨしくあり続けたい。そして自分の自尊心を高めるためのフックを一般論として誰かに話し広める気持ちよさ、そしてそのフックが体質的に合わない方に間違えて刺さってしまうことの暴力性にも自覚的でありたい。